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第九話 嘘が下手な者

セシルが小広間へ呼ばれた時、彼女の目はすでに赤かった。


 十四の若い使用人は、扉の前で一度つまずきかけ、慌てて姿勢を正した。明るい茶色の短い髪は、いつものように跳ねている。けれど頬には血の気がなく、両手は前掛けを握りしめていた。


「セシル」


 ハインリヒが名を呼ぶ。


「は、はい」


 セシルは膝を折り、深く頭を下げた。


「香草室でリリアと一緒に働いているな」


「はい。あの、毎日ではありません。洗濯や厨房の手伝いにも回されますので。でも、香草室にもよく……」


「聞いたことだけに答えろ」


「申し訳ございません」


 セシルはびくりと肩を震わせた。


 マリアンネは黙って、その様子を見ていた。


 ジューンは沈黙で守る女だった。

 マーサは事実で守る女だった。

 では、この少女は。


「昨日の朝、リリアは香草室にいたか」


「はい」


「様子は」


「少し、ぼんやりしていました」


「ぼんやり?」


「葉の仕分けをしていたんですけど、手が止まっていて。マーサさんに叱られていました」


「それは珍しいのか」


 セシルは迷ったように唇を噛んだ。


「新月の前は、たまにあります」


 広間の空気が少し変わった。


 ハインリヒの目が細くなる。


「おまえも知っているのか」


「え?」


「新月の日に、リリアの様子が変わることを」


 セシルは顔を青くした。


「あの、知っているというほどでは……ただ、いつもより顔色が悪くて、右腕を押さえるので」


「誰から聞いた」


「誰からも。見れば、分かります」


 答えてから、セシルは自分の言葉を恐れるように目を伏せた。


「申し訳ございません」


「なぜ謝る」


「余計なことを言ったかと……」


「余計かどうかは、こちらが決める」


「はい」


 セシルの声は震えていた。


 ハインリヒは続けた。


「ジューンがリリアを庭に出した時、おまえはどうしていた」


「香草室にいました。私も行きたかったんですけど、マーサさんに、仕分けを終わらせなさいって言われて」


「リリアが庭に出ることは、よくあるのか」


「たまにです。ジューンさんの許可が出た時だけ」


「その時、リリアは喜ぶか」


 セシルは一瞬だけ顔を上げた。


「……はい」


 小さな声だった。


「すごく、喜びます。でも、声には出しません。木札を受け取る時だけ、少しだけ息をするみたいな顔をします」


 マリアンネの眉が、わずかに動いた。


 息をするみたいな顔。


 この少女は難しい言葉を知らない。

 だからこそ、時々、残酷なほど正しく物を言う。


「アンが香草園へ行くと知っていたか」


「知りません」


「本当にか」


「本当です」


「アンはリリアに会いたがっていたのではないか」


 セシルは困ったように目を泳がせた。


「アン様は……リリアのことを気にしておられたと思います」


「なぜそう思う」


「前に、廊下でお会いした時、アン様がリリアのことを聞かれたので」


 ハインリヒの表情が険しくなる。


「何を聞いた」


「元気かって。ちゃんと食べているかって」


 セシルは慌てて付け加えた。


「それだけです。本当にそれだけです。リリアに伝えてとは言われていません」


「おまえは伝えたのか」


「……はい」


「リリアは何と言った」


「何も」


「何も?」


「はい。ただ、困ったような顔をしました。アン様のお名前を聞くと、いつもそうです」


「なぜだ」


「分かりません。でも、嫌そうではありませんでした」


 セシルはそこで、はっきり顔を上げた。


「リリアは、アン様を嫌ってなんかいません」


 広間が静かになった。


 セシル自身が、自分の声の大きさに驚いたように口を閉じる。


 ハインリヒは冷たく見下ろした。


「おまえの意見は聞いていない」


「も、申し訳ございません」


 セシルは深く頭を下げた。


 その背中は小さく震えていた。


「昨日の朝、香草園にいたのはリリアだけか」


 ハインリヒが問うた。


 セシルは一瞬、答えに迷った。


「……シリルさんも、近くにいました。庭師見習いの……」


「庭師見習いのシリルか」


「はい。温室の裏の方に」


「リリアと話していたのか」


「少しだけだと思います」


「何を」


「鹿除けの薬を撒いた畝があるから、そこは摘むなって。リリアに教えていたと聞きました」


「聞いた?」


「はい。私が見たわけではありません。リリアが戻ってから、そう言っていました」


「それだけか」


「はい」


 セシルはすぐに答えた。

 けれど、その頬が少しだけ赤くなる。


 ハインリヒはそれを見逃さなかった。


「何か隠しているな」


「い、いえ」


「答えろ」


 セシルは前掛けを握りしめた。


