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第十二話 黒漆の箱

その日、日が暮れてもアンは見つからなかった。


 屋敷の灯りは夜更けまで消えず、白い霧の中を、兵と使用人たちの足音だけが行き交っていた。


 夜遅く、その箱は届いた。


 正門ではない。


 屋敷の東側、厨房へと続く通用門の前に、いつの間にか置かれていた。


 見つけたのは、夜番を交代しようとしていた若い下働きだった。


 霧の中に黒い小箱がひとつ、濡れた石畳の上に置かれている。


 人影はなかった。


 門扉は閉じられたまま。


 外側の見張りも、内側の夜番も、箱を運んだ者を見ていないという。


 箱は、東国風の黒漆で塗られていた。


 蓋には細い銀線で、百合に似た花が描かれている。


 誰も触れようとはしなかった。


 報せを受けたハインリヒは、白布に載せ小広間へ運ばせた。


 オットー、ヨーゼフ、マリアンネが呼ばれた。


 イザベラには、まだ知らされていない。


 小広間の中央に置かれた箱を、ハインリヒは黙って見下ろしていた。


「開けろ」


 ヨーゼフが箱の底と蝶番を調べ、細い棒で蓋をわずかに持ち上げた。


 異臭も、仕掛けが動く音もない。


 それを確認してから、オットーが白布を重ねた手で蓋を開いた。


 中に入っていたのは、薄桃色のリボンだった。


 小さく丁寧に折り畳まれた、少女の髪飾り。


 端には、白い糸で小さな薔薇が刺繍されている。


 マリアンネの顔から血の気が引いた。


「アンの……」


 声がかすれた。


 何度も見たものだった。


 アンが好んで髪に結んでいた、薄桃色のリボン。


 イザベラが誕生日に贈ったものだ。


 リボンの下には、細長い紙片が入っていた。


 見慣れない文字が、黒い墨で記されている。


 ハインリヒは紙へ触れなかった。


 そこに並ぶ文字を、冷たい目で見つめる。


「読める者はいるか」


 オットーが静かに一歩進み出た。


「旦那様。東方で使われる文字にございます」


「読めるのか」


「若い頃、東国商人との帳簿を任されておりました。すべてではございませんが、商用の文であれば多少は」


 オットーは紙片へ目を落とした。


 やがて、わずかに眉をひそめる。


「ただし、これは商人の文ではございません。古い言い回しと、宗教的な比喩が混じっております」


「読め」


 オットーは一瞬だけ唇を閉じた。


 それから、低い声で読み上げる。


「ローゼンベルク家当主へ。


 白き花は、いまだ手折られてはいない。


 されど、花を活ける水が、いつまでも清いとは限らぬ。


 黒き百合を、王冠にも、石の館にも渡してはならない。


 黒き百合が東の土へ戻れば、白き花もまた朝露を得るだろう。


 鋏の音を聞かせぬご決断を」


 差出人の名はなかった。


 ただ、紙片の端に、黒い百合に似た小さな墨印が押されている。


 オットーはその印を見つめ、わずかに顔を強張らせた。


「旦那様。この印は……祀院に関する古い記録で見たものに似ております」


「祀院か」


 ハインリヒの声が低く沈む。


「ヤシャラの組織なのですか」


 マリアンネが問う。


「違う」


 答えたのはハインリヒだった。


「ヤシャラの中にも信奉者はいる。だが、祀院そのものは皇帝にも王にも従わぬ。国境を越えて黒百合の血と古い儀式を追う者たちだ」


「では、ヤシャラが命じたとは限らない?」


「この印だけでは判断できん。祀院を名乗る偽物かもしれない。祀院の一派が独断で動いている可能性もある」


 ハインリヒは紙片を見つめたまま続けた。


「だが、こちらにそう思わせたい者がいることだけは確かだ」


 その視線が、一瞬だけ地下へ続く廊下の方へ向いた。


 リリア。


 その名を、誰も口にしなかった。


 だが、黒き百合が誰を指しているのか。


 小広間にいる全員が理解していた。


「お父様……」


「少なくとも、向こうはアンが生きていると告げている」

 ハインリヒは、紙片をもう一度見下ろした。


「場所も、時刻もない」


 マリアンネが父を見る。


「取引の方法が書かれていない、ということですか」


「ああ。これは交換を申し入れる文ではない」


 ハインリヒの視線が、箱の中の薄桃色のリボンへ落ちる。


「黒百合を要求している。だが、それだけではない」


「では、何を」


「こちらが苦しむことを望んでいる」


 その声が低く沈んだ。


「アンを奪い、リリアの名を使い、屋敷の者を疑わせた。目的を果たすだけなら、ここまで手の込んだ真似をする必要はない」


 マリアンネの顔が強張る。


「ローゼンベルク家を、憎んでいる……?」


 ハインリヒは紙片の黒い墨印を見つめた。


