第十七話 生きていろ
「……リリア」
低い声が、換気窓から落ちてきた。
顔は見えない。
けれど、その声で分かった。
リリアの心臓が跳ねた。
「シリル、さん……?」
「声を落とせ」
短い声。
いつものように無駄がない。
けれど、その硬さの奥に、かすかな焦りが滲んでいた。
リリアは壁へ手をついた。
窓は高い。
声のする場所へ近づこうと立ち上がる。
「立つな」
シリルが言った。
リリアは動きを止めた。
その言葉で、自分の膝がまだ震えていることに気づいた。
「そこにいろ」
シリルの声が、細い換気窓から落ちてくる。
「息」
リリアは瞬きをした。
「え……」
「息をしろ」
言われて初めて、自分がうまく呼吸できていないことに気づいた。
喉が狭い。
胸が痛い。
吸おうとすると、石室の空気まで一緒に入ってくる気がする。
「吸え」
シリルの声が、もう一度落ちた。
「ゆっくり」
リリアは言われたとおりに息を吸おうとした。
けれど、途中で喉が震え、咳のような音が漏れる。
「無理に深く吸うな」
シリルは低く言った。
「少しでいい」
少し。
リリアは冷たい床へ手をついたまま、浅く息を吸った。
吐く。
また吸う。
右腕が熱い。
背中が熱い。
古い傷のはずなのに、今もそこへ革が落ちてきそうだった。
「今、どこが痛む」
「右腕と……背中が」
「痣か」
「分かりません」
声が震えた。
「……背中を、打たれたような……」
換気窓の向こうで、シリルが一瞬黙った。
何かを押し殺すような、短い呼吸が聞こえた。
「待て」
石の向こうで、布の擦れる音がする。
やがて細い紐が、換気窓から垂れてきた。
その先に、小さな布包みが結ばれている。
「受け取れ」
布包みは、床へ届くぎりぎりのところまで下ろされた。
リリアは膝をついたまま、震える手を伸ばした。
指が湿った布へ触れた。
中には冷えた薬草が包まれている。
青く、鋭い香り。
熱を鎮める葉。
香草室で何度も触れたことのある匂いだった。
「右腕に当てろ」
「……ありがとうございます」
「早く」
リリアは袖を少しめくり、痣の上へ布包みを当てた。
冷たさが、焼けるような熱へ触れる。
痛みが一度強く跳ね、それから少しずつ沈んでいった。
リリアは震えながら息を吐いた。
「どうして、ここに」
「……外の排水溝までは見張られてない」
シリルが言った。
「排水溝……」
「庭師見習いが詰まりを調べていても、誰も気にしない」
「気にします」
「少しはな」
シリルは淡々と答えた。
「だから、堂々と排水溝を調べてる」
いつもの調子が、ほんの少しだけ戻った。
リリアは泣きそうになった。
泣いている場合ではないのに。
怖くて、痛くて、何も分からないのに。
シリルの短い返事だけで、地下の壁が少し遠ざかる。
「シリルさん」
「何だ」
「私に近づくと、危険です」
「知ってる」
「疑われます」
「もう疑われてる」
「私が黒百合なら」
「なら?」
シリルの声が、少しだけ低くなった。
「お前は俺を傷つけるのか」
リリアは息を止めた。
「そんなこと、したくありません」
「なら、今はそれでいい」
「でも、したくなくても……」
白い小さな手。
金色の髪。
黒い線。
崩れ落ちる体。
記憶の断片が、また胸を刺した。
「したくなくても、傷つけるかもしれません」
声が震えた。
「私が、知らないうちに」
シリルは黙った。
その沈黙が怖かった。
否定してほしい。
けれど、簡単に否定されるのも怖い。
やがて、シリルは低く言った。
「だったら、俺が見てる」
リリアは換気窓を見上げた。
「何を……」
「俺が止める」
あまりにも当然のように言った。
リリアは、布包みを右腕へ押し当てたまま、うつむいた。
「私は、心配されるような者ではありません」
「それを決めるのは、お前じゃない」
「でも」
「俺だ」
短い声だった。
リリアは何も言えなかった。
胸の奥が痛い。
