第十八話 届かなかった言葉、残された記憶
その若い騎士は、石室の扉脇に立っていた。
護衛隊の命令系統まで利用された事件だ。何を見るべきか。何を疑うべきか。その目で覚えろ――ヨーゼフの言葉が脳裏をよぎる。
重い扉が開いた。
護衛に挟まれ、クララが入ってくる。
濃紺の侍女服を着ていたが、前掛けも髪留めもない。栗色の巻き毛はほどけ、青ざめた頬へ張りついていた。
両手は背で縛られている。
縄はすでに手首へ食い込み、白い袖口に赤い染みが浮かんでいた。
アンを一人にした侍女。
イザベラが出していない呼び札を受け取ったと主張し、その証拠を何一つ示せない娘。
共犯者である可能性は、否定できない。
若い騎士は、そう考えながらクララを見ていた。
◆
クララは、長机の前に置かれた背の低い椅子へ座らされた。
背へ回された縄が、椅子の横木へ結びつけられる。
護衛が結び目を引くと、クララの身体が僅かに反った。
机の上には、燭台が一つだけ置かれていた。
炎の位置は低い。
光はクララの顔を正面から照らし、机の向こう側を暗がりへ沈めている。
青ざめた頬も。
涙の跡も。
噛みしめた唇も。
何ひとつ隠すことなどできない。
机の向こうにはヨーゼフ。
その背後にハインリヒ。
少し離れた場所で、オットーが黒い帳面を開いている。
机の端には、リリア名義の手紙が置かれていた。
クララから読める向きだった。
「私を見て答えろ」
ヨーゼフが言った。
クララが唇を噛んで顔を上げた。
「同じことを、形を変えて何度も聞く。答えが変われば、その理由も答えろ。事実を隠したと判断すれば、証人ではなく共犯者として記録する」
「……はい」
「おまえはアン様の部屋を離れた」
「はい」
「なぜだ」
「奥様からの呼び札が届いたからです」
「届けた者は」
「見ておりません」
「札も盆も残っていない」
「はい」
「札があったという証拠は、おまえの言葉だけだ」
「本当にありました」
「扉は何度叩かれた」
「二度です」
「札の紐は」
「淡い青でした。二重に巻かれ、片方だけ短く残されていました」
「その結び方は、誰に教わった」
クララの喉が動いた。
「エリーズ様です」
オットーの羽根ペンが止まる。
「アン様付きになった頃です。奥様からの急ぎ札は見落としてはならないと、教えていただきました」
「だから本物だと信じた」
「はい」
「アン様へ告げたか」
「いいえ」
「見張りへ確かめたか」
「いいえ」
「呼び鈴は」
「使っておりません」
「なぜだ」
「すぐに戻れると思いました」
「思った。信じた。確かめなかった」
クララの目から涙が落ちた。
「申し訳ございません」
「謝罪は要らない」
低い声が石室へ沈んだ。
「戻った時、アン様は」
「寝台におられると思いました」
「姿を見たのか」
「いいえ。帳が閉じられ、掛け布の下に人の形が見えました」
「返事は」
「ありませんでした。ですが、お一人になりたいのだと思って……」
「また、思った」
「……はい」
「それから」
「明朝のお召し物と髪飾りを用意しました。最後に灯りを消そうとして寝台へ近づき、アン様がいないことに気づきました」
「寝台には何があった」
「長い枕と、丸めた上掛けです。頭の位置には、アン様の夜用の髪布が置かれていました」
「誰が作った」
「アン様だと思います」
「なぜだ」
「不在に気づかれるのを、少しでも遅らせようとなさったのだと思います」
クララは声を詰まらせた。
「……私が気づけば、人を呼び、お探しすると分かっておられたので」
ヨーゼフが机の手紙へ指を置いた。
「読め」
クララは手紙へ目を落とした。
「アン様。奥様のお叱りを受けました。もうここに居られないかもしれません。怖くて、誰を頼ればいいのか分かりません。真夜中に、私たちの秘密の場所に来てください。お一人で。お願いです」
最後に、リリアの名があった。
「秘密の場所を知っているか」
「いいえ」
「存在は」
「聞いたことがございます」
「いつだ」
「私がアン様付きになって、間もない頃です」
クララが答えた。
「アン様が、以前リリアと二人だけで使っていた場所が庭にあると、お話しになりました」
「場所を尋ねたか」
「はい。ですが、リリアと二人だけの秘密だから教えないと」
「ほかに知っている者は」
「分かりません」
