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第十九話 囁きが名前に変わる時

クララが地下牢へ移されたという話は、その日のうちに屋敷中へ広がった。


 初めは、後ろ手に縛られて北棟へ連れていかれたというだけだった。


 それが厨房へ届く頃には、石室で厳しい取調べを受けたという話に変わっていた。


 洗濯室へ渡る頃には、クララがアンの失踪への関与を認めたことになっていた。


 夕刻には、共犯者の名まで挙げたと囁かれていた。


「一人ではできなかったと話したらしいわ」


「屋敷の中に、手を貸した者がいるって」


「旦那様は、もう名前を聞いているそうよ」


 厨房で。


 使用人用の階段で。


 薪を運ぶ廊下で。


 噂は人から人へ渡るたび、輪郭を得ていった。


「あの子が犯人だったのね」


「アン様のおそばにいたのに」


 同じ屋敷で働いてきた娘を疑う声は、時間が経つほど迷いを失っていった。


 そして、クララが挙げたという名についても、勝手な憶測が始まっていた。


「最近入った者じゃないかしら」


「古くからいる人だって聞いたわ」


「女らしいわよ」


「奥様のお近くにいる者かもしれないって」


 クララが共犯者の名を挙げたという話は、屋敷の隅々へ流れていった。



 北棟の小書斎では、長机の上に三枚の紙が並べられていた。


 一枚目は、アンの部屋から見つかったリリア名義の手紙。


 二枚目は、クララを部屋から離れさせたイザベラ名義の札を、聞き取りから再現したもの。


 三枚目は、東廊下の見張りの証言から再現した、ヨーゼフ名義の命令札だった。


「二枚の札は消えた」


 ハインリヒが言った。


「はい」


 ヨーゼフが答える。


「届けた者が回収したか、別の者が片づけたと考えるべきでしょう」


「では、なぜ手紙だけが残った」


オットーが、リリア名義の手紙へ目を落とした。


「札は人を動かすためだけの道具です。だから消した」


「ですが、これは違います。アン様を動かしたあとも、役目が残っていた」


「リリアを疑わせるためか」


「その可能性が高いかと」


「犯人が回収に失敗した可能性も捨てるな」


 リリアの筆跡をまねた文字。


 アンだけに通じる、秘密の場所という言葉。


 そして、アンが一人で部屋を出るよう仕向ける文面。


「アンの部屋へ出入りした者を洗い直せ」


 ハインリヒが命じた。


「アンとリリアが共に過ごしていた頃を知る者もだ」


「すでに進めております」


 オットーが帳面を開く。


「当日の夕刻、アン様の部屋へ入ったことが確認できている者は、クララとエリーズ。ほかに髪結いの侍女が一人、下働きが二人です。エリーズはクララが香草瓶を取るために背を向けた間、アン様の机のそばに立っております」


