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第十八話 届かなかった言葉、残された記憶

その若い騎士は、石室の扉脇に立っていた。


 護衛隊の命令系統まで利用された事件だ。何を見るべきか。何を疑うべきか。その目で覚えろ――ヨーゼフの言葉が脳裏をよぎる。


 重い扉が開いた。


 護衛に挟まれ、クララが入ってくる。


 濃紺の侍女服を着ていたが、前掛けも髪留めもない。栗色の巻き毛はほどけ、青ざめた頬へ張りついていた。


 両手は背で縛られている。


 縄はすでに手首へ食い込み、白い袖口に赤い染みが浮かんでいた。


 アンを一人にした侍女。


 イザベラが出していない呼び札を受け取ったと主張し、その証拠を何一つ示せない娘。


 共犯者である可能性は、否定できない。


 若い騎士は、そう考えながらクララを見ていた。



 クララは、長机の前に置かれた背の低い椅子へ座らされた。


 背へ回された縄が、椅子の横木へ結びつけられる。


 護衛が結び目を引くと、クララの身体が僅かに反った。


 机の上には、燭台が一つだけ置かれていた。


 炎の位置は低い。


 光はクララの顔を正面から照らし、机の向こう側を暗がりへ沈めている。


 青ざめた頬も。


 涙の跡も。


 噛みしめた唇も。


 何ひとつ隠すことなどできない。


 机の向こうにはヨーゼフ。


 その背後にハインリヒ。


 少し離れた場所で、オットーが黒い帳面を開いている。


 机の端には、リリア名義の手紙が置かれていた。


 クララから読める向きだった。


「私を見て答えろ」


 ヨーゼフが言った。


 クララが唇を噛んで顔を上げた。


「同じことを、形を変えて何度も聞く。答えが変われば、その理由も答えろ。事実を隠したと判断すれば、証人ではなく共犯者として記録する」


「……はい」


「おまえはアン様の部屋を離れた」


「はい」


「なぜだ」


「奥様からの呼び札が届いたからです」


「届けた者は」


「見ておりません」


「札も盆も残っていない」


「はい」


「札があったという証拠は、おまえの言葉だけだ」


「本当にありました」


「扉は何度叩かれた」


「二度です」


「札の紐は」


「淡い青でした。二重に巻かれ、片方だけ短く残されていました」


「その結び方は、誰に教わった」


 クララの喉が動いた。


「エリーズ様です」


 オットーの羽根ペンが止まる。


「アン様付きになった頃です。奥様からの急ぎ札は見落としてはならないと、教えていただきました」


「だから本物だと信じた」


「はい」


「アン様へ告げたか」


「いいえ」


「見張りへ確かめたか」


「いいえ」


「呼び鈴は」


「使っておりません」


「なぜだ」


「すぐに戻れると思いました」


「思った。信じた。確かめなかった」


 クララの目から涙が落ちた。


「申し訳ございません」


「謝罪は要らない」


 低い声が石室へ沈んだ。


「戻った時、アン様は」


「寝台におられると思いました」


「姿を見たのか」


「いいえ。帳が閉じられ、掛け布の下に人の形が見えました」


「返事は」


「ありませんでした。ですが、お一人になりたいのだと思って……」


「また、思った」


「……はい」


「それから」


「明朝のお召し物と髪飾りを用意しました。最後に灯りを消そうとして寝台へ近づき、アン様がいないことに気づきました」


「寝台には何があった」


「長い枕と、丸めた上掛けです。頭の位置には、アン様の夜用の髪布が置かれていました」


「誰が作った」


「アン様だと思います」


「なぜだ」


「不在に気づかれるのを、少しでも遅らせようとなさったのだと思います」


 クララは声を詰まらせた。


「……私が気づけば、人を呼び、お探しすると分かっておられたので」


 ヨーゼフが机の手紙へ指を置いた。


「読め」


 クララは手紙へ目を落とした。


「アン様。奥様のお叱りを受けました。もうここに居られないかもしれません。怖くて、誰を頼ればいいのか分かりません。真夜中に、私たちの秘密の場所に来てください。お一人で。お願いです」


