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第二十九話 勘当願い

父上。


 この書をもって、私ヴィクトル・フォン・エルンストは、エルンスト家の名を離れることを願い出ます。


 そこまで書いて、ヴィクトルはペンを止めた。


 夜は深まっていたが、まだ日付は変わっていない。


 雨も止む気配を見せなかった。


 使用人棟の小さな部屋では、細く絞ったランタンの火が揺れている。


 机の上には、王室騎士団から渡された移送命令の副本が広げられていた。


 第七隔離塔。


 鎮静薬。


 制圧。


 第二処置。


 何度読み返しても、書かれていることは変わらない。


 保護という言葉の下に、檻がある。


 管理という言葉の奥には、必要と判断されれば命を断つための規定まで用意されている。


 ヴィクトルは移送命令から顔を上げ、書きかけの手紙へ戻った。


 王室騎士団へ入ってからも、父へ手紙を送ったことはある。


 任務は順調です。


 ご心配には及びません。


 エルンスト家の名に恥じぬよう努めます。


 いつも、その程度のことしか書かなかった。


 父は多くを求める人ではない。


 ただ、家名を汚すな。


 剣を抜く時は、己のためではなく、守るべきもののために抜け。


 幼い頃から繰り返し、そう教えられてきた。


 長兄も、次兄も、同じ言葉を聞いて育った。


 幼いヴィクトルが木剣を振り回せば、長兄は黙って構えを直してくれた。


 次兄は稽古が終わると馬屋へ連れ出し、どちらが先に丘へ着くか競った。


 三人そろって父に叱られたことも、一度や二度ではない。


 長兄はいずれ家を継ぎ、次兄はその傍らで家を支える。


 三男のヴィクトルは剣を取り、王室騎士団へ入った。


 進む道は違っても、三人はエルンスト家の息子だった。


 そのことを疑ったことはない。


 騎士とは王室に仕え、国を守り、命令に従う者だとも信じていた。


 今、その命令の先にいるのは、書類に記された「対象」ではない。


 十三歳の時に石室で罰を受け、三年後の今も、鞭の音一つで過去へ引き戻される少女だ。


 閉ざされた扉の向こうから聞こえた声が、耳に残っている。


 一。


 二。


 三。


 掠れた声が、途中で途切れながら数を重ねていた。


 石床。


 ヨーゼフ様の――。


 お嬢様が、落ちて。


 やめてください。


 すべてを聞き取れたわけではない。


 それでも、あの声を聞いた時、ヴィクトルの中で一つのものが壊れた。


 任務への忠誠ではない。


 命じられた通りにしていれば、自分は正しいのだという思い込みだった。


 ヴィクトルは再びペンを動かした。


 今後、私がいかなる行いに出ようとも、それはエルンスト家の命によるものではありません。


 父上、母上、二人の兄上をはじめ、家臣、領民の誰にも、その責を負わせることのないようお取り計らいください。


 私の名を家譜から除き、エルンスト家に連なる者として有する一切の権利を剥奪したうえで、王室ならびに然るべき役所へお届けください。


 ペン先が止まった。


 家譜から除く。


 エルンスト家に連なる権利を失う。


 それは、自分の手で家へ帰る道を閉ざすことだった。


 父や母だけではない。


 二人の兄とも、これまでと同じように食卓を囲むことはできなくなる。


 長兄が家督を継ぐ日、その隣に立つことも。


 次兄と剣を交え、互いの腕を笑い合うこともない。


 もちろん、この一通だけで家族への嫌疑を完全に防げるとは思っていない。


 王室が共謀を疑えば、勘当の日付も、手紙の真偽も、家族との連絡も調べられるだろう。


 それでも、自ら縁を切る意思さえ残さず王室へ背けば、兄たちはさらに苦しい立場へ置かれる。


 長兄は、次代の当主として忠誠を問われる。


 次兄も、弟の企てを知っていたのではないかと疑われる。


 家臣や領民にまで、王室の調べが及ぶかもしれない。


 できることがあるなら、しておかなければならなかった。


 エルンスト家から、自分を切り離す。


 二人の兄の名から、弟の行いを遠ざける。


 ヴィクトルはペン先へインクを含ませ直した。


 不孝をお許しください。


 兄上たちにも、どうかお詫びをお伝えください。


 けれど、これは私自身が選んだ道です。


