第二十六話 香り袋
王室騎士団が屋敷へ入った日の昼過ぎ。
ジューンが北棟へ呼ばれるより、少し前のことだった。
庭師小屋の道具棚へ戻された手袋の中に、短い紙片が入っていた。
雨が落ちる頃、庭の水口を見ろ。
書かれていたのは、それだけだった。
差出人の名はない。
紙の折り方と、端に残されたごく薄い香りで、どの筋から届いたものかは分かった。
シリルは紙片を掌へ丸め、炉に残る灰の奥へ押し込んだ。
火はすでに消えている。
紙を細かく裂き、灰へ混ぜ込む。
文字の形が失われたのを確かめてから、何事もなかったように道具棚を閉じた。
夕刻になると、予告どおり雨が降り始めた。
白い霧へ溶け込むような、細く冷たい雨だった。
落ち葉が排水溝へ流れ込めば、中庭に水がたまる。庭師見習いが水口を見回ること自体は不自然ではない。
問題は、今までと同じようには動けないことだった。
厨房通用門には王室騎士団の見張りがいる。
庭へ出入りする者の名と時刻まで記録され、古い排水溝も監視の対象になったことをシリルは知っていた。
手鉤と、庭木を束ねるための細い麻紐を持ち、肩を丸めて中庭の隅へ向かう。
外から見れば、雨の中で仕事に追われる庭師見習いにしか見えない。
古い排水溝の格子には、濡れた落ち葉と泥が厚くたまっていた。
水が狭い隙間へ吸い込まれ、低く唸っている。
シリルは格子の前へしゃがみ、手鉤を差し入れた。
落ち葉を少しずつ引き上げる。
泥の奥で、薄い色が揺れた。
布だった。
雨と泥を吸い、色は褪せているが、もとの色が薄桃色であることは分かった。
端には、白い糸で小さな花が刺繍されている。
手鉤の動きが止まった。
「おい」
背後から声が飛んだ。
若い王室騎士が、厨房通用門の屋根の下からこちらを見張っている。
シリルはすぐに立ち上がり、頭を下げた。
「排水溝の詰まりを見ております」
「庭師見習いのシリルだな」
「はい」
「雨のたびに、ここまで見に来るのか」
「落ち葉が詰まれば、中庭に水があふれますので」
「今日からは、排水溝も騎士団の監視下だ」
「承知しております」
「何か見つけたか」
「落ち葉と枝だけです」
いつもと変わらない調子で答えた。
若い騎士が屋根の下を出て、排水溝のそばまで来る。
泥水の流れを確かめる間に、シリルはもう一度手鉤を格子の奥へ差し入れた。
葉を引き寄せる動きに紛れ、薄桃色の布を泥ごと掌へ収める。
水を吸った小さな布は、握り込めば隠れた。
「奥までは入るな」
騎士が言った。
「格子を外す必要がある時は、先に我々へ知らせろ」
「かしこまりました」
騎士はしばらく作業を確認していたが、雨脚が強くなると外套の襟を立て、通用門の屋根の下へ戻っていった。
排水溝との間には、庭土の流出を防ぐ低い石壁がある。
あちらから背中は見えても、しゃがんだ手元までは届かない。
シリルは格子へ向き直り、掌の布を鼻先へ寄せた。
雨と泥。
古い乾燥花。
その奥に、明らかに異なる香りが混じっている。
甘さの中に、青い葉を揉んだような匂いがあった。
葛花。
東国で古くから香に用いられる花だった。
シリルは泥を払う仕草の中で、布を袖口の内側へ滑り込ませた。
残りの落ち葉を手鉤で掻き出す。
滞っていた水が流れ始める。
排水溝は、そのまま外壁側の水口へ続いていた。下流まで流れを確かめるのも庭仕事のうちだ。
シリルは仕事を続けるように立ち上がり、排水溝に沿って外壁側へ移動した。
果実貯蔵室の明かり取りは、低い石壁と植え込みが重なる場所にある。
通用門から見えるのは、シリルの背中だけだ。
雨樋から落ちる水が石を打ち、細かな物音を呑み込んでいる。
次はないかもしれない。
シリルは植え込みの陰へ身を寄せた。
◆
地下の果実貯蔵室は、昼よりも暗くなっていた。
扉の外には王室騎士団の見張りが二人いる。
ローゼンベルク家の護衛とは、足音も、咳払いも、立ち方も違った。
リリアは、壁際に固定された棚のそばへ座っていた。
最下段の奥には、シリルから渡された薬草の布が隠してある。
革帯で椅子へ固定されていた感覚は、まだ皮膚の奥に残っていた。
右腕の痣にも熱がある。
レオナールの声が、耳の奥から離れない。
思い出せ。
アン嬢の命がかかっている。
思い出そうとするほど、記憶は輪郭を失った。
石壁。
帳面の頁を擦る音。
