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第十五話 忘れさせられたもの

「お父様」


 マリアンネの声が、小広間の静寂を破った。


「今、その話は関係ない」


 ハインリヒは窓の外を向いたまま答えた。


「関係ない?」


 マリアンネの声が低くなる。


「リリアに処分があったことは知っていました。けれど、鞭だとは聞いておりません」


「知らせる必要がなかった」


 ハインリヒは即座に答えた。


 リリアは衝立のそばで、顔を伏せていた。


 右腕の袖はまだ上がったままになっている。


 黒い痣が、白い肌の上に浮かんでいた。


「三年前、何があったのですか」


 マリアンネが問う。


「おまえも知っているはずだ」


「アンが馬場で倒れたことは知っています。リリアが処分されたことも」


「ならば、それで十分だ」


「十分ではありません」


 マリアンネは父を見据えた。


「十三歳の子の背中に、今も跡が残っています」


「リリアが触れたあと、アンの体が黒い霧に包まれた。アンは倒れ、その直後、リリアの体に黒百合の痣が現れた」


 その声は、小広間の床へ冷たく落ちた。


「アンは一週間目を覚まさなかった」


 一週間。


 目を覚まさなかった。


 黒い霧に包まれたアン。


 自分が触れたあと。


 黒百合の痣が現れた。


「屋敷は、おまえの力がアンを害したと判断した」


 リリアは声を失った。


 大きな過ち。


 近づいてはならない理由。


 名前を呼んではならない罰。


 その中身が、今、初めて形を持った。


 私は、お嬢様を。


 自分の右腕が、お嬢様を。


 リリアは右腕を押さえようとした。


 だが、革帯がそれを許さなかった。


 指先だけが、虚しく震える。


「……私が」


 かすかな声が出た。


 自分のものとは思えないほど弱い声だった。


「私が、お嬢様を……」


 膝から力が抜けた。


 床が近づいた気がした。


 けれど、革帯に引かれた手首だけが、妙に現実のものとして痛い。


 触れたあと。


 黒い霧。


 黒百合の痣。


 一週間、目を覚まさなかったアン。


 自分は、いったい何を抱えて生きてきたのか。


 熱病の痕だと思っていたものは、お嬢様を害した証だったのか。


「その判断で、十三歳の子に鞭を?」


 マリアンネの声が、低く震えていた。


 ハインリヒの表情は変わらなかった。


「年齢は関係ない。当主の娘を害した報いを受けるのは当然だ」


「原因は分からなかったのでしょう」


「だから放置しろと?」


「そうは言っていません」


「アンは一週間、目を覚まさなかった」


 ハインリヒの声が鋭くなる。


「医師は死ぬ可能性もあると言った。屋敷中が、あの子の呼吸が止まるのを恐れていた」


 一瞬、声が途切れた。


 当主の顔ではないものが、わずかに覗いた。


 娘を失いかけた父親の顔だった。


「リリア自身に覚えさせる必要があった。二度とアンへ近づいてはならないと」


 リリアは俯いた。


 覚えさせる。


 けれど、自分は何も覚えていない。


 鞭を受けたことも。


 アンが倒れたことも。


 その前に、何が起きたのかも。


 自分の知らない罰だけが、体に刻まれている。


 ハインリヒは目を伏せた。


「……結局、記憶を失ったがな」


 マリアンネの顔から血の気が引いた。


 リリアも震える顔を上げた。


 記憶。


 失った。


 その言葉が、熱病の後遺症という説明と、頭の中でぶつかりあった。


「お父様」


 マリアンネの声は低かった。


「リリアは、熱病の後遺症で記憶を失ったと」


 ハインリヒは答えなかった。


「馬場の事件の後に、何があったのですか」


「今、その話は関係ない」


「関係あります」


 マリアンネの声が、初めて大きくなった。


「では、この子は何を忘れたのですか。罪を? 罰を? それとも、この屋敷がしたことを?」


