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第三十話 霧の向こうの手紙

 移送前日の朝、屋敷に三度目のしるしが届いた。


 銀盆に載せられた、朝の香油箱。


 イザベラが毎朝使う、淡い花の香油が収められている。


 箱そのものは、以前から奥棟で使われていた品だった。


 王室騎士団の見張りも、それを止めなかった。


 奥棟へ運ばれたあと、エリーズの代わりに身の回りの世話を任されていた若い侍女が瓶を取り出した。


 その時だった。


 内張りの端が、不自然に浮いていることに気づいた。


 侍女がそっと持ち上げると、底板との隙間から黒いものがのぞいた。


 薄紙だった。


 底へ沿わせるように仕込まれている。


 さらに、その間から小さな白い布が現れた。


 侍女は何も触らず、すぐに女中頭へ知らせた。


 黒い薄紙には封蝋がない。


 代わりに、黒百合をかたどった印が押されていた。


 白い布は、子ども用の小さなハンカチだった。


 隅には薄桃色の糸で、小鳥が一羽刺繍されている。


 アンが幼い頃から持っていたものだった。


 眠れない夜には、布の端を握り、小鳥の刺繍を何度も指でなぞる。


 その癖を、イザベラは覚えていた。


 失踪した夜にも、アンが手元に置いていたはずの品だった。


 部屋を捜した時には、見つからなかった。


 ハンカチを見た瞬間、イザベラの手から香油瓶が落ちた。


 硝子が床へぶつかり、乾いた音を立てて砕ける。


 甘い花の香りが一気に広がった。


「……アン」


 名前だけが、かろうじて声になった。


 ハインリヒが呼ばれた。


 廊下の騒ぎを聞きつけ、マリアンネも駆けつける。


 間もなく、王室騎士団第二隊長レオナール・グレイヴスが部屋へ入ってきた。


 窓の外は白い霧に沈んでいる。


 屋敷全体が、音を失ったように静かだった。


 黒い薄紙は、机の上へ広げられた。


 文字は美しく整っている。


 貴族が交わす書簡にも見える筆跡だった。


 内容だけが、明確な脅迫だった。


 黒き花を、北の檻へ捧げるな。


 霧の道に車輪が跡を刻む朝、

 白い小鳥は歌を失う。


 銀の箱に花を納め、

 王の庭へ運ぶなら、

 鳥籠の鍵は閉じられる。


 眠れる百合を、王の檻へ渡すな。


 花が檻へ入る朝、

 小鳥は二度と名を呼ばぬ。


 最後まで読み終えるより先に、イザベラが椅子を押して立ち上がった。


「止めて」


 掠れた声だった。


「移送を止めて。あの子を王宮へ送らないで。アンが……アンが……」


「イザベラ」


 ハインリヒが名を呼んだ。


「アンのハンカチよ」


 イザベラは白い布を両手で包み込んだ。


「あの子が眠れない夜に、ずっと握っていたものなの。あの夜にも持っていたはずなのよ。屋敷には残っていなかった」


 言葉が次第に速くなる。


「あの子は生きている。なのに、リリアを送ったら……」


 そこで言葉が途切れた。


 マリアンネが母の肩へ手を添える。


 机の上には黒い薄紙がある。


 黒き花。


 北の檻。


 白い小鳥。


 銀の箱。


 王の庭。


 鳥籠。


 比喩で覆われていても、何を示そうとしているかは分かった。


 黒き花はリリア。


 白い小鳥はアン。


 北の檻は、王室が用意した移送先。


「王室は、どうなさるおつもりですか」


 マリアンネが尋ねた。


 声は静かだったが、机の縁をつかむ手には力が入っている。


 レオナールは脅迫状をもう一度読み返した。


「移送そのものは中止しません」


 イザベラが顔を上げた。


「何を……」


「相手の要求によって王室の決定を撤回することはできません」


「アンのものが届いているのよ!」


「その可能性は高いと見ます」


 レオナールはハンカチを確認した。


「だからこそ証拠として扱います。感情だけで判断はしない」


「感情だけですって?」


 イザベラの声が鋭くなる。


「これは私の娘の物よ!」


「分かっています」


 レオナールは声を変えなかった。


「同時に、こちらを動かすために送られた物でもあります」


 イザベラが何か言い返そうとしたが、声にならなかった。


 マリアンネが代わりに尋ねる。


