第二十話 揺らがぬ嘘、崩れる声
背後で、重い扉が閉じた。
エリーズは足を止めたまま、石室の中を見渡した。
中央に長机が一つ。
その手前には、背の低い椅子が一脚置かれている。
机の端には燭台があり、低い位置で炎が揺れていた。
光が届くのは、椅子に座る者の顔と手だけだ。
壁際には、革紐や金具の並べられた鉄の道具台があった。
石床には、水で洗い流しきれなかった暗い染みが残っている。
クララが、ここにいた。
机の向こうにはヨーゼフ。
その背後にはハインリヒ。
少し離れた場所で、オットーが黒い帳面を開いている。
「前へ」
ヨーゼフが命じた。
エリーズは長机の前まで進み、ハインリヒへ一礼した。
「お呼びでしょうか、旦那様」
「座れ」
「はい」
椅子へ腰を下ろす。
「両手を机の上へ置け」
エリーズはためらわず、両手を揃えて置いた。
白い指。
短く整えられた爪。
針仕事で硬くなった指先。
長年、イザベラの衣服を整え、髪を結い、薬を用意してきた手だった。
燭台の光が、その手と顔だけを照らす。
「アンが消えた日の夕刻、部屋へ入ったな」
ヨーゼフが尋ねた。
「はい」
「何の用だ」
「奥様のお部屋へ届ける香草瓶を確認するためです」
「誰に命じられた」
「奥様からです」
「イザベラ本人にも確かめた」
ハインリヒが言った。
「香草瓶を選ぶよう命じたことは認めている」
「はい」
「正当な用向きだったわけだ」
「そのとおりでございます」
「部屋にいた者は」
「アン様とクララです」
「アンは何をしていた」
「机へ向かっておられました」
「何か書いていたか」
「そこまでは見ておりません」
「紙を持っていたか」
「記憶にございません」
「おまえはクララへ、棚の香草瓶を取るよう頼んだ」
「はい」
「なぜ自分で取らなかった」
「クララの方が、瓶の位置をよく知っていたからです」
「その間、クララはおまえへ背を向けた」
「棚を見ていたと思います」
「おまえはアンの机のそばへ立った」
「はい」
「アンとの間に誰もいなかった」
「同じ部屋にクララがおりました」
「背を向けていた」
「ほんの短い間です」
「その間に、アンへ何を渡した」
「何も渡しておりません」
ヨーゼフは答えを急かさなかった。
エリーズの顔を見たまま、沈黙する。
オットーの羽根ペンが紙の上を走った。
「紙もか」
「渡しておりません」
「手紙も」
「はい」
「リリアから預かったとも伝えていない」
「伝えておりません」
「人には見せるなとも」
「申しておりません」
「イザベラに知られれば、リリアがまた叱られるとも言っていない」
エリーズの指先が、机の上で止まった。
ヨーゼフはその動きを見逃さなかった。
「どうした」
「何もございません」
「随分と具体的な問いだと思ったか」
「旦那様方が、何かをお調べになったのでしょう」
「何を調べたと思う」
「私には分かりかねます」
ヨーゼフが机の端へ手を伸ばした。
暗がりから一枚の紙が現れ、燭台の光の中へ押し出される。
リリア名義の手紙だった。
「読め」
エリーズは紙へ目を落とした。
「声に出せ」
短い命令が飛ぶ。
エリーズは手紙を見たまま、読み始めた。
「アン様。奥様のお叱りを受けました。もうここに居られないかもしれません。怖くて、誰を頼ればいいのか分かりません」
声は乱れなかった。
「真夜中に、私たちの秘密の場所に来てください。お一人で。お願いです。リリア」
「見覚えは」
「ございません」
「この手紙は、アンの机の引き出しから見つかった」
「そうでございますか」
「おまえが部屋を訪れた後だ」
「偶然でございましょう」
「クララは、振り返った時、アンが紙を机の下へ隠したと証言した」
「私は見ておりません」
「もう一つ、証言している」
ヨーゼフが言った。
「おまえがその紙を、アンの手へ渡すところを見たと」
「それはあり得ません」
返答は、それまでより早かった。
石室へ短い沈黙が落ちる。
「なぜだ」
ヨーゼフが尋ねた。
エリーズの右手の人差し指が、親指の爪を覆った。
「クララが、そのような嘘を申すとは思えません」
「嘘だとなぜ分かる」
「私は渡しておりませんから」
「それだけか」
「それ以外に、何がございましょう」
「クララは、見たと言っている」
「見ていないことを、見たとは言わない娘です」
ヨーゼフの視線が、エリーズの指先から顔へ戻った。
「なぜ、見ていないと分かる」
エリーズは答えなかった。
「クララは背を向けていた」
ハインリヒが言った。
「そのことを知っているから、見たという証言を即座に否定した」
