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第二十四話 記録のない少女

ヴィクトルは半歩前を歩いた。


 王室騎士団の二人が、リリアの左右につく。


 どちらへ動いても、すぐ騎士の腕へ触れる距離だった。


 胸の奥には、昨日聞いた声が残っている。


 生きていろ。


 シリルの言葉。


 リリアは、それだけを握りしめるようにして階段を上った。



 通されたのは、小広間ではなかった。


 屋敷の北側にある、古い石造りの部屋だった。


 窓は高く、細い。


 石壁は厚く、外の物音もほとんど届かない。


 見覚えはない。


 それでも、扉が閉じられた途端、背中の古い傷がひきつった。


 部屋の中央には、長机が置かれている。


 その向こうに、王室騎士団の男が立っていた。


「王室騎士団第二隊長、レオナール・グレイヴスだ」


 薄い灰色の目が、リリアを正面から捉える。


「これより、アン・ローゼンベルク嬢失踪事件、およびお前の身元に関する聴取を行う」


「はい」


 レオナールの隣には、王室騎士団の書記官が控えていた。


 黒い革表紙の帳面を開き、羽根ペンを構えている。


 机の脇にはハインリヒ。


 その少し後ろには、屋敷側の記録を確認するためオットーがいる。


 リリアの背後にはヴィクトル。


 ほかに、王室騎士団の騎士が二人。


「座れ」


 レオナールが言った。


 机の前には、背もたれと肘掛けのある木椅子が一脚だけ置かれていた。


 リリアの足が止まる。


「聞こえなかったか」


「いえ。失礼いたします」


 椅子へ腰を下ろした。


 指先が肘掛けへ触れた瞬間、身体の奥から知らない感覚が浮かび上がった。


 冷たい木の感触。右腕を締める革。鞘走る刃の音。帳面を開く乾いた響き。


 どこで経験したものなのか、分からない。


「右腕の痣を見せろ」


 リリアは左手で袖口の釦へ触れた。


 一度、指が滑る。


 もう一度つまみ直し、釦を外した。


 袖を肘近くまでまくり上げる。


 白い肌の上に、黒い痣が浮かんでいた。


 花弁の縁を思わせる細い線が手首から肘へ走り、その先は袖の奥へ消えている。


 レオナールがオットーへ問いを投げた。


「以前の検分記録と比べてどうだ」


 オットーは持参した帳面を開いた。


「黒漆の小箱が届いた日に確認した時より、線が濃くなっています」


「疼きは」


 今度はリリアへの問いだった。


「まだ、少し」


 レオナールは痣の形をしばらく確かめた。


「そのまま右腕を肘掛けへ置け」


 リリアは従った。


 王室騎士の一人が、幅の広い革帯を取り出す。


 革が視界へ入った途端、膝の上の左手が固く閉じた。


「拘束は必要ない」


 ハインリヒが言った。


「必要かどうかは、王室騎士団が判断します」


「聴取そのものには異を唱えていない。罪人のように扱うことまでは認めていない」


「本日の確認項目には、移送時に用いる拘束方法の確認も含まれています」


 レオナールは口調を変えなかった。


「動きを止めるだけでいい。皮膚を傷つけるな」


 革帯が右手首より少し上へ回された。


 肘掛けとの間には、指一本ほどの余裕が残されている。


 痛くはない。


 腕を引けば、革がそれ以上の動きを許さない。


 背後で、ヴィクトルの靴底が石床をかすかに擦った。


