第十三話 三枚の偽札
「……アン様の」
クララの声が、かすかに震えた。
アンの専属侍女は、ひどくやつれていた。
髪は整えられているものの、目の下には濃い影がある。唇は乾き、灯の下でも顔に血の気が見えなかった。
両手を前で縛られている。
細い手首に巻かれた縄が、震えに合わせてかすかに揺れていた。
「膝をつけ」
護衛に促され、クララは小広間の中央で膝をついた。
前で縛られた手を床へつき、深く頭を下げる。
「旦那様……アン様は」
「顔を上げろ」
クララは恐る恐る顔を上げた。
視線は、黒漆の箱から離れない。
「このリボンに間違いないか」
ハインリヒが問う。
クララは縛られた両手を胸元へ上げかけた。
しかし縄に阻まれ、そのまま指先だけを震わせる。
「間違い、ございません」
「よく見ろ」
「間違いございません。薄桃色のリボンに、白い薔薇の刺繍……昨日の朝、私が結びました」
「昨日の朝」
「はい。アン様が、ご自分で選ばれて」
クララはそこで息を詰めた。
ハインリヒは、しばらく黙ったまま、クララを見下ろしていた。
「続けろ」
「アン様は……リリアに見せるなら、これがいいと……」
「今、何と言った」
クララの顔が真っ青になった。
「申し訳ございません」
「謝罪は求めていない。アンは、リリアに見せるなら、と言ったのか」
「……はい」
「いつだ」
「昨日の朝でございます。香草園へ行かれる前に」
マリアンネは静かにクララを見つめた。
「クララ。落ち着いて答えて。アンは最初から、リリアに会うつもりだったの?」
「分かりません」
クララは唇を震わせる。
「ただ、朝のお支度の時に、今日はこのリボンがいいと。白い薔薇の刺繍があるから、リリアが気づくかもしれない、と」
「なぜ、リリアが気づくと思ったの」
「昔、リリアがその刺繍を褒めたことがあると、アン様はおっしゃっていました」
ハインリヒが眉を寄せた。
「昔?」
「はい。私が仕える前のことかもしれません。アン様は、リリアとの昔の話を時々なさいます」
「なぜ報告しなかった」
クララの肩が震えた。
「申し訳ございません。まさか、本当に香草園でお話しになるとは思わず……」
「まさか、では済まない」
「申し訳ございません」
クララはさらに身体を小さくした。
ハインリヒは箱の中のリボンを指差す。
「このリボンは、アンが失踪した時も身につけていたのか」
「はい。昼過ぎに一度、結び直しました。香草園から戻られたあと、少し形が崩れているのを気にされて」
「夕方は」
「外しておりません。お休み前には髪をほどく予定でした。ですが、その前に……」
クララの声が途切れる。
「その前に、何だ」
「アン様が、お部屋からいなくなられました」
縛られた手が、床の上で強く握られた。
「私は、奥様からの伝言札で呼ばれたのです」
「イザベラはおまえを呼んでいない」
ハインリヒの声が、小広間へ落ちた。
「申し訳ございません。けれど、札は本当にございました」
「どのような札だ」
「奥様付きの札でした。いつもの白い小札に、淡い青の紐が通されていて……奥様の控えの間で使われるものと同じでした」
「どこで受け取った」
「廊下でございます。扉を開けた時には、すでに小さな盆が置かれておりました。その上に札が」
「届けた者は」
「見ておりません」
「札を手に取ったのか」
「いいえ。呼び札は、読み終えたら盆へ戻す決まりでございます。私はそのまま控えの間へ向かいました」
「控えの間には誰がいた」
「誰もおりませんでした」
ハインリヒの目が険しくなる。
「誰も?」
「はい。行き違いかと思い、すぐにアン様のお部屋へ戻りました」
「盆と札は」
「なくなっておりました」
「なぜ、その時に報告しなかった」
クララは唇を震わせた。
「奥様のお呼びではなかったのだと、その時は……急ぎの用が済んだのだとばかり……」
「急ぎの用が済んだ?」
ハインリヒの声が、さらに低くなる。
「アン付きの侍女であるおまえが、主人の娘を一人にしてまで従った呼び出しだ。その相手がいなかった。それで、おまえは何も報告しなかったのか」
クララは頭を下げた。
「申し訳ございません」
「謝罪ではなく、事実を答えろ」
「はい」
ヨーゼフが一歩前へ出る。
「札には何と書かれていた」
クララは必死に記憶をたどるように目を伏せた。
「奥様が御用にございます。至急、控えの間へ……と」
オットーの顔が、わずかに強張った。
「文面に、いつもと違うところは」
「分かりません。急いでおりましたので」
「筆跡は」
「奥様のお手ではございません。呼び札は、いつも侍女が書きますので」
「誰の字か分かったか」
