序章 自らのために咲かぬ花
その記録は、王宮地下の古文書庫に封じられていた。
題名のない灰色の表紙。
綴じ紐は色褪せ、紙の端には湿気による黒い染みが広がっている。
表紙の隅には、王室騎士団長以上の許可なく閲覧することを禁じる、古い黒蝋の印が残されていた。
深夜の書庫に、人の気配はない。
壁際の燭台で炎が揺れるたび、天井まで続く書架の影が、石床の上で細長く形を変えた。
男は白い手袋をはめ、最初の頁を開いた。
乾いた紙の音が、静寂を裂く。
記録の日付は百年以上前。
ローダン王国とヤシャラが国境を巡り、幾度も衝突を繰り返していた時代のものだった。
頁の上部に、古い書体で記されている。
『国境戦役捕虜記録――黒百合の巫女について』
その下には、彼女を捕らえたローダン軍人の証言が残されていた。
――戦場に現れた黒髪の少女は、ひとりで騎兵の列を止めた。
剣も鎧も持たず、ただ右腕に黒い花を咲かせるだけで、矢は折れ、馬は進むことを拒んだ。
我らは、あれを人ではないと思った。
闇そのものが、少女の姿を借りて立っているのだと。
男の指が止まる。
騎兵の列を、ひとりで止める。
誇張の可能性はある。
敗戦の理由を、得体の知れない力へ押しつけたとも考えられる。
だが、同じ戦役について記された三つの報告書が、よく似た現象を伝えていた。
矢が空中で砕けた。
蹄の音が途絶え、耳をつんざくような静寂が訪れた。
黒い花弁に似た影が、ヤシャラ兵を覆った。
単なる兵士の恐怖では片づけられない。
男は次の行へ目を移した。
――だが、捕らえられた少女は、あまりにも小さかった。
鎖を巻いた手首は細く、白い肌にはすぐ赤い痕が残った。
濡れた黒髪を肩に貼りつかせ、粗末な毛布の中で、音もなく震えていた。
食を運べば礼を言い、消え入りそうな声で負傷兵の具合を尋ねた。
自分の傷には触れず、敵兵の熱を案じていた。
燭台の炎が揺れる。
戦場で騎兵を止めた者が、なぜ鎖につながれたのか。
矢を砕く力を持つ者が、なぜ牢を破らなかったのか。
記録は、最後にこう結ばれていた。
――戦場では、誰にも折れぬ花に見えた。
けれど牢の中では、朝露に濡れた花弁のようだった。
手を伸ばせば壊れてしまいそうでありながら、決して涙は見せなかった。
軍人の感傷か。
それとも、感傷だけでは片づけられない何かを、この男は見たのか。
彼は頁をめくった。
後世の記録者による追記がある。
捕虜となった少女は、ヤシャラ第二皇子ラシードによって奪還された。
その最中、彼女は皇子を庇って負傷。
直後に異能が発現し、追撃してきたローダン兵を退けた。
ラシードはのちに帝位へ就き、「鉄冠帝」と呼ばれた。
さらに一行。
少女は生涯、ラシードのそばを離れなかった。
忠誠。
寵愛。
守護。
記録によって、二人の関係の呼び名は異なっていた。
男は記録を閉じた。
重い表紙の音が、静かな書庫へ響く。
戦場では騎兵を止めながら、鎖一本を断つこともできなかった少女。
敵の刃から皇子を守りながら、自らを牢から放つことのなかった少女。
力は強大だった。
だが、明らかに偏りがある。
「奇妙な花だ」
低い声が、誰もいない書庫へ落ちた。
机の隅には、同じ時代に記された別の報告書が重ねられている。
黒百合の巫女に関する記録は、これ一冊ではなかった。
怪物と恐れられた時代もあれば、聖なる巫女と崇められた時代もある。
だが、守られた者の名は歴史に残り、その傍らにいた少女の名は薄れていった。
その少女が何を望み、何を失ったのか。
それを書き残した者は、いなかった。
男は閉じた記録の上へ手を置く。
風もないのに、燭台の炎が大きく傾いだ。
書架の影が、より濃く、石床の広い範囲を覆っていく。
まるで、今もどこかで咲く黒い花が落とした、一枚の花弁のように。