 どうか私を、息子としてではなく、一人の男としてお見送りください。


 ヴィクトル


 最後まで書き終えると、部屋には雨音だけが残った。


 短い手紙だった。


 父母への謝罪としては足りない。


 二人の兄への別れとしても、あまりに短い。


 家を離れる言葉としても足りなかった。


 これ以上を書けば、自分の選択を理解してもらうための言い訳になるような気がした。


 長兄は、困った弟だと眉を寄せるだろう。


 次兄なら、帰ってきたら一発殴ると怒るかもしれない。


 それでも二人は、父母の前で弟を切り捨てるような言葉は口にしない。


 だからこそ、巻き込むわけにはいかなかった。


 ヴィクトルはインクが乾くのを待ち、便箋を丁寧に折った。


 封筒も、家の封蝋もない。


 薄い油紙で包み、細い麻紐を二重に結ぶ。


 問題は、これをどう本邸まで届けるかだった。


 エルンスト領は遠くない。


 ローゼンベルク領から東街道へ出て、二つの丘を越えた先にある。


 軽い荷車なら、朝に出れば昼前には本邸近くまで着く。


 しかし、今は屋敷を出入りする者すべてが、王室騎士団の確認を受けている。


 騎士団の使者には託せない。


 使用人へ頼めば、その者まで巻き込む。


 ヴィクトルは油紙の包みを握った。


 その時、窓の外で小さな音がした。


 こつ。


 雨粒とは違う。


 小石が木枠へ触れた音だった。


 ヴィクトルはランタンの芯をさらに下げ、窓へ近づいた。


 硝子の向こうを、雨が白い筋になって流れている。


 軒下の暗がりに、人影があった。


 庭仕事用の外套。


 雨に濡れた焦げ茶の髪。


 泥のついた靴。


 シリルだった。


 ヴィクトルは窓を少しだけ開けた。


 冷えた湿気が室内へ入ってくる。


「何をしている」


「雨樋を見ています」


「この時間にか」


「雨が降っている時でなければ、詰まりは分からない」


 もっともらしい答えではある。


 庭師見習いが雨樋を確かめること自体はおかしくない。


 が、自分の窓へ小石を投げる理由にはならなかった。


「何の用だ」


「巡回は」


「さっき通った」


「次が来るまでに済ませる」


 シリルは声を落とした。


「お前は何をしようとしている」


「何の話だ」


「リリアを王宮へ送るのか」


「第七隔離塔だ」


 シリルの態度は変わらなかった。


「戻らないぞ」


 やはり、その名が何を意味するか知っている。


「分かっている」


「それでも護送するのか」


「私は移送補佐に入る」


「隊列のどこだ」


 ヴィクトルは口を閉ざした。


 配置まで明かせば、明確な機密漏洩になる。


 もう、その境目に立っている。


「右側だ」


「痣のある腕か」


「ああ。異変があれば押さえろと命じられた」


 雨音の中で、シリルが黙った。


「私が近づく方が、リリアが余計な抵抗をしないと思われている」


「信頼を使うのか」


「王室は、そのつもりだ」


「お前は」


 短い問いだった。


 ヴィクトルは答えた。


「隔離塔へは送らない」


 口にした瞬間、残っていた迷いが一つ消えた。


「任務への反発か」


「違う」


「騎士としてか」


 すぐには答えられなかった。


 命令へ背くことを、騎士として正しいと言い切るつもりはない。


 第二処置の意味を知ったうえで、何も知らない少女を隔離塔まで運ぶ。


 そんな自分を騎士だとも思いたくなかった。


「あの子を隔離塔へ送ってまで、騎士を名乗りたくない」


 シリルは少し黙った。


「なら、移送補佐から外されるな」


「分かっている」


「移送命令への署名は」


「まだだ」


「拒めば」


「補佐から外される可能性がある」


「なら署名しろ」


 ヴィクトルは机に広げた命令書を見た。


「署名すれば、表向きは移送を受け入れたことになる」


「受け入れたふりをしなければ、リリアの隣には立てない」


 反論できなかった。


 レオナールは、リリアを押さえるためにヴィクトルを右側へ置く。


 ならば、その位置を利用する。


 押さえるためではなく。


 連れ出すために。


「明日の夜、香草室の古い煙突を見ろ」


 シリルが言った。


「煙突?」


「今はそれだけ覚えておけ」


