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第十四話 黒百合の検分

屋敷の鐘は、まだ朝を告げていない。


 窓の外には白い霧が沈み、庭も石畳も、夜の名残を抱えたまま冷えていた。


 アンが消えてから、二度目の朝を迎えようとしていた。


 夜半、厨房通用門の前に黒漆の小箱が置かれた。


 薄桃色のリボン。


 差出人のない文。


 黒百合に似た墨印。


 その後、イザベラにも小箱の中身は知らされた。


 薄桃色のリボンを見た彼女は、その場に立っていられなくなり、今も奥の部屋に籠もっている。


 ヨーゼフは夜明け前の捜索隊を送り出すため、正門側に詰めていた。


 そして今、リリアは小広間へ連れてこられていた。


 そこに、ジューンの姿はなかった。


 リリアはすぐに気がついた。


 いつもなら、少し離れた場所に立っている。


 厳しい顔で、何も言わずにこちらを見ている。


 味方だと呼べるほど優しくはない。


 それでも、最後の一線だけは越えさせないように、そこにいてくれる人だった。


 その人が、いない。


 小広間にいるのは、ハインリヒとマリアンネ、オットー、護衛が二人。


 リリアの両手は前でまとめられ、右手首には革帯が二重に巻かれていた。


 縄ではない。


 硬く、幅のある革帯だった。


 逃がさぬためというより、右腕そのものを恐れているような結び方だった。


 机の上には、黒漆の小箱。


 その中に、薄桃色のリボンが置かれている。


「見覚えがあるな」


 ハインリヒが言った。


 リリアの喉が、小さく鳴った。


「……お嬢様の、リボンです」


「最後に見たのはいつだ」


 革帯の中で、指先が小さく震えた。


「二日前の朝でございます」


「どこで」


「香草園で……お嬢様の髪に結ばれていました」


「間違いないか」


 リリアは黒い小箱の中を見つめた。


 薄桃色の布。


 白い薔薇の刺繍。


 少し丸みを帯びた花びら。


「はい」


 声が掠れた。


「間違いございません」


 失踪した日の朝、香草園で見た時には、淡い金の髪に結ばれていた。


 お嬢様は笑っていた。


 また来るね、と言った。


 そのリボンが今、黒漆の箱の中で静かに横たわっている。


「差出人の名はない」


 ハインリヒは小箱を見下ろした。


「だが、文面と墨印から見て、祀院に連なる者の仕業である可能性が高い」


 祀院。


 聞いたことのない名だった。


「祀院、とは……」


「王にも、皇帝にも従わず、国境を越えて黒百合の血と古い儀式を追う者たちだ」


 ハインリヒの声は硬かった。


 黒百合。


 その言葉を聞いた瞬間、右腕の奥が熱く疼いた。


 リリアは袖口を握り込もうとした。


 だが、革帯が手首を引き戻し、指先だけが震える。


 ハインリヒの目が、その動きを追った。


「箱には文が添えられていた。比喩で飾ってはいるが、要するにこうだ」


 彼は黒漆の箱へ視線を落とした。


「黒百合を返せ。娘を生かしたくば、花を差し出せ、と」


 リリアは言葉を失った。


 黒百合。


 娘。


 花。


 その言葉の意味が、すぐには形にならなかった。


 娘とは、お嬢様。


 花とは、黒百合。


 では、黒百合とは。


 リリアは、革帯に戒められた自分の右腕を見た。


 違う。


 そう思いたかった。


 けれど、ハインリヒの目はすでに答えを告げていた。


 黒百合とは、自分のことなのだ。


 求められているのは、右腕に黒い花の痣を持つ自分。


 そして娘とは、アン様。


 その二つが、同じ文の中で結ばれている。


 自分の知らないところで、お嬢様の命と、自分の体に咲く黒い痣が、一本の糸でつながっている。


 息が浅くなった。


 熱病の後遺症だと聞かされてきたもの。


 新月の夜に疼くだけだと思っていたもの。


 隠していれば済むと思っていたもの。


