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第二十七話 石室の検分

雨は夜になっても止まなかった。


 北棟地下の石室で、レオナールは一枚の写しを読んでいた。


 王宮図書館の封印書庫から持ち出した、古い記録の抜粋だった。


 原本が書かれたのは百年以上前。


 ローダン王国とヤシャラ帝国が国境を巡り、幾度も小さな衝突を繰り返していた時代である。


 紙面には、黒百合の巫女に関する証言が残されていた。


 古い伝承にすぎないが、エリーズも、同じ性質を口にしていた。


 レオナールは写しから手を離し、机の端に置かれた一本の鞭を見た。


 扉が二度、叩かれる。


「隊長。対象を迎えに向かわせました」


 レオナールは記録の写しを折り、内衣へ収めた。


「分かった」


 机の端に置かれた鞭を一瞥してから、石室を出る。



 地下の果実貯蔵室には、冷えた石と湿った土の匂いが沈んでいた。


 リリアは壁際に座り、服の内側へ隠した香り袋を押さえていた。


 薄桃色の布。


 少し曲がった白い花と、紫の蔓。


 二つの結び目。


 中に残された金色の髪。


 あとから加えられた葛花。


 アンへ続くものが、あの小さな袋に残されている。


 雨音の向こうから聞こえたシリルの言葉も、まだ消えていなかった。


 リリアは香り袋を、肌着と胸当ての間へ深く押し込んだ。


 見つかってはいけない。


 誰にも取り上げられたくなかった。


 これは、自分とアンをつないでいるものだから。


 奪われれば、ようやく手にした細い糸まで断たれてしまう。


 扉の外で足音が止まった。


 王室騎士団の見張りが短く言葉を交わしている。


 鍵が回る。


 かちり。


 その音に、胸の奥が固くなった。


 扉が開いた。


 灰色の外套をまとった騎士が二人立っている。


 胸元には、王冠を抱く獅子の銀紋。


「リリア。出ろ」


 短い命令だった。


「……はい」


 リリアは壁へ手をついて立ち上がった。


 膝にうまく力が入らない。


 服越しに触れる香り袋の感触を確かめ、どうにか足を前へ出した。


「どちらへ」


 尋ねたあとで、答えを期待するだけ無駄だと気づいた。


 騎士は何も言わず、リリアの左右へ立った。


 廊下へ出る。


 ローゼンベルク家の護衛はいない。


 王室騎士団だけだった。


 いつもなら、地上へ続く階段へ向かう。


 今夜、騎士たちは地下廊下をさらに奥へ進んだ。


 使われていない倉庫を過ぎ、古い酒樽が残された通路へ入る。


 湿った石壁に沿って進むうち、リリアの足が重くなった。


 知っている。


 でも覚えてはいない。


 この先を、身体が知っている。


 背中に冷たい感覚が走った。


 腰の奥では、とうに消えたはずの痛みが輪郭を取り戻していく。


 右腕の痣にも熱が集まった。


「止まるな」


 騎士の一人が言った。


 リリアは唇を噛み、歩き続けた。


 地下廊下の最奥。


 厚い木扉の前に、レオナールが立っていた。


 その横には王室騎士団の書記官と軍医が控えている。


 少し離れた壁際には、ヴィクトルもいた。


 その姿を認めた途端、足元が少しだけ確かになった。


 ヴィクトルの顔は硬い。


「エルンスト」


 レオナールが言った。


「お前は外で待て」


「しかし、隊長」


「命令だ」


 ヴィクトルは唇を結んだ。


「承知しました」


 扉の脇へ下がる。


 安心はすぐに消えた。


 ヴィクトルが入ることを許されない部屋へ、自分だけが連れていかれる。


「入れ」


 扉が開いた。


 冷たい空気が流れ出す。


 昼間に聴取を受けた小部屋とは違う石室だった。


 壁も床も古く、天井は低い。


 中央には背もたれの高い木椅子。その脇の長机には、二つのランタンと革帯、水を入れた器、白い布が並べられている。


 机の端に、一本の鞭が置かれていた。


 誰も手にはしていないのに。