「その……シリルさんは、リリアに優しいので」


 広間の空気が、わずかに緩んだようにも、冷えたようにも感じられた。


 ハインリヒは、しばらく黙ってセシルを見ていた。


「優しい?」


「はい。いえ、特別なことをしているわけではありません。ただ、ほかの人みたいに、リリアを怖がったり、避けたりしないので」


「それを優しいと言うのか」


「……はい」


「シリルは、リリアに近づいているのか」


「近づいているというほどでは……庭師見習いですし、リリアは香草を摘みに行くので、顔を合わせるだけだと思います」


「思います?」


「はい」


「おまえには、どう見えた」


 セシルはますます頬を赤くした。


「どう、と言われましても……」


「答えろ」


「その……少し、いい雰囲気だなって」


 マリアンネがわずかに目を上げた。


 ハインリヒは一瞬、沈黙した。


「いい雰囲気?」


「も、申し訳ございません。私が勝手にそう思っただけです。女中たちも、シリルさんは無口だけど顔立ちが悪くないとか、そういう話をするので……」


「くだらん」


 ハインリヒの声に、侮蔑が混じる。


 セシルは縮こまった。


「申し訳ございません」


「つまり、おまえはシリルがリリアに色目を使っていると思ったのか」


「色目だなんて、そんな」


「では何だ」


 セシルは困ったように眉を寄せた。


「リリアは、誰と話しても少し怯えています。でも、シリルさんと話した後は、怖がっている感じではなくて……少し、考え込むような顔をします」


「それを、いい雰囲気と呼ぶのか」


「はい。あの、私がそう思っただけです。リリアは何も言っていません」


「リリアがシリルを好いていると?」


「分かりません」


 セシルは慌てて首を振った。


「リリアは、そういう話をしません。でも、シリルさんのことは嫌がっていませんでした」


 ハインリヒは冷たく息を吐いた。


「年頃の娘のくだらない憶測か」


 セシルは何も言えず、深く頭を下げた。


 マリアンネは、セシルの赤くなった頬を見ていた。


 この少女は、シリルを疑っていない。

 むしろ、リリアに少しでも優しくする若い男として見ている。


 だからこそ、自分の憧れや期待を混ぜている。


「リリアが香草園から戻った時の様子は」


 ハインリヒが話を戻した。


「顔色が悪かったです」


「庭へ出る前よりもか」


「はい」


「何か言っていたか」


「アン様がお見えになったと。お戻りくださいと申し上げたけれど、少しだけ話したと」


「何を話した」


「薬草のことと……東国のお客様のことを、アン様が話したと」


 ハインリヒの指が止まった。


「東国の客」


 セシルはびくりとした。


「あ、あの、リリアが話したんじゃありません。アン様が、明日お客様が来るって。東国の商人だって。私はそれを聞いただけで」


「その話を、リリアは誰かにしたか」


「私とマーサさんには……でも、詳しくは話していません。リリアも困っていました。アン様がどうしてそんな話を知っているのかって」


「ほかには」


「ヨーゼフ様に、香草園で声をかけられたと」


「内容は」


「体調と、仕事と、右腕のことを聞かれたと」


「それを聞いて、おまえはどう思った」


 セシルは言葉に詰まった。


「……リリアが、かわいそうだと思いました」


 セシルはすぐに頭を下げた。


「申し訳ございません。出過ぎたことを申しました」


「なぜ、かわいそうだと思った」


「右腕のことを聞かれると、リリアは怖がるんです」


「怖がる?」


「はい。怒られるのとは違います。痛いのとも違います。もっと……」


 セシルは必死に言葉を探した。


「見られたくないものを見られた時みたいに、顔が真っ白になります」


 マリアンネは静かに息を吸った。


 リリアの痣。

 新月。

 ヨーゼフの問い。

 そして、セシルの言う「見られたくないもの」。


 それは、ただの傷跡ではないのだ。


「リリアの痣を見たことはあるか」


 ハインリヒが問う。


 セシルは首を横に振った。


「ありません」


「本当にか」


「はい。リリアは、袖をまくりません。着替える時も、絶対に一人です」


「同じ香草室で働いているのにか」


「はい」


「なぜ」


「分かりません」


 セシルは小さく続けた。


「でも、見ちゃいけない気がしました」


 ハインリヒは黙って、セシルを見つめた。


 この少女は何も知らない。

 おそらく何も。


 それでも、リリアが何を嫌がっているかを知っている。


「夕刻、リリアは自室に戻ったな」


「はい。マーサさんが、今日はもういいって」


「その後、おまえは食事を運んだか」


「いいえ」


 セシルの表情が曇った。


「いつもは、おまえが行くのでは」


「はい。毎日ではありませんけど、よく私が。リリアの部屋は地下で、ほかの子は行きたがらないので」


