第二十七話 石室の検分
雨は夜になっても止まなかった。
北棟地下の石室で、レオナールは一枚の写しを読んでいた。
王宮図書館の封印書庫から持ち出した、古い記録の抜粋だった。
原本が書かれたのは百年以上前。
ローダン王国とヤシャラ帝国が国境を巡り、幾度も小さな衝突を繰り返していた時代である。
紙面には、黒百合の巫女に関する証言が残されていた。
古い伝承にすぎないが、エリーズも、同じ性質を口にしていた。
レオナールは写しから手を離し、机の端に置かれた一本の鞭を見た。
扉が二度、叩かれる。
「隊長。対象を迎えに向かわせました」
レオナールは記録の写しを折り、内衣へ収めた。
「分かった」
机の端に置かれた鞭を一瞥してから、石室を出る。
◆
地下の果実貯蔵室には、冷えた石と湿った土の匂いが沈んでいた。
リリアは壁際に座り、服の内側へ隠した香り袋を押さえていた。
薄桃色の布。
少し曲がった白い花と、紫の蔓。
二つの結び目。
中に残された金色の髪。
あとから加えられた葛花。
アンへ続くものが、あの小さな袋に残されている。
雨音の向こうから聞こえたシリルの言葉も、まだ消えていなかった。
リリアは香り袋を、肌着と胸当ての間へ深く押し込んだ。
見つかってはいけない。
誰にも取り上げられたくなかった。
これは、自分とアンをつないでいるものだから。
奪われれば、ようやく手にした細い糸まで断たれてしまう。
扉の外で足音が止まった。
王室騎士団の見張りが短く言葉を交わしている。
鍵が回る。
かちり。
その音に、胸の奥が固くなった。
扉が開いた。
灰色の外套をまとった騎士が二人立っている。
胸元には、王冠を抱く獅子の銀紋。
「リリア。出ろ」
短い命令だった。
「……はい」
リリアは壁へ手をついて立ち上がった。
膝にうまく力が入らない。
服越しに触れる香り袋の感触を確かめ、どうにか足を前へ出した。
「どちらへ」
尋ねたあとで、答えを期待するだけ無駄だと気づいた。
騎士は何も言わず、リリアの左右へ立った。
廊下へ出る。
ローゼンベルク家の護衛はいない。
王室騎士団だけだった。
いつもなら、地上へ続く階段へ向かう。
今夜、騎士たちは地下廊下をさらに奥へ進んだ。
使われていない倉庫を過ぎ、古い酒樽が残された通路へ入る。
湿った石壁に沿って進むうち、リリアの足が重くなった。
知っている。
でも覚えてはいない。
この先を、身体が知っている。
背中に冷たい感覚が走った。
腰の奥では、とうに消えたはずの痛みが輪郭を取り戻していく。
右腕の痣にも熱が集まった。
「止まるな」
騎士の一人が言った。
リリアは唇を噛み、歩き続けた。
地下廊下の最奥。
厚い木扉の前に、レオナールが立っていた。
その横には王室騎士団の書記官と軍医が控えている。
少し離れた壁際には、ヴィクトルもいた。
その姿を認めた途端、足元が少しだけ確かになった。
ヴィクトルの顔は硬い。
「エルンスト」
レオナールが言った。
「お前は外で待て」
「しかし、隊長」
「命令だ」
ヴィクトルは唇を結んだ。
「承知しました」
扉の脇へ下がる。
安心はすぐに消えた。
ヴィクトルが入ることを許されない部屋へ、自分だけが連れていかれる。
「入れ」
扉が開いた。
冷たい空気が流れ出す。
昼間に聴取を受けた小部屋とは違う石室だった。
壁も床も古く、天井は低い。
中央には背もたれの高い木椅子。その脇の長机には、二つのランタンと革帯、水を入れた器、白い布が並べられている。
机の端に、一本の鞭が置かれていた。
誰も手にはしていないのに。
背中の傷が存在を主張し始める。
見たくない。
目を逸らしてしまうのも、怖い。
黒い革と、古びた柄。
記憶にはないはずなのに、身体はその形を拒んでいた。
扉が閉められる。
ヴィクトルの姿が見えなくなった。
石室に残ったのは、レオナール、書記官、軍医、二人の王室騎士、そしてリリアだった。
「座れ」
リリアは動けなかった。
「座れ」
二度目は、命令であることを疑わせない声だった。
「……はい」
椅子へ腰を下ろす。
木の冷たさが服越しに伝わった。
軍医が脈を測り、瞳孔と呼吸の状態を確認する。
王室騎士がリリアの両腕を肘掛けへ置かせた。
レオナールが革帯を示す。
「強く締めるな。痣と皮膚の状態が変われば、検分にならない」
