第二十八話 戻らずの塔
果実貯蔵室の扉が閉じた後も、ヴィクトルはしばらく動けなかった。
地下の廊下には、冷えた湿気が満ちていた。雨の匂いが石壁の隙間から忍び込み、靴底の下にまで薄くまとわりついている。
閉ざされた石室の向こうから聞こえた声が、まだ耳に残っていた。
一。
二。
三。
数を数える、掠れた声。
過去の記憶に染みついたリリアの声。
ヨーゼフの靴。
帳面を持った誰か。
ハインリヒの影。
アンの名を軽々しく呼ぶな。
顔を上げるな。
罰を受けろ。
ヴィクトルは拳を握った。
石壁へ打ちつければ、少しはこの息苦しさが消えるだろうか。
だが、廊下の先には王室騎士団の見張りがいる。
怒りを見せれば、任務に私情を持ち込んだと判断される。
「エルンスト」
背後から呼ばれ、ヴィクトルは姿勢を正した。
「はい」
レオナールだった。
十六歳の少女の記憶を揺さぶった直後だというのに、灰色の目は、いつもと変わらない。
「移送命令を確認する。ついて来い」
「承知しました」
レオナールは返事を待たず、廊下を歩き始めた。
ヴィクトルも後に続く。
「聞こえていたか」
レオナールは前を向いたまま尋ねた。
「一部は」
「十分だ」
何が十分なのか、ヴィクトルは聞かなかった。
リリアの声を聞かせることが、レオナールの意図だったのか。
監視対象へ情を移していないか。
騎士として判断を誤らないか。
測られているのは、リリアだけではなかった。
北棟の小書斎に着くと、王室騎士団の騎士が扉の前に立っていた。
室内にローゼンベルク家の者はいない。
机の上には、押収された証拠と聴取記録が並べられていた。
アンの手紙。
リリアの名を騙った手紙。
クララとエリーズの聴取記録。
香草瓶につけられていた小札。
それらの脇に、王室騎士団の封蝋が押された書類が置かれている。
レオナールは一束を取り、ヴィクトルの前へ滑らせた。
「読め」
表紙には王室騎士団本部の印章があった。
黒百合に関する移送命令。
対象者、リリア。
王室保護下への移送。
予定、二日後早朝。
護送責任者、レオナール・グレイヴス。
補佐、ヴィクトル・フォン・エルンスト。
自分の名を見た瞬間、胸の奥に重いものが沈んだ。
自分は、リリアを王宮へ連れていく側にいる。
ヴィクトルは次の頁をめくった。
黒百合の痣を有するため、移送中は右腕を拘束すること。
激しく動揺した場合、痣の発色および発熱に注意すること。
本人による完全な制御は確認されていない。
面会を禁ずる。
私物の持ち込みを禁ずる。
香草、刃物、筆記具、紐類を所持させてはならない。
その一文に、ヴィクトルの目が止まった。
石室から連れ出された時、リリアは一度だけ胸元へ手を寄せかけた。
すぐに下ろしたため、何かを隠しているとまでは断定できない。
さらに頁をめくる。
移送先が記されていた。
王宮北奥。
第七隔離塔。
ヴィクトルの指が止まった。
その名を知らない騎士はいない。
表向きは、病を得た貴族や保護を要する証人を静養させる施設とされている。
だが騎士団の者たちは、別の名で呼んでいた。
戻らずの塔。
王室が表へ出せない血筋や、制御できない力を持つ者を送る場所。
戻ってくる者は、ほとんどいない。
戻ってきても、以前と同じではない。
ヴィクトルは紙面から目が離せなかった。
「どうした」
レオナールが尋ねた。
「第七隔離塔へ送るのですか」
「そうだ」
「リリアは……病人ではありません」
「危険な証人だ。だから王室が保護する」
ヴィクトルは書類を見たまま言った。
「隔離塔が、保護ですか」
室内から、紙をめくる音さえ消えた。
レオナールの視線が向けられる。
「言葉を選べ、エルンスト」
「……失礼しました」
ヴィクトルは頭を下げた。
だが、問いを取り消すことはできなかった。
レオナールは机の向こうへ回った。
「王宮は、清廉であるために存在する場所ではない」
椅子へ腰を下ろし、机上の書類を指先で揃える。
「国を守るために、表へ出せないものも抱える」
「リリアも、その一つだと」
「黒百合は、ローゼンベルク家だけの問題ではない」
レオナールは感情を挟まず続けた。
「アン嬢は攫われた。犯人は黒百合を返せと要求している。対象本人は過去を覚えておらず、力も制御できない」
「だから閉じ込めるのですか」
「敵の手が届かない場所へ移す」
敵の手が届かない場所。
同時に、誰の手も届かない場所。
ヴィクトルは次の頁へ視線を落とした。
検分終了まで、必要に応じて鎮静薬の使用を認める。
抵抗時は制圧を優先する。
制御不能と判断された場合、第二処置へ移行する。
第二処置。
指先から熱が失われた。
騎士団の隠語だった。
拘束でもない。
隔離でもない。
対象を生かしておく必要がないと判断された時に使われる言葉。
「隊長」
ヴィクトルは紙から顔を上げた。
「第二処置が、リリアへ適用される可能性があるのですか」
「制御不能と判断されれば」
「彼女は制御不能ではありません」
「何を根拠に言う」
返す言葉がなかった。
騎士として示せる証拠はない。
リリアは過去を覚えていない。
黒百合の力も理解していない。
東の者たちは、彼女を求めている。
王室が危険と判断する理由はある。
それでも、ただ震えていた少女を、文書に記された一つの対象として見ることはできなかった。
「彼女はアン様を救いたいと思っています」