 背中の傷が存在を主張し始める。


 見たくない。


 目を逸らしてしまうのも、怖い。


 黒い革と、古びた柄。


 記憶にはないはずなのに、身体はその形を拒んでいた。


 扉が閉められる。


 ヴィクトルの姿が見えなくなった。


 石室に残ったのは、レオナール、書記官、軍医、二人の王室騎士、そしてリリアだった。


「座れ」


 リリアは動けなかった。


「座れ」


 二度目は、命令であることを疑わせない声だった。


「……はい」


 椅子へ腰を下ろす。


 木の冷たさが服越しに伝わった。


 軍医が脈を測り、瞳孔と呼吸の状態を確認する。


 王室騎士がリリアの両腕を肘掛けへ置かせた。


 レオナールが革帯を示す。


「強く締めるな。痣と皮膚の状態が変われば、検分にならない」


 右手首と左手首が固定され、最後に膝の上へ革帯が回された。


 痛みはない。


 身体を動かせないという事実だけが残った。


 声を上げても、ここは地下の奥だ。


 扉の外にはヴィクトルがいる。


 聞こえるかもしれない。


 聞かれてしまうかもしれない。


 リリアは服の下にある香り袋を意識した。


 まだ誰にも奪われていない。


「これは正式な尋問ではない」


 レオナールが告げた。


「黒百合の反応と、過去の記憶を確認するための検分だ」


「検分……」


「問われたことには答えろ。痛みや記憶に変化があれば隠すな」


「はい」


 書記官が帳面を開いた。


 羽根ペンが紙へ触れる。


 かり。


 肩が反射的に持ち上がった。


「開始する」


 レオナールはリリアの右腕を確認した。


「黒百合」


 痣の奥で熱が脈打つ。


「疼きます」


「ヤシャラ」


 白い壁。


 風を含んだ薄い布。


 見えかけた景色は、形になる前に消えた。


「何か見えるか」


「白い壁のようなものが……でも、分かりません」


「ミレナ」


 黒い髪が浮かんだ。


 光を受けて、菫色を帯びている。


 顔は見えない。


「女の人が」


「顔は」


「見えません」


「母親か」


「分かりません」


 レオナールは次の問いへ移った。


「黒き百合を返してください」


 アンの手紙へ記されていた言葉だった。


 右腕へ強い疼きが走る。


 革帯が軋んだ。


 自分で動かした覚えはない。


 右手が、肘掛けの上で跳ねていた。


「返す、という言葉に反応した」


「私は、何も……」


「まだ結論は求めていない」


 レオナールは机の上の鞭へ手を伸ばした。


 古びた柄へ触れる。


 リリアは息を呑んだ。


「三年前も、この部屋だったな」


 まぶたを閉じる。


「覚えておりません」


「本当に?」


「覚えて、おりません」


 嘘ではない。


 頭には何もない。


 背中には熱があり、腰の奥は冷え、革帯に留められた手首だけが、知るはずのない過去を知っていた。


 レオナールが鞭を持ち上げる。


 リリアは反射的に顔を背けた。


「見ろ」


 逃げることを許さない声だった。


 ゆっくり顔を戻す。


 黒い革の先が、ランタンの明かりを鈍く返している。


「これは、お前を打つために用意したものではない」


 レオナールは鞭を持ったまま告げた。


「身体に残る記憶を確かめるためだ」


「やめてください」


 思わず声が漏れた。


「何を」


「それを……」


「打たれたことを覚えているのか」


「分かりません」


「分からないのに怖い」


「はい」


「なら、少なくとも身体は反応している」


 レオナールは鞭を机へ置いた。


 ぱしり。


 乾いた音が石室へ響いた。


 リリアの身体が椅子の中で縮む。


 その音だった。


 違うはずなのに、耳の奥では同じ音になった。


 ぱしり。


 かり、かり。


 ぱしり。


 帳面を擦る音。


 知らない男の声。


 罰を受けろ。


 息が細かく途切れ始めた。


「何を聞いた」


