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第十一話 従僕見習いの癖

ヴィクトルが小広間へ入ってきた時、ハインリヒはすぐに眉を動かした。


 従僕見習い。


 そう聞いている若い男は、黒い従僕服を着ていた。


 袖口に目立つ乱れはなく、靴の泥も落とされている。昼間に裏口や荷受けを手伝っていたにしては、身なりが整いすぎていた。


 淡い金髪。


 青灰色の目。


 背筋はまっすぐに伸びている。


「ヴィクトル」


「はい、旦那様」


 ヴィクトルは膝を折り、頭を下げた。


 動作は丁寧だった。


 怯えもない。


 セシルは声を震わせ、マーサは苦い顔をし、ジューンでさえ指先を強張らせていた。


 この若い従僕見習いは、必要な分だけ礼をし、必要な分だけ沈黙している。


「顔を上げろ」


「はい」


 ヴィクトルは静かに顔を上げた。


 ハインリヒは、机に置いた帳面から目を離さずに問う。


「昨夜、リリアの部屋へ夕食を運んだのはおまえだな」


「はい」


「なぜだ」


「女中頭から命じられました。セシルが地上の手伝いに回っていたためです」


「リリアの部屋へ男の従僕を一人で行かせることは、普段からあるのか」


「まずありません。ですが、私は香草室への使い走りを任されることがございます。空き瓶の回収や薬の受け取りで、地下へ降りることはありました」


「だから不自然ではないと?」


「命じられたことを行っただけでございます」


 淡々とした返答だった。


 ハインリヒは視線を上げる。


「リリアの様子はどうだった」


「顔色が悪く見えました」


「何か話したか」


「体調を尋ねました」


「なぜ」


 ヴィクトルは、わずかに目を伏せた。


「夕食の木盆を置いた時、右腕を隠すようにしておりましたので」


 小広間の空気が、少し張った。


「右腕を見たのか」


「いいえ。袖の上から押さえているのを見ただけです」


「痣は見ていない」


「はい」


「見ようとは思わなかったか」


 ヴィクトルは一拍置いて答えた。


「見てよいものではないと思いました」


 マリアンネの目が、わずかに動く。


 セシルも同じことを言っていた。


 だが、セシルの言葉は本能に近かった。


 ヴィクトルの言葉は、判断に聞こえた。


 ハインリヒもそれを感じたのか、声を低くする。


「なぜそう思った」


「リリアさ――」


言いかけて、言葉を止める。


「リリアが隠していたからです」


「それだけか」


「はい」


「従僕見習いにしては、気が回る」


「申し訳ございません」


「褒めてはいない」


「承知しております」


 返答が早い。


 ハインリヒの指が、肘掛けを一度だけ叩いた。


「昼間、おまえは香草室へ火傷の薬を取りに行ったな」


「はい。厨房の下働きが湯をこぼしました」


「その時、リリアと話したか」


「軟膏の使い方を教えていただきました」


「ほかには」


 ヴィクトルは黙った。


「答えろ」


「庭番が、アン様をお見かけしたと聞いたため、そのことをリリアへ伝えました」


 ハインリヒの目が鋭くなる。


「なぜ、それをリリアに言う」


「アン様が香草園にいらしたと聞きましたので、リリアも気にしていると思いました」


「おまえが気にかけることではない」


「出過ぎたことをいたしました」


 ヴィクトルは頭を下げた。


 だが、その謝罪は形だけだった。


 少なくともマリアンネには、そう見えた。


「おまえは、アンが香草園へ行ったことをどこで知った」


「裏口で、庭番たちが話しているのを聞きました」


「庭番たちが、そんな話をしていたのか」


「はい。アン様のお召し物に泥がついていたと」


「その話を、ほかの者にしたか」


「リリア以外にはしておりません」


「なぜリリアに言った」


 ヴィクトルは一度視線を落とす。


「アン様とお会いしたことで、リリアが叱責を受けるのではないかと思いました」


 ハインリヒの顔から表情が消えた。


「おまえは、リリアを案じていたのか」


「使用人同士として、でございます」


「使用人同士」


 ハインリヒは低く繰り返す。


「おまえは半年前に入ったばかりだったな」