「始める」


 レオナールが書記官へ告げる。


 羽根ペンが紙へ触れた。


 かり、かり。


 乾いた音が石壁へ返ってきた。



「名を」


「リリアでございます」


「家名は」


「分かりません」


「生家は」


「分かりません」


「母親の名は」


 膝の上で指先が動いた。


「ミレナと聞いております」


「誰から聞いた」


「旦那様からです」


「父親は」


「存じません」


「生まれた場所は」


「分かりません」


「この屋敷へ来たのは、いつだ」


 リリアは少し迷った。


「四歳頃だったと、聞いております」


「誰から」


「ジューンさんからです」


 羽根ペンが止まった。


「記録は」


 問われたオットーが、別の革綴じの記録簿を机へ載せた。


 何枚か頁を繰り、指を止める。


「十余年前の家内記録です」


「読め」


「『リリア。四歳ほど。故ミレナの娘。奥方様の御恩人の遺児として引き取る』」


 オットーが次の行を追う。


「『ジューンの生家より当家へ移す。奥方様の庇護下に置く』とあります」


「出生地は」


「記載がありません」


「父親の名は」


「ありません」


「家名」


「ありません」


「生年月日」


「正確なものは記録されておりません」


「出生を証明する書類は」


「残っておりません」


 そこでレオナールは一度、言葉を切った。


「身元を保証した者は」


 オットーが答えるまでに、短い間が生まれた。


「形式上は、奥方様です」


「形式上?」


「ミレナという女性が奥方様の恩人であり、その遺児であると」


「誰が証明した」


 誰も答えなかった。


 机の端へ置かれていたレオナールの指が、一度だけ動く。


「侯爵家が、父親も出生地も家名も不明な四歳ほどの子供を引き取った」


「妻の恩人の娘だった」


 ハインリヒが答える。


「当時は、それで十分だった」


「侯爵家の内部では、でしょう」


 声に皮肉はなかった。


「その恩人――ミレナの身元を示す記録は」


 オットーが記録簿を確かめる。


「ほとんど残っておりません」


「ほとんど、とは」


「奥方様と接点があったこと。その娘をジューンが預かっていたこと。それ以上の来歴について、正式な記録はありません」


「ミレナの死は誰が確認した」


 オットーの返答が止まった。


「この屋敷へリリアを連れてきたのは」


「ジューンです」


「ならば、ジューン殿から別途聴取する」


 リリアが思わず顔を上げた。


「ジューンさんを……?」


「お前を疑っているからではない」


 返答は早かった。


「身元を確認するためだ。四歳以前のお前を知る者がいるなら、その者から聞く」


 リリアは何も返せなかった。


 自分がどこから来たのかを知るために、自分ではなく別の人間から話を聞かなければならない。


「ミレナの遺品は」


 今度はハインリヒが答えた。


「私の知る限りでは、残っていない」


「奥方にも確認します」


「イザベラは今――」


「状態は承知しています。時期はこちらで判断する」


 レオナールは書記官へ命じた。


「記録しろ。リリア。推定四歳でローゼンベルク家へ入る。母ミレナ。父親、出生地、家名、生年月日はいずれも不明。出生を裏づける公的な記録なし。引き取り時の事情を知る主な証言者は、奥方イザベラ・ローゼンベルクと女中頭ジューン」


