第二十三話 王室の剣
正門が開くと、ヴィクトルは手綱を握り直した。
王室騎士団の騎馬列が、朝霧の残る中庭へ入っていく。
揃った蹄が濡れた敷石を打ち、灰色の外套が風を受けて翻った。
胸元には、王冠を抱く獅子の銀紋。
半年前、初めてこの門をくぐった時とは、何もかもが違っている。
あの時、身につけていたのは、飾り気のない質素な服だった。
今は濃紺の騎士服に銀糸の飾緒。
腰には、王室騎士団から授けられた剣を帯びている。
それでも屋敷を見上げた瞬間、脳裏に浮かんだのは任務ではなかった。
厨房奥の果実貯蔵室にいる、リリア。
半地下にある果実貯蔵室の換気窓は、外の排水溝に面しているが、中から中庭を見ることはできないだろう。
騎馬隊が入ってきたことは、蹄の音で分かるかもしれない。
だが、その隊列の中にヴィクトルがいるとは思いもしないはずだ。
ヴィクトルは厨房側へ向きかけていた視線を正面へ戻した。
玄関前には、ローゼンベルク家の騎士たちが整列していた。
石階段の上には、ハインリヒ・ローゼンベルク。
その隣には、マリアンネが立っている。
剣へ手をかけている者はいない。
しかし、王室騎士団を歓迎する空気でもなかった。
当然だ。
ヴィクトルは客として、この屋敷に滞在していたのではない。
王室の命を受け、内情を探るために入り込んでいた。
馬を止め、団員へ手綱を預ける。
濡れた敷石へ降り立つと、鞘の金具が低く鳴った。
見慣れた使用人たちが、玄関脇からこちらを見ている。
同じ使用人部屋で食事をした者。
水汲みや薪運びを共にした者。
誰も声を上げなかった。
その目にあるのは、驚きと警戒だった。
従僕見習いとして働いていた青年が、王室の紋を着け、剣を帯びて戻ってきたのだ。
「進むぞ」
レオナールの声が飛ぶ。
ヴィクトルは王室の剣として、再びローゼンベルク家の扉をくぐった。
◆
大広間には、花も音楽もなかった。
磨かれた床へ、騎士たちの靴音だけが響いている。
ハインリヒは上座に立っていた。
その隣にはマリアンネ。
少し離れた場所には、王室騎士団到着の報を受けて現場から戻ったヨーゼフと、オットーが控えている。
イザベラの姿はなかった。
王室騎士団の到着が告げられたあとも、イザベラはリリアを差し出すべきだと繰り返した。
ハインリヒは侍女を呼び、東棟の私室へ戻るよう命じた。
拒まれると、部屋の前へ家の騎士を二人置いた。
騎士団の先頭に立つ男が、一歩前へ出る。
四十代半ばほど。
短く切りそろえた銀髪。
感情の見えにくい、薄い灰色の目。
整った礼を取っているだけで、大広間の緊張が男の周囲へ集まっていく。
「王室騎士団第二隊長、レオナール・グレイヴス」
男は名乗った。
「王命により、参上いたしました」
低く、よく通る声だった。
ハインリヒは儀礼どおりの礼を返した。
「予告もなく、本隊を率いてくるとは思わなかった」
「一刻を争う事案と判断しました」
「何を根拠に」
「アン・ローゼンベルク嬢の失踪。リリアの名を騙ってアン嬢を誘い出した手紙。そして、黒百合を要求する脅迫文」
レオナールは淀みなく答えた。
「王室が動くには十分です」
「到着する直前に、新たな証拠が出た」
「拝見します」
「まず、娘からの手紙だ」
オットーが一歩進み、アンの手紙を差し出した。
レオナールは手袋をはめたまま受け取り、紙面へ目を走らせる。
表情は変わらない。
最後の二行に至ったところで、視線だけが止まった。
黒き百合を返してください。
そうすれば、白き花を朝露の庭へ戻します。
「筆跡は」
「アン本人のものだ」
ハインリヒが答えた。
「最後の二行だけは、誰かに書かされたと見ている」
「それ以前の文は」
「娘自身の言葉だろう」
レオナールは、クララとリリアを責めないでほしいと書かれた箇所を改めて確認した。
「封はされていなかったのですね」
「ああ」
「紙、墨、付着物は」
「調べた。毒や薬粉、仕掛け針の類いは見つかっていない」