背中に残された傷。
そして、アンの手紙。
リリアは、悪い子ではありません。
その一文だけが、繰り返し戻ってくる。
怖いはずだった。
泣きたいはずだった。
アンは自分のことより、クララとリリアが責められないことを願っていた。
「私は……」
リリアは膝の上で両手を組んだ。
悪い子ではない。
そう信じてみたかった。
右腕の黒い痣が疼くたび、自分の中に、自分の知らない何かが潜んでいるように思えてならない。
その時、高い位置にある明かり取りから小さな音が落ちた。
かたり。
何かが鉄格子へ触れたらしい。
リリアは動かず、耳を澄ませた。
外の排水溝へ続く、細い明かり取り。
格子の向こうでは雨が降っている。
もう一度、かすかな音。
「……シリル?」
扉の外へ届かないよう、名前を息だけで形にする。
返事はない。
代わりに、細い麻紐が格子の隙間から降りてきた。
以前、薬草包みを下ろした時よりも遅い。
石壁へ当てないよう、少しずつ送られてくる。
先には、小さな布袋が結ばれていた。
リリアは棚へ手をつき、ゆっくりと立った。
壁際へ寄って腕を伸ばす。
届かない。
爪先立ちになると、右腕の痣に鋭い熱が走った。
もう一度、手を伸ばす。
濡れた布の端を捉えた。
袋が揺れる。
リリアは慎重につかみ、身体へ引き寄せた。
麻紐が緩み、香り袋だけが掌へ落ちる。
格子の向こうから低い声がした。
「声を出すな」
シリルだった。
リリアは口元へ手を当てて頷く。
「それを確かめろ」
「何を……」
「アン様のものかもしれない」
リリアは香り袋を落とさないよう、両手で包んだ。
薄桃色の布。
端には、白い糸で小さな花が刺繍されている。
五枚の花弁は大きさが揃っていない。
一枚だけ斜めに傾き、縫い目も少し曲がっていた。
花の脇には、色褪せた紫色の糸が細い蔓を描いている。
袋の口には、小さな結び目が二つ。
リリアは白い花を指の腹でなぞった。
記憶の底から、声が浮かんだ。
――曲がっている花もあります。
幼い自分の声。
向かい側で、金色の髪が揺れる。
針を持った小さな手。
白い花を見つめて、楽しそうに笑っている。
――これ、私のお花。
そこまでだった。
像は薄れ、暗い石壁が戻ってくる。
はっきりした記憶ではない。
指だけは、この刺繍を知っていた。
「これは……」
声がうまく出なかった。
一度、息を入れ直す。
「お嬢様のものです」
「間違いないか」
「はい」
「なぜ分かる」
「私とお嬢様が、一緒に作ったものです」
言葉にすると、失っていた時間が急に近くなった。
アンと並んで針を持ったこと。
不揃いな白い花。
紫の蔓。
二人で一つずつ作った、小さな結び目。
忘れていたはずなのに、手の中の布に触れると、断片だけが戻ってくる。
リリアは袋の口へ手をかけた。
二つの結び目の片方をずらすと、内側に淡い色が見えた。
「……これは」
乾燥花に絡むように、一本の細い髪が入っている。
金色だった。
雨に濡れても、その色は見間違えようがない。
「何がある」
「髪です」
「色は」
「金色です」
リリアはそっと持ち上げた。
「お嬢様の髪だと思います」
「袋を作った時から入れていたのか」
「いいえ」
答えはすぐに出た。
「入れていません」
「確かか」
「はい」
シリルの返事が途切れた。
リリアは金色の髪を袋の中へ戻し、結び目を元に戻した。
「それなら、連れ出されたあとに、アン様自身がこの袋に触れた可能性がある」
「お嬢様が……」
「断定はできない。髪だけなら、別の者でも手に入れられる」
期待させるだけの言葉を、シリルは選ばなかった。
「ただ、わざわざ中へ入れたのなら、外へ知らせるための可能性はある」
リリアは香り袋を両手で包んだ。
アンがこれを手にした。
自分の髪を一本入れた。
そう考えるだけで、詰まっていた息が少し深く入る。
鼻先へ近づける。
雨と泥の向こうに、昔から入っていた乾いた花と葉の匂いが残っている。
そして、記憶にない香り。
甘さの中に、青い葉のような匂い。
右腕の痣が脈に合わせるように熱を持った。
「葛花……」
考えるより先に、その名が出た。
リリアは自分の言葉に戸惑った。
「葛花?」
シリルの声が低くなる。
「その名を知っているのか」
「分かりません。今、勝手に……」
「袋を作った時から入っていた香りか」