「アンを返すとも書いていない。生きていると、こちらに思わせているだけだ」


 ハインリヒの声はかすれていた。


 マリアンネは指先を握りしめた。


 小箱の中にあるリボンから、目を離すことができない。


 持ち主のいない髪飾りは、血のついた刃よりも恐ろしく見えた。


 ヨーゼフが硬い声で言う。


「旦那様。東側の庭と厨房口は、すでに調査させております」


「通用門の見張りを全員替えろ。今夜、東側に立っていた者は別室で待機させろ」


「はっ」


「箱を運んだ痕跡は」


「石畳が濡れております。足跡は残っておりません。門扉にも外から触れた跡はございませんでした」


「ならば、塀を越えたか。あるいは、最初から内側にいたか」


「その可能性もございます」


 ヨーゼフは短く頷き、続けた。


「東国商人の宿は、アン様の失踪が分かった直後に押さえております。本日、屋敷へ来る予定だった一行は宿を出たまま戻っておりません」


「荷は」


「残されております。部屋には兵を置き、誰にも触れさせておりません」


「宿、馬、荷、紹介状。すべて洗え。名ではなく、物を追え」


「はっ」


「それから、東廊下の見張りを離れた兵は」


「拘束しております」


 ヨーゼフの声が、さらに硬くなった。


「私の名で出された命令札を受け取った者です。本人は、正式な命令だと思ったと申しております」


「札を持ってきた者の顔は」


「見ていない、と」


 ハインリヒの目が鋭くなる。


「見張りが顔も確かめずに持ち場を離れたのか」


「弁明の余地はございません」


 ヨーゼフは深く頭を下げた。


「剣は取り上げ、後ろ手に縛っております。もう一度、詳しく聞きます」


「札は残っているのか」


「ございません。確認を終えたあと、規定どおり連絡棚へ戻したと申しております。ですが、その後、札は消えておりました」


「札を持ち去れる者は」


「護衛詰所へ出入りできる者に限られます」


「ならば、その時間に棚へ近づいた者を全員洗え」


「顔は見ていない。札もない」


「はい」


「都合のよい話だ」


 ハインリヒは薄桃色のリボンへ視線を戻した。


「だが、イザベラの名でクララを動かした札も、ヨーゼフの名で見張りを動かした札も、屋敷の命令系統を知らなければ用意できない」


「私も同意いたします」


「ならば、内にいる」


 その言葉が、小広間へ重く落ちた。


 アンを連れ去った者。


 あるいは、その者へ手を貸した者。


 それが、この屋敷の中で主人方と同じ空気を吸い、使用人と同じ廊下を歩いている。


 マリアンネは背後の扉を振り返った。


 壁の向こうでは、使用人たちが眠ることも許されず、捜索と聞き取りを続けている。


 その中に、アンを連れ去った者がいるかもしれない。


「クララを連れてこい。手は前で縛れ」


 ハインリヒが命じた。


 マリアンネが顔を上げる。


「お父様」


「アンがこのリボンを身につけていたか。誰が結び、最後に確認したのはいつか」


「クララは昨日からほとんど眠っておりません。責めては、正確な話が聞けなくなります」


 ハインリヒの冷たい視線が向けられる。


「責めるかどうかは、答え次第だ」


「ですが――」


「アンの部屋を空けたのはクララだ。偽の伝言札を信じたのもクララ。アンの髪に触れ、このリボンを結んだのもクララだ」


 マリアンネは言葉を失った。


 父の言い方は冷たい。


 けれど、間違ってはいない。


 クララはアンの専属侍女だ。


 アンの行動を知り、アンの気持ちを知り、リリアを気にかけていたことも知っていた。


 そして、アンが消えた時、彼女は部屋にいなかった。


「 イザベラは呼んでいない。ならば、クララは偽札に騙されたか、騙されたふりをして部屋を離れた。そのどちらかだ」


 ハインリヒは箱の中のリボンを見つめた。


「クララが騙された可能性は、あるでしょう」


「騙されたのか、協力したのかを確かめる」


「旦那様」


 オットーが静かに口を挟んだ。


「クララをアン様付きにした際の記録も、確認いたしましょうか」


「あとでいい。今は本人に聞く」


 ハインリヒは紙片の文字へ目を落とした。


「だが、あの娘がアンのそばへ置かれた経緯も洗い直せ」


「承知いたしました」


 小広間の外で、護衛の靴音が響いた。


 やがて扉が開く。


 両脇を護衛に挟まれた若い侍女が、青ざめた顔で立っていた。


 両手には縄が巻かれている。


 クララは、机の上の黒漆の箱を見た。


 そして、その中に横たわる薄桃色のリボンへ目を向ける。


 その瞬間。


 クララの唇が動いた。


 けれど、声は出なかった。





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