「……分かりません」


「言え」


「声が……」


「誰の声だ」


「分かりません」


「何と言った」


「罰を、受けろと」


 書記官がその言葉を記録する。


 石室の壁が遠のいた。


 石床が見える。


 壁へ掛けられた古い鉄具。


 黒い革靴。


 帳面を持つ男。


 扉のそばに立つ、背の高い影。


 膝が石床へ触れていた。


 違う。


 今は椅子に座っている。


 それなのに、三年前の自分がそこにいる。


 石床へ膝をつき、右腕を革帯で固定され、顔を上げることも許されていない。


 誰かが言った。


 顔を上げるな。


 リリアの喉から、声にならない音が漏れた。


「何を見た」


「石床……」


「続けろ」


「靴が」


「誰の」


「ヨーゼフ様の……」


 レオナールはその名について確認を挟まなかった。


「ほかには」


「帳面を持った方が」


「誰だ」


「分かりません」


「ハインリヒはいたか」


 暗い影が見える。


 扉の近くに立つ男。


 顔は分からない。


 その沈黙だけは知っていた。


「いました」


「なぜ処罰された」


 秋の白い光が差し込んだ。


 栗色の小馬。


 アンの笑い声。


 突然、跳ね上がる前脚。


 落ちていく小さな身体。


 だめ。


 アンを。


 アンを傷つけないで。


 右腕が焼ける。


 黒い花弁。


 誰かの悲鳴。


「お嬢様が……」


 唇がうまく動かない。


「お嬢様が、落ちて」


「お前は何をした」


「分かりません」


「黒百合を使ったのか」


「分かりません」


「アン嬢はどうなった」


「眠って……」


「一週間、目を覚まさなかった」


 レオナールの声が、現在へ引き戻す。


 違います。


 助けようとしたのです。


 その言葉だけが内側から押し上がった。


 声にはならない。


 お前にしか分からないことを、こちらが信じると思うか。


 別の声が重なった。


 誰のものかは分からない。


 身体だけが、その言葉を知っている。


 レオナールが鞭の先を石床へ打ちつけた。


 ぱしり。


 その一度の音で、記憶の中の数が動き始めた。


 一。


 低い声。


 二。


 帳面を擦る音。


 三。


 右腕を動かすな。


 四。


 アンの名を呼ぶな。


 五。


 違います。


 六。


 助けようとしました。


 七。


 罰を受けろ。


 八。


 遠くで、女の声がする。


 やめてください。


 九。


 剣が鞘へ触れる。


 十。


 黒百合が熱い。


 十一。


 泣くな。


 動くな。


 顔を上げるな。


 十二。


 そこで、数だけが終わった。


 記憶の中のリリアが石床へ崩れる。


 椅子にいる身体も同じ方向へ傾いた。


 革帯が体重を受け止める。


 空気が入ってこない。


 喉から細い音だけが漏れた。


 軍医がすぐに前へ出た。


「隊長、脈が乱れています」


 レオナールは右腕を確認した。


 痣の色は濃くなっているが、拘束を破ろうとするような力は現れていない。


「リリア」


 声が遠い。


「今は打たれていない。ここは三年前ではない」


 分かっている。


 分かっているのに、身体が戻ってこない。


 背中が痛い。


 石床が冷たい。


 実際に触れているのは椅子のはずなのに、感覚だけが過去へ置き去りにされている。


「呼吸しろ」


 レオナールの命令が届いた。


「このままでは、検分を続けられない」


 服の内側で、香り袋が肌へ当たった。


 体温で少し乾いた布。


 不揃いな白い花。


 アン様。


 リリアは、その感触だけを追った。


 私は今、ここにいる。


 三年前ではない。


 アン様は生きている。


 私は探しに行く。


 生きていろ。


 雨の中で聞いたシリルの声。


 リリアは細く息を吸った。


 一度。


 もう一度。