 最後に、リリアの名があった。


「秘密の場所を知っているか」


「いいえ」


「存在は」


「聞いたことがございます」


「いつだ」


「私がアン様付きになって、間もない頃です」


 クララが答えた。


「アン様が、以前リリアと二人だけで使っていた場所が庭にあると、お話しになりました」


「場所を尋ねたか」


「はい。ですが、リリアと二人だけの秘密だから教えないと」


「ほかに知っている者は」


「分かりません」


「エリーズは」


「分かりません」


 ハインリヒが初めて口を開いた。


「この手紙を書いた者は、昔のアンとリリアの関係を知っている」


「ただし」


 オットーが静かに補う。


「秘密の場所そのものまで知っていたとは限りません」


 ハインリヒは僅かに頷いた。


「手紙は机の引き出しから見つかった」


 ヨーゼフが尋問を続ける。


「アン様が入れるところを見たか」


「紙を読んでおられる姿は見ました。私が近づくと、机の陰へ隠されました」


「その前に部屋へ入った者は」


 クララの指が強く曲がった。


「……エリーズ様です」


「何の用で」


「奥様のお部屋へ届ける香草瓶を確認したいと」


「どこに立った」


「アン様の机のそばです」


「何を話した」


「聞いておりません。棚から香草瓶を取るよう頼まれ、背を向けました」


「振り返った時は」


「アン様が、何かを机の下へ隠されました」


「なぜ確かめなかった」


「子どもらしい秘密だと思って……」


「エリーズが手紙を渡したところを見たか」


「いいえ」


「アン様が受け取るところは」


「見ておりません」


「だが、エリーズが机のそばに立ち、おまえが振り返ると、アン様は紙を隠した」


「はい」


 ヨーゼフが護衛へ目配せした。


 椅子へ固定された縄が、一段高い横木へ掛け直される。


 クララの両腕が後ろへ持ち上がった。


「あ……っ」


 身体が前へ傾く。


 縄が傷口へ食い込み、袖口の赤い染みが広がった。


 燭台の光が、苦痛に歪むクララの顔を容赦なく照らしている。


「もう一度聞く」


 ヨーゼフの声は変わらなかった。


「エリーズが手紙を渡したのか」


「見て……おりません」


「渡したと思うか」


「分かりません」


「エリーズが渡したと言えば、おまえへの疑いは薄くなる」


 クララは浅い呼吸を繰り返した。


「それでも……見ていないことは言えません」


「おまえを陥れた者かもしれない」


「それでもです」


「誰かを庇っているのか」


「いいえ」


「ならば、誰が札を置いた」


「知りません」


「誰がアン様を連れ去った」


「知りません!」


「名前を言え」


「……分かりません。言えません!」


 悲鳴のようなクララの声が石壁へ跳ね返った。


 ヨーゼフが片手を上げる。


 縄が元の位置へ戻され、クララは椅子へ身体を預けた。


 それでも取調べは終わらなかった。


 誰から命じられた。


 誰に札の決まりを話した。


 見張りが持ち場を離れることを知っていたか。


 東廊下の護衛と示し合わせていたのか。


 エリーズと共謀したのか。


 問いは形を変え、半刻近く続いた。


 途中で水を与えられても。


 結び目を改められても。


 答えは変わらなかった。


 知らない。


 見ていない。


 誰からも命じられていない。


 やがて、ヨーゼフが壁際へゆっくりと視線を向けた。


 クララの目も、怯えながらその先を追った。


 鉄の道具台には、細く編まれた革鞭や、使い込まれて硬くなった幅広の拘束帯が掛けられていた。


 その下には、手首や足首を挟むための鉄製の枷が並んでいる。二つの半円形の金具を太い蝶番で閉じ、螺子を回して締める形だった。


 縁には幾重もの擦り傷が残り、洗い落としきれない黒ずみが、金具の溝へこびりついている。


 クララの浅かった呼吸が、一度止まった。


 指先が震え、爪が横木を掻いた。手首が、無意識に縄から逃れようと動いた。


 僅かに身じろぎしただけで、縄が傷口へ食い込んだのだろう。


 クララの口からうめき声がもれた。


 唇を閉じようとしたが、歯の触れ合う小さな音を止めることはできなかった。


「今、すべて話した方が楽に済むぞ」


 ヨーゼフが言った。


「次にここへ呼ぶ時は、今日のようには済まない」


 クララの視線が、もう一度、道具台へ動いた。


「東廊下の護衛が共犯だったと言えば、おまえの責任は軽くなる」


「……言えません」


 頬を伝った涙が、唇を濡らした。


「自分が地下牢へ入れられてもか」


 顔から血の気を失いながら、それでもヨーゼフのいる暗がりへ顔を向ける。


「……自分が助かるために、知らない人を……罪人にはできません」


 燭台の炎が揺れた。


 クララの瞳が、その時だけは、まっすぐヨーゼフを捉えた。


 若い騎士は、その顔に嘘を探した。