「何をするつもりだ」


「まだ話せない」


「私を信用していないのか」


「お互いさまだろう」


 ヴィクトルは否定しなかった。


 シリルが軒下から離れようとする。


「待て」


 ヴィクトルは机へ戻り、油紙の包みを取った。


 窓から差し出す。


「これを頼みたい」


 シリルは受け取らなかった。


「何だ」


「父への手紙だ」


「俺は使いではない」


「分かっている」


「何が書いてある」


「私をエルンスト家から外してほしいと願った」


 シリルが初めて黙り込んだ。


「そこまでするのか」


「私が王室へ背けば、家も疑われる」


「まだ何もしていない」


「するつもりだから書いた」


 雨粒が窓枠を打った。


「なぜ俺に渡す」


「お前がリリアを売るつもりなら、今夜ここへは来ていない」


 シリルは油紙を見た。


「明け方、苗木商の軽荷車が屋敷を出る」


「苗木商?」


「昨日、庭へ果樹を納めに来た商人だ。雨で出立が遅れたが、荷と身元の確認はもう済んでいる。明朝の退去許可も出ている」


「東街道へ?」


「ああ。エルンスト家の本邸から遠くない道を通る」


「信用できるのか」


「中身は話さない。当主宛ての私信として、本邸の者へ直接渡すよう頼む」


「王室に調べられたら」


「届くとは約束できない」


 ヴィクトルは迷わなかった。


「危ないと思ったら焼いてくれ」


 王室の手に渡り、家への疑いを深める証拠になるよりはいい。


「それでも俺に預けるのか」


「少なくとも、リリアを隔離塔へ送らないという点では、お前と目的が同じだ」


「それだけでは足りない」


「今のお前に渡せる答えも、それだけだ」


 二人の間を雨音が埋めた。


 やがてシリルは外套の内側で手の雨を拭い、油紙の包みを受け取った。


「本邸へ届くよう手配する」


「頼む」


「礼は、届いてから言え」


 シリルは包みを外套の内側へしまった。


「明日の夜、古い煙突を見ろ」


「ああ」


「今夜、俺はここへ来なかった」


「雨樋を調べていた庭師を見ただけだ」


「それでいい」


 シリルが雨の中へ下がる。


「シリル」


 足が止まった。


「リリアは、自分のことを何も知らない」


 シリルは振り返らなかった。


「石室では過去のことを聞かれていた。母の顔も、自分が狙われている理由も知らない」


「そうか」


「お前は知っているのか」


 返事まで少し間があった。


「今、話せることはない」


「なぜ隠す」


「知らない方が動ける時もある」


「知らないことで、あの子は傷ついている」


「分かっている」


 その一言だけ、いつものシリルとは少し違って聞こえた。


「なら、いつ話す」


「リリアがこの屋敷を出たあとだ」


 それ以上は答えなかった。


 雨の中へ消えた足音は、すぐに聞こえなくなった。


 ヴィクトルは窓を閉めた。


 手紙はもう、この部屋にはない。


 まだ勘当されたわけではない。


 父が願いを受け入れるかも分からない。


 それでも、家へ戻る道を自ら閉ざすための最初の一歩を踏み出した。



 机へ戻ると、ランタンの火が小さくなっていた。


 移送命令の署名欄は空白のままだ。


 署名しなければ疑われる。


 任務から外されるかもしれない。


 署名すれば、表向きは王室の決定へ従ったことになる。


 ヴィクトルは椅子へ座った。


 レオナールは、リリアを押さえるために右側の位置を与えた。


 その位置は同時に、護送する騎士の中で誰よりもリリアに近い。


 ペン先へインクを含ませる。


 署名欄へ置いた。


 ヴィクトル・フォン・エルンスト。


 家名を捨てたいと願う手紙を送り出した直後に、その家名を記した。


 父から受け継いだ名。


 母が呼んだ名。


 二人の兄と並んで名乗ってきた家名。


 今はまだ、その名を捨てるわけにはいかない。


 王室騎士団の騎士として。


 移送補佐として。


 リリアの右側につく者として。


 インクが乾くまで、ヴィクトルは署名を見ていた。


 これで命令どおり、リリアの右側に立てる。


 ヴィクトルは移送命令を閉じた。





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