「この手紙は、リリアを王室へ渡すなと言っています」


「そう読めます」


「なら、相手はリリアを必要としている」


「その可能性は高い」


「それでも送るのですか」


「だから王室の管理下へ移します」


 マリアンネは言葉を探した。


「リリアは、アンを取り戻すための手掛かりです」


 人、とまでは口にできなかった。


 言えなかったのか。


 言わなかったのか。


 自分でも分からない。


 今ここでリリアを遠ざければ、アンへつながるものまで失われる。


 その恐怖だけは確かだった。


「つまり」


 レオナールが確認する。


「リリアを屋敷へ残し、犯人との交渉に利用すべきだと?」


「妹を取り戻したいだけです」


「目的ではなく、手段を聞いています」


 マリアンネは答えなかった。


 その沈黙を、レオナールも追わなかった。


 イザベラが机へ片手をつく。


「今は、あの子の罪も、黒百合も、王室も、ヤシャラも考えられないの」


 途切れながら言葉を続けた。


「アンを返してほしい。それだけなのに……」


 ハインリヒは黙っていた。


 机の端をつかんだ手に力が入っている。


「黒百合とは何なのです」


 マリアンネが尋ねた。


 レオナールは答えるまで一拍置いた。


「現在、王室が調べています」


「それだけですか」


「発現の条件も、本人がどこまで制御できるかも確定していない」


「何か分かったから、王室へ移すのでしょう」


「分かったことが少なすぎるから移すのです」


「では、何を調べるのです」


「それ以上は秘匿事項です」


 マリアンネの顔が強張った。


「本人にも?」


「必要な範囲でのみ伝えます」


 それで十分だった。


 王室は、黒百合について調べ、管理するために連れていく。


 その事実だけは伝わった。


 レオナールは香油箱へ手を伸ばした。


 底板を外し、隠し場所を確認する。


「問題は、これがどうやって仕込まれたかです」


 ハインリヒが口を開いた。


「外から届いたとは限らない、と?」


「この箱は以前から奥棟にある品です」


「なら、屋敷の中で?」


「可能性の一つです」


 レオナールは黒い薄紙を確認した。


「さらに、この文面を書いた者は、リリアが王室へ移送されることを知っている」


「明朝のことまで?」


 ハインリヒが問う。


「そこまでは断定できません」


 即答だった。


「ただし、移送が迫っていることを把握している。情報が漏れている前提で調べます」


 マリアンネの表情が変わった。


「騎士団から?」


「屋敷側も含め、双方を疑います」


 レオナールは薄紙を折った。


「エリーズを再聴取します」


「エリーズを?」


「この黒百合の印と、文面の言い回しを知っているか確認する」


「彼女は監房にいるのでしょう」


「だから無関係だとは限らない」


 長年、母のそばにいた侍女。


 静かで、目立たず、必要な時だけ前へ出た女。


 今は王室騎士団の管理下にある。


 その状態でも、新しいしるしは屋敷の中へ届いた。


 エリーズとは別の道が、まだ残っている。


 そう考える方が自然だった。


「移送は明朝、予定どおり行います」


 レオナールが告げた。


「ただし警戒配置を変更します。北側馬車口周辺、香草室、庭の排水溝、使用人棟、裏門。抜け道として利用できる場所はすべて監視下に置く」


 マリアンネが顔を上げた。


「私は明朝の立会いを」


「許可しません」


「なぜです」


「立会人を増やす必要がありません」


「私は姉です」


「それは警備上の理由にはならない」


「情を挟むからですか」


「混乱要因を増やさないためです」


 言い返す余地のない答えだった。


 レオナールはハインリヒへ向き直る。


「屋敷側の立会いは当主、奥方、女中頭のみ。一般使用人は北側馬車口周辺へ近づけないでください」


「承知した」


 ハインリヒが答えた。


「お父様」


「マリアンネ」


 低い声が娘を止めた。


「これ以上は言うな」


 マリアンネは父を見た。


 やがて口を閉じる。


 イザベラは白いハンカチを握ったまま椅子へ座った。


「アン……」


 小さな名前だけが、何度もこぼれた。



 レオナールが部屋を出たあとも、重い沈黙が残った。