 だが、目の前の娘は強く見せようとしていなかった。


 身体は震え、呼吸は乱れ、道具台を見ただけで怯えを隠せないでいる。


 それでも、自分を救うための言葉を選ばなかった。


「最後に聞く」


 ヨーゼフが言った。


「誰がアン様を連れ去った」


「知りません」


 声は掠れきっていた。


 それでもクララは俯かなかった。


「ですが、私はアン様を裏切っておりません」


 長い沈黙が落ちた。


「記録しろ」


 ヨーゼフが言った。


 オットーの羽根ペンが動く。


「証人は共犯者、指示者の存在を一貫して否定。エリーズの訪室と机への接近を証言。ただし、手紙の受け渡しは目撃せず。東廊下の護衛との関与も否定」


 記録へ残るのは、それだけだった。


 だが、若い騎士は見ていた。



 クララが護衛に支えられ、石室の外へ出された。


 扉が閉じる。


 ハインリヒが尋ねた。


「共犯の可能性は」


「低いかと」


 ヨーゼフは答えた。


「痛みに耐えたからではありません。自分に有利な虚偽を、最後まで拒みました」


「用意した証言を守った可能性は」


「身辺も調べています。借財も前借りもない。不審な金品も、外部との文通も確認されていません」


 オットーが帳面へ目を落とした。


「作られた証言なら、エリーズの訪室自体を隠すか、すべてをエリーズの仕業として断定するはずです。クララは、見た事実だけを話しました」


「おまえはどう見た」


 ヨーゼフが若い騎士へ尋ねた。


 若い騎士は姿勢を正した。


「共犯者には見えませんでした」


「理由は」


「自分が見たことと、推測しかできないことの境を守っていました。自分に不利でも、その境を動かしませんでした」


「情を移したか」


 ハインリヒが問う。


「いいえ」


 若い騎士は即座に答えた。


「証言の姿勢を申し上げました」


 ヨーゼフが僅かに頷く。


「札を確かめず、アンを一人にした過失はある」


 ハインリヒが言った。


「はい」


「だが、娘を売った者ではない」


「その可能性は、まず低いでしょう」


 ヨーゼフが答えた。


「ならば使える」


 ハインリヒが続けた。


「地下牢へ移せ。屋敷には、クララが関与を認めたと流す。共犯者がいると認め、すでに一人の名を挙げた、と」


「囮にするおつもりですか」


 オットーが尋ねる。


「犯人は、クララが何を見たか知らない」


 ハインリヒの指が、手紙の「秘密の場所」という文字へ触れた。


「自分の名が出たかもしれないと思わせる」


「クララには」


「知らせるな」


 ヨーゼフが若い騎士に命じた。


「おまえが地下牢まで護送しろ。手首と肩は、先に治療役へ診せろ」


「承知しました」


「牢へ入れたあとは、口封じと自害に警戒しろ。」


 ハインリヒが付け加えた。


 ヨーゼフが続ける。


「看守を一人にするな。交代の時刻も記録させろ」


「承知しました」



 石室の外で、クララは壁へ身体を預けていた。


 腕を動かせないらしく、指先まで力なく垂れている。


 年嵩の護衛が身体を起こそうとした。


「手首は避けてください」


 若い騎士が言った。


「傷が開いています。私が脇から支えます」


 年嵩の護衛は場所を譲った。


 若い騎士はクララの脇へ腕を入れる。


 その体は、まだ小刻みに震えていた。


「立てますか」


 クララが初めて、まっすぐ彼を見た。


 その瞳に、怯えとも羞恥ともつかないものが揺れた。


「……はい」


 一度では立ち上がれなかった。


 若い騎士は急かさず、クララが自分の足へ力を戻すまで支えた。


 地下牢へ続く階段を下りる。


 途中で足がもつれるたび、転ばないよう肩の下を支えた。


 無実だとは言えない。


 ただ、この娘が石室で守ったものを、忘れてはならないと思った。


 鉄格子の前には、女性騎士が二人待っていた。


「先に手当てを」


 若い騎士が告げる。


「ヨーゼフ隊長の命令です。手首と肩を診せたあと、衣服を検めてください」


「承知しました」


「食事と水は必ず二人で運ぶ。看守の交代時刻と、近づいた者の名をすべて記録してください」


「口封じへの警戒ですか」


「それだけではありません」


「刃物、紐、薬、筆記具。自害に使える物も残さないように」


 若い騎士はクララを見た。


 クララの瞳に感情の色は見えなかった。


 女性騎士へ引き渡し、若い騎士は踵を返しかけた。


「騎士様」


 背後から、掠れた声がした。


 振り返る。


 クララは何かを言おうとして、結局、唇を閉じた。


 若い騎士も、何も尋ねなかった。


 その夜、彼の胸に残ったのは、縛られた侍女の涙ではなかった。


 恐怖と痛みの中でも、他人を身代わりにしなかった、その姿だった。



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