さっきまでの痛みとは違う。
怖いのに、温かい。
苦しいのに、息ができる。
「お前の名を使った手紙があったと聞いた」
シリルが言った。
「リリアの名で、お嬢様を呼び出したと」
「……はい」
「お前の名を使って、あの子を動かした奴がいる」
「私のせいです」
「違う」
即座に返ってきた。
リリアは肩を震わせる。
「違う。お前の名前を勝手に使った奴の罪だ」
「でも、お嬢様は私の名だから」
「違う」
シリルは遮った。
「お前が書いたんじゃない。お前が呼んだんじゃない」
リリアの目に涙が滲んだ。
そんな言葉を、誰かに言ってほしかったのかもしれない。
自分でも気づかないほど、ずっと。
「でも、三年前は」
「三年前のことも、放っておかない」
「どうして」
「お前が全部、自分の罪にして潰れそうな声をしてるからだ」
リリアは息を呑んだ。
シリルの声は乱暴だった。
けれど、その乱暴さの奥には怒りがある。
リリアへ向けた怒りではない。
リリアをそうさせたものへ向けた怒りだった。
「お前は、謝りすぎる」
シリルが言った。
「……すみま」
「それだ」
リリアは口を閉じた。
換気窓の向こうで、シリルが小さく息を吐く気配がした。
「何でも自分のせいにして謝るな」
「分かりません」
「何が」
「どこからが、私のせいではないのか」
その言葉は、リリア自身の胸にも刺さった。
本当に分からなかった。
アンが倒れたこと。
リリアの名の手紙で、アンが外へ出たこと。
屋敷が混乱していること。
どこまでが自分のせいで、どこからが違うのか。
境目が見えない。
「なら、覚えておけ」
シリルが言った。
「お前が自分で選んでいないことまで、背負うな」
「選んでいないこと……」
「手紙も、記憶も、その痣も、お前が望んだことじゃない」
リリアの指が震えた。
「お前が選んだことじゃない」
涙が落ちた。
布包みに一滴、染み込む。
リリアは慌てて拭おうとした。
「声を殺せ。見張りに聞こえる」
リリアは小さく頷いた。
涙を拭わず、ただ嗚咽を押し殺す。
泣いているのに、少しだけ楽になった。
泣いても、責められなかったから。
扉の外で、見張りの足音が動いた。
リリアは布包みを握ったまま、呼吸を止めた。
足音が近づく。
鍵は開かない。
扉の前で、護衛が誰かと短く言葉を交わしている。
心臓の音がうるさい。
やがて、足音が遠ざかった。
「もう長くは無理だ」
シリルが言った。
「はい」
「右腕は冷やし続けろ」
「はい」
「無理に思い出すな」
リリアは窓を見上げた。
「でも、思い出さなければ、お嬢様を」
「壊れたら探せない」
シリルの声は短かった。
「生きている方が先だ」
リリアは唇を噛んだ。
「生きていて、いいのでしょうか」
口にしてから、自分でも驚いた。
シリルの気配が止まった。
「もう一度言ったら怒る」
低い声だった。
リリアは目を伏せる。
「……はい」
「お前は生きていろ」
命令のような声だった。
けれど、ハインリヒの命令とは違う。
押さえつけるためではなく、暗い場所から引き戻すための声だった。
「ここで潰れるな」
「はい」
「もう行く」
シリルが言った。
リリアは窓を見上げた。
高くて、触れることはできない。
姿も見えない。
けれど、そこにいることは分かった。
やがて、気配が遠ざかっていった。
リリアは石床へ座り込んだまま、しばらく動けなかった。
右腕には、冷えた薬草の感触。
耳の奥には、まだ鞭の音が残っている。
けれど、その上へシリルの声が重なった。
お前は生きていろ。
リリアは薬草の布を、右腕へ当て直した。
石室の音は消えない。
アンが倒れる記憶も消えない。
自分が何者なのかも、まだ分からない。
それでも。
少し息ができた。
地下の果実貯蔵室に、朝の光は届かない。
リリアは、窓の向こうに残る白い霧を見上げた。
そこにはまだ、シリルの声が残っているようだった。