 羽根ペンが走る。


 かり、かり。


 リリアは肘掛けの木目を追った。


 四歳頃の自分について残されているのは、母の名と、ジューンの生家からここへ来たという数行だけだった。


「記憶は、どこから途切れている」


「三年ほど前より以前のことは、覚えておりません」


「つまり、お前自身が知っている経歴は、三年前以降だけだな」


「……はい」


「四歳以前だけではない。ここへ来てから十三歳頃までの記憶も失っている」


「はい」


 紙を擦る音が続く。


 聞いているうちに、リリアの指がまた裾をつかんだ。


「その音が怖いか」


「……いいえ」


「左手に力が入った」


 自分の手を見下ろす。


「申し訳ございません」


「なぜ謝る」


「正しく答えられなかったからです」


「怖いのだな」


 返事が遅れた。


「……はい」


「何を思い出す」


「分かりません」


「記憶はなくても、身体は覚えている?」


 リリアは小さく頷いた。


「はい」


 レオナールが顎をわずかに動かすと、書記官の羽根ペンが再び走り出した。


 その乾いた音へ重なるように、知らない声が耳の奥へ落ちた。


 答えろ。


 隠すな。


 裾をつかむ指に力が入る。


「屋敷側の聴取記録には、特定の言葉を聞いた際、痣の疼きが強まったとある」


「はい」


「これからいくつか言葉を挙げる。痛みでも、見えたものでも、聞こえたものでもいい。変化があれば、曖昧でも答えろ」


「はい」


「ヤシャラ」


 痣の奥で、熱が脈打った。


 一瞬だけ白い壁が浮かび、その前で薄い布が風をはらんだ。


 形を捉える前に消えてしまう。


「熱くなりました」


「ほかには」


「白い壁のようなものを……見た気がします」


「場所は」


「分かりません」


「黒百合」


 黒い線の奥へ、細い針を差し込まれたような痛みが走った。


「痛みます」


「何か見えたか」


「いいえ」


「ミレナ」


 黒い髪の女が振り返った。


 顔は見えない。


 光を受けた髪だけが、菫色に揺れた。


「女の人が……」


「顔は」


「見えません」


「お前の母親か」


「分かりません」


 その花を見せてはならない。


 低く、切迫した声が胸の奥で弾けた。


 リリアの左手が裾から離れる。


「何だ」


「声が……」


「誰の声だ」


「分かりません」


「何と言った」


 聞こえた言葉を、そのまま口へ出した。


「その花を、見せてはならないと」


 羽根ペンの速度が上がる。


「黒百合とは何だ」


「分かりません」


「ヤシャラとは」


「国の名だとしか」


「お前を返せという要求に、心当たりは」


「ありません」


「本当にないのか」


「はい」


 レオナールはしばらく黙った。


 次に口を開いた時、問いは変わっていた。


「三年前のことを聞く」



「三年前、アン・ローゼンベルク嬢に何をした」


 リリアは俯いた。


「覚えておりません」


「アン嬢が落馬しかけたことは」


「聞いております」


「お前が力を使ったことは」


「聞いております」


「アン嬢が一週間、目を覚まさなかったことも」


「はい」


「なぜ罰を受けた」


 背中の傷が、服の下でひきつる。


「アン様を傷つけたからだと、聞いております」


「罰の内容は」


「覚えておりません」


「背中に鞭の痕がある」


「はい」


「自分の身に起きたことだぞ」


「申し訳ございません」


「謝罪は求めていない」


 リリアは口を閉ざした。


「なぜ鞭打ちを受けたと思う」


「私が、悪いことをしたからです」


「何をした」


「覚えておりません」


「覚えていない行為を、悪いことだったと信じているのか」


「皆様が、そうおっしゃるので」


 短い沈黙のあと、レオナールはハインリヒへ問いを向けた。


「鞭打ちの回数は」


「今は、この娘への聴取だ」


「事件後の処置は、本人の記憶障害と無関係ではありません」


「必要なことは記録にある」


「執行した者からも確認します」


 レオナールが入口近くの騎士へ命じた。


「当時の執行責任者を呼べ」


 騎士が部屋を出ていった。


 やがて扉が開く。


 入ってきたヨーゼフの外套には、外気の湿り気が残っていた。


「お呼びでしょうか」


「三年前のリリアへの処罰について確認する」


 レオナールが言った。


「鞭打ちの回数は」


「十二回です」


 ヨーゼフの答えに迷いはなかった。


「執行したのは」


「私です」


 リリアは顔を上げなかった。


「誰の命令だ」


 一拍置いて、ヨーゼフが答えた。


「ハインリヒ様です」


「王室への報告は」


「しておりません」


「処分記録は」


 オットーが答える。


「屋敷内の記録として残っております」


「黒百合の痣を持つ十三歳の少女が、侯爵家の令嬢へ力を使った。その後、十二回の鞭打ちを受け、三か月後には東国由来の薬を飲み、それ以前の記憶を失った」


 レオナールが書記官へ告げる。


「いずれも王室への正式な報告はない。記録しろ」


「屋敷内の問題だった」


 ハインリヒが言った。


「当時、黒百合だという確証はなかった」


