第二十五話 王室の目
王室騎士団が屋敷へ入ってから、ローゼンベルク家の空気は変わった。
正門にも、厨房通用門にも、灰色の外套が立っている。
地下の果実貯蔵室には、ローゼンベルク家の護衛に加え、王室騎士団の騎士が配置された。
クララが収容されている地下牢も、エリーズのいる北棟の監房も同じだった。
事件に関わる者へ食事を運ぶにも、書類を持ち出すにも、医師を近づけるにも、王室側の確認を通さなければならない。
昨日まで侯爵家の中だけで下されていた命令のいくつかが、今は王命による監督を受けていた。
使用人たちは自然と声を潜めるようになった。
アンはいまだ戻らない。
二日後には、リリアの身柄が正式に王室へ引き渡される。
そのうえ王室騎士団は、誘拐犯だけではなく、ローゼンベルク家に残された古い記録へも手を伸ばし始めていた。
◆
午後、ジューンが北棟へ呼ばれた。
通されたのは、前日にリリアの聴取にも使われた石造りの部屋だった。
机の前には、背もたれのある椅子が一脚。
机の向こうにはレオナール・グレイヴス。その隣に王室の書記官が座り、屋敷側の記録を確認するためオットーも同席している。
ハインリヒの姿はなかった。
今回は、レオナールが侯爵本人の立会いを認めていない。
「座ってください」
「失礼いたします」
ジューンは一礼して腰を下ろした。
長年、女中頭として使用人たちを束ねてきた女らしく、姿勢に乱れはない。
レオナールが古い革綴じの記録簿を開いた。
「十二年前の家内記録です」
頁を押さえる。
「『リリア。四歳ほど。故ミレナの娘。奥方様の御恩人の遺児として引き取る。ジューンの生家より当家へ移す』」
「はい」
「間違いありませんか」
「ございません」
「出生地がない」
ジューンは黙っている。
「父親の名もない。正確な生年月日も、出生を証明する書類も残っていない」
「はい」
「リリアが生まれた場所を、あなたは知っている」
「存じております」
「どこです」
「私の生家でございます」
オットーが姿勢を改めた。
「あなたの生家について説明してください」
「ヴェルディア伯爵家に代々お仕えする騎士家でございます」
「どの辺りを預かっている」
「伯爵領の外れにある小さな村と、その周辺の森でございます」
「役目は」
「街道の管理と、周辺の治安維持を」
「あなた自身も、そこで育った?」
「幼い頃から伯爵邸へ上がっておりました。イザベラ様の遊び相手と行儀見習いを兼ね、成長してから専属侍女となりました」
「夫人とは嫁入り以前からの付き合いということですね」
「はい」
レオナールが頁をめくる。
「ミレナは、なぜあなたの生家にいたのですか」
ジューンはすぐには答えなかった。
「ジューン殿」
「奥様から、しばらく家でお預かりするよう申しつけられました」
「理由は」
「私から申し上げられるのは、そこまででございます」
「知らないのですか」
「存じていることと、私の口から申し上げてよいことは別でございます」
「王室の聴取です」
「承知しております」
「それでも答えない?」
「虚偽を申し上げるつもりはございません」
ジューンの声は変わらなかった。
「答えられないことを、知らないとは申しません」
レオナールは数秒、何も言わなかった。
「では確認します。ミレナがあなたの生家へ移った時、すでにリリアを身籠もっていた?」
「……はい」
「イザベラ夫人も、それを知っていた」
「はい」
「あなたの生家へ移すと決めたのも夫人だ」
「はい」
「なぜヴェルディア伯爵邸ではなかった」
「人の出入りが多い場所でございました」
「人目を避ける必要があった?」
ジューンは答えない。
「ミレナが望んだのか。夫人が望んだのか」
「それについても、私から申し上げることはございません」
レオナールはそこで問いを切った。
「リリアは、その家で生まれた」
「はい」
「ミレナは」
「出産後、すぐに亡くなりました」
「あなた自身が確認した?」
「いたしました」
今度は迷いがなかった。
「その後、リリアはあなたの生家で育てられた」
「はい」
「四歳頃まで」
「はい」
「誰が育てた」
「母はすでに亡くなっておりましたので、当時まだ存命だった父と、家督を継いでいた弟夫婦でございます」
「あなたは?」
「私は奥様にお仕えしておりました。帰郷した折には世話をいたしましたが、日々の養育は父と弟夫婦に任せております」
「四歳になった頃、イザベラ夫人がローゼンベルク家へ引き取った」
「その通りでございます」
レオナールは記録簿の一文を指で押さえた。
「それだけの経緯が、『御恩人の遺児』の一言に収められている」
