第一話 白い朝の香草園
ローダン王国の秋は、白い。
霧が丘を覆い、石畳の上を音もなく這っていく。
ローゼンベルク家の屋敷はその霧の中に立ち、夜になれば窓に灯りをともし、昼は使用人たちの足音で満たされていた。
けれど、リリアの朝に、その白さは届かない。
彼女の一日は、地下の香草室で始まる。
石造りの壁はいつも冷たく、油灯の匂いが部屋に染みついている。
天井から吊るされた薬草の束は、乾くにつれて色を失い、棚に並ぶ硝子瓶の中では、刻まれた葉や花弁が眠るように沈んでいた。
乾かした薫衣草。
香り袋に詰める花弁。
眠れぬ夜に煎じる根。
リリアは作業台の前に立ち、乾いた葉を一枚ずつ選り分けていた。
「リリア、手が止まってるよ」
香草室の奥から、乾いた声が飛んできた。
帳面を広げていたマーサが、眼鏡の奥からこちらを見ている。
香草室を任されている古参の女使用人だ。白髪交じりの髪をきっちりと結い、いつも薬草より苦そうな顔をしていた。
「すみません」
「謝る前に手を動かす。今日は薬湯用の葉を仕分ける日だ。花弁と混ぜるんじゃないよ」
「はい」
リリアは短く返事をし、再び指を動かした。
香草室の隣には、古い物置を片づけただけの小部屋がある。
置かれているのは、細い寝台と小さな机、木箱を重ねただけの衣装棚。それがリリアの部屋だった。
「リリア、これ、薬湯用だっけ?」
隣から明るい声がした。
セシルが、よく似た葉を左右の手に一束ずつ持ち、首をかしげている。
短く切った明るい茶髪が、動くたびに軽く跳ねた。
「右が薬湯用。左は香り袋に入れるもの」
「えっ、見た目はほとんど同じなのに」
「匂いが違うから」
「リリアって、花と薬草のことだけはすごいよね」
「だけ、って言った?」
「ほめたの!」
セシルが慌てて笑う。
リリアもつられて口元をゆるめた。
「失礼します」
入ってきたのは、女中頭のジューンだった。
背筋の伸びた、厳しい顔立ちの女性だ。
屋敷の女使用人たちは、皆、彼女を恐れている。
この人が、自分を育てた。
三年前、リリアは重い熱病にかかったのだと聞かされている。
目を覚ました時には、自分の名も年も、この屋敷にいる理由も分からなくなっていた。
リリアという名も、16才という年齢も、ローゼンベルク家の使用人であることも、かつて自分が大きな過ちを犯したということも、すべてジューンから教えられた。
幼い頃にこの屋敷へ引き取られ、彼女が母親代わりだったらしい。
けれど今のリリアは、ほかの使用人たちと同じ場所で眠ることも、食事をとることも許されていない。
過去を探ろうとしても、何も浮かばない。
頭の中には、白い霧が立ちこめているだけだった。
ジューンは香草室を見渡し、マーサに目を向けた。
「マーサ。今朝は、リリアを庭に出します」
リリアの手が止まった。
セシルもすぐに顔を上げる。
「庭、ですか?」
「ご主人様は昨夜の晩餐でお疲れです。奥様は昼までお部屋から出られません。アン様も昨夜遅くまで起きておられたので、昼頃まではお休みのはずです」
ジューンは懐から、小さな木札と古い鍵を取り出した。
木札には焼き印が押されている。
――香草園採集許可。
リリアは、その文字を見つめた。
地下の香草室には陽が差さない。
外の空気も、雨の匂いも、湿った土の気配も、ここまでは届かない。
だから、この木札を渡される朝は、いつもより深く息が吸えた。
「朝露が残っているうちに、薬草を摘んできなさい」
ジューンの声音に感情はない。
マーサが頷いた。
「いつもの香草園だけですね」
「ええ。薔薇園には近づかせないで。温室裏の香草園だけです」
ジューンはリリアに木札と鍵を差し出した。
受け取る瞬間、その指先がかすかに触れた。
「早く行きなさい」
「はい」
地上へ続く裏階段を上がると、肌に触れる冷たさが変わった。
地下の冷えとは違う。
霧を含んだ、朝の冷気だった。
リリアは籠を腕にかけ、温室の裏手へ向かった。
庭といっても、侯爵家の人々が歩く華やかな薔薇園ではない。
厨房と香草室のために作られた、実用的な香草園だ。
低い柵に囲まれた土は、雨上がりで黒く濡れている。
歩くたび、靴の裏が柔らかな泥に沈んだ。
ジューンはいつも、ほかの使用人たちにも聞こえる声で言う。
――香草は鮮度が命です。
