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第二十一話 アンの手紙

取調べは夜を越えていた。


 石室には窓がない。


 それでも、廊下を行き交う足音と、厨房側で動き始めた使用人の気配が、夜明けが近いことを告げていた。


 燭台の蝋は半分以下まで減っている。


 エリーズの両手は、なお椅子の横木へ縛られたままだった。


 ハインリヒは一度も石室を離れていない。


 ヨーゼフも、オットーも同じだった。


「おまえの名は、本日付でローゼンベルク家の奉公人名簿から外す」


 ハインリヒが言った。


「ここにいるのは、私の娘を敵へ渡すための罠を仕掛けた間者だ」


 エリーズの唇が閉じる。


「これより、間者エリーズへの取調べを開始する」


 ヨーゼフが改めて宣告した。


 オットーは書きかけの紙を脇へ寄せ、新しい記録用紙を広げた。


 ヨーゼフは護衛へ顎を向けた。


「拘束を改めろ。両足を椅子の前脚へ固定する。胸にも一本回せ」


「私は逃げません」


「おまえがどう思うかは関係ない」


 護衛が持ってきた革帯を、エリーズの両足首へ巻きつけた。


 続いて、胸元から椅子の背へ太い帯を回す。

 

 身体をよじることも、前へ身を倒すこともできなくなった。


 ヨーゼフは背後へ回り、両手を留めた革紐を確認する。


 紐が緩んでいないことを確かめてから、エリーズの正面へ戻った。


「事実、推測、誰かから聞いた話を混ぜずに答えろ」


「承知いたしました」


「男の姿。会った場所。受けた指示。背後にいる者について聞かされたこと。知っている限り、すべてだ」


「まずは、おまえ達の符丁を言え」


 ヨーゼフが命じた。


「呼出しの紙には、『夜に閉じた花は』と書かれておりました」


「返答は」


「『守る者の朝に咲く』と」


「半印は」


「黒銀で、半分に割れた百合の形をしておりました」


「おまえのものと合わせた」


「はい」


「縁は一致した」


「欠け方まで」


「裏面の傷は」


「三本。中央の一本だけが、ほかより深く刻まれておりました」


「母親から聞いていたとおりだった」


「はい」


「おまえの半印は、すでに押収させた」


 ハインリヒが言った。


「もう一度聞く。誰がアンを連れ去った」


「計画を立てたのは、祀院の者だと聞いております」


 ハインリヒの声が沈む。


「なぜ、我が家の娘を狙った」


「ローゼンベルク家へ打撃を与えるためかと」


「リリアを罪人として扱い、黒百合を閉じ込めた家だからか」


「そう聞いております」


「おまえへ指示した男も、祀院の者か」


「違うと申しておりました」


「男は何と説明した」


「祀院の強硬派がアン様を誘い出そうとしている。計画を止めても、別の手段を使うだけだと」


「男はヤシャラの者か」


「存じません。ただ、ある高貴な方の元で動いていると。その御方を御前と呼んでおりました。アン様を守ると聞かされました」


「守る?」


 ハインリヒが机を打った。


 燭台の炎が大きく揺れる。


「十二歳の娘を夜の屋敷から連れ去り、脅迫の言葉を書かせることを、おまえたちは守ると呼ぶのか」


「正しい言葉だとは思っておりません」


「ならば何だ」


 エリーズは一度、息を止めた。


「アン様を人質として使っていることは、否定できません」


「そのうえで、なぜ手を貸した」


 ヨーゼフが尋ねた。


「祀院へ渡るよりは、生きてお守りできると信じたからです」


「祀院の計画を知っていたなら、なぜ我々へ知らせなかった」


 ハインリヒの声は低かった。


「警備を強めれば、アンを守れた」


「祀院は、別の方法を使ったかもしれません」


「答えになっていない」


 エリーズはハインリヒを見た。


「アン様を守ることだけが、目的ではなかったからです。リリア様を、この屋敷から出すことも目的でした」


 ハインリヒの顔から表情が消えた。


「だから、娘の誘拐を黙っていた」


「はい」


「祀院へ渡るより安全だと、自分へ言い聞かせた」


「はい」


「アンを人質にすれば、リリアを動かせるとも考えた」


「はい」


 エリーズは、もう否定しなかった。


「方法が正しかったとは思っておりません」


「その言葉で、罪が軽くなると思うな」


「思っておりません」


「それほどリリアが必要なら、なぜ本人を直接さらわなかった」


 エリーズが口を開きかけた、その時だった。


 廊下の向こうから、慌ただしい足音が近づいてきた。


 石室の扉が強く叩かれる。


「旦那様、失礼いたします!」


 若い騎士の声だった。


 ヨーゼフが立ち上がり、扉へ向かう。


「何事だ」


 扉が開いた。


 騎士は室内へ入らず、敷居の外で片膝をついた。


 白い手袋をはめた両手には、蓋付きの浅い木箱が抱えられている。


「厨房通用門の外側で、不審な包みが見つかりました。空になった食材箱の陰に置かれていたとのことです」


「誰が見つけた」


「厨房番です」


「置いた者を見た者は」


「おりません」


「通用門の見張りは何をしていた」


 ヨーゼフの声が低くなる。