 革帯に押さえられた右腕が、急に自分のものではないように思えた。


 祀院も、ハインリヒも怖かった。


 けれど、いちばん怖いのは、自分の痣だった。


「おまえは、黒百合とは何かを知っているか」


「……存じません」


「本当に、何も知らないと?」


「はい」


「では、なぜ向こうはアンのリボンを送り、おまえを求める?」


「分かりません」


 自分でも驚くほど弱い声だった。


「なぜ、私が黒百合なのでしょうか」


 黒百合なんて知らない。


 母の顔も知らない。


 記憶もない。


 知っているのは、地下の香草室と、薬草の匂いと、新月の夜に疼く右腕だけ。


「痣を見せろ。以前より濃くなっていないか、どこまで広がっているか検分する」


 ハインリヒが命じた。


 リリアの体が固まった。


「ジュー……女中頭は」


 声が漏れた。


 ハインリヒの目に、感情は見えなかった。


「おまえに近すぎる。信用できん」


 胸の奥が沈んでいく。


「聞こえなかったか」


「……お許しください」


「何を許す」


「それだけは」


「アンの命がかかっている」


 その一言で、リリアは何も言えなくなった。


 前で縛られた手首が近すぎて、うまく指が動かない。


 革帯が擦れ、袖口の白い布に小さな皺が寄った。


 それでも、何度も指先を滑らせながら、どうにか釦を外す。


 白い袖をゆっくりと上げた。


 右腕に、黒い線が浮かんでいた。


 細い茎。


 重なった花弁。


 肌の下から、一輪の黒い花が今にも咲こうとしているかのような痣。


 ハインリヒは表情を変えなかった。


「濃いな」


 リリアは目を伏せた。


 見られている。


 ただ腕を見られているのではない。


 自分でも知らないものを、他人に暴かれていく。


 恥ずかしいという言葉では足りなかった。


 ハインリヒは、しばらくリリアの右腕を見ていた。


「……もう、抑えが利かなくなってきたのか」


 低い声だった。


 マリアンネが眉をひそめる。


「お父様?」


 ハインリヒは答えなかった。


 リリアも顔を上げる。


 抑え。


 その言葉が、右腕の熱とは別の冷たさを胸へ落とした。


「新月の夜だけではないのだな」


 ハインリヒは続けた。


「感情が揺れれば、痣が濃くなるのか」


 リリアは息を呑んだ。


 痣が強く痛むのは、新月の夜だけだと思っていた。


 けれど、アンが消えてからは違う。


 黒百合という言葉を突きつけられた時。


 薄桃色のリボンを見た時。


 右腕は、自分のものではない何かが目を覚ますように熱を持った。


「抑えとは、どういう意味ですか」


 マリアンネが問う。


 ハインリヒは、わずかに口を閉ざした。


「今は関係ない」


「関係ないようには聞こえません」


「今、確認すべきは痣だ」


 マリアンネは父を見た。


 リリアは何も聞けなかった。


 けれど、胸の奥で何かが軋んだ。


 熱病の後遺症だと聞かされてきた痣。


 失われた記憶。


 そして今、ハインリヒが口にした、抑え。


 ばらばらだった言葉が、胸の中で一つの疑いへ変わっていった。


「背中も確認する」


 ハインリヒが言った。


 リリアの息が止まった。


「お父様」


 声を上げたのは、マリアンネだった。


「必要ですか」


「痣がどこまで広がっているか確認する」


「ですが、ここでなさることではありません」


「ジューンと同じことを言うのだな」


 マリアンネがリリアを見た。


「尋問を続けたいのなら、壊さない方がよいと申し上げているのです」


 ハインリヒは、しばらく娘を見た。


 やがて扉の側に控えていた護衛に命じ、小広間の奥へ衝立が運び込まれた。


「外へ出ろ」


 護衛たちは一礼し、小広間を出ていった。


 オットーも扉の外へ下がる。


 残ったのは、ハインリヒとマリアンネ、そしてリリアだけだった。


「マリアンネ。おまえが確認しろ」


 マリアンネは一瞬、目を伏せた。