「確証がないまま、痣の反応を抑える薬を与えたのですか」


「アンを守るために必要だった」


「そのために、この娘へ記憶障害を起こす可能性のある薬を与えた」


「副作用は知らされていなかった」


「結果は残っています」


 レオナールは机の上の記録簿を閉じた。


「本人は三年前より前の自分を知らない。四歳以前については、屋敷側にも満足な記録がない」


 ハインリヒは答えなかった。


「レオナール卿」


 ヨーゼフが口を挟む。


「事実確認なら、必要なことだけを」


「必要なことを確認しています」


 声の温度は変わらない。


「事件の全容も、処分の詳細も本人へ知らせない。王室へも報告しない。接触する者を制限し、痣の反応は薬で抑える」


 閉じた記録簿を指先で押さえる。


「その一方で、出生地も父親も分からない娘を十年以上、侯爵家の内部に置いてきた」


「王室の判断が、常に正しいとでも思っているのか」


「正しさを論じるために来たのではありません」


 レオナールは答えた。


「王命に関わる事実を確認し、以後の管理権限を明確にするために来ました」


 革帯に押さえられた右腕が、ひどく他人のもののように思えた。


 自分の過去について話しているのに、知っているのは周囲の人間ばかりだ。


 四歳頃にこの家へ来たことも、三年前に何をしたのかも、自分には記憶がない。


 守られてきたのか。


 閉じ込められてきたのか。


 それを判断する材料さえ、リリアには与えられていなかった。


「ヨーゼフ殿、もう結構です」


 ヨーゼフはわずかに間を置いた。


 何も言わず、一礼して部屋を出ていく。


 扉が閉じると、羽根ペンの音だけが残った。



 レオナールが、机の上へ二枚の手紙を置いた。


 一枚は、アンの部屋から見つかった手紙。


 もう一枚は、リリアがまだ見たことのない紙だった。


「顔を上げろ」


 リリアは従った。


「読め」


 紙が、リリアの前へ置かれる。


 お父様。


 お母様。


 アンは生きています。


 怪我はしていません。


 怖いけれど、泣いてばかりではありません。


 そこまで読んだところで、指先が紙の上で止まった。


 小さく、少し丸みを帯びた字。


 急いだ時には、文字の終わりが右上へ跳ねる。


 見覚えがあった。


 アンが香草の名を尋ねるために残した、小さな札と同じ癖だった。


 先を読む。


 どうか、クララを責めないでください。


 リリアも責めないでください。


 リリアは、悪い子ではありません。


 文字の輪郭が滲んだ。


 右腕を動かしかけ、革帯が小さく軋む。


「アン様……」


 声が漏れた。


 レオナールは口を挟まなかった。


「本人の字だと思うか」


「はい」


「根拠は」


「小さくて、少し丸い字です。急いで書かれると、文字の終わりが右上へ跳ねます」


「最後まで読め」


 涙を拭うこともできないまま、読み進める。


 黒き百合を返してください。


 そうすれば、白き花を朝露の庭へ戻します。


 筆跡は同じだった。


 文章だけが、アンの声から遠く離れていた。


「これは……アン様の言葉ではありません」


「なぜ分かる」


「アン様は、ご自分を白い花などとお呼びになりません」


「では、誰の言葉だ」


「分かりません」


「黒き百合とは」


 右腕の痣が疼いた。


「私のことだと思います」


「返すとは、どこへ返すという意味だ」


「分かりません」


「誰へ返す」


「分かりません」


「なぜ、お前が返される側なのだ」


 答えを探しても、記憶の中には何もなかった。


「分かりません」


 レオナールは古い家内記録を手元へ引き寄せた。


「父親は不明。出生地も不明。四歳以前の記録もない」


 リリアの胸が詰まる。


「誘拐犯は、お前を『渡せ』ではなく『返せ』と言っている」


 それまで腕を組んでいたハインリヒの指がほどけた。


「言葉どおりなら、相手はローゼンベルク家へ来る以前のお前を知っている可能性がある」


 息が止まった。


 白い壁が一瞬だけ脳裏に戻った。


 その前に黒髪の女が立っている。


 髪が光を受け、菫色に変わった。


 その花を見せてはならない。


「何か思い出したか」


「……いいえ」


「本当に?」


「分かりません。ただ……」


「続けろ」


「怖いです」


「何が」


「知らない人たちが、私のことを知っていることが」


 しばらく返事はなかった。


「それなら、なおさら知らなければならない」


「……はい」


「お前は何者だ」


 その問いだけが、ほかの言葉より深く刺さった。


 自分はこの屋敷の使用人として生きてきた。


 三年前には罪を犯したと聞かされ、腕には黒百合と呼ばれる痣がある。母の名はミレナ。そして今、自分を取り戻そうとしている誰かがいる。


 どこまでが本当の自分なのか、リリアには分からなかった。


「……分かりません」


「分からないままでいるには、遅すぎる」


 声には同情も苛立ちもなかった。


「アン嬢の命がかかっている」


「はい」


「ならば思い出せ」


 リリアが顔を上げる。


「どうすれば」


「言葉でも、匂いでも、痛みでもいい。黒百合へつながるものを、何一つ捨てるな」