――朝露の残るうちに摘ませなければ、薬湯の効きが落ちます。
濡れた葉に触れる。
湿った土の匂いを吸い込む。
霧の向こうに広がる白い空を見上げる。
こうして外にいる時だけは、自分がまだ生きているのだと思えた。
◆
「その株は、まだ摘むな」
背後から低い声がした。
振り向くと、温室の影に庭師見習いのシリルが立っていた。
こげ茶色の髪に、灰金色の目。
泥のついた上着の袖をまくり、リリアが触れかけた畝を見ていた。
「昨日、鹿除けの薬を近くに撒いた。別の畝にしろ」
「……ありがとう」
リリアは伸ばしていた手を引っ込めた。
「今日は、早いんだな」
「ジューンさんの許可が出たから」
「主人一家が寝ているからか」
リリアは意外に思い、シリルを見た。
けれど、彼の表情は変わらない。
「庭師は、誰が庭に出るかを気にする」
「そう」
それ以上は聞かなかった。
土を掘り、葉を摘み、籠に入れる。
指先に土がつく。
その感触が、自分が今、地下ではない場所にいるのだと教えてくれた。
「右腕」
シリルが言った。
「かばってる」
リリアは袖口を押さえた。
「少し痛むだけ」
シリルは目を細めた。
「今日は無理をするな」
「なぜ?」
「顔色が悪い」
リリアの指が止まる。
その時、香草園の入口へ続く小道で、砂利を踏む音がした。
「リリア!」
本来なら、まだ寝室にいるはずの時間だった。
アン・ローゼンベルクが、薄い外套を羽織って立っている。
淡い金の髪には、薄桃色のリボンが結ばれていた。
朝の支度を終えたばかりなのだろう。
外套の裾には、すでに泥がついている。
ローゼンベルク家の末娘、十二歳。
リリアは深く頭を下げた。
シリルはアンの姿を見ると、何も言わずに二人から離れた。
温室の壁際に伸びた蔓草の前へしゃがみ込み、腰の剪定鋏を抜く。
二人へ背を向けたまま、伸びすぎた枝を一本ずつ切り始めた。
ぱちん。
霧の中に、鋏の乾いた音が小さく響いた。
「リリア、顔を上げて」
言われるまま顔を上げたリリアは、アンが一人でいることに気づいた。
「お嬢様、クララさんは?」
「クララが朝のお茶を取りに行ったの。その間に、こっそり来ちゃった」
「お嬢様……」
「少しだけよ。すぐ戻るつもり」
アンは肩をすくめてみせた。
「アンって呼んでよ」
「申し訳ございません。お嬢様のお名前を呼ぶことは、私には許されておりません」
リリアが再び頭を下げる。
アンの顔から笑みが消えかけた。
けれど、すぐに何事もなかったように笑った。
「ねえ、リリア。明日って何の日か知ってる?」
「いいえ」
「お父様が、明日、変なお客様に会うの」
「変なお客様でございますか?」
「東国の商人。お母様、その話を聞いたら怖い顔をしたの」
リリアの手が止まった。
東国。
鋏の音が途切れた。
リリアが振り向くより早く、また枝を切る音がした。
ぱちん。
シリルは背を向けたままだった。
「お嬢様、どうしてその話をご存知なのですか」
「立ち聞きしちゃった」
アンは悪戯っぽく片目をつむった。
「絶対に、ぜーったいに何かある!」
「……あまり首を突っ込まない方がよろしいかと」
リリアはため息をついた。
「お嬢様、どうかお部屋にお戻りください。クララさんが探しています」
「もう少しだけ」
アンは香草園の柵に手をかけた。
「今日は何を摘んでいるの?」
「薬湯に使う葉でございます」
「苦い?」
「はい」
「リリアは、昔から苦いお茶を平気で飲んでたよね」
「そうなのですか」
「うん。私が泣いてると、リリアが私の分まで飲んでくれた」
リリアは答えられなかった。
昔の自分の話を聞くたび、不思議な気持ちになる。
自分のことであるはずなのに、知らない誰かの話を聞かされているようだった。
アンはリリアの顔をじっと見つめた。
「みんな、どうしてリリアを……悪い子だって言うのかな」
リリアは、何と答えればよいのか分からなかった。
「私には……分かりません」
温室の壁際で、鋏が止まった。
ほんの一瞬だった。
シリルはすぐに別の枝へ手を伸ばし、何事もなかったように刃を入れた。
ぱちん。
アンの瞳が、寂しそうに曇る。
「昔は、リリアも一緒だったのに」
その言葉が、リリアの胸の奥へ沈んでいった。
昔。
リリアには、それがない。
あるのは、自分の名前と、地下の香草室と、時折疼く右腕だけだ。