ジューンは何も言わない。
「ミレナとイザベラ夫人が知り合ったのは?」
「奥様がヴェルディアへ戻っておられた頃です」
「なぜ戻っていた」
一拍置いて、ジューンは答えた。
「お身体を休めるためでございました」
「何があった」
「……お子を亡くされたあとでございます」
オットーは黙ったまま、手元の記録へ指を添えた。
「流産?」
「はい」
「その頃に、ミレナと知り合った」
「はい」
「家内記録には『御恩人』とある。夫人はミレナに助けられたということですね」
ジューンは返事を急がなかった。
「奥様は、そのように仰っておりました」
「何をしてもらった」
「詳しいことは聞かされておりません」
「幼い頃から仕えているあなたにも?」
「はい」
「疑問には思わなかった?」
「思わなかったと言えば、嘘になります」
「尋ねなかったのですか」
「お仕えする者には、尋ねてよいことと、そうでないことがございます」
「夫人から口止めは」
「ミレナ様について、必要以上に話さぬようにとは」
「理由は」
「聞かされておりません」
レオナールは手元の紙を一枚めくった。
「ミレナの遺品は」
ジューンは答えなかった。
「身の回りの品は、亡くなられたあとに整理されました」
「何が残った」
「衣類など、処分された物も多かったと記憶しております」
「残った物を聞いています」
沈黙が長くなる。
「何か、今も残っている?」
「……私が今ここで申し上げることはございません」
「ない、とは言わない」
ジューンは否定しなかった。
レオナールも、それ以上は追わなかった。
◆
「リリアを引き取ったあとのことを確認します」
「はい」
「ハインリヒ侯爵は、どこまで関わっていた」
「奥様がミレナ様の娘を引き取りたいと望まれたことは、ご存じでした」
「養育については」
「ほとんど奥様に任されておりました」
「侯爵は、リリア個人には関心を向けていなかった?」
ジューンは言葉を選んだ。
「馬場の事件以前は、リリア個人へ強く関心を向けられることはございませんでした」
「侯爵は外向き、夫人は奥向きを任されていた」
「そのようなことが多うございました。奥様は、こちらへ嫁がれてしばらく、ご苦労なさっておられました」
「そのため奥向きについては、自分の裁量で決めることが多かった」
「はい」
「リリアについても?」
「リリアを引き取ることは、奥様がお望みになったことです」
「なぜ」
「恩人の娘であったことは、理由の一つでございましょう」
「一つ?」
ジューンはそこで口を閉ざした。
「ほかにもあった?」
「それは、奥様ご本人へお尋ねくださいませ」
レオナールは少し待った。
続きを口にする気配はない。
「アン嬢は幼い頃、身体が丈夫ではなかった」
「はい」
「リリアは?」
「元気な子でございました」
「それだけ?」
「利発でした。教えたことをよく覚え、身体を動かすことにも長けておりました。馬にも早くから慣れております」
「目立つ子だったとも聞いている」
「……はい」
「黒髪だから?」
「それだけではございません。幼い頃から、人の目を引く子でございました」
「夫人は厳しく教育した?」
「アン様のお側へ置くお考えがございましたので」
「普通の侍女教育だけではなかったようですね」
ジューンの返答が遅れた。
「誰からお聞きになったのでしょうか」
「質問に答えてください」
「簡単な手当や、馬の扱い、危険が起きた際の対処は教えておりました」
「誰の指示で」
「奥様です」
「アン嬢の護衛にするつもりだった?」
「正式な護衛ではございません」
「では、なぜ」
「いざという時に、アン様を支えられる侍女に」
「夫人の言葉ですか」
「そのままではございません。ですが、私はそのように理解しておりました」
「なぜリリアだった」
ジューンはすぐには答えなかった。
「奥様のお考えを、私が推し量って申し上げることはできません」
「あなた自身は、疑問に思わなかった?」
「思ったことはございます」
「それでも聞かなかった」
「はい」
「リリアをアン嬢の側から外そうとしたことは」
「一度、別の仕事も覚えさせてはどうかという話が出たことがございます」
「何歳頃」
「十歳頃だったかと」
「夫人は?」
「アン様のお側に置くようにと」
「理由は」
「『あの子には、その方がよい』と仰いました」
「それだけ?」
ジューンは少し考える。
「アン様の役に立つ子になる、という趣旨のお言葉を聞いた記憶はございます」
「それをどう理解した」
「侍女として、長くお側に仕えさせるおつもりなのだと」
「今も?」