 途切れていた呼吸が、少しずつ整っていった。


「脈が落ち始めました」


 軍医が報告する。


 レオナールはリリアではなく、変化の出た右腕を観察していた。


 過去の処罰へ引き戻され、自身の恐怖が極度まで高まっても、黒百合には発現と呼べるほどの変化がない。


 それに対して、アンが落下する記憶へ触れた時には、痣の反応が明らかに強まった。


 封印記録と一致する可能性がある。


 エリーズの供述も、この一点については無視できない。


 三年前の黒百合は、アンを守ろうとして現れたのかもしれない。


 そうであるなら、ローゼンベルク家は自分たちの娘を助けようとした少女を、事情も確定しないまま処罰したことになる。


 同時に、別の危険も浮かび上がった。


 リリア自身を傷つけるだけでは、力は動かない。


 守ろうとする者を危険へ置けば、本人の意思とは無関係に黒百合を引き出せる可能性がある。


 善意そのものが、発現の鍵になり得る。


 レオナールは軍医へ尋ねた。


「正確な反応を取れる状態か」


「これ以上、同じ刺激を重ねれば、記憶ではなく恐慌への反応が強くなります」


「回復までの時間は」


「少なくとも一刻は必要です」


 机の上には、まだ検分予定の記録が残っている。


 父親に関する事項、祀院の称号、ヤシャラの地名、古い文献に記された言葉。


 今夜中に試すことはできる。


 しかし、恐慌への反応が混じれば、得られた記録そのものの価値がなくなる。


「拘束を解け」


 レオナールは命じた。


 リリアの身体から、張りつめていた力が少し抜ける。


「検分は、終わりですか」


「今日の分はな」


 慰める口調ではなかった。


「残りは、状態を見て改める」


 騎士が革帯を外した。


 自由になった右腕を、リリアはすぐに身体へ引き寄せた。


「十二回」


 レオナールが言った。


 背筋が固くなる。


「命じたのはハインリヒ」


 リリアは答えなかった。


「執行したのはヨーゼフ」


「……分かりません」


「分からないと言いながら、靴と声は覚えている」


 黒い革靴。


 平らな声。


 怒りも憎しみもなかった。


 命令を受けた騎士の声。


 人は相手を憎んでいなくても、傷つける命令を実行できる。


 十三歳の自分は、それを身体で覚えた。


「誰も、私を見ていませんでした」


 言葉が漏れた。


「何を見ていた」


「右腕を」


 声が掠れた。


「皆、右腕を見ていました。私ではなく」


 レオナールの表情は変わらなかった。


「当時の記録が正しければ、未知の力が現れた直後、アン嬢は一週間意識を失った。警戒される理由はあった」


「では、私は……」


「警戒することと、事実を確定しないまま処罰することは別だ」


 レオナールは机に置かれた記録を押さえた。


「ローゼンベルク家は、何が起きたのか確定しないまま、お前を処罰した。その後、出所の明らかでない薬を与え、記憶を失わせた」


 声に怒りはなかった。


 一語ずつ、判断を記録するように続ける。


「王室へ報告せず、三年前の証言と検証の機会を失わせた。侯爵家の独断によってな」


 リリアには、その意味のすべてを理解することはできなかった。


「私は、お嬢様を傷つけたのでしょうか」


「現段階では断定できない」


「では、助けようとしたのでしょうか」


 レオナールはすぐには答えなかった。


「その可能性を否定する材料もない」


 胸を塞いでいた何かが、ごく少し緩んだ。


 が、次の言葉が、そのまま安堵することを許さない。


「期待するな」


 レオナールは事実だけを告げた。


「今夜確認できたのは、特定の記憶へ触れた際、痣の反応が強まったということだけだ」


「特定の記憶……」


「アン嬢が落下する場面だ」


 リリアは右腕を見る。


「それが何を意味するのかは、まだ分からない」


「はい」


「お前の意図も、黒百合がアン嬢へ与えた影響も、これから調べる」


 レオナールは書記官へ告げた。