「私は、先ほどからクララが棚を見ていたと申し上げております」
「それでも、振り返ることはできる」
「私には分かりません」
「ならば、あり得ないとは言い切れないはずだ」
エリーズはハインリヒを見た。
だが、暗がりの中にある表情までは読めない。
「クララは、何を認めたのでしょうか」
エリーズが尋ねた。
「噂を聞いたのか」
「屋敷中で話されております」
「どのような噂だ」
「アン様の失踪へ関与したことを認め、共犯者の名を挙げたと」
「信じるか」
「信じがたく存じます」
「なぜだ」
「クララは、アン様へ忠実でした」
「忠義は証拠にならない」
「承知しております」
「石室では、忠義だけで口を閉ざし続けることはできない」
エリーズの視線が、壁際の道具台へ動きかけた。
途中で止まる。
「クララへ、何をなさったのですか」
「なぜ気になる」
「同じ屋敷に仕える者です」
「それだけか」
「下働きの頃から知っております」
「自分の名が出たかどうかより、先にクララの身を案じるのか」
エリーズは口を閉ざした。
ハインリヒが、机の上の手紙へ指を置く。
「クララが挙げたのは、おまえの名だ」
エリーズの表情は崩れなかった。
ただ、息を吸うまでに一拍の間があった。
「何を根拠に」
最初に出た言葉は、否定ではなかった。
「なぜ、嘘だと言わない」
ヨーゼフが尋ねる。
「事実でないことは、先ほどから申し上げております」
「だが、最初に気になったのは根拠だった」
「疑いを晴らすためには、根拠を知る必要がございます」
「おまえ自身の潔白よりもか」
「私の言葉だけで、疑いが晴れるとは思っておりません」
返答も、声も、姿勢も整っていた。
机の上に置かれた両手さえ、まだ乱れてはいない。
ただ、右手の親指が、人差し指の側面を強く押している。
「エリーズ」
ハインリヒが呼んだ。
「はい」
「今日から、おまえをイザベラ付きから外す」
その瞬間、机に揃えられていた指が力なくほどけた。
「旦那様。奥様は、私を必要としておられます」
「それを決めるのは、おまえではない」
「長年、お仕えしてまいりました」
「長く仕えたからこそ、妻の薬も、部屋の鍵も、家族の習慣も知っている」
「私は奥様を害しておりません」
「アンも害していないと言うのか」
「もちろんでございます」
「ならば、なぜアンは消えた」
「存じません」
「なぜ、アンの部屋へ入った後に手紙が現れた」
「存じません」
「なぜ、クララへ背を向けさせた」
「香草瓶を取らせるためです」
「なぜ、おまえが教えた結び方の偽札で、クララは部屋から離された」
「私が教えた結び方を知る者は、ほかにもおります」
「誰だ」
「奥様付きの侍女たちです」
「名を挙げろ」
「それだけで疑いを向けることはできません」
「おまえ自身が疑われていてもか」
「はい」
暗がりから、低い命令だけが落ちた。
「手を後ろへ」
エリーズの眉間に、初めて皺が寄った。
「旦那様」
「聞こえなかったか」
「私は、奥様付きの――」
「ここに、侍女はいない」
ハインリヒが遮った。
「いるのは、娘の失踪に関わった疑いを持たれている女だけだ」
背後の護衛が、道具台から革紐を取った。
エリーズの両腕をつかみ、机の上から手を引き離す。
腕を後ろへ回され、手首へ革紐が巻きつけられた。
きつく引かれる。
肩が後ろへ開き、肺から短い息が押し出された。
だが、声は上げない。
革紐は椅子の横木へ結びつけられた。
燭台の光にさらされていた両手は、今は椅子の背後へ回されている。
「もう一度聞く」
ヨーゼフが言った。
「アンの部屋へ入った」
「はい」
「クララへ背を向けさせた」
「香草瓶を取るよう頼みました」
「その間、アンへ近づいた」
「はい」
「紙を渡した」
「いいえ」
「リリアからだと伝えた」
「いいえ」
「人には見せるなと言った」
「いいえ」
「イザベラに知られれば、リリアがまた叱られると言った」
「いいえ」
否定する時間だけを与え、考える間を与えない。
声の高さも、問いを置く速さも、ヨーゼフは変えなかった。
「偽札を用意した」
「いいえ」
「クララが部屋を出る時刻を知っていた」
「いいえ」
「アンが手紙を読んだことを知っていた」
「いいえ」
「アンが一人で庭へ向かうと知っていた」
「いいえ」
「秘密の場所の正確な位置を知っていた」
「存じません」
ヨーゼフの問いが止まった。
「正確な位置は、か」
エリーズの息が、そこで一度途切れた。
「存在は知っていたのか」
「存じません」
「おまえは、二人が庭で遊んでいたことを知っている」
