第十六話 黒百合の残響
果実貯蔵室へ戻される道のりは、小広間へ向かった時よりも長く感じられた。
前を歩く護衛が一人。
後ろにも一人。
横には、マリアンネがいる。
誰も口を開かなかった。
廊下の窓の向こうで、空がわずかに白み始めている。
けれど、リリアの胸に沈んだものは、少しも明るくならなかった。
袖の上から、右腕を押さえる。
見られた。
右腕も。
背中も。
黒い痣も。
そのそばに残る、古い鞭の跡も。
必要なところだけ見るわ。
それ以上は見ない。
マリアンネは、そう言ってくれた。
それでも、見られたことに変わりはない。
自分でも知らないものを、他人の目で先に確かめられた。
熱病の後遺症だと聞かされてきた痣。
新月の夜に疼くだけだと思っていたもの。
それが、お嬢様を害した力なのか。
歩くたび、その疑いが胸の奥へ沈んでいった。
厨房奥の階段を下り、地下の廊下を進む。
果実貯蔵室の扉が開けられた。
ひやりとした空気が、足元から這い上がってくる。
古い林檎の甘い匂い。
湿った石の匂い。
壁の高いところに、外の排水溝へ続く細い換気窓が一つあるだけの部屋だった。窓には鉄格子が嵌められている。
リリアは部屋へ入った。
マリアンネは扉の外に立ったまま、しばらく動かなかった。
「食事と水を運ばせるわ」
「はい」
「具合が悪くなったら、見張りに言いなさい」
「……はい」
マリアンネの唇が、わずかに動いた。
けれど、それ以上の言葉は続かなかった。
護衛が扉へ手をかける。
「失礼いたします」
扉が閉じられた。
鉄の掛け金が下ろされる。
続いて、錠がかかった。
がちゃん。
その音が、胸の奥へ落ちた。
また、閉じ込められた。
リリアは壁へ手をついた。
けれど体を支えきれず、その場へ座り込んだ。
石床の冷たさが、手のひらから伝わってくる。
誰とも会わせるな。
ハインリヒの声が、まだ耳の奥に残っていた。
リリアは震える指で袖を上げた。
右腕には、黒い線が浮かんでいる。
手首から肘へ。
肘から衣の下へ潜り込み、肩を越えて背中まで続いている。
自分の腕に咲いているのに、自分のものではないように見えた。
「……私が」
小広間で聞かされた言葉が、頭の中によみがえる。
リリアが触れたあと、アンは倒れた。
黒い霧に包まれ、一週間、目を覚まさなかった。
その直後、リリアの体には黒百合の痣が現れた。
屋敷は、リリアの力がアンを害したと判断した。
「私が、お嬢様を……」
右腕が熱を持った。
リリアは反射的に腕を抱え込む。
違う。
「違う、私は……」
何が違うのか、自分でも分からなかった。
傷つけるつもりはなかった。
そう言いたかったのか。
本当は触れていないのだと、願いたかったのか。
それとも、触れたけれど、助けようとしたのだと信じたかったのか。
分からない。
何も覚えていない。
覚えていない自分が、いちばん怖かった。
「アン様……」
声にしたあとで、リリアは息を止めた。
呼んでしまった。
禁じられている、その名を。
その瞬間、右腕の痣が焼けるように熱を持った。
「――っ」
視界の端が白く揺れた。
石壁が遠ざかる。
古い林檎の匂いが薄れ、代わりに乾いた土と馬の汗の匂いが鼻を刺した。
激しい嘶き。
地面を叩く蹄。
白い光の中で、金色の髪が宙へ投げ出される。
小さな手。
考えるより先に、自分の手が伸びていた。
誰かが叫ぶ。
触れるな。
その子に触れるな。
黒い霧が、伸ばした腕から溢れた。
細い蔓のように見えた霧が、白い手へ絡みつき、少女の体を包んでいく。
薄青い瞳が見開かれた。
金色の髪が地面へ広がる。
「やだ……」
リリアの喉から、自分でも知らない声が漏れた。