「騎士団でも再検分します」
許可を求める口調ではなかった。
ハインリヒの眉が動いたが、異を唱えなかった。
「もう一つある」
オットーが黒い帳面を差し出した。
「奥方付きの侍女、エリーズの供述記録です」
「エリーズ?」
レオナールの視線が鋭くなる。
「アンを誘い出す工作へ加担したことを認めた」
後方の騎士たちが、一斉に帳面へ目を向ける。
「リリア名義の偽手紙をアンへ渡した。アン付きの侍女を部屋から離すため、イザベラ名義の偽札も用意した」
「動機は」
「リリアを、この屋敷から出すためだ」
レオナールは帳面を開き、供述へ目を通した。
「祀院強硬派が誘拐を計画し、御前と呼ばれる人物の側が、その計画へ介入した。そう聞かされたと供述しているのですね」
「ああ。ただし、本人が直接確かめた事実ではない。指示を伝えた男から聞かされた話だ」
「男の名も、御前の正体も、アン嬢の居場所も知らない」
「そう供述している」
レオナールは帳面から顔を上げた。
「祀院へ罪を負わせるために、与えられた説明である可能性もあります」
「エリーズ自身も、それは認めている」
「であれば、現段階で黒幕を一つの勢力に断定すべきではありません」
祀院の強硬派。
御前と呼ばれる人物の配下。
あるいは、その双方を利用している別の者。
誰が敵であっても、アンが連れ去られ、リリアを要求されている事実は変わらない。
「エリーズはどこに」
「北棟地下牢の厳重監房だ」
「後ほど、騎士団でも聴取します」
「我が家の囚人だ」
「王命に関わる事件の重要参考人です」
レオナールの返答を、ハインリヒの視線が受け止めた。
マリアンネは二人を見比べた。
王室騎士団は、アンを捜しに来た。
そして、屋敷へ足を踏み入れた瞬間から、事件に関わるすべてを王室の管理下へ置こうとしている。
「街道、川沿い、森の出口へは、すでに別働隊を出しました」
レオナールが言った。
「手掛かりは」
「まだありません」
短い返答だった。
王室騎士団が来ても、アンが戻ったわけではない。
ただ、屋敷の中に新たな剣が増えただけだった。
◆
マリアンネの目が、騎士団員たちの後方へ向いた。
ヴィクトルが控えている。
従僕見習いだった頃の柔らかな表情は、どこにもなかった。
「ヴィクトル」
ハインリヒが低く呼んだ。
抑えた怒りが、その声に混じっている。
ヴィクトルは一歩前へ出て、深く頭を下げた。
「これまで身分を偽り、お仕えしていたことを、深くお詫び申し上げます」
「改めて確認する」
ハインリヒは青年を見据えた。
「貴殿は、王室騎士団の者で間違いないのだな」
「はい」
ヴィクトルは顔を上げた。
「ローダン王室騎士団所属、ヴィクトル・フォン・エルンストです」
大広間の端に控えていた使用人たちが、ざわめきかけた。
だが、すぐに口をつぐむ。
エルンスト。
古い貴族家の名だった。
由緒はあるが領地は小さく、王都では名ばかりの古家と揶揄されることもある。
マリアンネも、社交界でその名を耳にしたことがあった。
エルンスト家が長く王室へ騎士を送り出してきたことも知っている。
問題は、その家の者が半年もの間、従僕見習いとして屋敷へ入り込んでいたことだった。
「王室は、いつからこの屋敷を見ていた」
ハインリヒが問う。
ヴィクトルは顎を引き、沈黙を守った。
「答えられないのか」
「私の権限でお話しできることではございません」
「半年も我が家へ潜り込んでおきながらか」
ヴィクトルは答えなかった。
代わりに、レオナールが口を開く。
「三年前、東国から流れた薬が、ローゼンベルク家へ渡った記録があります」
ハインリヒの視線がレオナールへ移る。
「あれは、痣の疼きと反応を抑える薬だ」
「その名目で渡されたことは承知しております」
「ならば、何が問題だ」
「王国薬務院の監視対象となっている成分が含まれていました」
「監視対象?」
「意識の混濁や、記憶障害を引き起こす可能性があります」
