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第二十二話 母の選択

エリーズは、自らの家系と母から受け継いだ役目、男から示されていた逃走経路、そしてリリアが屋敷で受けてきた扱いについても、知る限りを供述した。


 エリーズが北棟地下牢の最奥にある厳重監房へ連れていかれると、アンの手紙と包みは、ハインリヒの書斎へ移された。


 ヨーゼフはすでに、エリーズの供述にあった逃走経路と厨房通用門の再調査へ向かっている。


 マリアンネは、父の机の前に立っていた。


 机の上には、黒い布。


 切られた銀糸。


 黒百合に似た墨印の紙片。


 その中央に、アンの手紙が開かれている。


 お父様。


 お母様。


 アンは生きています。


 怪我はしていません。


 怖いけれど、泣いてばかりではありません。


 どうか、クララを責めないでください。


 リリアも責めないでください。


 リリアは、悪い子ではありません。


 マリアンネは、もう一度目で追った。


 小さく、少し丸みを帯びた字。


 急いだ時には、文字の終わりが右上へ跳ねる。


 母へ宛てた短い手紙。


 父の誕生日に添えた祝いの札。


 庭で見つけた花の名を書き留めた紙片。


 アンが幼い頃から書いてきた字だった。


 だからこそ、その下の二行が恐ろしい。


 黒き百合を返してください。


 そうすれば、白き花を朝露の庭へ戻します。


 文字はアンのものだった。


 けれど、言葉はアンのものではない。


 最後の二行だけ、筆の運びが硬い。


 誰かに示された文章を、そのまま書き写したのだろう。


 黒き百合。


 白き花。


 遠回しな言葉で飾られていても、意味は一つだった。


 リリアを差し出せ。


 それが、アンを返す条件だった。


「奥様がお越しです」


 扉の外から声がした。


「通せ」


 父が答えた。


 マリアンネは姿勢を正した。


 扉が開き、イザベラが入ってきた。


 顔色は悪かった。


 それでも、髪も衣服も乱れてはいない。


 いつもなら半歩後ろに控えているはずのエリーズの姿はなかった。


 母の手袋をはめた指先だけが、細かく揺れていた。


「アンの手紙だと聞きました」


 父は黙って手紙を差し出した。


 イザベラは両手で受け取った。


 最初の一行を見た瞬間、息を止める。


 お父様。


 お母様。


 手袋越しの指が、その文字をなぞった。


 アンは生きています。


 怪我はしていません。


 そこまで読むと、母の肩から僅かに力が抜けた。


 だが、次の行で指が止まる。


 どうか、クララを責めないでください。


 リリアも責めないでください。


「なぜ……」


 母は一度、唇を閉じた。


「なぜ、あの子は、まだリリアのことを」


 ようやく出た声は、ひどく掠れていた。


 マリアンネは母を見た。


 まだ。


 その一言が、胸へ引っかかった。


 アンにとって、リリアを心配することは、過去の習慣ではない。


 三年前に終わったものでもない。


 今も変わらず、アンの中にある。


 母だけが、それを昔のものとして扱おうとしていた。


 イザベラは最後の二行へ目を移した。


 黒き百合を返してください。


 そうすれば、白き花を朝露の庭へ戻します。


「黒き百合」


 母の声が低くなった。


「やはり、あの子がいるからではありませんか」


 オットーは帳面から顔を上げない。


「アンは、リリアを責めるなと書いている」


 ハインリヒが言った。


「書かされたのでしょう」


「最後の二行は、そうだろう」


「そこだけではありません」


 母の声が鋭さを帯びる。


「リリアがいるから、アンは狙われたのです」


 涙に濡れた目に、怒りが浮かび、すぐに恐怖へ変わった。


「三年前もそうでした。あの子の力が現れたあと、アンは一週間も目を覚まさなかった」


「分かっている」


「今度も同じです。リリアの名でアンは外へ出た。そして今、黒百合を返せと要求されている」


「アンを誘い出した手紙は、リリアが書いたものではない」


「どうして言い切れるのです」