「はい」


「それにしては、屋敷内の事情をよく見ている」


「仕事を覚えるためでございます」


「仕事を覚えるために、女中の立場や主人一家の動きまで見るのか」


「従僕は、主人方の邪魔にならぬよう動くものと教わりました」


「誰に」


「オットー様に」


 老執事が壁際で、かすかに眉を動かした。


「私が教えたのは、基本でございます」


 ハインリヒはヴィクトルから目を離さない。


「基本を覚えただけで、ここまで動けるものか」


「未熟でございます」


「未熟な者は、もっと余計な音を立てる」


 小広間が静かになった。


 ヴィクトルは答えなかった。


 マリアンネは、父の言葉の意味を理解した。


 足音。


 所作。


 間合い。


 使用人の訓練ではなく、別の訓練によって身につくもの。


「ヴィクトル」


 ハインリヒが名を呼んだ。


「おまえは、リリアがアンを連れ出したと思うか」


 ヴィクトルの目が、わずかに変わった。


 ほんの一瞬だった。


 だが、マリアンネは見逃さなかった。


 動揺ではない。


 怒りでもない。


 その問いを、愚かだと思った目だった。


「私には判断できません」


「判断を求めている」


「では、そうは見えません」


「理由は」


「リリアは、アン様がいなくなったと聞いた時、本当に驚いていました」


「それはセシルも言っていた」


「はい」


「おまえも同じことを言うのか」


「見たものを申し上げております」


 ハインリヒが椅子から立ち上がる。


 小広間の空気が重くなった。


「では、おまえは何を見た」


「混乱です」


「混乱?」


「アン様が消えたと知った時、リリアは動けなくなっていました。誰かを欺いている者の反応ではなく、自分の足元が突然なくなった者の反応に見えました」


 言い終えてから、ヴィクトルはわずかに口を閉じた。


 言葉が過ぎた。


 それを自覚した顔だった。


 ハインリヒの目が細くなる。


「ずいぶん、人を見るのに慣れている」


「従僕として、主人方の顔色をうかがう癖がついております」


「半年でか」


「覚えなければ、叱られますので」


「誰に」


「皆に、でございます」


 無難な答えだった。


 だが、無難すぎた。


 マリアンネは腕を組み直した。


 この男は、決して嘘を重ねない。


 嘘をつく代わりに、答えの範囲を狭めている。


「昨夜、アンが消えた時、おまえはどこにいた」


「裏口近くにおりました」


「何をしていた」


「荷受けの後片づけと、戸締まりの確認を」


「誰かと一緒か」


「一時は下働きが二人おりました。その後は一人です」


「証明できる者は」


「戸締まりの前に、オットー様から声をかけられました」


 老執事が頷く。


「確かに見かけました。裏口の閂を確認しておりました」


「その後は」


「地下へ降りる途中で、騒ぎを聞きました」


「すぐに広間へ来たか」


「いいえ」


「なぜ」


「裏口を開けようとする者がいないか、確認しておりました」


 ハインリヒの視線が鋭くなる。


「誰に命じられた」


「誰にも」


「では、なぜ」


「アン様が屋敷内にいないなら、誰かが外へ出た可能性を考えました」


「従僕見習いが?」


「戸締まりを任されておりますので」


 ハインリヒは、しばらく黙っていた。


 言っていることは正しい。


 正しすぎる。


「おまえは、なぜこの屋敷へ来た」


「奉公のためでございます」


「紹介状は」


「オットー様にお預けしております」


「どこの出だ」


「北の村です」


「村の名は」


 ヴィクトルは答えた。


 迷いはなかった。


 ハインリヒは老執事を見る。


「確認したか」


「紹介状に不審な点はございません」


「紹介者は」


「王都の商家へ出入りする口利きでございます」


 王都。


 その言葉に、マリアンネはわずかに目を細めた。


「ヴィクトル」


 マリアンネが口を開いた。


 ヴィクトルは静かに視線を向ける。


 体ごと振り向かず、右足をわずかに引いた。


 その動きに、マリアンネは見覚えがあった。


 裏口で木箱を運んでいた時も、厩で馬具を抱えていた時も、ヴィクトルは重みを左腕へ預け、右手側を空けていた。