「……それだけであったのかは、分かりません」
「何か別の意図があったと?」
「そこまでは申し上げておりません」
レオナールは問いを重ねなかった。
◆
「三年前の馬場事件のあと、夫人の態度は変わった」
「はい」
「それまで側へ置こうとしていたリリアを、アン嬢から遠ざけた」
「はい」
「夫人はリリアを憎んだ?」
「私は、そうは思っておりません」
「なぜ」
「憎んでおられたのなら、もっと簡単だったと思うからです」
「何が」
「リリアを、この家から出すことが」
レオナールは続きを待った。
「リリアには家名も後ろ盾もございません。危険だというだけなら、屋敷から遠ざけることもできたはずです」
「実際には残した」
「はい」
「隔離して」
「はい」
「夫人自身も近づかなかった」
「……はい」
「なぜだと思う」
ジューンはすぐには答えなかった。
「恐れだけではなかったと思います」
「では、何があった」
「分かりません」
「また、それですか」
「分からないことを、分かったように申し上げることはできません」
レオナールは否定しなかった。
「あの事件のあと、奥様がご自分を責めておられると感じたことはございます」
「根拠は」
「一度だけ、『私が、あの子をアンの側に置いたのよ』と仰いました」
「アン嬢が傷ついたことを、自分の判断と結びつけていた?」
「そう受け取りました」
「リリアを処罰したあとも?」
今度の問いには、ジューンが答えるまで時間がかかった。
「処罰の夜、奥様がリリアの寝かされていた部屋の前まで来られたことがございました」
「中へ入った?」
「いいえ」
「何か言った」
「……『今は、あの子に会えない』と」
「会いたくない、ではない」
「はい」
「理由は」
「お尋ねしても、お答えにはなりませんでした」
レオナールは少し間を置いた。
「その時、夫人はミレナについて何か言いましたか」
「いいえ」
「あなたも聞かなかった?」
「聞けませんでした」
「なぜ」
「その名を、あの時の奥様の前で口にしてはいけないように感じました」
「夫人が何かを隠している?」
ジューンは答えを選ぶように沈黙した。
「……私に話しておられないことは、あると思います」
「今回の誘拐に関係する?」
「分かりません」
「リリアの出生に?」
返事はない。
「ジューン殿」
「私から申し上げられることは、もうございません」
「そうですか」
レオナールは書記官へ向き直った。
「記録してください。ジューン殿は、リリアがヴェルディアの生家で出生したこと、ミレナが同所で死亡したことを確認。ミレナの滞在理由、夫人との詳細な関係については回答を留保」
書記官がその言葉を書き留める。
「ヴェルディアの生家に残る書類、物品について、王室騎士団の許可なく移動、処分しないでください」
「承知いたしました」
「夫人にも、この聴取内容を話さないように」
そこで初めて、ジューンの返事が遅れた。
「……承知いたしました」
「もう結構です」
ジューンが立ち上がる。
深く一礼し、扉へ向かった。
「ジューン殿」
足が止まる。
「一つだけ」
「はい」
「イザベラ夫人を信じていますか」
ジューンは振り返らなかった。
「私は、奥様にお仕えしております」
「聞いているのは忠義ではありません」
返事はなかなか来なかった。
「……信じたいと思っております」
「それだけ?」
「それ以上は、お許しくださいませ」
扉が閉じた。
◆
書記官が供述書をまとめ始める。
オットーは黙ったままだった。
レオナールは先ほどの記録簿を開き直した。
御恩人の遺児。
残されているのは、それだけの言葉だった。
「オットー殿」
「はい」
「侯爵は、今の話をどこまで知っていますか」
「ミレナ殿が奥方様の恩人であること。リリアがその娘であること。その程度かと」
「夫人が、ミレナの出産以前から関わっていたことは」
「おそらく、詳しくはご存じなかったでしょう」
「そうですか」
レオナールは自分の考えを口にしなかった。
記録簿を閉じる。
「エリーズを」
扉脇に控えていた騎士が一礼した。
◆
しばらくして、扉が開いた。
エリーズは、囚人用の粗い灰色の衣姿だった。
飾りも前掛けもない上衣に、くるぶしまで隠れる簡素なスカート。
髪留めも櫛も取り上げられ、いつも乱れなくまとめられていた髪は肩から背へ落ちている。
侍女だった頃の名残は、背筋を伸ばして歩く姿勢にしか残っていなかった。
両手は前で拘束されている。
騎士二人に挟まれ、机の前まで進んだ。
「座れ」
背もたれのない椅子へ腰を下ろす。
手首の革帯が、机に取りつけられた金具へ留め直された。
「始める」