 父は、机の端に置かれていた別の紙を手に取った。


 アンの部屋から見つかった、リリア名義の手紙。


 アン様。


 奥様のお叱りを受けました。


 もうここに居られないかもしれません。


 怖くて、誰を頼ればいいのか分かりません。


 真夜中に、私たちの秘密の場所に来てください。


 お一人で。


 お願いです。


 リリア。


「香草瓶の小札と照合した。リリア本人の字ではない」


 父が言った。


「よく似ています」


「似せてある」


 マリアンネも、すでに確認していた。


 小さく右へ傾く文字。


 細く流れるような終筆。


 特徴はよくまねられている。


 だが、本人の字にしては整いすぎていた。


「それでも、アンはリリアの手紙だと思った」


 イザベラは、偽手紙を見つめた。


 アンはこれを読んだ。


 リリアが母に叱られ、この屋敷から追い出されるかもしれないと思った。


 だから一人で、夜の中庭へ向かった。


「アンは……」


 母は言葉を探すように息を吸った。


「なぜ、私に見せなかったの」


 答えは、偽手紙の中にあった。


 奥様のお叱りを受けました。


「お母様に知られれば、リリアが罰せられると思ったのです」


 マリアンネが言った。


 母がこちらを向く。


「そんなことはありません」


「アンは、そう思ったのです」


「私は、理由もなくリリアを罰したことなどありません」


「理由があれば、罰すると思われていたのでしょう」


「マリアンネ」


 咎めるように名前を呼ばれた。


 けれど、マリアンネは目を逸らさなかった。


「アンが、どう思っていたかの話です」


 母は答えられなかった。


 指に力が入る。


「クララは」


 逃れるように母が言った。


「クララは、この手紙を知っていたのですか」


「知らなかった」


 父が答えた。


「偽の呼び札で、部屋から出された」


「誰が、その札を」


 父は母を見た。


「……エリーズだ」


 イザベラの表情が止まった。


「……何を、おっしゃっているのです」


「エリーズが自白した」


 手紙が、母の指から滑りかけた。


「嘘です」


「本人が認めた」


「そのようなはずはありません」


「アンへ偽手紙を渡したのも、クララを部屋から離すため、おまえの名を使った札を用意したのもエリーズだ」


「違います」


 母は首を横へ振った。


「エリーズは、私に長年仕えてきたのです」


「だからこそ、アンも疑わなかった」


「あり得ません」


「アンは、エリーズがリリアへ冷たくしないことを見ていた」


 母の唇が止まる。


「エリーズなら、リリアから手紙を預かってもおかしくない。リリアを陥れる者ではないと信じた」


「エリーズが、リリアに?」


「誰にも見咎められないところで、僅かに気を配っていたそうだ」


 温かいパン。


 寒い夜の毛布。


 廊下で顔を合わせた時の挨拶。


 どれも、目立つことではなかった。


 マリアンネも知らなかった。


 だが、アンは見ていた。


 誰がリリアを避けるのか。


 誰が、人の目がない場所では普通に接するのか。


 優しく接するのか。


「アンはエリーズを信じた」


 父が続けた。


「その信頼が利用された」


「なぜ、エリーズがそんなことを」


「エリーズの家は、祖父母の代からヤシャラへつながっていた」


「間者だと言うのですか」


「ああ」


「そんな……」


 母は椅子の背へ手をついた。


 マリアンネにも、すぐには信じられなかった。


 エリーズは、いつも母のそばにいた。


 朝には髪を整え。


 夜には薬を確かめ。


 眠れない時には薄い茶を淹れる。


 娘たちの成長も、父母の諍いも、屋敷の内情も知っていた。


「だから、姿を見せなかったのですか」


「取調べの後、北棟の監房へ入れた」


「私のそばにいた年月も、すべて偽りだったのですか」


「本人は違うと供述した」


「間者の言葉を信じるの」


「信じてはいない。供述を伝えている」


「何と言ったのです」


「ローダンの民として生き、この屋敷の侍女として死にたかったと」


 母の顔が歪んだ。


「ならば、なぜ」


