第十話 愚かな庭師
シリルは、庭仕事用の粗末な上着のまま小広間へ連れてこられた。
泥のついた靴は扉の前で拭かされたが、それでも裾には湿った土が残っている。朝から庭に出ていた者なら、当然の汚れだった。
広間の奥には、ハインリヒ・ローゼンベルクが座っていた。
「名は」
「シリルでございます」
シリルは慌てたように膝をつき、深く頭を下げた。
「庭師見習いです。親方の下で、温室の手入れと香草園の雑用を……」
「聞いたことだけに答えろ」
「は、はい。申し訳ございません」
シリルは肩をすくめるようにして、さらに頭を下げた。
「おまえは最近、リリアと話していたそうだな」
その名が出た瞬間、小広間の空気がわずかに沈んだ。
マリアンネは腕を組んだまま、シリルを見ていた。
シリルは一拍遅れて顔を上げる。
「リリア……ああ、香草室の子ですか」
「しらばっくれるな」
「いえ、その……普段は香草室の子、としか。直接話すことはあまりございませんでしたので」
困ったように笑いかけ、すぐにハインリヒの顔色を見て、その笑みを引っ込める。
愚かで、間が悪い。
シリルは両手を膝の上で握った。
「話したといっても、庭で少しです。あの子は香草を摘みに来るので」
「何を話した」
「薬草のことを少し。鹿除けの薬をまいた畝があったので、摘むなと」
「それだけか」
「はい。あとは……」
シリルはそこで口ごもった。
ハインリヒが机の上に置いた指を、ゆっくりと動かす。
「続けろ」
「その……綺麗な子なので」
広間の隅で、誰かが息を呑んだ。
シリルは、しまったという顔で目を泳がせる。
「いえ、変な意味では。いや、変な意味かもしれませんが、その、地下にいる子だと聞いていたので、もっと怖いというか、気味が悪いというか……そう思っていたんです。でも実際に見たら、普通に綺麗な子だったので」
ハインリヒの目に、冷たい侮蔑が浮かんだ。
「それで近づいたのか」
「近づいたというほどでは……庭にいれば顔を合わせますし。あの黒髪は目立ちますし」
「リリアに何を聞いた」
「何も」
「アンのことは」
「アン様のことですか?」
シリルは目を丸くした。
「恐れ多くて、そんなことは」
「昨日の朝、香草園でアンとリリアが会っていた。おまえも近くにいたな」
「はい。温室の裏におりました」
「なぜ止めなかった」
「止める、ですか」
「ローゼンベルク家の娘が、地下の女中と会っていた。それを庭師見習いのおまえは見ていた」
シリルは顔を青くした。
「申し訳ございません。ですが、すぐにクララ様もヨーゼフ様も来られましたので。私のような者が口を出すことではないと……」
「では、おまえは何も知らず、何も見ず、ただ庭にいただけか」
「はい」
シリルは即答した。
あまりにも素直な返事だった。
ハインリヒはしばらく黙ってシリルを見下ろしていたが、やがて薄く息を吐いた。
「くだらん」
その一言に、シリルはびくりと肩を震わせた。
「年頃の女中に目を奪われただけの、取るに足りない男か」
「も、申し訳ございません」
「謝罪はいらん。若造の浮ついた話を聞くために呼んだのではない」
ハインリヒが視線を外す。
その瞬間、シリルはほんのわずかに息を落とした。
だが、マリアンネはそれを見逃さなかった。
怯えている者の息ではない。
刃を避けた者の息だ。
「シリル」
名前を呼ばれ、シリルはゆっくりと顔を向けた。
「はい、マリアンネ様」
「庭師見習いにしては、ずいぶんと落ち着いているのね」
「そ、そうでしょうか」
「普通なら、お父様の前に呼ばれただけで震えるわ。おまえも震え方は知っているみたいだけれど」
シリルの表情は変わらなかった。
「昔から、親方によく叱られておりますので」
「親方とお父様は違うわ」
「はい。まったく違います」
馬鹿正直な返答だった。
