第十九話 囁きが名前に変わる時
クララが地下牢へ移されたという話は、その日のうちに屋敷中へ広がった。
初めは、後ろ手に縛られて北棟へ連れていかれたというだけだった。
それが厨房へ届く頃には、石室で厳しい取調べを受けたという話に変わっていた。
洗濯室へ渡る頃には、クララがアンの失踪への関与を認めたことになっていた。
夕刻には、共犯者の名まで挙げたと囁かれていた。
「一人ではできなかったと話したらしいわ」
「屋敷の中に、手を貸した者がいるって」
「旦那様は、もう名前を聞いているそうよ」
厨房で。
使用人用の階段で。
薪を運ぶ廊下で。
噂は人から人へ渡るたび、輪郭を得ていった。
「あの子が犯人だったのね」
「アン様のおそばにいたのに」
同じ屋敷で働いてきた娘を疑う声は、時間が経つほど迷いを失っていった。
そして、クララが挙げたという名についても、勝手な憶測が始まっていた。
「最近入った者じゃないかしら」
「古くからいる人だって聞いたわ」
「女らしいわよ」
「奥様のお近くにいる者かもしれないって」
クララが共犯者の名を挙げたという話は、屋敷の隅々へ流れていった。
◆
北棟の小書斎では、長机の上に三枚の紙が並べられていた。
一枚目は、アンの部屋から見つかったリリア名義の手紙。
二枚目は、クララを部屋から離れさせたイザベラ名義の札を、聞き取りから再現したもの。
三枚目は、東廊下の見張りの証言から再現した、ヨーゼフ名義の命令札だった。
「二枚の札は消えた」
ハインリヒが言った。
「はい」
ヨーゼフが答える。
「届けた者が回収したか、別の者が片づけたと考えるべきでしょう」
「では、なぜ手紙だけが残った」
オットーが、リリア名義の手紙へ目を落とした。
「札は人を動かすためだけの道具です。だから消した」
「ですが、これは違います。アン様を動かしたあとも、役目が残っていた」
「リリアを疑わせるためか」
「その可能性が高いかと」
「犯人が回収に失敗した可能性も捨てるな」
リリアの筆跡をまねた文字。
アンだけに通じる、秘密の場所という言葉。
そして、アンが一人で部屋を出るよう仕向ける文面。
「アンの部屋へ出入りした者を洗い直せ」
ハインリヒが命じた。
「アンとリリアが共に過ごしていた頃を知る者もだ」
「すでに進めております」
オットーが帳面を開く。
「当日の夕刻、アン様の部屋へ入ったことが確認できている者は、クララとエリーズ。ほかに髪結いの侍女が一人、下働きが二人です。エリーズはクララが香草瓶を取るために背を向けた間、アン様の机のそばに立っております」
「クララが名を挙げたという噂は、届くか」
「遅くとも夕刻までには、本人の耳へ入るでしょう」
ヨーゼフの返答に、オットーの羽根ペンが一瞬止まった。
「本当にクララが名を挙げたと思わせるのですか」
「そうでなければ意味がない」
ハインリヒが言った。
「噂を耳へ入れてから呼べ。何を知られたか分からぬ状態で、石室へ座らせる」
ヨーゼフが頷いた。
「エリーズの周囲には、すでに目を置いております」
ハインリヒは使用人名簿へ視線を移した。
「我々は、あの女について何を知っている」
オットーが答えた。
「父親はエリーズが五歳の時に家を出たまま行方不明。母親は、エリーズが成人した後に亡くなっています。祖父母も故人です」
「誰が身元を保証した」
「亡くなった前女中頭です」
「以前の奉公先は」
「記録では、母親と共に地方の小さな屋敷へ出入りしていたとあります。ただ、当時の雇い主もすでに亡くなっております」
「確かめられる者がいない」
「現時点では」
ヨーゼフが名簿を引き寄せた。
「父親の失踪前の職と交友。母親と祖父母の奉公歴。前女中頭との関係。採用時の紹介状も調べ直します」
「屋敷の中だけで終わらせるな」
ハインリヒが言った。
「市場、礼拝所、薬種店。手紙の送り先。休暇中に会った者。東国の商人や使節との接触もだ」
「承知しました」
「王都へも知らせる」
ハインリヒの言葉に、オットーが顔を上げた。
「クラウス様へ、でございますか」
「ああ」
「今回の件を、すべて書け。家の暗号を使え。封書は二重にし、ヨーゼフが選んだ騎士に持たせろ。屋敷へ戻るなとも伝えろ」
「ご家族の一大事です。お戻りになるとおっしゃるのでは」
「だから命令する」
ハインリヒは机の上の手紙を見た。
「王都に残し、宰相府の中から調べさせる」
「何を」
「黒百合に関する古い記録へ、最近触れた者がいないか」
室内の空気が僅かに変わった。
「王宮地下の古文書庫も含めますか」