「リリアのためだ」


「リリア?」


「ヤシャラという国は信じきっていない。だが、黒百合の巫女は信じていると」


「黒百合の巫女を……」


「おまえから聞いた話も覚えていた」


 母が顔を上げる。


「私から?」


「ヴェルディア領では、黒百合の巫女と騎士の恋物語を、吟遊詩人が歌う」


 その言葉を聞いた瞬間、マリアンネの中にも遠い記憶が戻った。


 まだ幼かったリリア。


 母の前へ座らされ、黒い髪を櫛で梳かれていた。


 光を受けると、髪は菫色に艶めいた。


 隣にいたアンが、自分も黒い髪がよかったと頬を膨らませる。


 母は笑って言った。


 ヴェルディアなら、皆が羨ましがるわ。


 黒百合の巫女と騎士の歌を聞いた娘たちは、黒い髪に憧れるのよ、と。


「覚えているか」


 父が尋ねた。


「……ええ」


「エリーズも、その場にいたそうだ」


 母の顔から、記憶の柔らかさが消えた。


「それほど可愛がっていたリリアを、なぜ切り捨てた」


「事件があったからです」


「その前からだ」


 書斎に沈黙が落ちた。


「エリーズは、事件前から、リリアが家臣の妻や子ども、その使用人たちに疎まれていたと供述した」


 マリアンネは母を見た。


 驚いた顔ではなかった。


 母の指は、すでに椅子の背を強く掴んでいる。


「茶会で、リリアの席だけが用意されなかった。黒い髪を不吉だと囁かれた」


「子ども同士のことです」


「乗馬用の手袋を、水桶へ沈められたこともあった」


「……」


「知っていたのか」


 母はすぐには答えなかった。


「答えろ」


「すべてではありません」


「手袋のことは」


「聞いていました」


 マリアンネは息を止めた。


 知らなかった。


 リリアがそのようなことをされていたことも。


 母が知っていたことも。


「なぜ止めなかった」


 父が尋ねた。


 母は、ゆっくりと顔を上げた。


「リリアが、自分で乗り越えなければならないことだったからです」


「いじめをか」


「家臣たちの反発をです」


 声に、昔の確信が戻っていく。


「あの子には身分がありませんでした。それでも私は、いずれアンのそばに立つ者になってほしいと願っていました」


「だから、黙って見ていた」


「私が庇えば、あの子は私の庇護なしでは立てなくなります」


「まだ子どもだった」


「だからこそです」


 母の声が強くなった。


「幼いうちに、自分の置かれた立場を知る必要がありました。身分のない者がアンのそばに立てば、何を言われるのか。どのような目を向けられるのか」


「あの子を私の陰へ隠したままにはしたくなかったのです。自分の力で、認められるようになってほしかった」


 母は、本当にそう信じていたのだろう。


 リリアを弱いまま守るのではなく、強く育てるための試練。


 アンのそばへ立たせるために必要な痛み。


 けれど。


「リリアは、お母様に助けてほしいとは言わなかったのですか」


 マリアンネが尋ねた。


「一度もありません」


「だから、平気だと思ったのですか」


「自分で乗り越えようとしているのだと思いました」


 父が母を見据えた。


「エリーズは、違うと供述した」


「間者の言葉です」


「では、おまえに聞く」


 父の声は冷静だった。


「リリアが訴えなかったことを、問題がなかった証拠にしたのか」


「私は――」


「濡れた手袋を隠して乾かしていたリリアへ、エリーズが理由を尋ねたそうだ」


 母の呼吸が止まる。


「リリアは、何と答えたと思う」


「……」


「奥様には言わないでください、と」


 母の指が動かなくなった。


「おまえを困らせたくない。家臣の娘たちが屋敷へ来られなくなると、アンが寂しがるからと」


「そんな……」


 マリアンネは、幼いリリアの姿を思い浮かべた。


 泣かず。


 訴えず。


 何事もなかったようにアンの隣へ戻る。


 それを、皆が強さだと思った。


「供述が真実なら」


 父が言った。


「リリアは試練として受け入れていたのではない。おまえとアンを困らせないため、黙っていたことになる」


 母は何も言えなかった。


「エリーズは、あれを試練とは呼ばなかった」