マリアンネの指が、ドレスの布をつかんだ。
脳裏に、リリアの背中が浮かぶ。
右腕から肩を越え、背中へ広がる黒百合の痣。
三年前より前の記憶を失い、自分がアンと共に育ったことさえ忘れている少女。
「結果として、リリアは三年前より前の記憶を失った」
レオナールが言った。
「副作用は知らされていなかった」
「誰から薬を入手したのです」
ハインリヒは答えなかった。
「仲介した者についても、後ほど聴取します」
「王室は、いつから薬の流れを追っていた」
「半年前です。東国由来の薬品を調べる過程で、この屋敷へ渡った記録が見つかりました」
「だから、ヴィクトルを送り込んだ」
「はい」
ハインリヒの視線が、ヴィクトルへ戻る。
「黒百合を監視するためか」
「黒百合に関する異変と、東国側からの接触を確認するためです」
「リリアだけでなく、我々も見張っていたのか」
「リリアへ近づく者は、すべて報告対象でした」
答えたのはレオナールだった。
ヴィクトルは表情を変えない。
「では、王室騎士団の目的は、アンの捜索だけではないのですね」
マリアンネが言った。
「もちろんです」
レオナールは懐から一通の書状を取り出した。
赤い封蝋には、王冠の印が押されている。
「本日の王命は二つ」
広間にいる者たちの視線が、書状へ集まった。
「アン・ローゼンベルク嬢の捜索」
一度、言葉を切る。
「そして、重要参考人リリアの保護移送です」
大広間の空気が張りつめた。
「リリアを?」
ハインリヒの声が低くなる。
「どこへ連れていく」
「王室の管理下へ」
「場所を聞いている」
「現時点で、貴家へ開示する必要はございません」
「それは本当に保護なのですか」
マリアンネが尋ねた。
「王命には、そのように記されております」
「アンを誘い出した手紙は、リリアが書いたものではありません」
「承知しました」
「エリーズが渡したことも分かっています」
「今、確認しました」
「ならば、なぜリリアを移送するのです」
「彼女が犯人だからではありません」
レオナールは淡々と答えた。
「事件の目的だからです」
マリアンネは返す言葉を失った。
「届いた手紙は、黒百合を要求している。エリーズの供述が事実なら、敵はアン嬢を使い、リリアを動かそうとしている」
「供述には裏づけがない」
ハインリヒが言った。
「手紙の要求にはあります」
レオナールはアンの手紙へ目を向けた。
「さらに、貴家では奥方付きの侍女が工作へ加担していた。ほかの協力者が残っている可能性も否定できません」
「エリーズは捕らえた」
「アン嬢が連れ去られた後にです」
ハインリヒは返答しなかった。
「リリアをここへ置き続ければ、敵は再び屋敷の内部を利用するでしょう」
「王室の管理下なら安全だと言うのか」
「少なくとも、ローゼンベルク家よりは」
ハインリヒの顔から感情が消えた。
だが、否定できる材料はなかった。
この屋敷から、アンは連れ去られた。
古参侍女は外部の指示で動いた。
リリアの名も、アンの信頼も、屋敷の伝令札も利用された。
「移送条件を聞かせろ」
ハインリヒが言った。
レオナールは、王命書の下へ重ねられていた別紙を開いた。
「移送は、二日後の早朝」
マリアンネは、スカートの脇へ下ろしていた手を握った。
「対象の右腕は、移送開始前から拘束します」
「なぜ右腕を」
「黒百合の痣が現れていると報告を受けています」
「拘束すれば、力を抑えられるとでも?」
「少なくとも、行動は制限できます」
「リリアは罪人ではありません」
「重要参考人であり、保護対象です」
「保護対象を縛るのですか」
「未知の力を持つ可能性がある以上、必要な措置です」
レオナールは別紙へ視線を戻した。
「移送前後を含め、面会は認めません。私物の持ち込みも不可」
その声には、温度がなかった。
「王命に従っていただきます」
「拒めば」
ハインリヒが尋ねた。