「いいえ」
ヨーゼフが低い声で言う。
「その札は見つかっていない」
クララは息を呑んだ。
「おまえが呼び出されたという証拠は、何も残っていない」
「本当にありました!」
クララは顔を上げた。
「私は嘘などついておりません」
「では、その札は誰が出した」
「分かりません」
「おまえが自分で用意したのではないのか」
「違います!」
クララの声が裏返る。
「私はアン様を裏切ってなどおりません!」
「内通者は皆、そう言う」
ヨーゼフの言葉に、クララの顔が凍った。
ハインリヒの目が、さらに冷たくなる。
マリアンネは思わず一歩前へ出かけた。
だが、足を止める。
クララをかばいたい。
けれど、父やヨーゼフの疑いが、まったく理不尽だとも言い切れなかった。
「夜、アンの部屋へ誰か来たか」
ハインリヒが問う。
「私は見ておりません」
「リリアは」
「来ておりません」
「断言できるか」
「はい。少なくとも、私が部屋にいた間は」
「おまえが離れた間は」
「……分かりません」
「シリルは」
クララは驚いたように顔を上げた。
「庭師見習いの、ですか」
「そうだ」
「アン様のお部屋へ近づける者ではございません」
「ヴィクトルは」
「従僕見習いですので、廊下で見かけることはございます。ですが、アン様のお部屋へ入ったことは」
「ないと言い切れるか」
「私の知る限りでは、ございません」
ハインリヒはしばらく黙った。
そして、別の問いを投げる。
「アンは、東国の商人について話していたな」
クララの顔がこわばった。
「……はい」
「いつ」
「昨日の朝です。香草園へ行かれる前に少し」
「なぜ知っていた」
「立ち聞きしたと、アン様はおっしゃっていました」
「誰の話を」
「旦那様と、奥様の……」
ハインリヒの表情が険しくなる。
クララは慌てて頭を下げた。
「申し訳ございません。私が止めるべきでした」
「アンは、その話を誰かにしたか」
「リリアに話したと、戻ってからおっしゃっていました」
「ほかには」
「私には、それ以上は……」
「アンは何か紙を持っていなかったか」
クララは息を止めた。
その反応を、マリアンネは見逃さなかった。
「クララ」
マリアンネが静かに呼びかける。
「何か見たのね」
クララの縛られた手が、小さく震えた。
「紙かどうかは、分かりません。ただ……」
「答えなさい」
「夕方、アン様が机の引き出しへ何かを隠されたように見えました」
ハインリヒの視線が鋭くなる。
「なぜ確かめなかった」
「アン様は、私に見られたくないご様子でした。子供らしい秘密だと……私は……」
「また、まさか、か」
クララは目を伏せた。
マリアンネは、責めるのではなく、確かめるように問う。
「クララ。アンは、リリアからの手紙なら、一人で出ていくと思う?」
クララの顔が、泣きそうに歪んだ。
「アン様は、お優しい方です」
声が震えていた。
「リリアが困っている。助けを求めていると書かれていたら……」
そこで息を詰める。
「きっと、お一人でも行かれます」
ハインリヒが拳を握った。
「愚かな」
それがアンへ向けた言葉なのか、犯人へ向けた言葉なのか。
誰にも分からなかった。
マリアンネは黒漆の箱の中のリボンを見た。
薄桃色。
白い薔薇の刺繍。
昨日の朝、アンはこれをリリアへ見せたいと言った。
そして今、そのリボンが、脅迫の箱に入れられて届いた。
誰かが、アンの優しさを知っていた。
リリアへの気持ちを知っていた。
そして、それを使った。
「クララ」
マリアンネが言った。
「昨日、アンのリボンに触れた者は?」
「私だけです。朝と昼に結び直しました」
「アン自身は?」
「触っておられました。香草園から戻られたあと、形を気にして」
「その時、外れそうだった?」
「いいえ。きちんと結び直しました」
「なら、偶然落ちたものではないわね」
「アンを連れ去った者が外した」
ハインリヒが冷たく言った。
「生きている証として送った。あるいは、こちらを動かすために」
彼は紙片へ視線を落とす。
「黒き百合を、王冠にも、石の館にも渡すな」
その言葉が、小広間へ重く落ちた。
クララは涙をこぼしながら顔を上げる。
「黒き百合とは、何のことでございますか」
誰も答えなかった。
「クララ」
ハインリヒが低く言う。
「伝言札について、まだ思い出していないことがあるなら、今ここで申せ」
「……ございません」
「なお隠すことがあるならば、次は場所を変えて聞くことになる」
クララの身体が、びくりと震えた。
その意味は、誰に言われずとも分かった。
地下。
石室。
ヨーゼフ。