「含めろ。閲覧申請、書庫番への問い合わせ、持ち出された写し。王室騎士団や宰相府の人間だけではない。東国に関する古い事件を探っている者も調べさせろ」
ヨーゼフが腕を組む。
「クラウスには、王都で妙な噂が流れていないかも確かめさせる」
ハインリヒが続けた。
「ローゼンベルク家の娘が消えたことを知っている者がいれば、その出所を追わせろ」
「当主命令として、王都へ留まるよう記します」
オットーが新しい紙を引き寄せた。
羽根ペンが走り始める。
「エリーズはどうなさいますか。すぐに拘束しますか」
「エリーズがイザベラへ近づこうとしたところで止めろ」
「理由を尋ねた場合は」
「答える必要はない」
ハインリヒは、リリア名義の手紙へ最後に目を落とした。
「そのまま北棟へ連れてこい」
◆
エリーズが噂を聞いたのは、イザベラの寝室へ温かい茶を運んでいる時だった。
「クララが白状したんですって」
廊下の角で、若い侍女が囁いていた。
「アン様を外へ出す手助けをしたって」
「共犯者の名前も話したそうよ」
「誰なの」
「屋敷の中にいる女らしいわ」
「古くからいる人だって聞いたけれど」
エリーズの足は止まらなかった。
盆の上の茶器も揺れていない。
二人の侍女の前を通ると、囁き声が途切れた。
「エリーズ様」
若い侍女たちが慌てて頭を下げる。
「奥様がお休みになる時刻です。廊下では静かになさい」
「申し訳ございません」
それだけ告げ、歩き続けた。
背筋は伸びていた。
呼吸も乱れていない。
ただ、盆を支える右手の親指だけが、銀の縁を強く押していた。
クララが白状した。
あり得ない。
あの娘は何も知らない。
命じられたわけでもない。
何かへ手を貸したことさえ、自分では気づいていない。
それなのに、罪を認めたという。
石室で、何をされたのか。
痛みに耐えきれず、してもいないことを認めさせられたのか。
胸の奥が、鈍く痛んだ。
クララは、アンへ真面目に仕えていた。
失敗を恐れ、叱られればすぐに目へ涙を浮かべるような娘だった。
そのクララが地下牢へ入れられた。
自分が仕掛けた偽札のために。
エリーズは奥歯を噛みしめた。
クララが知っているのは、わずかな事実だけだ。
噂は真実なのか。
それとも、自分を動かすための罠なのか。
確かめてはならない。
誰にも尋ねてはならない。
エリーズは歩幅を変えず、イザベラの寝室へ向かった。
◆
寝室前には、見慣れない護衛が二人立っていた。
いつもの護衛ではない。
エリーズが近づくと、一人が前へ出る。
「その盆をこちらへ」
「奥様のお茶です」
「茶は検める」
「温度と薬草の量をお伝えする必要がございます」
「必要ない」
護衛が両手で盆を受け取った。
茶器が触れ合い、小さな音を立てる。
「奥様へ直接お持ちします」
「許可されていない」
「私は奥様付きの侍女です」
「今は違う」
短い言葉だった。
それだけで、長年エリーズを守ってきた肩書が剥がされた。
廊下にいた使用人たちが、一斉に目を伏せる。
エリーズは護衛を見た。
「旦那様のご命令ですか」
「そうだ」
「奥様はご存じなのでしょうか」
「答える必要はない」
「せめて、一言ご挨拶を」
「許可されていない」
寝室の扉は、すぐ目の前にある。
その向こうには、長年仕えてきたイザベラがいる。
朝、髪を整える時も。
夜、薬を飲ませる時も。
夫や子どもには見せない疲れを、わずかに覗かせる時も。
エリーズはいつも、すぐそばにいた。
だが今、その扉までの数歩を進むことが許されなかった。
「エリーズ殿」
もう一人の護衛が言った。
「旦那様がお呼びだ」
「どちらへ」
「北棟だ」
エリーズは、閉ざされた寝室の扉へ目を向けた。
声を上げれば、イザベラへ届くかもしれない。
名を呼べば、扉を開けるよう命じてくれるかもしれない。
「承知いたしました」
エリーズは静かに一礼した。
盆を預けたまま、護衛の示す方向へ歩き出す。
北棟へ近づくほど、人の気配が減っていった。
窓から差し込む夕暮れの光も薄くなり、石壁の冷たさだけが濃くなる。
エリーズは何も尋ねなかった。
護衛も行き先を告げなかった。
それでも、どこへ連れていかれるのかは分かっていた。
厚い扉の前で、護衛が足を止める。
エリーズは、その扉を見上げた。
三年前、リリアが連れてこられた場所。
そして今日、クララが厳しい取調べを受けたと噂されている場所。
北棟の石室だった。
内側から、鍵の外される音がした。
「お入りください」
重い扉が、ゆっくりと開いた。
中から漏れた燭台の光が、エリーズの足元まで細長く伸びた。