「記録しろ。対象自身への恐怖刺激では、痣の顕著な変化なし。アン・ローゼンベルク落下時の記憶を想起した際、反応が増大」


「はい」


「原因と発現条件については、継続検証を要する」


 書記官が記録を続ける。


 レオナールが何を知っているのかは分からない。


 今の反応から何を読み取ったのかも教えられなかった。


「お前がアン嬢を助けようとした可能性があったとしても、アン嬢が一週間目を覚まさなかった事実は消えない」


「はい」


「意図が善良なら、結果まで安全になるわけではない」


「……はい」


「だから、王室の管理下へ移す」


 リリアの身体が強張った。


「移送後、痣の反応、三年前に投与された薬、失われた記憶を調べる」


「私は……」


 声が出かけて止まった。


「言え」


「……何でもありません」


「嘘だな」


 香り袋へ手を伸ばしかけ、リリアは膝の上で両手を握った。


 レオナールは、その動きを見逃さなかった。


「移送を恐れているだけではないな」


 息が喉の途中で止まった。


「何を隠している」


「何も」


「今の答えは記録しない」


 レオナールは書記官へ告げた。


「対象の恐慌が完全には収まっていない」


 見逃されたのではない。


 正確な答えを取れる状態ではないと判断され、後へ回されただけだった。


「次の聴取で改めて聞く」


 レオナールが告げる。


「その時も隠せると思うな」


「……はい」


「移送時の拘束は、予定どおり右腕のみとする。私物は認めない。身体と衣服の確認も、移送前に行う」


 身体の内側が冷えた。


 香り袋が見つかる。


 取り上げられる。


 今ここで確かめることも、隠し場所を変えることもできない。


「立てるか」


「はい」


 椅子から立とうとした。


 膝へ力が入らず、身体が傾く。


 軍医が腕を支えた。


「歩行は可能ですが、監房まで支えが必要です」


「エルンストを入れろ」



 扉が開いた。


 廊下には、ヴィクトルが立っていた。


 壁際で片手を強く握っている。


 中の音を、どこまで聞いていたのかは分からない。


 リリアは顔を伏せた。


 こんな姿を見られたくなかった。


「エルンスト」


 レオナールが命じた。


「対象を果実貯蔵室へ戻せ。移送経路の確認も続けろ」


「承知しました」


 リリアは自分で歩こうとした。


 一歩目で膝が崩れかける。


 ヴィクトルが左腕を支えた。


「歩けるか」


「……はい」


 返事とは反対に、足へ力が入らない。


 ヴィクトルは何も言わず、歩幅を合わせた。


 前後には王室騎士団の騎士がついている。


 地下廊下には、靴音と遠い雨水の音だけが続いた。


 古い酒樽の並ぶ通路へ入ったところで、ヴィクトルが低く尋ねた。


「打たれたのか」


「いいえ」


 リリアは右手首を身体へ寄せた。


「音を、聞かされただけです」


 支えているヴィクトルの手に、一度だけ力がこもった。


 それ以上は何も聞かなかった。


 果実貯蔵室の前へ着く。


 見張りの騎士が鍵を回した。


「もう、歩けます」


 リリアが言うと、ヴィクトルは腕を離した。


 扉が開く。


 暗い室内に、壁際の棚が見えた。


 リリアは一歩、中へ入る。


「リリア」


 呼ばれて振り返った。


 ヴィクトルは扉の外に立ったままだった。


「限界になる前に」


 そこで言葉が止まった。


「俺を呼べ」


 扉が閉まり始める。


 リリアは小さく頭を下げた。


「付き添ってくださり、ありがとうございました」


 ヴィクトルの口が開いた。


 声になる前に扉が閉じた。


 かちり。


 鍵の音が、二人の間を分けた。



 リリアたちが去ったあと、書記官は検分記録を確認した。


「隊長。結果の総括は」


 レオナールは机の上に残された鞭を見た。


「対象リリア。自身への恐怖および過去の痛みによる顕著な発現は確認できず」


「はい」