「私を責めたのですか」


「自分も同じだと言った」


「同じ?」


「知りながら、自分の居場所を失いたくなくて黙っていたと」


 母の目から、涙が一筋落ちた。


「それでもエリーズは、誰にも気づかれないところで、リリアへ僅かに手を差し伸べた。アンはそれを見ていた」


「だから、信じた」


「ああ」


「そして、エリーズはその信頼を使った」


「ああ」


 母はアンの手紙へ目を落とした。


 どうか、クララを責めないでください。


 リリアも責めないでください。


 アンは、誰がリリアへ冷たくしていたかを見ていた。


 誰が、母の目がないところで優しくしていたかも。


 マリアンネは胸の奥が冷えていくのを感じた。


 アンが偽手紙を母へ見せなかった理由は、一つではなかった。


 母に知られれば、リリアが罰せられる。


 父に知られても同じことになる。


 姉へ相談すれば、きっと母と父へ話す。


 だからアンは、一人で行った。


「私は……」


 母の喉が詰まり、言葉が途切れた。


「あの子を強くしようとしただけです」


「アンのそばに立てるように」


 マリアンネが言った。


「ええ」


「けれど、アンは、お母様へ相談できなくなりました」


 母はアンの手紙を胸元へ引き寄せた。


「お母様に話せば、リリアが傷つくと思ったからです」


「違います」


「そう思ったから、一人で夜の庭へ出たのです」


「違う」


「今回の敵は、そこにつけ込んだ」


「やめて」


 母の呼吸が浅くなる。


「アンがリリアを守ろうとすることへ」


「やめて!」


 イザベラの声が書斎へ響いた。


 握りしめられた手紙が、乾いた音を立てた。


 マリアンネは口を閉ざした。


 責めたいわけではなかった。


 けれど、もう見ないふりはできない。


 母がリリアを強くしようとした結果。


 アンは、母に頼らずにリリアを守ろうとした。



 しばらくして、母は手紙を胸へ押し当てた。


「エリーズに会わせてください」


「許可できない」


「私の侍女です」


「もう違う」


 父の言葉は冷たかった。


「侍女の身分は剝奪した」


「私に相談もなく?」


「娘の誘拐へ加担した間者だ」


「会わせてほしいと言っているだけです」


「供述が固まるまでは、誰にも会わせない」


「私にも?」


「おまえも例外ではない」


「聞きたいことがあります」


「何をだ」


 母は答えられなかった。


 マリアンネには、聞きたいことが分かる気がした。


 なぜ裏切ったのか。


 母への忠義は、どこまで本物だったのか。


 なぜ母に仕え続けながら、リリアを選んだのか。


 なぜ母より先に、リリアが受けてきた痛みを見ていたのか。


「エリーズは、アンの居場所を知っているのですか」


「知らないと供述している」


「連れ去った者も?」


「知らない」


「それで、アンは戻るのですか」


 父は答えなかった。


 母は手紙を握りしめた。


「敵は、リリアを求めています」


 小さな声だった。


「ならば、差し出せばよいではありませんか」


 書斎の空気が止まった。


 マリアンネは母の顔を見た。


「アンが戻るなら」


 母は続けた。


「アンが戻るのなら、黒百合でも何でも差し出せばいい」


「リリアを勝手に差し出すことは許さない」


「勝手に?」


 母が顔を上げた。


「三年前、あの子の処遇を一人で決めたあなたが、それを言うのですか」


 オットーは帳面へ目を落としたままだった。


「リリアを罪人として地下へ閉じ込めたのは、あなたです」


「おまえも同意した」


「アンを守るためです」


「鞭を十二度打たせることにもか」


 母の唇が止まった。


 マリアンネの脳裏に、鞭痕が浮かんだ。


 あの傷を初めて見た時の衝撃。


 母も知らなかった。


 けれど、知ろうとはしなかった。


「私は、そこまでとは知りませんでした」


「知らなかったから責任がないと?」


「あなたが決めたことでしょう」


「ああ」


 父は否定しなかった。


「私が決めた。そして、おまえは何をしたか聞こうともしなかった」