 ハインリヒの目が、鋭く娘を射た。


「黙れ、マリアンネ」


 ハインリヒとマリアンネ、父と娘の目がぶつかった。


「今は、アンを取り戻すことだけを考えろ」


 リリアの膝から、さらに力が抜けた。


 熱病。


 処分。


 記憶。


 どれが本当なのか分からない。


 けれど、一つだけ分かった。


 自分は、ただ何かを忘れたのではない。


 何かを、忘れさせられたのかもしれない。


 胸の奥で、見えない扉が軋んだ。


 開きかけているのか。


 それとも、さらに深く閉じられようとしているのか。


 リリア自身にも分からなかった。


「私は、リリアが危険かどうかを確認しろと言われました」


 マリアンネは言った。


「そうだ」


「なら、申し上げます」


 父から目を逸らさなかった。


「リリアの痣ばかりを恐れて、この屋敷がこの子にしてきたことには目を閉ざすおつもりですか」


 リリアが息を呑んだ。


「おやめください」


 小さな声だった。


 マリアンネはリリアを見る。


「リリア」


「私のことは、今は……」


 リリアは袖口を握ろうとした。


 だが、革帯に遮られ、指先が空をつかんだ。


「お嬢様を、探してください」


 その声に、マリアンネは何も言えなくなった。


 ハインリヒは長く沈黙した。


 机の上には、薄桃色のリボンがある。


 黒漆の小箱。


 名のない文。


 鋏の音。


 黒き百合を、王冠にも、石の館にも渡してはならない。


 ハインリヒは、机の上の小箱を長く見つめていた。

 

 何を恐れ、何を疑っているのか、リリアには分からなかった。


「私は、あの時の処分を誤りだったとは思っていない」


 やがて、ハインリヒは低く言った。


「ですが、何が起きたのか分からぬまま、十三歳の子へ鞭を命じた」


 マリアンネの声には、抑えきれない怒りが滲んでいた。


「アンを守るためだ」


「リリアを壊してでも?」


「必要ならば」


 ハインリヒは答えた。


 それから、ほんのわずかに言葉を切る。


「だが、今ここで、同じことをするつもりはない」


 マリアンネは父を見た。


「アンのためですか」


「アンのためだ」


 ハインリヒはリリアへ視線を向けた。


「そして、この屋敷をこれ以上、敵の望む形で動かさぬためだ」


 リリアは目を伏せた。


「リリアを果実貯蔵室へ戻せ」


「お父様」


「許可なく誰とも会わせるな」


 リリアの目が揺れた。


 ハインリヒは続ける。


「革帯は外す」


 マリアンネが父を見た。


「見張りには命じておく」


 ハインリヒは言った。


「手を上げるな。罵るな。だが、決して目を離すな」


 マリアンネは静かに答える。


「分かりました」


 ハインリヒの目が娘へ向く。


「おまえが様子を見に行け」


「私が?」


 マリアンネは小さく頷いた。


「承知しました」


 護衛が呼び戻された。


 革帯が外される。


 手首には、赤い痕が残っていた。


 リリアは袖を下ろし、震える指で釦を留めた。


 隠してしまえば、右腕はただの腕に見える。


 だが、もう以前と同じようには思えなかった。


 自分の腕の中には、自分の知らないものがある。


 そして、そのことを自分以外の者たちは、ずっと前から知っていた。


 扉へ向かう前に、リリアは机の上のリボンを見た。


 薄桃色のリボン。


 白い薔薇の刺繍。


 失踪した日の朝、香草園で笑っていた少女の顔が胸の奥に浮かぶ。


 また来るね。


 そう言った少女は、今どこにいるのか。


 リリアは声に出さず、ただ祈った。


 お嬢様。


 どうか、生きていてください。


 私のせいだと言われてもいい。


 私が何者でもいい。


 名前を呼ぶことを許されなくてもいい。


 だから、どうか。


 リボンだけではなく。


 あなた自身が、戻ってきてください。



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