「王命への不服従として記録します」
「アンの捜索は」
「王国の責務として続けます」
「ならば、リリアの引き渡しとは別だ」
「別ではありません」
レオナールは即座に返した。
「アン嬢の失踪と、黒百合を求める要求は、一つの事件です」
「リリアを渡すつもりはない」
「貴家は三年間、同じ娘を地下へ置いていたと承知しております」
ハインリヒは動かなかった。
マリアンネが一歩前へ出かける。
ヨーゼフが腕を伸ばし、無言で止めた。
レオナールは王命書を卓の上へ置いた。
「交渉ではございません」
赤い封蝋の王冠が、広間の光を鈍く返した。
◆
「エルンスト」
レオナールが呼んだ。
ヴィクトルが一歩前へ出る。
「はい」
「本日中に、対象の所在と身体状況を確認しろ」
一拍置く。
「右腕の痣、拘束の可否、移送経路を報告するように」
「承知しました」
「屋敷側との私情は挟むな」
「はい」
ヴィクトルの返答は低かった。
下ろした手は、指先まで固く握られている。
マリアンネは、その手を見た。
「ハインリヒ卿」
レオナールが向き直る。
「二日後の早朝、リリアを当騎士団へ引き渡していただきます」
ハインリヒは、卓上の王命書を見下ろした。
受け入れれば、リリアは行き先も知らされないまま王室へ引き渡される。
拒めば、ローゼンベルク家は王命へ背いた家として記録される。
どちらを選んでも、アンが戻る保証はない。
「返答は」
レオナールが求めた。
ハインリヒは王命書へ手を伸ばした。
赤い封蝋へ触れる直前、その指が止まる。
そして、書状を取った。
「王命は受け取る」
受諾するとは言わなかった。
レオナールも、それ以上は求めなかった。
◆
果実貯蔵室の外から、複数の足音が近づいてきた。
一人ではない。
見張りが交代する時よりも重く、歩幅まで揃っている。
リリアは椅子から立ち上がった。
地上で幾重もの馬蹄が響いてから、まだそれほど時間は経っていない。
右腕には、シリルから渡された薬草の布を当てていた。
冷たさはもう失われていたが、乾いた葉の香りは残っている。
足音が近づく。
リリアは扉が開く前に布を外し、壁際に固定された棚の前へ膝をついた。
最下段と石床のわずかな隙間へ押し込む。
布は暗がりに隠れた。
立ち上がった直後、鍵穴へ金属が差し込まれた。
錠が外される。
重い扉が内側へ開いた。
廊下の明かりを背に、一人の青年が立っていた。
「……ヴィクトル……さま」
呼びかけた声は、ほとんど息だった。
そこにいたのは、リリアの知る従僕見習いではなかった。
濃紺の騎士服。
肩から下がる銀糸の飾緒。
胸元には、王冠を抱く獅子の紋章。
灰色の外套の下、腰には剣が帯びられている。
その背後には、同じ外套をまとった騎士が二人控えていた。
リリアは言葉もなく、ヴィクトルを見つめた。
驚いているはずなのに、不思議と違和感はない。
庭で物音がすれば、誰よりも早く周囲を確かめていた。
重い荷を持つ時にも、身体の軸が崩れることはなかった。
隠されていたものが、ようやく本来の形へ戻ったように思えた。
「王室騎士団の命令だ」
ヴィクトルが告げた。
「身体の状態の確認と聴取を行う」
以前のような柔らかさは、声になかった。
リリアの視線が、胸元の銀紋から腰の剣へ移る。
「騎士さまだったのですね」
「ああ」
返事は、それだけだった。
ヴィクトルは廊下へ出るよう、手で示した。
「行こう」
リリアはうなずき、扉へ向かう。
すれ違う間際、もう一度ヴィクトルを見上げた。
濃紺の騎士服。
腰に帯びた剣。
命令を受けて立つ姿。
どれも、不思議なほど彼に馴染んでいた。
凛々しく、従僕見習いだった頃よりも遠く見える。
驚きの奥へ、静かな納得が落ちた。
リリアは彼の横を通り、果実貯蔵室を出た。
ヴィクトルが前を歩き、王室騎士たちが後ろへ続く。
従僕見習いだったヴィクトルは、もうどこにもいない。
そこにいるのは、王命を帯びた一人の騎士だった。