「分かりました」


 リリアは顔を上げた。


「……マリアンネ様」


「必要なところだけ見るわ」


 マリアンネは静かに言った。


「それ以上は見ない」


 リリアは小さく頷いた。


 二人は、小広間の奥に置かれた衝立の陰へ移った。


 リリアが震える指で襟元へ触れたが、革帯に阻まれた。


「私が外すわ」


 マリアンネは返事を待ってから、襟の留め具に手をかけた。



 肩から背にかけて、黒い百合の線が浮かんでいた。


 マリアンネは息を止めた。


 黒百合の痣。


 それは確かに異様だった。


 花のようで。


 傷のようで。


 呪いのようでもあった。


 けれど、マリアンネの目が奪われたのは、それだけではなかった。


 黒い痣の近くに、古い傷跡があった。


 細く、いくつも走る線。


 色は薄くなっている。


 けれど、消えてはいない。


 偶然の怪我ではない。


 転んだ跡でも、枝で切った跡でもない。


 鞭の跡だった。


 マリアンネの指先が冷たくなった。


「これは……」


 リリアの肩が、びくりと震えた。


「申し訳ございません」


 反射のような謝罪だった。


 何を責められたのかも分からないまま、先に謝る声。


 マリアンネは言葉を失った。


 この子は、こうやって謝るのだ。


 傷を見られても。


 痛みを思い出しても。


 自分が悪いかどうか分からなくても。


 まず、謝る。


「これは、誰がやったの」


 自分でも驚くほど、低い声が出た。


 リリアは答えなかった。


「リリア」


「……覚えておりません」


「嘘」


 リリアの肩が小さく震えた。


 マリアンネは、すぐに言葉を飲み込んだ。


 嘘ではないのかもしれない。


 記憶ではなく、体だけが覚えているのかもしれない。


「痛むの?」


「新月の夜は」


「痣が?」


「はい」


「この傷も?」


 リリアは少しだけ首を横に振った。


「それは……古いものですから」


 古いもの。


 まるで、自分とは関係のない品物のように言う。


 マリアンネは奥歯を噛みしめた。


 衣を戻す指先に、わずかに力が入った。


 誰が。


 いつ。


 何のために。


 問いは次々と浮かんだ。


 けれど、今ここでリリアへぶつけるべきではないとは分かっていた。


 マリアンネは、そっと衣を戻した。


「もういいわ」


 リリアは力が抜けたように、その場で膝をつきかけた。


 マリアンネは咄嗟に腕を伸ばし、支えた。


 軽い。


 思っていたよりも、ずっと軽かった。


「立てる?」


「……はい」


「無理をしないで」


 そう言った瞬間、リリアが不思議そうにマリアンネを見た。


 そして、言葉の意味が分からないように何度か瞬いた。


 その表情が、マリアンネには苦しかった。


 二人が衝立の外へ戻ると、ハインリヒは窓の前に立っていた。


「どうだった」


 マリアンネは、すぐには答えなかった。


「痣は、肩から背まで続いています」


「背中までか」


「はい」


「濃さは」


 マリアンネはリリアの右腕へ視線を向けた。


「右腕については、以前見た時より濃く見えます」


 リリアの肩が、小さく震えた。


「ただ、私が背中まで確認したのは今日が初めてです。背の痣が以前より濃くなったのかは分かりません」


「マリアンネ」


 ハインリヒの声が鋭くなる。


「確認したことを、そのまま言え」


 マリアンネは父を見た。


「黒百合の痣は、確かに背中まで続いています」


「それだけか」


「いいえ」


 マリアンネは、ゆっくりと息を吸った。


「その近くに、古い鞭の跡がありました」


 三人の間に、重い沈黙が落ちた。


 リリアは、何も言えないまま俯いた。


 ハインリヒは表情を変えなかった。


 その沈黙が、答えだった。



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