右手首と左手首が固定され、最後に膝の上へ革帯が回された。
痛みはない。
身体を動かせないという事実だけが残った。
声を上げても、ここは地下の奥だ。
扉の外にはヴィクトルがいる。
聞こえるかもしれない。
聞かれてしまうかもしれない。
リリアは服の下にある香り袋を意識した。
まだ誰にも奪われていない。
「これは正式な尋問ではない」
レオナールが告げた。
「黒百合の反応と、過去の記憶を確認するための検分だ」
「検分……」
「問われたことには答えろ。痛みや記憶に変化があれば隠すな」
「はい」
書記官が帳面を開いた。
羽根ペンが紙へ触れる。
かり。
肩が反射的に持ち上がった。
「開始する」
レオナールはリリアの右腕を確認した。
「黒百合」
痣の奥で熱が脈打つ。
「疼きます」
「ヤシャラ」
白い壁。
風を含んだ薄い布。
見えかけた景色は、形になる前に消えた。
「何か見えるか」
「白い壁のようなものが……でも、分かりません」
「ミレナ」
黒い髪が浮かんだ。
光を受けて、菫色を帯びている。
顔は見えない。
「女の人が」
「顔は」
「見えません」
「母親か」
「分かりません」
レオナールは次の問いへ移った。
「黒き百合を返してください」
アンの手紙へ記されていた言葉だった。
右腕へ強い疼きが走る。
革帯が軋んだ。
自分で動かした覚えはない。
右手が、肘掛けの上で跳ねていた。
「返す、という言葉に反応した」
「私は、何も……」
「まだ結論は求めていない」
レオナールは机の上の鞭へ手を伸ばした。
古びた柄へ触れる。
リリアは息を呑んだ。
「三年前も、この部屋だったな」
まぶたを閉じる。
「覚えておりません」
「本当に?」
「覚えて、おりません」
嘘ではない。
頭には何もない。
背中には熱があり、腰の奥は冷え、革帯に留められた手首だけが、知るはずのない過去を知っていた。
レオナールが鞭を持ち上げる。
リリアは反射的に顔を背けた。
「見ろ」
逃げることを許さない声だった。
ゆっくり顔を戻す。
黒い革の先が、ランタンの明かりを鈍く返している。
「これは、お前を打つために用意したものではない」
レオナールは鞭を持ったまま告げた。
「身体に残る記憶を確かめるためだ」
「やめてください」
思わず声が漏れた。
「何を」
「それを……」
「打たれたことを覚えているのか」
「分かりません」
「分からないのに怖い」
「はい」
「なら、少なくとも身体は反応している」
レオナールは鞭を机へ置いた。
ぱしり。
乾いた音が石室へ響いた。
リリアの身体が椅子の中で縮む。
その音だった。
違うはずなのに、耳の奥では同じ音になった。
ぱしり。
かり、かり。
ぱしり。
帳面を擦る音。
知らない男の声。
罰を受けろ。
息が細かく途切れ始めた。
「何を聞いた」
「……分かりません」
「言え」
「声が……」
「誰の声だ」
「分かりません」
「何と言った」
「罰を、受けろと」
書記官がその言葉を記録する。
石室の壁が遠のいた。
石床が見える。
壁へ掛けられた古い鉄具。
黒い革靴。
帳面を持つ男。
扉のそばに立つ、背の高い影。
膝が石床へ触れていた。
違う。
今は椅子に座っている。
それなのに、三年前の自分がそこにいる。
石床へ膝をつき、右腕を革帯で固定され、顔を上げることも許されていない。
誰かが言った。
顔を上げるな。
リリアの喉から、声にならない音が漏れた。
「何を見た」
「石床……」
「続けろ」
「靴が」
「誰の」
「ヨーゼフ様の……」
レオナールはその名について確認を挟まなかった。
「ほかには」
「帳面を持った方が」
「誰だ」
「分かりません」
「ハインリヒはいたか」
暗い影が見える。
扉の近くに立つ男。
顔は分からない。
その沈黙だけは知っていた。
「いました」
「なぜ処罰された」
秋の白い光が差し込んだ。
栗色の小馬。
アンの笑い声。
突然、跳ね上がる前脚。
落ちていく小さな身体。
だめ。
アンを。
アンを傷つけないで。
右腕が焼ける。
黒い花弁。
誰かの悲鳴。
「お嬢様が……」
唇がうまく動かない。
「お嬢様が、落ちて」
「お前は何をした」
「分かりません」
「黒百合を使ったのか」
「分かりません」
「アン嬢はどうなった」
「眠って……」
「一週間、目を覚まさなかった」
レオナールの声が、現在へ引き戻す。