「危険な者も、人を救いたいと言う」
「嘘ではありません」
「お前にはそう見えた」
レオナールの指が書類の端を一度叩いた。
「監視対象に情を移すなと命じたはずだ」
「承知しています」
「ならば、顔に出すな」
ヴィクトルは目を伏せた。
自分がどこまで傾いているのか、すでに見抜かれている。
「エルンスト」
「はい」
「お前は、リリアを救いたいのか」
ヴィクトルは息を止めた。
否定すれば嘘になる。
肯定すれば、任務から外されるかもしれない。
沈黙もまた、答えになる。
「私は、任務を遂行します」
「質問に答えていない」
「騎士として命令に従います」
「それも答えではない」
レオナールはしばらくヴィクトルを見ていた。
やがて書類を閉じる。
「今は、それでいい」
「今は……?」
「お前を任務から外すつもりはない」
ヴィクトルは顔を上げた。
「なぜです」
「半年間、対象を見てきた王室側の人間は、お前だけだ」
それ以上の説明を許さないように、レオナールは次の書類を取った。
「移送当日、お前は対象の右側につけ」
「右側ですか」
「黒百合の痣がある腕だ。異変があれば押さえろ」
ヴィクトルの喉が詰まった。
「私が?」
「お前が近づく方が、余計な抵抗を招かずに済む」
レオナールはそれだけを言った。
信頼を利用しろ。
命令の意味は明らかだった。
もしリリアが自分を少しでも信じているなら。
尋問の場で庇おうとした自分に、まだ僅かな信頼を残しているなら。
それを使って、痣のある腕を押さえろということだ。
「承知しました」
声は乱れなかった。
レオナールは移送命令の副本を机へ置いた。
「今夜中に確認し、署名しろ」
「はい」
「リリアとの私的な会話を禁ずる。接触は任務上必要な場合のみ。単独では近づくな」
「承知しました」
「庭と地下の動線にも注意を払え」
ヴィクトルの目が僅かに動いた。
「庭、ですか」
「排水溝、通気口、裏門。屋敷には扉以外の道がある」
レオナールは聴取記録を閉じた。
「今は監視だけでいい。異変があれば報告しろ」
「分かりました」
果実貯蔵室の高い通気口が頭に浮かんだ。
だが、ヴィクトルはそれ以上考えるのを止めた。
確かなものは何もない。
「下がれ」
ヴィクトルは移送命令の副本を抱え、頭を下げた。
◆
小書斎を出ると、廊下は暗かった。
窓硝子を雨が伝い、白い霧が庭を覆っている。
王室騎士団の外套をまとって歩く屋敷は、半年前から知っているはずなのに、別の場所に見えた。
ここでヴィクトルは、従僕見習いとして頭を下げてきた。
食器を運び、薪を運び、使用人たちと同じ時間に起きた。
リリアとも、何度も廊下ですれ違った。
彼女はいつも先に道を譲った。
自分が王室騎士団の人間だとも知らずに。
歩けますか。
以前、思わずそう尋ねたことがある。
リリアは小さく頷いた。
大丈夫です、と。
今日も彼女は、同じような顔をしていた。
大丈夫ではないのに。
ヴィクトルは立ち止まった。
廊下の先には、果実貯蔵室へ下りる階段がある。
王室騎士団の見張りが一人、階段の前に立っていた。
監視状況の確認だと言えば、近づくことはできるかもしれない。
対象の状態を確認するためだと説明することもできる。
だが、レオナールには通じない。
リリアとの私的な会話を禁ずる。
単独では近づくな。
ヴィクトルは視線を階段から外した。
今ここで命令に背けば、移送任務から外される。
移送当日、リリアのそばにいられなくなる。
右側につけ。
それは彼女を押さえるための位置だ。
同時に、誰よりも近くに立てる位置でもある。
ヴィクトルは階段へ向かわず、使用人棟の自室へ戻った。
従僕見習いとして使っていた小さな部屋。
粗末な机と椅子。
古い長持。
隠していた剣と身分証は、すでに回収してある。
半年間、身を潜めていた部屋は、主を失った空き部屋のように静かだった。
ヴィクトルは机の上に移送命令を置いた。
第七隔離塔。
鎮静薬。
制圧。
第二処置。
署名すればいい。
命じられた通り、二日後の早朝にリリアの右側へつく。
それが、王室騎士団の騎士としての正解だった。
ヴィクトルは椅子に腰を下ろした。
机の引き出しを開ける。
中には、白い便箋が一枚残っていた。
実家を出る時に持ってきたものだった。
父へ手紙を書くつもりはなかった。
任務を終えた後、王室騎士として恥じない報告を持ち帰ればいい。
そう考えていた。
ヴィクトルは羽根ペンを手に取った。
インク壺の蓋を開ける。
紙に触れる直前で、手が止まった。
まだ命令には背いていない。
署名もしていない。
リリアを逃がすと決めたわけでもない。
それでも書き始めれば、自分にだけは嘘をつけなくなる。
長く息を吐き、ペン先を下ろした。
父上。
一行を書いたところで、手が止まった。
何を願うのか。
家の力を借りたいのか。
騎士団へ逆らう許しが欲しいのか。
それとも、自分の選択によって家へ災いが及ぶ前に、別れを告げたいのか。
まだ言葉にはできなかった。
ヴィクトルは便箋を折らず、机の上に伏せた。
その上に、移送命令を重ねる。
署名欄は空白のままだった。
外では、雨が降り続いている。
地下にはリリアがいる。
二日後の早朝、第七隔離塔へ向かう馬車が来る。
ヴィクトルは移送命令を裏返した。
下から、一行だけ記された便箋が現れる。
父上。
彼はもう一度、羽根ペンを取った。