「エリーズは」
「分かりません」
ハインリヒが初めて口を開いた。
「この手紙を書いた者は、昔のアンとリリアの関係を知っている」
「ただし」
オットーが静かに補う。
「秘密の場所そのものまで知っていたとは限りません」
ハインリヒは僅かに頷いた。
「手紙は机の引き出しから見つかった」
ヨーゼフが尋問を続ける。
「アン様が入れるところを見たか」
「紙を読んでおられる姿は見ました。私が近づくと、机の陰へ隠されました」
「その前に部屋へ入った者は」
クララの指が強く曲がった。
「……エリーズ様です」
「何の用で」
「奥様のお部屋へ届ける香草瓶を確認したいと」
「どこに立った」
「アン様の机のそばです」
「何を話した」
「聞いておりません。棚から香草瓶を取るよう頼まれ、背を向けました」
「振り返った時は」
「アン様が、何かを机の下へ隠されました」
「なぜ確かめなかった」
「子どもらしい秘密だと思って……」
「エリーズが手紙を渡したところを見たか」
「いいえ」
「アン様が受け取るところは」
「見ておりません」
「だが、エリーズが机のそばに立ち、おまえが振り返ると、アン様は紙を隠した」
「はい」
ヨーゼフが護衛へ目配せした。
椅子へ固定された縄が、一段高い横木へ掛け直される。
クララの両腕が後ろへ持ち上がった。
「あ……っ」
身体が前へ傾く。
縄が傷口へ食い込み、袖口の赤い染みが広がった。
燭台の光が、苦痛に歪むクララの顔を容赦なく照らしている。
「もう一度聞く」
ヨーゼフの声は変わらなかった。
「エリーズが手紙を渡したのか」
「見て……おりません」
「渡したと思うか」
「分かりません」
「エリーズが渡したと言えば、おまえへの疑いは薄くなる」
クララは浅い呼吸を繰り返した。
「それでも……見ていないことは言えません」
「おまえを陥れた者かもしれない」
「それでもです」
「誰かを庇っているのか」
「いいえ」
「ならば、誰が札を置いた」
「知りません」
「誰がアン様を連れ去った」
「知りません!」
「名前を言え」
「……分かりません。言えません!」
悲鳴のようなクララの声が石壁へ跳ね返った。
ヨーゼフが片手を上げる。
縄が元の位置へ戻され、クララは椅子へ身体を預けた。
それでも取調べは終わらなかった。
誰から命じられた。
誰に札の決まりを話した。
見張りが持ち場を離れることを知っていたか。
東廊下の護衛と示し合わせていたのか。
エリーズと共謀したのか。
問いは形を変え、半刻近く続いた。
途中で水を与えられても。
結び目を改められても。
答えは変わらなかった。
知らない。
見ていない。
誰からも命じられていない。
やがて、ヨーゼフが壁際へゆっくりと視線を向けた。
クララの目も、怯えながらその先を追った。
鉄の道具台には、細く編まれた革鞭や、使い込まれて硬くなった幅広の拘束帯が掛けられていた。
その下には、手首や足首を挟むための鉄製の枷が並んでいる。二つの半円形の金具を太い蝶番で閉じ、螺子を回して締める形だった。
縁には幾重もの擦り傷が残り、洗い落としきれない黒ずみが、金具の溝へこびりついている。
クララの浅かった呼吸が、一度止まった。
指先が震え、爪が横木を掻いた。手首が、無意識に縄から逃れようと動いた。
僅かに身じろぎしただけで、縄が傷口へ食い込んだのだろう。
クララの口からうめき声がもれた。
唇を閉じようとしたが、歯の触れ合う小さな音を止めることはできなかった。
「今、すべて話した方が楽に済むぞ」
ヨーゼフが言った。
「次にここへ呼ぶ時は、今日のようには済まない」
クララの視線が、もう一度、道具台へ動いた。
「東廊下の護衛が共犯だったと言えば、おまえの責任は軽くなる」
「……言えません」
頬を伝った涙が、唇を濡らした。
「自分が地下牢へ入れられてもか」
顔から血の気を失いながら、それでもヨーゼフのいる暗がりへ顔を向ける。
「……自分が助かるために、知らない人を……罪人にはできません」
燭台の炎が揺れた。
クララの瞳が、その時だけは、まっすぐヨーゼフを捉えた。
若い騎士は、その顔に嘘を探した。
だが、目の前の娘は強く見せようとしていなかった。
身体は震え、呼吸は乱れ、道具台を見ただけで怯えを隠せないでいる。
それでも、自分を救うための言葉を選ばなかった。