「昨夜は、なぜ行かなかった」


「ジューンさんに、地上の手伝いを命じられました」


「では、誰が行った」


「ヴィクトルさんです」


 広間の隅で、マリアンネの視線がわずかに動いた。


「従僕見習いのヴィクトルか」


「はい」


「なぜヴィクトルだと知っている」


「階段のところで見ました。夕食の木盆を持っていました。リリアの部屋に行くんだと思って……」


「何か話したか」


「いいえ。ヴィクトルさんは、あまり無駄口をきかないので」


「おまえは、それを不自然に思ったか」


「少しだけ」


「なぜ」


「リリアの部屋に、男の人が一人で行くのは珍しいので」


 言ってから、セシルは慌てた。


「でも、ジューンさんの命令なら、おかしいことではありません。ヴィクトルさんは香草室への使い走りもしていますし、火傷の薬を取りに来たこともあります」


「火傷の薬」


「はい。昼間に、厨房の下働きが火傷をしたと。リリアが軟膏を渡していました」


「その時、ヴィクトルはリリアと何か話したか」


「少しだけです。庭番がアン様をお見かけしたと聞いた、と」


 ハインリヒの目が鋭くなった。


「なぜヴィクトルがそんなことをリリアに言う」


「分かりません」


「リリアはどうした」


「手が止まりました」


「それだけか」


「はい。その後すぐ、ジューンさんが来て、ヴィクトルさんに裏口の荷受けを手伝うように言いました」


 ハインリヒはしばらく黙った。


 セシルは、沈黙に耐えられず、また前掛けを握った。


「あの、旦那様」


「何だ」


「リリアは、アン様がいなくなったって聞いた時、本当に驚いていました」


「驚いたふりかもしれない」


 セシルは唇を震わせた。


「違います」


 小さな声だった。


「何が違う」


「あれは、ふりじゃありません」


「おまえに何が分かる」


「分かりません。でも……」


 セシルの目に涙がにじんだ。


「リリアは、嘘が下手です」


 ハインリヒの表情は変わらない。


「嘘が下手な者でも、隠し事はする」


「はい」


「おまえはリリアの味方か」


 その問いに、セシルは固まった。


 味方。

 その言葉は、使用人の少女には重すぎた。


 答えを間違えれば、自分だけでは済まない。

 それでも、嘘をつけるほど器用ではなかった。


「私は……」


 セシルは震える声で言った。


「リリアと、一緒に仕事をしています」


「それだけか」


「はい」


 涙が一粒、頬を落ちた。


「でも、リリアが悪い子だとは思えません」


 ハインリヒは目を細めた。


「思えない、か」


「はい」


「証拠にはならん」


「分かっています」


「ならば、二度と軽々しく口にするな」


「はい」


 セシルは深く頭を下げた。


 そのまま、しばらく顔を上げられなかった。


 ハインリヒはオットーに目を向ける。


「下がらせろ。今後、セシルはリリアと二人きりにするな」


 セシルの肩が跳ねた。


 が、何も言えなかった。


 オットーに促され、ふらつく足で扉へ向かう。


 その時、マリアンネが静かに声をかけた。


「セシル」


 少女は振り返った。


「リリアは、お前に何か頼んだ?」


「いいえ」


「アンを探したい、とか。外へ出たい、とか」


 セシルは首を横に振った。


「言っていません。アン様がいないって聞いた時、ただ、真っ白な顔をしていました」


「そう」


 マリアンネは頷いた。


「下がっていいわ」


 セシルはもう一度深く頭を下げ、広間を出ていった。


 扉が閉まる。


 残された広間で、ハインリヒは疲れたように息を吐いた。


「泣き虫の小娘だ。リリアに情が移っている」


「そうですね」


 マリアンネは答えた。


「けれど、嘘はついていないように見えました」


「嘘をつくほどの頭がないだけだ」


「だからこそ、見たままを話したのでは」


 ハインリヒは娘を見る。


 マリアンネは扉の方へ視線を向けた。


「リリアは、アンを誘い出した者には見えません。少なくとも、セシルの話では」


「では誰が誘い出した」


 ハインリヒの顔が険しくなった。


「おまえまで、リリアを庇うのか」


「庇っているのではありません」


 マリアンネは静かに言った。


「疑う相手を間違えれば、アンを見つけるのが遅れます」


 その言葉に、ハインリヒは沈黙した。


「オットー。シリルとヴィクトルの所在を確認しろ。別々にだ」


 窓の外では、白い霧が濃くなっていた。

 屋敷の灯りが、その向こうでぼんやり滲んでいる。


 マリアンネは、セシルの震える声を思い出していた。


 ――リリアは、嘘が下手です。


 それが本当なら。


 この屋敷には、もっと上手に嘘をついている者がいる。



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