「違う……違う……!」
少女を傷つけようとしたのではない。
けれど、その続きが思い出せない。
何を守ろうとしたのか。
黒い霧が何をしたのか。
記憶はそこで砕け、別の景色へ変わった。
窓のない石室。
低い灯り。
布で覆われた右腕は、革帯で体の横へ固定されている。
壁際には、剣を抜いた騎士が二人。
老執事は帳面を開き、ジューンは離れたところに立っていた。
背後で、革が小さく鳴った。
革鞭が空気を裂いた。
「一」
少し遅れて、羽根ペンが帳面を擦った。
かり。
自分の痛みが、文字になっていく。
「二」
また、革の音。
「三」
数字だけが積み重なっていく。
どこからが次の痛みで、どこまでが前の痛みなのか、もう分からなかった。
リリアは石床の黒い染みを見つめていた。
泣いてはいけない。
動いてはいけない。
アンを害した者が、痛がってはいけない。
「申し訳ございません」
十三歳の自分が謝っていた。
何を謝ればよいのかも分からないまま。
「七」
その声のあと、短い沈黙が落ちた。
「これ以上は危険です」
息を吸おうとしても、胸が動かない。
けれど、命令は変わらなかった。
「意識はある。続けろ」
「八」
「九」
声が遠ざかっていく。
「十」
そこで、革の音が止まった。
部屋の空気が張りつめる。
ほんの一瞬だけ、終わるのだと思った。
「残りを」
低い声が、希望を切り落とした。
「十一」
十三歳の口が、何度も同じ言葉を繰り返す。
申し訳ございません。
申し訳ございません。
アン。
その名を心の中で呼んだ途端、急に恐ろしくなった。
もう、同じようには呼べない。
そんな気がした。
アン様。
アン様。
最後の音が落ちた。
「十二」
羽根ペンが、帳面に最後の印をつける。
かり。
それで終わった。
許されたわけではない。
お嬢様が目を覚ましたわけでもない。
ただ、十二という数が終わっただけだった。
靴音が近づいてくる。
――今後、アンを名で呼ぶことを禁じる。
鞭より深いところへ、その言葉が刺さった。
――おまえはもう、あの子の隣に立つ者ではない。
「申し訳ございません」
十三歳の声が、また謝る。
「申し訳……ございません」
今のリリアの口からも、同じ言葉が漏れていた。
気づいた時には、果実貯蔵室の床へ両手をついていた。
背中が熱い。
もう癒えたはずの古い傷が、今、鞭を受けたかのように疼いている。
腰が震える。
膝に力が入らない。
石室の匂いは消え、古い林檎の甘い匂いが戻っていた。
それでも耳の奥では、まだ音がしている。
革が空気を裂く音。
数字を読む声。
羽根ペンが紙を擦る音。
「申し訳ございません……アン様……」
喉が詰まった。
名前を呼んではいけない。
謝ることさえ、許しを求めているようで怖かった。
自分は何をしたのか。
本当に、あの小さな体を倒したのか。
黒百合は、自分の腕から溢れたのか。
それなら、この腕は何なのか。
自分は何なのか。
人なのか。
罪なのか。
誰かが閉じ込めておくべきものなのか。
リリアは額を石床へつけた。
冷たさが、少しだけ背中の熱を奪っていく。
けれど、恐怖は消えなかった。
まだ石室にいる気がした。
まだ背後で革が鳴る気がした。
十三歳の自分の声が、今の声と重なっている。
申し訳ございません。
申し訳ございません。
頭の中で、何度も同じ言葉が崩れていく。
こつ。
壁の高いところで、小さな音がした。
リリアは反応できなかった。
額を石床へつけたまま、荒い息だけが喉を擦っている。
こつ。
今度は、少し強かった。
リリアはゆっくりと顔を上げた。
外の排水溝へ続く、細い換気窓。
鉄格子の向こうに、白い朝霧が滲んでいた。