「最後に聞く」
ヨーゼフが言った。
「誰がアン様を連れ去った」
「知りません」
声は掠れきっていた。
それでもクララは俯かなかった。
「ですが、私はアン様を裏切っておりません」
長い沈黙が落ちた。
「記録しろ」
ヨーゼフが言った。
オットーの羽根ペンが動く。
「証人は共犯者、指示者の存在を一貫して否定。エリーズの訪室と机への接近を証言。ただし、手紙の受け渡しは目撃せず。東廊下の護衛との関与も否定」
記録へ残るのは、それだけだった。
だが、若い騎士は見ていた。
◆
クララが護衛に支えられ、石室の外へ出された。
扉が閉じる。
ハインリヒが尋ねた。
「共犯の可能性は」
「低いかと」
ヨーゼフは答えた。
「痛みに耐えたからではありません。自分に有利な虚偽を、最後まで拒みました」
「用意した証言を守った可能性は」
「身辺も調べています。借財も前借りもない。不審な金品も、外部との文通も確認されていません」
オットーが帳面へ目を落とした。
「作られた証言なら、エリーズの訪室自体を隠すか、すべてをエリーズの仕業として断定するはずです。クララは、見た事実だけを話しました」
「おまえはどう見た」
ヨーゼフが若い騎士へ尋ねた。
若い騎士は姿勢を正した。
「共犯者には見えませんでした」
「理由は」
「自分が見たことと、推測しかできないことの境を守っていました。自分に不利でも、その境を動かしませんでした」
「情を移したか」
ハインリヒが問う。
「いいえ」
若い騎士は即座に答えた。
「証言の姿勢を申し上げました」
ヨーゼフが僅かに頷く。
「札を確かめず、アンを一人にした過失はある」
ハインリヒが言った。
「はい」
「だが、娘を売った者ではない」
「その可能性は、まず低いでしょう」
ヨーゼフが答えた。
「ならば使える」
ハインリヒが続けた。
「地下牢へ移せ。屋敷には、クララが関与を認めたと流す。共犯者がいると認め、すでに一人の名を挙げた、と」
「囮にするおつもりですか」
オットーが尋ねる。
「犯人は、クララが何を見たか知らない」
ハインリヒの指が、手紙の「秘密の場所」という文字へ触れた。
「自分の名が出たかもしれないと思わせる」
「クララには」
「知らせるな」
ヨーゼフが若い騎士に命じた。
「おまえが地下牢まで護送しろ。手首と肩は、先に治療役へ診せろ」
「承知しました」
「牢へ入れたあとは、口封じと自害に警戒しろ。」
ハインリヒが付け加えた。
ヨーゼフが続ける。
「看守を一人にするな。交代の時刻も記録させろ」
「承知しました」
◆
石室の外で、クララは壁へ身体を預けていた。
腕を動かせないらしく、指先まで力なく垂れている。
年嵩の護衛が身体を起こそうとした。
「手首は避けてください」
若い騎士が言った。
「傷が開いています。私が脇から支えます」
年嵩の護衛は場所を譲った。
若い騎士はクララの脇へ腕を入れる。
その体は、まだ小刻みに震えていた。
「立てますか」
クララが初めて、まっすぐ彼を見た。
その瞳に、怯えとも羞恥ともつかないものが揺れた。
「……はい」
一度では立ち上がれなかった。
若い騎士は急かさず、クララが自分の足へ力を戻すまで支えた。
地下牢へ続く階段を下りる。
途中で足がもつれるたび、転ばないよう肩の下を支えた。
無実だとは言えない。
ただ、この娘が石室で守ったものを、忘れてはならないと思った。
鉄格子の前には、女性騎士が二人待っていた。
「先に手当てを」
若い騎士が告げる。
「ヨーゼフ隊長の命令です。手首と肩を診せたあと、衣服を検めてください」
「承知しました」
「食事と水は必ず二人で運ぶ。看守の交代時刻と、近づいた者の名をすべて記録してください」
「口封じへの警戒ですか」
「それだけではありません」
「刃物、紐、薬、筆記具。自害に使える物も残さないように」
若い騎士はクララを見た。
クララの瞳に感情の色は見えなかった。
女性騎士へ引き渡し、若い騎士は踵を返しかけた。
「騎士様」
背後から、掠れた声がした。
振り返る。
クララは何かを言おうとして、結局、唇を閉じた。
若い騎士も、何も尋ねなかった。
その夜、彼の胸に残ったのは、縛られた侍女の涙ではなかった。
恐怖と痛みの中でも、他人を身代わりにしなかった、その姿だった。