クララは倒れぬのが不思議なほど震えながら、それでも首を横に振った。
「私は……嘘などついておりません」
ハインリヒの目が鋭くなる。
「伝言札は、本当にありました。奥様のお名前で……本当に……」
すすり泣く声だけが、小広間へ落ちた。
ハインリヒは、しばらくクララを見下ろしていた。
やがて、短く命じる。
「空き部屋へ戻せ。縄は解くな。見張りを二人つけろ」
「はい」
護衛がクララの腕を取った。
クララはふらつきながら立ち上がる。
扉へ向かう途中、彼女は一度だけ振り返った。
「旦那様」
ハインリヒは答えなかった。
「アン様を……どうか……」
その先は、言葉にならなかった。
クララは深く頭を下げ、護衛に連れられて小広間を出ていった。
扉が閉まる。
広間には、黒漆の箱と薄桃色のリボンだけが残された。
長い沈黙のあと、ハインリヒが口を開く。
「オットー。クララをアン付きに推したのは誰だ」
オットーは一瞬、目を伏せた。
「記録では、奥様付きの侍女エリーズでございます」
マリアンネが顔を上げる。
「エリーズが?」
「はい。アン様もそろそろ専属の侍女を持つ年頃だと、奥様へ進言したのはエリーズでした」
「クララを選んだ理由は」
「真面目で、物覚えがよく、余計な口をきかない。アン様のお相手に向いている、と」
ヨーゼフの目が細くなった。
「つまり、エリーズはクララの性格をよく知っていた」
「若く、命令に従順で、奥様付きの札を疑いにくい者だと知っていた可能性はございます」
オットーは慎重に答えた。
マリアンネは机の上のリボンを見つめた。
クララは、アンを裏切ったようには見えなかった。
けれど、誰かに選ばれ、置かれ、動かされたのだとしたら。
その誰かは、アンのそばにおく者を、ずっと前から用意していたことになる。
「エリーズは、イザベラ付きの札を扱えるな」
ハインリヒが問う。
「はい。控えの間の呼び札も、淡い青の紐も扱えます」
「リリアの字を見る機会は」
「奥様のお部屋へ届ける香草瓶の小札を目にしております。近頃は、エリーズが香草瓶を整えることも増えておりました」
ヨーゼフが低く言った。
「リリアの名でアン様を誘い、奥様の名でクララを離し、私の名で見張りを動かす」
それぞれ別の者を、必要な場所から動かした。
「同じ夜にそれを行うには、屋敷の内側をよく知っている必要がある」
「まだ決めつけるな」
ハインリヒの声は冷たかった。
「エリーズが行ったという証拠はない」
「ですが、条件は揃っております」
「だからこそ、すぐには動くな」
マリアンネが父を見る。
「お父様?」
「今エリーズを捕らえれば、背後にいる者へ異変を知らせることになる」
ハインリヒは目を細めた。
「何も知らぬふりをして泳がせる」
ヨーゼフが短く頷いた。
「見張りをつけます」
「気づかせるな。部屋も調べるな。普段どおり働かせろ」
「はっ」
マリアンネは、わずかに息を呑んだ。
父は怒りに任せているだけではない。
アンを取り戻すためなら、屋敷の中に潜む者を餌として使うつもりなのだ。
「今は、黒百合だ」
ハインリヒが言った。
マリアンネの顔が強張る。
「お父様」
ハインリヒは紙片へ目を落とした。
「要するに、向こうは黒き百合を返せと言っている」
「リリアを渡すおつもりですか」
「渡すとは言っていない」
「では、何を」
「確認する」
その一言で、マリアンネは理解した。
確認。
検分。
右腕の痣。
「今すぐ、リリアの痣を調べるおつもりですか」
「必要ならば」
「それは、犯人の望むとおりにリリアを追い詰めることになりませんか」
「アンが戻らなければ、追い詰められるのはリリアだけではない」
ハインリヒの声には、疲労と苛立ちと、隠しきれない恐怖が混じっていた。
「向こうが欲しているものが何なのか。リリア自身が何を知っているのか。今度こそ確かめる」
「リリアは何も覚えていません」
「本人がそう言っているだけだ」
「お父様」
「もうよい」
ハインリヒは立ち上がった。
黒漆の箱の中で、薄桃色のリボンが静かに横たわっている。
アンの優しさを利用して誘い出した者。
クララの従順さを利用して部屋から離した者。
見張りの兵に、ヨーゼフの命令を疑わせなかった者。
そのすべてが、今度はリリアの存在を使って、ローゼンベルク家を動かそうとしている。
「リリアを連れてこい」
ハインリヒが命じた。
「ただし、痣には触れるな。まず、箱と文を見せて反応を見る」
確認という名の下で何が始まるのか。
窓の外では、白い霧が夜明けの薄明かりへと溶け始めている。
黒漆の箱の中のリボンは、まるで屋敷の中心へ置かれた、小さな刃のようだった。