リリアはもう一度匂いを確かめた。
白い花。
紫の蔓。
金色の髪。
幼い二人の記憶。
そこに、この香りだけが馴染まない。
「違います」
今度は迷わなかった。
「この匂いは、あとから加えられたものです」
格子の向こうが静かになった。
「分かった」
「何が分かったのですか」
「葛花は、アン様が入れた印じゃない」
「では、誰が」
「この袋を外へ出した者だ」
リリアは明かり取りを見上げた。
「その方は、お嬢様の近くに?」
「少なくとも、この袋をアン様のところから運び出せる位置にいる」
「誰なのですか」
「今は言えない」
また、知らされない。
苦しさは残った。
でも今は手の中に証がある。
自分とアンが作った香り袋。
あとから入れられた金色の髪。
さらに別の誰かが加えた葛花。
一つの小さな袋の中に、別々の時に残された痕跡が重なっている。
「お嬢様は、生きていますか」
シリルはすぐには答えなかった。
「この袋が外へ出された時点までは、生きていた可能性が高い」
リリアは香り袋を握り直した。
「少なくとも」
シリルが続ける。
「アン様は、祀院だけの手にあるわけじゃない」
安心してよい意味なのかは分からない。
それでも、何も見えなかった場所へ一本の細い道が延びた。
「隠せ」
シリルが言った。
「誰にも見せるな」
リリアは香り袋を服の内側へ入れた。
濡れた布が肌へ触れる。
冷たかった。
古い花の匂いが、不思議なほど懐かしい。
「シリル」
「長く話せない」
雨樋を走る水の音が強くなった。
「王室は水口まで見張り始めた。次はないと思え」
「私はどうすれば」
「明後日の夜明け前、合図を待て」
心臓が一度、強く鳴った。
「移送の日ですか」
「そうだ」
「逃げるのですか」
「合図があるまで動くな」
シリルの声に迷いはなかった。
「合図がなければ、何もするな。香り袋も出すな」
リリアは服の上から香り袋を押さえた。
二日後の早朝。
行き先も知らされないまま、王室へ引き渡される。
王命へ逆らうことなど、考えたこともなかった。
命じられれば従う。
地下へ戻れと言われれば戻る。
座れと言われれば座る。
腕を見せろと言われれば差し出す。
それ以外の生き方を、知らなかった。
このまま連れていかれれば、お嬢様を探せない。
香り袋に残された意味も確かめられない。
「私は」
リリアは一度、言葉を切った。
「行き先も分からない場所へ、連れていかれたくありません」
自分の声が、ひどく大きく聞こえた。
扉の外まで届いていないか、耳を澄ませる。
騎士たちが動く気配はない。
命令に従いたくない。
そんな意思を口にしたのは、初めてだった。
「お嬢様を、探しに行きたいです」
格子の向こうから、すぐには返事が来なかった。
雨音が二人の間を満たしている。
やがて低い声が返った。
「分かった」
たった一言だった。
張りつめていた身体から、少しだけ力が抜けた。
「明後日の夜明け前。合図を待て」
「はい」
「それまで、壊れるな」
「はい」
「尋問があっても耐えろ」
「はい」
服の内側には香り袋。
棚の最下段には薬草の布。
扉の外には王室騎士団の見張りがいる。
格子の向こうで麻紐が引き上げられ、シリルの気配も雨音へ紛れていった。
「シリル」
呼び止めた声は、ほとんど息に近かった。
返事はない。
リリアはしばらく明かり取りの下に立っていた。
外の光はほとんど失われ、夕暮れが地下へ沈み始めている。
二日後の早朝。
それまで、この香り袋を隠し通さなければならない。
もう一度、聴取へ呼ばれるかもしれない。
王室騎士団が部屋を調べる可能性もある。
服の上から、そっと香り袋へ触れた。
薄桃色の布。
不揃いな白い花と、紫の蔓。
二つの結び目。
あとから加えられた、一本の金色の髪。
そして葛花。
そこには、失った過去と、今のお嬢様へ続く痕跡が一緒に残されていた。
声に出して呼べたのは、いつもどおり「お嬢様」だけだった。
心の中では、別の呼び方が自然に浮かぶ。
アン様。
待っていてください。
誰かに命じられた言葉ではない。
私が行きます。
右腕の黒百合が、静かに疼いた。
その熱は、これまで感じてきた恐怖や痛みとは違っていた。
まだ名も持たない何かが、自分の内側で初めて動き始めたような熱だった。