書記官が供述書を開いた。
「ミレナについて知っていることを話せ」
唐突な問いだった。
「奥様の御恩人で、リリア様のお母上と聞いております」
「誰から」
「奥様ご本人からではございません。屋敷で以前から、そのように」
「出生地は」
「存じません」
「リリアを産んだ場所」
「存じません」
「父親」
「何も」
「夫人と知り合った経緯」
「存じません」
「何をして夫人の恩人になった」
「存じません」
レオナールはそこで止めた。
「黒百合について聞く」
エリーズの指先に力が入る。
「黒百合は、自分自身のためには咲かない。そう供述したな」
「はい」
「誰から聞いた」
「母からです」
「いつ」
「幼い頃から、何度か」
「どのように」
「黒百合の巫女は、自分の身を守るためには力を使わないと」
「誰のためなら使う」
「巫女が守ろうとした方のために」
「それを信じていた?」
「はい」
「だから、リリアは一人では逃げないと考えた」
返事がない。
「答えろ」
「……はい」
「自分が危険でも?」
「はい」
「アン嬢が危険なら動く」
「そう思いました」
「その性質を、今回の計画に利用した?」
エリーズの呼吸が浅くなる。
「認めるか」
「……認めます」
「はっきり言え」
「利用いたしました」
その言葉だけは、正式な供述として書き留められた。
「接触した男の名は」
「存じません」
「所属」
「存じません」
「アン嬢の現在地」
「存じません」
「計画へ加担した時点で、アン嬢の安全を確認する手段は?」
「ございませんでした」
「それでも従った」
「はい」
「何を信じた」
「祀院へ渡されるより先に、リリア様を保護すると」
「誰が言った」
「接触した男です」
「名も所属も分からない男が?」
エリーズは答えなかった。
「それを信じて、侯爵家の令嬢を危険へ置いた」
「アン様を傷つけるつもりは――」
「意図を聞いているのではない」
言葉を切られる。
「安全を確かめる手段がなかった。それでも実行した。その事実を確認している」
「……はい」
「なぜそこまでした」
エリーズはしばらく黙っていた。
「リリア様を、この屋敷から出す必要があると思ったからです」
「命令されたからではなく?」
「命令は、ございました」
「お前は長年、ヤシャラの休眠間者としてこの屋敷にいた」
「はい」
「それでも、今回動いた理由は命令だけではないと以前供述している」
「はい」
レオナールは以前の供述書を開いた。
「『リリア様が、この屋敷で幸せに生きておられたら、あの御方は、祀院の企てを命を懸けても止めたはずです』」
エリーズは俯いたままだった。
「お前は、そう考えた」
「……はい」
「三年前から、リリアの扱いを見ていた」
「はい」
「処罰のあとも」
「はい」
「それでも何もしなかった」
机の金具が短く鳴った。
「私は、休眠の身でした」
「動けば正体が露見する」
「はい」
「だから動かなかった」
「……はい」
「守ったのは、自分の役目だった」
エリーズは否定しなかった。
「そのことを後悔していた?」
「はい」
「今回、動く機会が来たと思った」
長い間を置いてから、エリーズが答える。
「ようやく、リリア様のために何かできると……そう思いました」
「だから、相手の正体を確かめるより先に従った」
「祀院に奪われるよりは――」
「比較できるだけの情報を、お前は持っていなかった」
続きが消えた。
「リリアを救うためだった?」
「はい」
「本人へ聞いたか」
「いいえ」
「拒むと分かっていたからか」
エリーズはすぐには答えなかった。
「答えろ」
「……はい」
「アン嬢を残して、自分だけ逃げることを拒むと?」
「はい」
「だから本人には知らせなかった」
「……はい」
「クララを騙した」
「はい」
「アン嬢も騙した」
「……はい」
「その二人を動かせば、リリアも動くと思った」
「私は――」
「違うのか」
エリーズが息を詰めた。
「リリア様に、選ばせるつもりではございませんでした」
「なら、何をさせるつもりだった」
答えが止まった。
「アン嬢が危険なら、リリアは動く。お前自身がそう言った」
「……はい」
エリーズの喉が動いた。
◆
「イザベラ夫人は、今回の計画を知っていたか」
「いいえ」
エリーズは即答した。
「何も?」
「奥様は何もご存じありません」
「何について?」
エリーズが止まる。
「今回の……アン様を連れ出す計画についてです」
「偽札に夫人の名を使ったのは」
「私です」
「夫人から、今回の件について何か指示を受けたことは」
「一切ございません」
「リリアの出生について、夫人が何を知っているかは?」