違います。
助けようとしたのです。
その言葉だけが内側から押し上がった。
声にはならない。
お前にしか分からないことを、こちらが信じると思うか。
別の声が重なった。
誰のものかは分からない。
身体だけが、その言葉を知っている。
レオナールが鞭の先を石床へ打ちつけた。
ぱしり。
その一度の音で、記憶の中の数が動き始めた。
一。
低い声。
二。
帳面を擦る音。
三。
右腕を動かすな。
四。
アンの名を呼ぶな。
五。
違います。
六。
助けようとしました。
七。
罰を受けろ。
八。
遠くで、女の声がする。
やめてください。
九。
剣が鞘へ触れる。
十。
黒百合が熱い。
十一。
泣くな。
動くな。
顔を上げるな。
十二。
そこで、数だけが終わった。
記憶の中のリリアが石床へ崩れる。
椅子にいる身体も同じ方向へ傾いた。
革帯が体重を受け止める。
空気が入ってこない。
喉から細い音だけが漏れた。
軍医がすぐに前へ出た。
「隊長、脈が乱れています」
レオナールは右腕を確認した。
痣の色は濃くなっているが、拘束を破ろうとするような力は現れていない。
「リリア」
声が遠い。
「今は打たれていない。ここは三年前ではない」
分かっている。
分かっているのに、身体が戻ってこない。
背中が痛い。
石床が冷たい。
実際に触れているのは椅子のはずなのに、感覚だけが過去へ置き去りにされている。
「呼吸しろ」
レオナールの命令が届いた。
「このままでは、検分を続けられない」
服の内側で、香り袋が肌へ当たった。
体温で少し乾いた布。
不揃いな白い花。
アン様。
リリアは、その感触だけを追った。
私は今、ここにいる。
三年前ではない。
アン様は生きている。
私は探しに行く。
生きていろ。
雨の中で聞いたシリルの声。
リリアは細く息を吸った。
一度。
もう一度。
途切れていた呼吸が、少しずつ整っていった。
「脈が落ち始めました」
軍医が報告する。
レオナールはリリアではなく、変化の出た右腕を観察していた。
過去の処罰へ引き戻され、自身の恐怖が極度まで高まっても、黒百合には発現と呼べるほどの変化がない。
それに対して、アンが落下する記憶へ触れた時には、痣の反応が明らかに強まった。
封印記録と一致する可能性がある。
エリーズの供述も、この一点については無視できない。
三年前の黒百合は、アンを守ろうとして現れたのかもしれない。
そうであるなら、ローゼンベルク家は自分たちの娘を助けようとした少女を、事情も確定しないまま処罰したことになる。
同時に、別の危険も浮かび上がった。
リリア自身を傷つけるだけでは、力は動かない。
守ろうとする者を危険へ置けば、本人の意思とは無関係に黒百合を引き出せる可能性がある。
善意そのものが、発現の鍵になり得る。
レオナールは軍医へ尋ねた。
「正確な反応を取れる状態か」
「これ以上、同じ刺激を重ねれば、記憶ではなく恐慌への反応が強くなります」
「回復までの時間は」
「少なくとも一刻は必要です」
机の上には、まだ検分予定の記録が残っている。
父親に関する事項、祀院の称号、ヤシャラの地名、古い文献に記された言葉。
今夜中に試すことはできる。
しかし、恐慌への反応が混じれば、得られた記録そのものの価値がなくなる。
「拘束を解け」
レオナールは命じた。
リリアの身体から、張りつめていた力が少し抜ける。
「検分は、終わりですか」
「今日の分はな」
慰める口調ではなかった。
「残りは、状態を見て改める」
騎士が革帯を外した。
自由になった右腕を、リリアはすぐに身体へ引き寄せた。
「十二回」
レオナールが言った。
背筋が固くなる。
「命じたのはハインリヒ」
リリアは答えなかった。
「執行したのはヨーゼフ」
「……分かりません」
「分からないと言いながら、靴と声は覚えている」
黒い革靴。
平らな声。
怒りも憎しみもなかった。
命令を受けた騎士の声。
人は相手を憎んでいなくても、傷つける命令を実行できる。
十三歳の自分は、それを身体で覚えた。
「誰も、私を見ていませんでした」
言葉が漏れた。
「何を見ていた」
「右腕を」
声が掠れた。
「皆、右腕を見ていました。私ではなく」
レオナールの表情は変わらなかった。
「当時の記録が正しければ、未知の力が現れた直後、アン嬢は一週間意識を失った。警戒される理由はあった」