「はい」
「アンから、秘密の場所という言葉を聞いたことは」
「ございません」
ヨーゼフは手紙を持ち上げた。
「場所を知らなくても、誘い出すことはできる」
「私には分かりかねます」
「手紙を書いた者が、秘密の場所を知る必要はない」
紙が再び机へ置かれる。
「アンが、その言葉を理解することだけを知っていればよかった」
「推測でございます」
「そのとおりだ」
ハインリヒが答えた。
「だから、おまえの口から事実を聞こうとしている」
「申し上げることはございません」
「ならば、クララの話へ戻ろう」
ハインリヒの声が一段低くなった。
「クララは、おまえが手紙を渡したと証言した」
「それは嘘でございます」
今度は即座に否定した。
「先ほどは、根拠を尋ねた」
「今は、旦那様が私を疑うためにおっしゃっていると分かったからです」
「では、クララが本当に名を挙げたのか、確かめたいか」
エリーズは答えなかった。
「会わせてやってもよい」
ハインリヒが言った。
エリーズの顔が上がる。
「ただし、その前に、クララへもう一度聞く」
燭台の炎が揺れた。
「今度は、道具も使う」
「おやめください」
言葉が、考えるより先に出た。
エリーズ自身が、最も早くそのことに気づいた。
ヨーゼフも。
ハインリヒも。
オットーも。
「なぜだ」
ハインリヒが尋ねる。
「クララが嘘をついているなら、真実を話させなければならない」
「あの娘は、何も知りません」
「なぜ断言できる」
「……」
「おまえの名を挙げたのだ」
「それは、旦那様方がお作りになった話です」
エリーズの声から、初めて完全な平静が失われた。
「そう思う根拠は」
「クララは、見ていないことを見たとは申しません」
「先ほどから、おまえはそれを繰り返す」
「私は、あの娘を知っております」
「だからこそ、利用したのではないか」
エリーズが何かを言い返そうと口を開く。
だが、ハインリヒは言葉を重ねた。
「真面目で、命令に逆らえず、急ぎ札を疑わない。アンを一人にした責任を、自分の罪だと思い込む」
「違います」
「偽札を受け取らせるには、都合のよい娘だった」
「違います」
「おまえは、クララを選んだ」
「違います!」
強い声が石壁へ反響した。
エリーズはすぐに口を閉ざした。
乱れた呼吸だけが残る。
ハインリヒは、しばらく何も言わなかった。
やがて、静かに告げた。
「クララは、おまえの名を挙げていない」
エリーズの目が見開かれた。
それまで微動だにしなかった下瞼が、一度だけ小さく痙攣した。
「何も認めていない。共犯者の名も、一人として口にしていない」
「では、なぜ……」
言葉が喉に詰まった。
唇は開いたまま動かず、息を吸おうとした喉から、かすかな音だけが漏れる。
「噂を流した」
ハインリヒが言った。
「関わった者が、何に反応するかを見るために」
エリーズの喉が小さく上下した。
何かを呑み込もうとして、呑み込めなかったように。
「クララは、おまえがアンの机へ近づいたとだけ話した」
ヨーゼフが続ける。
「手紙を渡すところは見ていない。だから、渡したとは言えないと答え続けた」
椅子の背で、革紐が小さく軋んだ。
「東廊下の護衛についても同じだ。自分が助かるために、見ていない者を共犯者にはできないと拒んだ」
「クララは……」
掠れた声が落ちる。
一度では言葉にならず、エリーズは浅く息を吸った。
「今、どこに」
「地下牢だ」
「傷は」
「手首と肩を治療させた」
ヨーゼフの答えに、エリーズは瞼を強く閉じた。
手首と肩。
それだけで、どのような姿で取調べを受けたのか分かった。
何も知らないまま、共犯者の名を言えと迫られた。
自分が用意した札のために。
「あの娘は、おまえを売らなかった」
ハインリヒが言った。
「見てもいないことは口にせず、地下牢へ落ちた」
エリーズは俯いた。
拘束された拍子に緩んだ髪が、頬へ一筋落ちる。
いつもなら、すぐに直していただろう。
だが、その髪に気づく様子さえなかった。
固く結ばれていた口元が歪む。
息を整えようとするたび、喉の奥から細い音が漏れた。
石室へ入ってから初めて、奥様付きの侍女として保ってきた姿が崩れた。
「そして今も」
ハインリヒの声が続く。
「自分が罪を認めたという噂を聞かされている」
「それも……」
エリーズは顔を上げられなかった。
「おまえを動かすためだ」
エリーズの呼吸が乱れた。
「旦那様」
「何だ」
「その噂を、取り消してください」
「なぜだ」
「あの娘は、自分が誰にも信じられていないと思います」