「朝の食材を運び入れた荷車と、受取人を確認していたと申しております」


「荷車は止めたか」


「はい。御者と荷運び人は、互いに話のできない別々の場所で待機させております」


「屋敷の外へ出すな」


「承知しました」


「包みに素手で触れた者は」


「最初に見つけた厨房番だけです。包みは火箸で木箱へ移し、蓋を閉じたまま運びました」


「厨房番も別室へ移せ。包みを見つけた時刻、立っていた位置、食材箱の向きまで聞き取れ」


「はい」


「外側の状態は」


「異臭、湿り気、目に見える粉の付着はありません。ただし、布や結び目には触れておりません」


「石室へは入れるな」


 ヨーゼフが命じた。


「隣の空き房へ運べ。窓を開け、水桶と砂を用意しろ。検分が終わるまで、誰も近づけるな」


「承知しました」


 ヨーゼフは白い手袋をはめた。


「オットー、来い」


「はい」


 二人が騎士とともに廊下へ出る。


 扉が閉ざされた。


 ハインリヒは座らなかった。


 長机へ片手を置き、物音一つ立てずに待っている。


 エリーズも、閉じた扉へ顔を向けたまま動かなかった。


 やがて、扉が開いた。


 戻ってきたヨーゼフは、黒い布と一通の手紙を、別々の鉄盆に載せていた。


 オットーは、切られた銀糸と黒百合をかたどった墨印の紙片を、小さな木枠に挟んでいる。


「針、粉、液体の仕掛けは見つかりませんでした」


 ヨーゼフが言った。


「布の内側にも異常はありません」


 ハインリヒの視線が、黒百合の墨印へ落ちた。


「手紙を」


 ヨーゼフは紙の表裏と折り目を、もう一度確認した。


 上質な紙だった。


 封はされていない。


 表には、幼いながらも整った文字で記されている。


 ――お父様へ。


「アンの字だ」


 ハインリヒが手紙を取った。


 折り畳まれた紙を、ゆっくりと開く。


 最初の一行を見た瞬間、ハインリヒの頬がこわばり、唇から色が失せた。


 声を出さず、文字を追う。


 紙を持つ指先に力が入り、薄い紙がかすかに鳴った。


「旦那様」


 ヨーゼフが呼んだ。


 ハインリヒは、すぐには答えなかった。


 やがて、掠れた声で読み始める。


「お父様。お母様」


 アンの言葉が、冷たい石室へ落ちた。


「アンは生きています。怪我はしていません。怖いけれど、泣いてばかりではありません」


 拘束されたエリーズの肩から、力が抜けかける。


「動くな」


 ヨーゼフの声が飛んだ。


 護衛の一人が音もなく歩み寄り、エリーズの椅子の背後へ立つ。


「その姿勢を保て。安堵するのは、アン様が戻ってからだ」


 エリーズの背筋が張り詰めた。


 ハインリヒは読み続ける。


「どうか、クララを責めないでください。リリアも責めないでください。リリアは、悪い子ではありません」


 そこで、ハインリヒの声が一度途切れた。


 紙を支える親指がわずかに滑り、次の息がすぐには入らない。


 だが、ハインリヒは顎を引き、何事もなかったように手紙へ目を戻した。


 押し殺された父親の苦しさが、石室の誰にも伝わった。


 そこまでの文字は、ハインリヒの知るアンのものだった。


 幼い丸み。


 行の端が少し上がる癖。


 急いだ時、文字同士の間が狭くなるところまで同じだった。


 けれど、その下から線が硬くなっている。


 筆跡はアンのものでも、言葉はアン自身が選んだものではない。


 誰かに示された文章を、そのまま書き写したように見えた。


「黒き百合を返してください」


 ハインリヒの声が低くなる。


「そうすれば、白き花を朝露の庭へ戻します」


 石室へ沈黙が落ちた。


 ハインリヒの指が、紙の端を強く押さえる。


「最後の二行は、アン様のお言葉ではありませんな」


 ヨーゼフが言った。


「書いたのはアンだ」


 ハインリヒの声は掠れていた。


「だが、書かせた者がいる」


 オットーが立ち上がる。


「拝見してもよろしいでしょうか」


 手紙を受け取り、燭台の近くへ寄せた。


 紙の表と裏。


 筆圧。


 文字の重なり。


 端に残る汚れまで確認していく。


「血はついておりません。濡れた跡もない。筆を持てないほど衰弱している文字には見えません」


「いつ書かれたものかは分からない」


 ヨーゼフが言った。


「それでも」


 ハインリヒは机へ両手をついた。


「書いた時には、生きていた」


 アンは生きている。


 娘が消えてから初めて届いた、明確な証だった。


 だが、そのすぐ下には、リリアを差し出せという要求が置かれている。


「クララを責めないでください」


 ハインリヒが、その行をもう一度見た。


 しばらく手紙から目を上げなかった。


「ここまではアンの言葉だ」


 クララをかばうこと。


 リリアをかばうこと。


 自分のことより先に、誰かが罰せられることを恐れること。


 手紙を書かせた者も、それを分かっている。


 アン自身の言葉を残すほどに、その後へ続く要求も無視できなくなる。


「卑劣な」


 ハインリヒの口から、低い声が漏れた。


 娘の優しさまで、脅迫の道具へ変えられている。