「アン・ローゼンベルクの危機を想起した際、痣の反応が増大。封印記録と一致する可能性あり」


「エリーズの供述についても記載しますか」


「記載しろ。ただし、相互に独立した証拠としては扱うな。エリーズが古い伝承を知っていた可能性がある」


「承知しました」


「能力の発現条件は、引き続き秘匿指定とする。リリア本人にも知らせるな」


「理由は」


「自分の力が何に反応するか知れば、反応を作る可能性がある。あるいは、それを恐れて証言を歪める」


「本人が意図的に利用すると?」


「本人が利用しなくても、周囲が利用する」


 レオナールは机の記録を閉じた。


「本人へ知らせる必要はない」


「ローゼンベルク家が行った処罰については」


「王室への報告義務違反、証拠の秘匿、独断による処分として別に記録しろ」


「リリアへの不当な処罰としてではなく?」


「不当かどうかは、三年前の真相を確定してから判断する」


「承知しました」


「薬による記憶障害が認められた場合、王室の捜査に必要だった証言を失わせたことになる」


 レオナールの声に変化はない。


「侯爵家であろうと、責任は問う」


「はい」


 書記官が記録を続ける。


 黒百合は、自らのためには咲かぬ花。


 自身が傷ついても発現せず、守ろうとする者の危機によって力が動く。


 レオナールはそれを憐れな性質だと思った。


 憐れであることと、自由にしてよいことは、別だとも思った。


 ローゼンベルク家は、恐怖からリリアを処罰し、地下へ隔離し、薬で力を抑えた。


 その結果、本人の記憶と、王室が必要とする情報の双方を失った。


 王室が同じ失敗を繰り返す理由はない。


 必要なのは、恐れて隠すことではなく、条件を確かめ、記録し、制御下へ置くことだ。


 それがリリア本人の望みと一致する必要はなかった。


 レオナールは机の上の鞭を示した。


「次の検分まで保管しておけ」



 果実貯蔵室へ戻されたリリアは、壁際へ座り込んだ。


 全身が冷えている。


 右腕だけが熱を持っていた。


 手首には革帯の跡があり、背中には古い傷が息を吹き返したような痛みが残っている。


 思うように動かない手で、服の内側から薄桃色の布を取り出す。


 体温で少しだけ乾いていた。


 不揃いな白い花。


 紫の蔓。


 二つの結び目。


 金色の髪。


 あとから加えられた葛花。


 石室で聞いた言葉が、まだ身体の奥に残っている。


 アンが落ちる記憶へ触れた時、右腕の痣は強く反応した。


 それが何を意味するのか、レオナールは教えなかった。


 助けようとした可能性を否定する材料もない。


 与えられたのは、その一言だけだった。


 これまで聞かされてきた言葉とは違う。


 お前が悪い。


 お前がアンを傷つけた。


 そう決めつけられた三年前へ、ほんの小さなひびが入った。


 私は、アン様を傷つけたかったのではない。


 助けようとしたのかもしれない。


 そう思った途端、涙が頬を伝った。


 十二という数が、まだ背中に残っている。


 あれほど罰せられたのなら、本当に何か恐ろしいことをしたのではないか。


 その疑いは消えてはくれなかった。


 リリアは香り袋を身体へ押し当てた。


「お嬢様」


 小さく呼ぶ。


「私は、行きます」


 声は震えていた。


 それでも、消えなかった。


 通気口の向こうでは、雨が降っている。


 シリルの声は聞こえない。


 リリアは心の中で答えた。


 生きていろ。


 はい。


 生きます。


 そして、もう一つの名を呼ぶ。


 アン様。


 待っていてください。


 地下の闇の中で、右腕の黒百合が静かに疼いていた。


 石室へ連れていかれる前よりも深い痛みがある。


 その奥には、痛みだけでは説明できない熱が残っていた。


 暗い土の下で、芽が殻を押し開こうとしているような熱だった。




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