「おまえに、それを求める資格があるのか」
エリーズは答えられなかった。
資格などない。
あの娘が急ぎ札を疑わないことも、命令に逆らえないことも、自分は知っていた。
すぐに戻れると思い、アンを一人残すことも。
その後で、自分を責め続けることも。
分かっていた。
何も知らない娘が縄で後ろ手に縛られ、傷を負うところまでは考えていなかった。
考えようとしなかった。
「エリーズ」
ハインリヒが呼んだ。
「アンへ手紙を渡したのは、おまえか」
エリーズは顔を上げなかった。
革紐の中で、両手が強く握られる。
「クララを部屋から離す札を用意したのも、おまえか」
沈黙が続いた。
燭台の蝋が溶け、机の上へ一滴落ちる。
エリーズは、閉ざされた石室ではなく、イザベラの寝室を思い浮かべていた。
朝になれば、髪を整える。
夜には、薬の量を確かめる。
眠れない時には、薄い茶を淹れる。
長年続けてきた日々。
もう、あの扉の内側へ戻ることは許されない。
「……クララは」
エリーズの声は小さかった。
「本当に、私の名を挙げていないのですね」
「ああ」
ハインリヒが答えた。
「最後までな」
エリーズは目を閉じた。
一度、息を吸う。
ゆっくりと吐く。
次の息は、喉の奥で震えた。
「手紙を渡したのは」
声が途切れる。
「アン様へ、手紙を渡したのは、私です」
オットーの羽根ペンが止まった。
誰も言葉を挟まない。
「クララを部屋から離すため、奥様名義の札を用意したのも……私です」
石室へ、羽根ペンの走る音が戻った。
「アン様へ手紙を渡した時、何と言った」
ヨーゼフが尋ねる。
「リリアから預かったと」
「ほかには」
「誰にも見せてはならないと」
エリーズの目から涙が落ちた。
「アンは信じた」
「はい」
「疑わなかったのか」
「……はい」
「なぜだ」
エリーズの唇が震える。
「私が、リリア……様を傷つける者ではないと、信じてくださっていたからです」
ハインリヒは瞬きもせず、エリーズを見据えた。
「その信頼を使った」
「はい」
「手紙を渡した後、どうするつもりだった」
「アン様が部屋を出た後、回収するつもりでした」
「命じられていたのか」
「いいえ。私の判断です。リリア様へ疑いの目が向けられるのは、私の本意ではありません」
「なぜ回収できなかった」
「クララが、予想より早く戻ったからです」
「部屋が騒ぎになり、封鎖された」
「はい」
「秘密の場所の位置は、本当に知らないのか」
「存じません」
「存在は」
エリーズは短く目を閉じた。
「知っておりました」
「先ほどは否定した」
「関与を隠すためです」
「どうやって知った」
「アン様が、リリア様と二人だけの場所があると話しているのを聞いたことがございます」
「場所は聞いていない」
「はい」
「それでも手紙へ使った」
エリーズは、すぐには答えなかった。
「その前に」
ハインリヒの声が低くなる。
「アンを連れ去ることは、最初から知っていたのか」
エリーズの肩が強張った。
「答えろ」
「はい」
「娘が夜の庭へ出れば、誰かが待っていると知っていた」
「はい」
「その者がアンを屋敷の外へ連れ出すことも」
「はい」
「居場所は」
「存じません」
「連れ去る者の名は」
「存じません」
「人数は」
「聞かされておりません」
ハインリヒの手が、机の上の偽手紙へ置かれた。
紙の端を押さえる指へ、ゆっくりと力が加わる。
「それで、娘を送り出したのか」
声は低かった。
怒鳴り声ではない。
それでも、石室の空気が一段重くなった。
紙の端が、ハインリヒの指の下で折れ曲がる。
エリーズは顔を上げた。
「男は、母から教わった符丁を口にしました」
涙を溜めたまま、ハインリヒから視線を逸らさなかった。
「アン様を害することはないと聞いておりました」
「その言葉を信じた」
「はい」
「人質にしておきながらか」
ハインリヒの指が、折れた紙をさらに深く押し込んだ。
エリーズは奥歯を噛みしめた。
「アン様を必ず生きてお戻しすることまで含めての計画だと、符丁を用いて誓われました」
「誰がおまえへ命じた」
ハインリヒが尋ねた。
エリーズは、机の上の偽手紙を見つめた。
「私が会ったのは、指示を伝えに来た男だけです」
「名は」
エリーズは一度口を開き、すぐに閉じた。
「知らされておりません」
「その者は、ヤシャラか、祀院か」
「存じません。黒百合の巫女様をお守りし、お救いする者としか」
「名も知らずに従ったのか」
「……はい」
「すべて話せ」
エリーズは、ゆっくりと顔を上げた。