「では、私は……」
「警戒することと、事実を確定しないまま処罰することは別だ」
レオナールは机に置かれた記録を押さえた。
「ローゼンベルク家は、何が起きたのか確定しないまま、お前を処罰した。その後、出所の明らかでない薬を与え、記憶を失わせた」
声に怒りはなかった。
一語ずつ、判断を記録するように続ける。
「王室へ報告せず、三年前の証言と検証の機会を失わせた。侯爵家の独断によってな」
リリアには、その意味のすべてを理解することはできなかった。
「私は、お嬢様を傷つけたのでしょうか」
「現段階では断定できない」
「では、助けようとしたのでしょうか」
レオナールはすぐには答えなかった。
「その可能性を否定する材料もない」
胸を塞いでいた何かが、ごく少し緩んだ。
が、次の言葉が、そのまま安堵することを許さない。
「期待するな」
レオナールは事実だけを告げた。
「今夜確認できたのは、特定の記憶へ触れた際、痣の反応が強まったということだけだ」
「特定の記憶……」
「アン嬢が落下する場面だ」
リリアは右腕を見る。
「それが何を意味するのかは、まだ分からない」
「はい」
「お前の意図も、黒百合がアン嬢へ与えた影響も、これから調べる」
レオナールは書記官へ告げた。
「記録しろ。対象自身への恐怖刺激では、痣の顕著な変化なし。アン・ローゼンベルク落下時の記憶を想起した際、反応が増大」
「はい」
「原因と発現条件については、継続検証を要する」
書記官が記録を続ける。
レオナールが何を知っているのかは分からない。
今の反応から何を読み取ったのかも教えられなかった。
「お前がアン嬢を助けようとした可能性があったとしても、アン嬢が一週間目を覚まさなかった事実は消えない」
「はい」
「意図が善良なら、結果まで安全になるわけではない」
「……はい」
「だから、王室の管理下へ移す」
リリアの身体が強張った。
「移送後、痣の反応、三年前に投与された薬、失われた記憶を調べる」
「私は……」
声が出かけて止まった。
「言え」
「……何でもありません」
「嘘だな」
香り袋へ手を伸ばしかけ、リリアは膝の上で両手を握った。
レオナールは、その動きを見逃さなかった。
「移送を恐れているだけではないな」
息が喉の途中で止まった。
「何を隠している」
「何も」
「今の答えは記録しない」
レオナールは書記官へ告げた。
「対象の恐慌が完全には収まっていない」
見逃されたのではない。
正確な答えを取れる状態ではないと判断され、後へ回されただけだった。
「次の聴取で改めて聞く」
レオナールが告げる。
「その時も隠せると思うな」
「……はい」
「移送時の拘束は、予定どおり右腕のみとする。私物は認めない。身体と衣服の確認も、移送前に行う」
身体の内側が冷えた。
香り袋が見つかる。
取り上げられる。
今ここで確かめることも、隠し場所を変えることもできない。
「立てるか」
「はい」
椅子から立とうとした。
膝へ力が入らず、身体が傾く。
軍医が腕を支えた。
「歩行は可能ですが、監房まで支えが必要です」
「エルンストを入れろ」
◆
扉が開いた。
廊下には、ヴィクトルが立っていた。
壁際で片手を強く握っている。
中の音を、どこまで聞いていたのかは分からない。
リリアは顔を伏せた。
こんな姿を見られたくなかった。
「エルンスト」
レオナールが命じた。
「対象を果実貯蔵室へ戻せ。移送経路の確認も続けろ」
「承知しました」
リリアは自分で歩こうとした。
一歩目で膝が崩れかける。
ヴィクトルが左腕を支えた。
「歩けるか」
「……はい」
返事とは反対に、足へ力が入らない。
ヴィクトルは何も言わず、歩幅を合わせた。
前後には王室騎士団の騎士がついている。
地下廊下には、靴音と遠い雨水の音だけが続いた。
古い酒樽の並ぶ通路へ入ったところで、ヴィクトルが低く尋ねた。
「打たれたのか」
「いいえ」
リリアは右手首を身体へ寄せた。
「音を、聞かされただけです」
支えているヴィクトルの手に、一度だけ力がこもった。
それ以上は何も聞かなかった。
果実貯蔵室の前へ着く。
見張りの騎士が鍵を回した。
「もう、歩けます」
リリアが言うと、ヴィクトルは腕を離した。
扉が開く。
暗い室内に、壁際の棚が見えた。