「エリーズ」


 ヨーゼフが呼んだ。


 エリーズは、机の上の手紙を見つめていた。


「はい」


「この手紙が届くことを知っていたか」


「はい」


 ハインリヒが顔を上げた。


「アン様が生きておられる証として、ご本人に手紙を書いていただくと聞かされておりました」


「なぜ、それを先に言わなかった」


「いつ、どこへ届くかは知らされておりませんでした」


「文面は」


「存じません」


「最後の要求もか」


「リリア様を屋敷から出すよう求めるとは聞いておりました。ですが、その言葉をアン様ご自身へ書かせることまでは」


 ハインリヒは、手紙をエリーズの前へ置いた。


「この包みを用意したのは祀院か」


「分かりません」


「使いの男の側か」


「それも、聞かされておりません」


「複数の者が、黒百合の印を使っている可能性も否定できない」


「はい」


「娘の身柄が祀院から御前とやらの側へ移った証拠は」


「ございません」


「祀院の手にある可能性も」


「ございます」


「御前側が確保している可能性も」


「ございます」


「どちらとも分からぬまま、安全だと言い続けていたのか」


 エリーズは、すぐには答えなかった。


「アン様を傷つければ、リリア様は決して、その者たちへ従いません」


「今は必要だから生かしているだけかもしれない」


「アン様を生きてお戻しすることまで含めての計画だと聞いております」


「聞かされた話が偽りだとは考えないのか」


「その可能性がないとは申しません」


 エリーズは静かに答えた。


「私は、指示を伝えた男の言葉を証明できません」


「それでも信じている」


「はい」


「愚かだな」


「そうかもしれません」


 エリーズは目を逸らさなかった。


「ですが、アン様は必ず生きてお戻りになります」


「娘を奪われた父親の前で、確かめようのない話を繰り返すな」


「申し訳ございません」


「謝罪を求めているのではない」


 ハインリヒは手紙を指した。


「事実を話せ」


「はい」


「リリアは地下にいた」


 ハインリヒは続ける。


「行動できる場所も、会う者も限られている。アンを部屋から誘い出し、護衛を動かすより、あの娘一人を連れ出す方が容易だったはずだ」


「祀院は、ローゼンベルク家へ痛手を与えようとしていたと聞いております」


「だからアンを選んだ」


「はい」


「それだけではないな」


 エリーズの瞳がかすかに動いた。


「おまえへ指示した男の側も、アンを必要とした」


「はい」


「なぜだ」


 ハインリヒは、机の上のアンの手紙へ目を落とした。


 黒き百合を返してください。


 そうすれば、白き花を朝露の庭へ戻します。


「なぜ、わざわざアンを人質にし、リリア自身を動かそうとする」


 エリーズは、すぐには答えなかった。


「知らないのか」


「詳しい仕組みまでは存じません」


「何を知っている」


「母から聞かされていた言葉がございます」


「話せ」


 エリーズは慎重に口を開いた。


「黒百合は、自らのためには決して咲かない花だと」


 オットーの羽根ペンが止まった。


 ヨーゼフも、すぐには問いを挟まなかった。


 ハインリヒの指が、机の上で動きを止める。


 証拠と証言だけを積み上げてきた石室へ、理屈では測れない古い伝承の理が置かれた。


「どういう意味だ」


 やがて、ハインリヒが尋ねた。


「黒百合の力は、自分自身を守るためには現れない。守りたい方のためにだけ咲くのだと」


「誰から聞いた」


「母からです」


「それだけか」


「はい。どのような条件があるのかまでは存じません」


「ならば、リリア自身を危険へさらしても、力は使えない」


「そう教えられております」


「だが、アンが危険にさらされれば、リリアの花が咲くかもしれぬ」


「……はい」


「アンを助けるために」


 ハインリヒの手が、机の上で強く握られる。


「おまえは、それを知っていた。だから、娘を餌にした」


 エリーズの顔が強張った。


「違うとは言わせない」


「……はい」


「祀院からアンを守るためであろうと、リリアを連れ出すためであろうと、したことは同じだ」


 ハインリヒの声が低くなる。


 エリーズは、アンの手紙へ視線を落とした。


 どうか、リリアを責めないでください。


 リリアは、悪い子ではありません。


「はい」


 掠れた声が落ちた。


「そのとおりでございます」


 ハインリヒは、娘の手紙を取り上げた。


 リリア自身を脅しても、黒百合は咲かない。


 だから、アンが選ばれた。


 机の上で、燭台の炎が揺れていた。


 その光の下に並ぶ二通の手紙。


 偽りの手紙で、アンを屋敷の外へ。


 アン自身の手紙で、今度はリリアを外へ。


 ハインリヒは、幼い文字の最後に書かれた要求を見つめた。


 黒き百合を返してください。


 返さなければ、娘は戻らない。


 その意味だけは、どれほど詩的な言葉で包んでも変わらなかった。



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