「アンは、一週間も目を覚まさなかったのです」


「だから、リリアを切り捨てた」


「あなたも同じでしょう」


「ああ」


 父は答えた。


「三年前、私もアンを選んだ」


 マリアンネは父を見た。


 言い訳ではなかった。


 悔いているとも言わない。


 ただ、自分が何を選んだかだけを認めている。


「だが、今回は敵の要求どおりには動かない」


「なぜです」


「リリアを渡せば、こちらに残る手がなくなる」


 父は黒百合の墨印へ目を向けた。


「敵がリリアを得たあと、アンを返す保証はない」


「渡さなければ、アンは戻らないかもしれない」


「それでもだ」


「アンは私の娘です」


「おまえはリリアを娘のように扱っていただろう」


「娘ではありません」


 言葉が落ちた。


 母自身が、その冷たさに息を止めた。


 マリアンネも何も言えなかった。


 幼いリリアの髪を梳いていた母。


 熱を出せば夜通しそばにいた母。


 新しい衣装を仕立て、アンと同じ教師をつけた母。


 その母が、今は娘ではないと言った。


「そうか」


 父の声は平坦だった。


「それがおまえの選択か」


 母は、アンの手紙を胸へ抱いた。


「ほかの母親がどうするかは知りません」


 涙に濡れた目で、父を見た。


「私は母親です。アンを選びます」


 マリアンネの胸が痛んだ。


 母がアンを選ぶことは、理解できる。


 自分だって、妹を取り戻したい。


 今すぐリリアを連れていけば、アンが戻るのなら。


 一瞬も迷わないと言い切れるだろうか。


 けれど、相手の約束に保証はない。


 そしてリリアも、アンを救うためなら、自分から行くと言うだろう。


 だからこそ、本人に選ばせてはならない。


「リリアを渡すことは許可しない」


 父が言った。


「あなたの許可を待って、アンが死んだら?」


「死なせない」


「何を根拠に」


 父は答えなかった。


「クララを縛り、リリアを疑い、エリーズを監房へ入れて」


 母の声が裂けた。


「それで、アンは戻りましたか」


 父は沈黙した。


「私は、もう待てません」


 母の声に迷いはなかった。


「リリアを、手紙が置かれていた場所へ連れていきます」


「相手との接触方法も分からない」


「黒百合を差し出す意思を示せば、向こうから現れます」


「おまえ一人で決めることではない」


「アンの母親です」


「この家の当主は私だ」


「ならば、当主として娘を取り戻してください」


 母の目から涙が落ちた。


「できないのなら、母親である私が選びます」


「お母様」


 マリアンネは、ようやく声を出した。


 母がこちらを見る。


「リリアを連れていけば、あの子は拒みません」


「ならば――」


「アンを助けるためなら、自分から差し出されます」


 母の顔に、一瞬だけ安堵が浮かんだ。


 それを見て、マリアンネの胸がさらに冷えた。


「だから、駄目です」


「マリアンネ」


「リリア自身に選ばせれば、あの子は自分を捨てます」


「アンを見捨てろと言うのですか」


「違います」


 マリアンネは首を横へ振った。


「どちらか一人を差し出さなければならないと、敵に決めさせてはいけないと言っているのです」


「では、どうするの」


 母の声は、怒りよりも悲鳴に近かった。


「どうやって、アンを取り戻すの」


 マリアンネは答えられなかった。


 その時だった。


 屋敷の外から、馬蹄の音が響いた。


 一頭ではない。


 揃った蹄が、正門から中庭へ入ってくる。


 書斎の窓硝子が、かすかに鳴った。


 廊下の向こうから、硬い靴音が近づいてくる。


 護衛が扉の前で声を上げた。


「旦那様」


「何だ」


「王室騎士団が到着しました」


「使者だけか」


「いいえ」


 扉の外の護衛が答えた。


「騎士団本隊が、正門前におります」


「誰が率いている」


「レオナール・グレイヴス卿です」


 マリアンネは窓の方を見た。


 灰色の外套をまとった騎士たちの姿は、まだここからは見えない。





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