リリアは一歩、中へ入る。
「リリア」
呼ばれて振り返った。
ヴィクトルは扉の外に立ったままだった。
「限界になる前に」
そこで言葉が止まった。
「俺を呼べ」
扉が閉まり始める。
リリアは小さく頭を下げた。
「付き添ってくださり、ありがとうございました」
ヴィクトルの口が開いた。
声になる前に扉が閉じた。
かちり。
鍵の音が、二人の間を分けた。
◆
リリアたちが去ったあと、書記官は検分記録を確認した。
「隊長。結果の総括は」
レオナールは机の上に残された鞭を見た。
「対象リリア。自身への恐怖および過去の痛みによる顕著な発現は確認できず」
「はい」
「アン・ローゼンベルクの危機を想起した際、痣の反応が増大。封印記録と一致する可能性あり」
「エリーズの供述についても記載しますか」
「記載しろ。ただし、相互に独立した証拠としては扱うな。エリーズが古い伝承を知っていた可能性がある」
「承知しました」
「能力の発現条件は、引き続き秘匿指定とする。リリア本人にも知らせるな」
「理由は」
「自分の力が何に反応するか知れば、反応を作る可能性がある。あるいは、それを恐れて証言を歪める」
「本人が意図的に利用すると?」
「本人が利用しなくても、周囲が利用する」
レオナールは机の記録を閉じた。
「本人へ知らせる必要はない」
「ローゼンベルク家が行った処罰については」
「王室への報告義務違反、証拠の秘匿、独断による処分として別に記録しろ」
「リリアへの不当な処罰としてではなく?」
「不当かどうかは、三年前の真相を確定してから判断する」
「承知しました」
「薬による記憶障害が認められた場合、王室の捜査に必要だった証言を失わせたことになる」
レオナールの声に変化はない。
「侯爵家であろうと、責任は問う」
「はい」
書記官が記録を続ける。
黒百合は、自らのためには咲かぬ花。
自身が傷ついても発現せず、守ろうとする者の危機によって力が動く。
レオナールはそれを憐れな性質だと思った。
憐れであることと、自由にしてよいことは、別だとも思った。
ローゼンベルク家は、恐怖からリリアを処罰し、地下へ隔離し、薬で力を抑えた。
その結果、本人の記憶と、王室が必要とする情報の双方を失った。
王室が同じ失敗を繰り返す理由はない。
必要なのは、恐れて隠すことではなく、条件を確かめ、記録し、制御下へ置くことだ。
それがリリア本人の望みと一致する必要はなかった。
レオナールは机の上の鞭を示した。
「次の検分まで保管しておけ」
◆
果実貯蔵室へ戻されたリリアは、壁際へ座り込んだ。
全身が冷えている。
右腕だけが熱を持っていた。
手首には革帯の跡があり、背中には古い傷が息を吹き返したような痛みが残っている。
思うように動かない手で、服の内側から薄桃色の布を取り出す。
体温で少しだけ乾いていた。
不揃いな白い花。
紫の蔓。
二つの結び目。
金色の髪。
あとから加えられた葛花。
石室で聞いた言葉が、まだ身体の奥に残っている。
アンが落ちる記憶へ触れた時、右腕の痣は強く反応した。
それが何を意味するのか、レオナールは教えなかった。
助けようとした可能性を否定する材料もない。
与えられたのは、その一言だけだった。
これまで聞かされてきた言葉とは違う。
お前が悪い。
お前がアンを傷つけた。
そう決めつけられた三年前へ、ほんの小さなひびが入った。
私は、アン様を傷つけたかったのではない。
助けようとしたのかもしれない。
そう思った途端、涙が頬を伝った。
十二という数が、まだ背中に残っている。
あれほど罰せられたのなら、本当に何か恐ろしいことをしたのではないか。
その疑いは消えてはくれなかった。
リリアは香り袋を身体へ押し当てた。
「お嬢様」
小さく呼ぶ。
「私は、行きます」
声は震えていた。
それでも、消えなかった。
通気口の向こうでは、雨が降っている。
シリルの声は聞こえない。
リリアは心の中で答えた。
生きていろ。
はい。
生きます。
そして、もう一つの名を呼ぶ。
アン様。
待っていてください。
地下の闇の中で、右腕の黒百合が静かに疼いていた。
石室へ連れていかれる前よりも深い痛みがある。
その奥には、痛みだけでは説明できない熱が残っていた。
暗い土の下で、芽が殻を押し開こうとしているような熱だった。