 扉を開けるための癖だと思っていた。


 だが、今の立ち方は違う。


 右腰へ何も下げていないのに、そこだけは誰にも近づかせない。


 訓練場で剣を帯びた騎士たちが、無意識に守る間合いと同じだった。


「おまえは、剣を扱ったことがある?」


 小広間の空気が止まった。


 ハインリヒが娘を見る。


「マリアンネ」


「少し気になっただけです」


 マリアンネは、ヴィクトルから目を逸らさなかった。


 ヴィクトルは少し困ったように眉を下げる。


「村で木剣を振ったことならございます」


「誰に習ったの」


「年上の者に」


「兵士?」


「いいえ。ただの村人です」


「そう」


 マリアンネは微笑まなかった。


「では、なぜ荷を持つ時、利き手を空けるの」


 ヴィクトルの表情は変わらない。


 ただ、沈黙が半拍だけ長くなった。


「癖でございます」


「村人に教わった癖?」


「重い荷を持つ時は、片手を空けておいた方が、扉を開けやすいので」


「便利ね」


「はい」


 マリアンネは、それ以上は聞かなかった。


 ハインリヒは低く息を吐く。


「従僕見習いの癖を調べている暇はない」


「承知しております」


 だが、マリアンネの目は、まだヴィクトルを見ていた。


 この男は崩れない。


 シリルのように愚かに見せるわけでもない。


 マーサのように職分へ逃げるわけでもない。


 ただ、自分を小さく見せている。


 従僕見習いという枠に、丁寧に収まっている。


 だからこそ、収まりきらない部分が目立つ。


「ヴィクトル」


 ハインリヒが言った。


「今後、リリアの部屋へ一人で行くことを禁じる」


「承知いたしました」


「また、裏口と通用口の戸締まりは、必ず老執事かヨーゼフの確認を受けろ」


「はい」


「アンに関する噂を、リリアへ伝えるな。おまえの判断で動くな」


「心得ました」


「最後に聞く」


 ハインリヒはヴィクトルの目を見た。


「リリアは、屋敷を出ようとすると思うか」


 ヴィクトルは、すぐには答えなかった。


 その沈黙は、これまでで一番長かった。


「分かりません」


「分からない?」


「アン様を案じているのは確かです。ですが、リリアは命令に逆らうことに慣れておりません」


「では、出ないと?」


「追い詰められれば、人は慣れていないこともいたします」


 ハインリヒの顔が険しくなった。


 ヴィクトルは頭を下げる。


「出過ぎたことを申しました」


「下がれ」


「失礼いたします」


 ヴィクトルは深く一礼し、扉へ向かった。


 その背中を、マリアンネは見送る。


 扉が閉まる直前、ヴィクトルは一度だけ、小広間の奥へ視線を向けた。


 閉じ込められたリリアの居場所を、確かめるように。


 扉が閉まった。


 ハインリヒは椅子へ戻り、重く息を吐く。


「従僕見習いにしては、妙な男だ」


「妙どころではありません」


 マリアンネが言った。


「お父様。あの者は、ただの使用人ではありません」


「証拠は」


「ありません」


「またそれか」


「でも、シリルとは違います」


 ハインリヒの眉が動く。


「どう違う」


「シリルは、愚かに見せていました。ヴィクトルは、目立たないようにしています」


「どちらも怪しいということか」


「はい」


 マリアンネは扉の方を見た。


「ただし、リリアを利用しようとしている目には見えませんでした」


 少し考えてから、マリアンネは答える。


 ハインリヒは、しばらく黙っていた。


 やがて、壁際の老執事へ目を向ける。


「オットー。ヨーゼフに伝えろ。シリルとヴィクトルを見張れ」


「承知しました」


 屋敷の外では、霧が深くなっている。


 アンは見つからない。


 リリアは疑われている。


 庭師見習いは何かを隠し、従僕見習いもまた何かを隠している。


 マリアンネは静かに拳を握った。


 この屋敷には、使用人の顔をした者が多すぎる。


 そして、その誰もが。


 地下に囚われた黒髪の少女を中心に、少しずつ動き始めていた。



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