「クララが名を挙げたという噂は、届くか」


「遅くとも夕刻までには、本人の耳へ入るでしょう」


 ヨーゼフの返答に、オットーの羽根ペンが一瞬止まった。


「本当にクララが名を挙げたと思わせるのですか」


「そうでなければ意味がない」


 ハインリヒが言った。


「噂を耳へ入れてから呼べ。何を知られたか分からぬ状態で、石室へ座らせる」


 ヨーゼフが頷いた。


「エリーズの周囲には、すでに目を置いております」


 ハインリヒは使用人名簿へ視線を移した。


「我々は、あの女について何を知っている」


 オットーが答えた。


「父親はエリーズが五歳の時に家を出たまま行方不明。母親は、エリーズが成人した後に亡くなっています。祖父母も故人です」


「誰が身元を保証した」


「亡くなった前女中頭です」


「以前の奉公先は」


「記録では、母親と共に地方の小さな屋敷へ出入りしていたとあります。ただ、当時の雇い主もすでに亡くなっております」


「確かめられる者がいない」


「現時点では」


 ヨーゼフが名簿を引き寄せた。


「父親の失踪前の職と交友。母親と祖父母の奉公歴。前女中頭との関係。採用時の紹介状も調べ直します」


「屋敷の中だけで終わらせるな」


 ハインリヒが言った。


「市場、礼拝所、薬種店。手紙の送り先。休暇中に会った者。東国の商人や使節との接触もだ」


「承知しました」


「王都へも知らせる」


 ハインリヒの言葉に、オットーが顔を上げた。


「クラウス様へ、でございますか」


「ああ」


「今回の件を、すべて書け。家の暗号を使え。封書は二重にし、ヨーゼフが選んだ騎士に持たせろ。屋敷へ戻るなとも伝えろ」


「ご家族の一大事です。お戻りになるとおっしゃるのでは」


「だから命令する」


 ハインリヒは机の上の手紙を見た。


「王都に残し、宰相府の中から調べさせる」


「何を」


「黒百合に関する古い記録へ、最近触れた者がいないか」


 室内の空気が僅かに変わった。


「王宮地下の古文書庫も含めますか」


「含めろ。閲覧申請、書庫番への問い合わせ、持ち出された写し。王室騎士団や宰相府の人間だけではない。東国に関する古い事件を探っている者も調べさせろ」


 ヨーゼフが腕を組む。


「クラウスには、王都で妙な噂が流れていないかも確かめさせる」


 ハインリヒが続けた。


「ローゼンベルク家の娘が消えたことを知っている者がいれば、その出所を追わせろ」


「当主命令として、王都へ留まるよう記します」


 オットーが新しい紙を引き寄せた。


 羽根ペンが走り始める。


「エリーズはどうなさいますか。すぐに拘束しますか」


「エリーズがイザベラへ近づこうとしたところで止めろ」


「理由を尋ねた場合は」


「答える必要はない」


 ハインリヒは、リリア名義の手紙へ最後に目を落とした。


「そのまま北棟へ連れてこい」



 エリーズが噂を聞いたのは、イザベラの寝室へ温かい茶を運んでいる時だった。


「クララが白状したんですって」


 廊下の角で、若い侍女が囁いていた。


「アン様を外へ出す手助けをしたって」


「共犯者の名前も話したそうよ」


「誰なの」


「屋敷の中にいる女らしいわ」


「古くからいる人だって聞いたけれど」


 エリーズの足は止まらなかった。


 盆の上の茶器も揺れていない。


 二人の侍女の前を通ると、囁き声が途切れた。


「エリーズ様」


 若い侍女たちが慌てて頭を下げる。


「奥様がお休みになる時刻です。廊下では静かになさい」


「申し訳ございません」


 それだけ告げ、歩き続けた。


 背筋は伸びていた。


 呼吸も乱れていない。


 ただ、盆を支える右手の親指だけが、銀の縁を強く押していた。


 クララが白状した。


 あり得ない。


 あの娘は何も知らない。


 命じられたわけでもない。


 何かへ手を貸したことさえ、自分では気づいていない。


 それなのに、罪を認めたという。


 石室で、何をされたのか。


 痛みに耐えきれず、してもいないことを認めさせられたのか。


 胸の奥が、鈍く痛んだ。


 クララは、アンへ真面目に仕えていた。


 失敗を恐れ、叱られればすぐに目へ涙を浮かべるような娘だった。


 そのクララが地下牢へ入れられた。


 自分が仕掛けた偽札のために。


 エリーズは奥歯を噛みしめた。


 クララが知っているのは、わずかな事実だけだ。


 噂は真実なのか。


 それとも、自分を動かすための罠なのか。


 確かめてはならない。


 誰にも尋ねてはならない。


 エリーズは歩幅を変えず、イザベラの寝室へ向かった。



 寝室前には、見慣れない護衛が二人立っていた。


 いつもの護衛ではない。


 エリーズが近づくと、一人が前へ出る。


「その盆をこちらへ」


「奥様のお茶です」


「茶は検める」


「温度と薬草の量をお伝えする必要がございます」


「必要ない」


 護衛が両手で盆を受け取った。


 茶器が触れ合い、小さな音を立てる。


「奥様へ直接お持ちします」


「許可されていない」


「私は奥様付きの侍女です」


「今は違う」


 短い言葉だった。


 それだけで、長年エリーズを守ってきた肩書が剥がされた。


 廊下にいた使用人たちが、一斉に目を伏せる。


 エリーズは護衛を見た。


「旦那様のご命令ですか」


「そうだ」


「奥様はご存じなのでしょうか」


「答える必要はない」


「せめて、一言ご挨拶を」


「許可されていない」


 寝室の扉は、すぐ目の前にある。


 その向こうには、長年仕えてきたイザベラがいる。


 朝、髪を整える時も。


 夜、薬を飲ませる時も。


 夫や子どもには見せない疲れを、わずかに覗かせる時も。


 エリーズはいつも、すぐそばにいた。


 だが今、その扉までの数歩を進むことが許されなかった。


「エリーズ殿」


 もう一人の護衛が言った。


「旦那様がお呼びだ」


「どちらへ」


「北棟だ」


 エリーズは、閉ざされた寝室の扉へ目を向けた。


 声を上げれば、イザベラへ届くかもしれない。


 名を呼べば、扉を開けるよう命じてくれるかもしれない。




「承知いたしました」


 エリーズは静かに一礼した。


 盆を預けたまま、護衛の示す方向へ歩き出す。


 北棟へ近づくほど、人の気配が減っていった。


 窓から差し込む夕暮れの光も薄くなり、石壁の冷たさだけが濃くなる。


 エリーズは何も尋ねなかった。


 護衛も行き先を告げなかった。


 それでも、どこへ連れていかれるのかは分かっていた。


 厚い扉の前で、護衛が足を止める。


 エリーズは、その扉を見上げた。


 三年前、リリアが連れてこられた場所。


 そして今日、クララが厳しい取調べを受けたと噂されている場所。


 北棟の石室だった。


 内側から、鍵の外される音がした。


「お入りください」


 重い扉が、ゆっくりと開いた。


 中から漏れた燭台の光が、エリーズの足元まで細長く伸びた。



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