 イザベラは白いハンカチを手放そうとしなかった。


「アン……」


 マリアンネは母の前へ膝をついた。


「お母様」


 イザベラが娘の手をつかむ。


「マリアンネ。お願い」


「はい」


「アンを助けて」


 指が食い込むほど強い。


「あの子を王宮へ行かせたら、アンがどうなるか分からない。お願い。何とかして」


 マリアンネは母の手を包んだ。


「私にできることを探します」


「マリアンネ」


 ハインリヒの声が飛んだ。


 マリアンネは立ち上がった。


「私は、アンを見殺しにはしません」


「王室命令に触れる真似は許さん」


「では、待っていればアンは戻るのですか」


「それとこれとは別だ」


「私には別ではありません」


「ローゼンベルク家全体を危険へ晒すことになる」


「アンは、もう危険の中にいます」


 ハインリヒは答えなかった。


「お前に何ができる」


「まだ分かりません」


「ならば動くな」


「分からないから、何もしないのですか」


「子どもの理屈だ」


「私はもう子どもではありません」


「王室騎士団を相手に何ができる」


「正面からでは、何もできません」


 そこでマリアンネは言葉を切った。


「だから、正面から止めようとは思いません」


 イザベラが顔を上げる。


 ハインリヒはしばらく娘を見ていた。


「この部屋から出ろ」


「お父様」


「出ろ」


 それ以上言えば、本当に閉じ込められる。


 マリアンネにも分かった。


 深く頭を下げ、部屋を出る。


 扉が閉まった。


 ハインリヒとイザベラだけが残った。


 ハインリヒは窓の前へ立った。


 霧の向こうに、北側馬車口がある。


 明日の朝、王室の馬車が来る。


 リリアが連れ出される。


 花が檻へ入る朝、

 小鳥は二度と名を呼ばぬ。


 脅迫状の一節が頭から離れない。


 正面からでは、何もできません。


 だから、正面から止めようとは思いません。


 マリアンネの言葉も残っていた。


 危険な考えだ。


 侯爵家の娘が、王室騎士団を相手に抱いてよい考えではない。


 同時に、あの娘が許可を待って妹を失う性格ではないことも、父親であるハインリヒは知っていた。


 止めれば、隠れて動く。


 閉じ込めれば、別の道を探す。


 ならば、せめて見失ってはならない。


 ハインリヒは扉の外へ声をかけた。


「ヨーゼフを呼べ」



 ヨーゼフが来た時、イザベラは奥の寝室へ下がっていた。


 控え室にはハインリヒだけが残っている。


 机の上には黒い薄紙。


 その横に、アンの白いハンカチが置かれていた。


 ヨーゼフは一礼した。


「お呼びでしょうか」


「マリアンネが何かする」


 ハインリヒは窓の外を向いたまま言った。


「承知しております」


「気づいていたか」


「先ほどのお声は、廊下まで届いておりましたので」


 ハインリヒは短く息を吐いた。


「見失うな」


「止めますか」


 返事まで少し間があった。


「先回りして閉じ込めるな」


「はい」


「何をするつもりなのか見届けろ」


「承知しました」


「王室に斬らせるな。捕らえられるような真似をしたら、その前に連れ戻せ」


「はい」


「必要なら守れ」


 ヨーゼフは深く頭を下げた。


「承知しました」


「私は、リリアを逃がせとは命じていない」


「はい」


「王室への妨害を許したわけでもない」


「承知しております」


「マリアンネを守れ」


「必ず」


 ハインリヒは机へ向き直った。


「そして、アンの手掛かりを失うな」


「承知しました」


 ヨーゼフが拳を胸へ当てる。


「マリアンネ様を、必ず旦那様の前へお戻しします」


「頼む」


 ヨーゼフは一礼し、部屋を出た。


 扉が閉まる。


 ハインリヒは一人、机の前へ残った。


 白いハンカチへ手を伸ばす。


 触れる寸前で止めた。


 小鳥の刺繍。


 幼い娘が、眠れない夜ごとに触れていたもの。


 その布が今、霧の向こうから戻ってきた。


 娘自身は戻らないまま。


 ハインリヒは手を下ろした。


 窓の外では、白い霧がまだ屋敷を覆っていた。



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