「存じません」
「ミレナについては?」
「詳しくは」
「黒百合については」
「奥様から聞いたことはございません」
「ならば、夫人が何を知っているか、お前には分からない」
「……はい」
「それなら『奥様は何も知らない』とは断言できない」
エリーズは反論しなかった。
「お前が断言できるのは、自分たちの誘拐計画に夫人を加えていない。それだけだ」
「はい」
「記録しろ」
レオナールは書記官へ告げた。
「被疑者エリーズは、イザベラ夫人の今回の誘拐計画への関与を否定。ただし、夫人がリリアおよびミレナについて有する知識は把握していない」
確認を終えると、レオナールは供述書を閉じた。
「今日はここまでだ」
騎士が机の金具から革帯を外す。
エリーズが腕を引き寄せるより先に、両手を前で拘束し直された。
「立て」
長く同じ姿勢でいたため、立ち上がった身体が傾く。
左右の騎士が倒れない程度に支えた。
灰色の裾が石床を擦る。
「エリーズ」
扉の前で止められる。
「次は『救うためだった』では済ませない」
エリーズは振り返らない。
「……はい」
「意図ではなく、したことを答えろ」
間を置いて、
「承知いたしました」
と声が落ちた。
扉が閉じた。
◆
その日の夕方、地下牢にも王室騎士団の命令が届いた。
重い鉄格子の前に立ったのは、ローゼンベルク家の若い騎士だった。
クララが石室で取り調べを受けたあの日、扉脇で一部始終を見ていた騎士でもある。
ヨーゼフから、何を見るべきか、何を疑うべきか、その目で覚えろと命じられていた若者だった。
今日は王室騎士団から下された移送命令を携えている。
隣には女性使用人が控えていた。
「開けろ」
鍵が回った。
クララは壁際で身を縮めていた。
灰色の囚人服の袖口から、傷の残る手首がのぞいている。
「クララ」
呼ばれた声に覚えがあった。
石室で後ろ手に縛られ、問い詰められていた時。
あの若い騎士は、扉のそばに立っていた。
クララの背中が壁へ寄る。
「立てますか」
「……はい」
「王室騎士団の判断により、北棟の監視室へ移します」
言葉の意味が、すぐには入ってこなかった。
「ここから……出られるのですか」
「無実が確定したわけではありません」
若い騎士は淡々と続ける。
「ただし、現在までの調査から、あなたが誘拐計画を知っていたと示す直接の証拠は確認されていません。地下牢で勾留を続ける必要はないと判断されました」
クララは騎士を見つめた。
あの石室で、この人は自分をどう見ていたのだろう。
今は、どう見ているのだろう。
聞く勇気はなかった。
「アン様は」
結局、口から出たのはそれだけだった。
若い騎士は、すぐには答えなかった。
「生存を示す手紙が届いています」
クララの口が開く。
「怪我はしていないと、本人の字で記されています」
「本当に……」
「現在確認できているのは、そこまでです」
クララは顔を伏せた。
息が一度、喉につかえた。
声を上げて泣くことはなかった。
「北棟へ移ったあと、医師が手首を診ます。ただし、面会、手紙、外出は禁止。引き続き王室騎士団の監督下です」
「承知……いたしました」
女性使用人が腕を差し出した。
クララは一度、自分の足だけで立とうとした。
膝が支えきれず、その手を借りる。
鉄格子の外へ一歩出た。
若い騎士が横へ退き、道を空ける。
クララは鉄格子を振り返らなかった。
閉じられた扉の音だけが、背後から追ってきた。
若い騎士も何も言わなかった。
ただ、石室へ連れていかれた夜とは違い、今度はクララの後ろではなく、その少し前を歩き始めた。
◆
夕刻から、細い雨が降り始めた。
白い霧へ溶けるような、冷たい雨だった。
厨房通用門にも、香草室へ続く階段にも、北棟の外壁にも、灰色の外套が立っている。
地下へ水を逃がす古い排水溝のそばにまで、王室騎士団の見張りが置かれた。
北棟の机には、十二年前の家内記録が残されている。
そこにあるのは、わずかな記述だけだった。
リリアがヴェルディアで生まれたことも、身重のミレナが人目を避けるようにジューンの生家で暮らしていたことも、記されてはいない。
ミレナが残した物について、ジューンは口を閉ざした。
イザベラがなぜ幼いリリアをアンの側へ置くことにこだわったのか、その理由も十二年前の記録からは読み取れなかった。
雨水が外壁を伝い、落ち葉と泥のたまった排水溝へ落ちていく。
暗い水が、鉄格子の奥へ吸い込まれていった。
王室騎士団の見張りは、そのすぐ脇に立っている。
それでも、今日ジューンが飲み込んだ言葉までは、誰の目にも見えていなかった。