 アンを助けられるなら、過去を知りたい。


 そう思うほど、記憶の奥へ触れることへの恐怖も強くなった。


 もしそこに、自分がアンを傷つけた瞬間まで眠っているのなら。


 皆が言うとおり、自分が恐ろしいものだったのなら。


「隊長」


 背後からヴィクトルの声がした。


 レオナールの返事は短かった。


「何だ」


「半年間の監視記録では、同様の質問に対する意図的な黙秘は確認されていません」


「それがどうした」


「現在の反応も、情報を隠しているものではないと推察されます」


「何を根拠に判断した」


「監視対象として観察した結果です」


 レオナールは椅子の背へわずかに重心を預けた。


「随分と細かく見ていたようだな」


「それが任務でした」


「私情ではなく?」


 ヴィクトルは答えなかった。


「ヴィクトルさま」


 リリアは振り返った。


「私は、大丈夫です」


 ヴィクトルが自分のために責められることが、今は怖かった。


 レオナールが机を指先で一度叩いた。


「私情を挟むなと命じたはずだ」


「申し訳ありません」


「次はない」


「承知しました」


 リリアは前へ向き直った。


 大丈夫だと言ったものの、右腕の熱は少しも引いてはいなかった。



 その後も聴取は続いた。


 レオナールは言葉を入れ替え、ときには順序を逆にしながら、ヤシャラや黒百合、ミレナについて何度も尋ねた。四歳以前のこと、ジューンの生家、三年前の馬場で起きた事件にも話を戻した。


 答えられることは、ほとんどなかった。


 尋ねられるたびに、知らないことは知らないと伝えるしかない。


 羽根ペンが紙を擦り続ける。


 かり、かり。


 時間が経つにつれ、細い窓から入る光の位置が変わっていった。


 石壁の輪郭が少しずつぼやけ始める。


「今日はここまでだ」


 ハインリヒが言った。


「判断はこちらがします」


「同じ問いを続けても、答えは変わらない」


「それを判断するのも、こちらです」


「倒れれば、聴取の意味がなくなる」


 レオナールは返事をせず、しばらくリリアの様子を確かめた。


 右腕は固定されたまま。


 左手は膝の上で握られ、指先から色が失われている。


 やがて騎士へ顎を動かす。


「外せ」


 革帯が解かれる。


 リリアは右腕をすぐには動かせなかった。


 肘掛けから持ち上げ、ゆっくり胸元へ引き寄せる。


「以後、リリアに関する聴取と身柄の管理は、王室騎士団の監督下で行います」


「ここは私の屋敷だ」


「王命は、すでに受け取られたはずです」


「受け取ったことと、すべてを認めることは違う」


「異議があるなら、王都へ正式な書面をお送りください」


 レオナールは淡々と答えた。


「その間も、王命は有効です」


 ハインリヒは何も言わなかった。


「それと、ジューン殿の聴取記録をこちらへ回してください」


 オットーが顔を上げる。


「今回の誘拐についてのものですか」


 レオナールの指先が古い家内記録を二度叩いた。


「リリアをこの屋敷へ連れてきた経緯についても確認する」


 リリアの左手が膝の上で動いた。


「奥方については状態を見て判断する。ジューン殿には話を聞く」


「承知しました」


 オットーが答えた。


「リリア」


「はい」


「二日後の移送まで、お前は王室騎士団の監視下に置く」


「承知いたしました」


「アン嬢の救出に必要と判断すれば、再び聴取する」


「はい」


「ヤシャラ、祀院、あるいは今回の誘拐に関与する者と通じている事実が確認された場合は、保護対象ではなく事件関係者として身柄を拘束する」


 リリアは小さく頷いた。


「承知いたしました」


「連れて戻れ」



 椅子から立ち上がった。


 一歩目で、足元が傾いた。


 左右にいた王室騎士がすぐ腕を支える。


「歩けます」


 そう告げると、二人の手が離れた。


「失礼いたします」


 誰へ向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。


 左右には王室騎士団の騎士。


 前をヴィクトルが歩く。


 地下へ続く階段へ差しかかったところで、ヴィクトルの歩みが一瞬だけ緩んだ。


 肩越しにこちらを確かめ、何かを言いかけたが、そのまま前へ向き直った。


 暗い部屋が、リリアを待っていた。


 中へ入る前に、一度だけ後ろを向いた。


 ヴィクトルは王室騎士団の灰色の外套をまとい、廊下に立っている。


 リリアは深く頭を下げた。


 彼も、ごく浅く応じた。


 言葉はなかった。


 扉が閉じ、かちり、と鍵が鳴った。


 リリアは壁際の棚のそばへ座り込んだ。


 最下段の奥には、薬草の布が隠してある。


 乾いた葉の香りを感じた途端、張り詰めていたものが少しだけ緩んだ。


 高い位置にある明かり取りから、白い光が細く差し込んでいる。


 昨日は、そこからシリルの声を聞いた。


 生きていろ。


 レオナールには、思い出せと言われた。


 アン様は手紙の中で、自分を悪い子ではないと言ってくれた。


 リリアは右腕の黒い花にそっと触れた。


 熱は、まだ消えなかった。



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