だが、マリアンネはさらに違和感を覚えた。
この男は、答えるべき場所では答えすぎる。
答えてはならない場所では、何も言わない。
愚鈍なのに、言葉の踏み外し方が浅い。
「おまえは、リリアをどう思っているの」
ハインリヒが不快そうに眉を動かした。
「マリアンネ」
「少しだけです、お父様」
マリアンネはシリルから目を逸らさなかった。
シリルは、後ろ頭をぼりぼりと掻いた。
「どう、と言われましても……綺麗な子だと」
「それはさっき聞いたわ」
「では、静かな子だと」
「ほかには」
「よく働きます。薬草に詳しいです。あまり笑いません。あと……」
「あと?」
「右腕を、いつも気にしているように見えました」
ハインリヒの目が再びシリルへ戻る。
「痣を見たのか」
「いえ。袖を押さえていたので、痛むのかと」
「誰から聞いた」
「何をでしょう」
「リリアの右腕のことだ」
シリルは本当に困ったように眉を寄せる。
「屋敷の者なら、誰でも噂しております。香草室のリリアには近づくな。右腕を見てはいけない。アン様に会わせるな、と」
マリアンネの口元が、わずかに硬くなった。
ハインリヒは椅子の肘掛けを指で叩く。
「噂好きな使用人どもめ」
「申し訳ございません」
「おまえが謝ることではない」
ハインリヒは興味を失ったように手を振った。
「下がれ。今後、リリアに近づくな。香草園で顔を合わせても、必要以上に口をきくな」
「はい。心得ました」
「それから、アンのことを少しでも知っているなら、今ここで言え」
シリルは頭を下げたまま答えた。
「何も存じません。アン様がご無事に戻られることを、私も願っております」
その言葉は、庭師見習いにしては丁寧すぎた。
丁寧すぎる言葉に、マリアンネは何かが引っかかった。
シリルはすぐに言い直した。
「いえ、その……屋敷中が大騒ぎですし、親方も眠れておりませんので」
ハインリヒは、もう聞いていなかった。
「連れていけ」
控えていた護衛がシリルの腕を取る。
シリルは情けなくよろめき、慌てて体勢を立て直した。
「失礼いたします」
扉が閉まるまで、彼は一度もマリアンネを見なかった。
広間に静けさが戻る。
ハインリヒは疲れたように目元を押さえた。
「ただの若造だ。リリアの顔に見惚れただけだろう」
「そうでしょうか」
マリアンネが言った。
ハインリヒは娘を見る。
「何が言いたい」
「あの男、愚かに見せるのが上手すぎます」
「考えすぎだ」
「本当に愚かな者は、自分が愚かに見えているかどうかを気にしません」
ハインリヒの表情が、わずかに険しくなる。
マリアンネは扉の方を見た。
「あの者は、お父様の怒りを恐れていたのではありません。お父様がどこまで知っているかを測っていました」
「庭師見習いがか?」
「庭師見習いなら、なおさらです」
マリアンネは低く続けた。
「リリアに近づいた理由を『綺麗だったから』と言った。馬鹿な男なら、それで納得されると分かっている。けれど、リリアの右腕の話になると、噂のせいにして逃げた」
「噂は事実だ」
「だから逃げ道になるのです」
ハインリヒは黙った。
マリアンネは腕を組み直す。
「お父様。あの男を放っておくのは危険です」
「証拠は」
「ありません」
「ならば今はアンだ」
その名が出た瞬間、マリアンネの瞳が揺れた。
けれど、すぐに押し殺す。
「分かっています」
それでも、扉の向こうへ消えたシリルの気配が、まだ残っているような気がした。
泥の匂い。
粗末な上着。
伏せた目。
怯えた声。
どれも、庭師見習いのものだった。
ただ一つだけ。
リリアの名が出た時、あの男の目は、ほんの一瞬、使用人のものではなくなっていた。
マリアンネは静かに息を吐いた。
「……何者なの」
白い霧の向こうに沈む庭から、答えが返ることはなかった。




