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第三十一話 膝をつかないこと

地下の果実貯蔵室で、リリアは床に座っていた。


 扉の外には、王室騎士団の見張りがいる。


 昨夜の石室の記憶は、まだ体から抜けていなかった。


 手首には革紐の跡が残っている。


 背中には、古い傷がもう一度疼き出したような痛みがあった。


 右腕の黒百合は、朝から静かに熱を持っている。


 リリアは知らなかった。


 アンの白いハンカチが戻ってきたことも。


 自分を乗せる馬車が王宮へ向かえば、アンの命が危ういと脅されていることも。


 マリアンネが動こうとしていることも。


 ハインリヒが、それを止めないと決めたことも。


 何も知らなかった。


 ただ、胸元の小さな香り袋だけが、そこにある。


 薄桃色の布。


 白い花の刺繍。


 紫の蔓。


 二つの結び目。


 アン様は生きている。


 それだけを、リリアは信じていた。


 扉の外で足音が止まった。


「移送支度の確認です」


 ジューンの声だった。


 すぐに、王室騎士の声が返る。


「許可は受けている。対象へ近づけるのは女中頭のみ。令嬢は敷居の内側から動かないように」


「承知しております」


「会話は支度に関することだけ。対象に近づきすぎるな。扉は開けておく」


「はい」


 鍵が鳴った。


 かちり。


 扉が開く。


 最初に入ってきたのは、ジューンだった。


 腕には、黒い外套と布包みが抱えられている。


 その後ろに、マリアンネが立っていた。


 中へ入ったのは半歩だけだった。


 扉のそばに立ち、王室騎士の視線が届く位置から動かない。


 廊下にはヨーゼフもいた。


 屋敷側の護衛として、控えているだけだった。


 リリアは反射的に膝をつこうとした。


「そのまま」


 マリアンネが言った。


 声は冷たかった。


 慰める声ではない。


 厳しい令嬢の声だった。


「明朝、王室の方々の前で余計な動きをされては困ります」


「はい」


「声が小さい」


「はい、マリアンネ様」


「顔を伏せなさい。こちらを見なくていい」


 リリアはすぐに視線を落とした。


 ジューンがリリアの前に膝をつき、黒い外套を広げた。


「袖を通しなさい」


「はい」


「右腕を出しすぎないこと」


「はい」


「襟元を乱さないこと」


「はい」


「裾を踏まないこと」


「はい」


 マリアンネの視線が、外套に落ちる。


「みすぼらしい外套ね」


 その言葉に、リリアの肩が小さく震えた。


 扉の外の騎士にも聞こえる声だった。


 ジューンは頭を下げる。


「申し訳ございません。移送中、対象が冷えて倒れぬよう、厚手のものを選びました」


「倒れられては余計に面倒です」


 マリアンネは冷たく言った。


「そのままで構いません」


「はい」


 騎士にとっては、ただの厳しい確認に聞こえただろう。


 リリアにも、そう聞こえた。


 けれど、マリアンネの声は、真っ直ぐ自分を責めてはいなかった。


 何かを隠すため、わざと冷たくしている。


 そんな気がした。


 ジューンは布包みを開いた。


「靴も替えます」


 布包みの底から、古い革靴が出てきた。


 上等ではない。


 使用人用の、柔らかく履き慣らされた靴だった。


「ずいぶん古い靴だな」


 扉の外の騎士が言った。


「その靴で、馬車口まで歩けるのか」


 ジューンは振り返らずに答えた。


「底の硬い靴では、地下の石段で足を取られます。この子を担いで移送なさるのでなければ、こちらの方が適しています」


 騎士は黙った。


 ジューンはリリアの足元に靴を置く。


「履き替えなさい」


「はい」


 リリアは靴に足を入れた。


 柔らかい革。


 足に馴染む。


 底は薄く、音が立ちにくい。


 濡れた石でも滑りにくい作りだった。


 リリアはそれに気づき、指先を震わせた。


「紐は強く結びすぎないこと」


「はい」


「歩く時は、足元を見すぎないこと」


「はい」


「転びそうになったら、左手を先に出しなさい」


 リリアは顔を上げかけた。


「顔を上げない」


 マリアンネの声が飛んだ。


 リリアはすぐに頭を下げる。


「申し訳ございません」


「謝る暇があるなら、覚えなさい」


「はい」


 ジューンは靴紐を結びながら続けた。


「左手です。右手ではありません」


「はい」


「右腕を前へ出せば、騎士が動きます」


「はい」


「怖くても、右腕を抱え込まないこと。余計に目立ちます」


「はい」


「誰かに腕を取られても、振り払わないこと」


「はい」


「押されても、声を上げないこと」


 リリアの指が、かすかに動いた。


 押されても。


 誰に、とは言わない。


 ジューンも、それ以上は言わなかった。


「はい」


 マリアンネが一歩だけ近づいた。


 それ以上進もうとした瞬間、扉の外の王室騎士がわずかに動く。


 マリアンネは足を止めた。


 自分の立場を分かっている者の動きだった。


 彼女は外套の裾を見下ろす。


 騎士には、衣服の乱れを確認しているようにしか見えない。


 マリアンネは言った。


「明朝、遅れれば王室に迷惑をかけます」


「はい」


「迷えば、騎士が動きます」


「はい」


「止まれば、引かれます」


「はい」


「引かれた時に逆らえば、押さえ込まれます」


「はい」


「押さえ込まれたくなければ、命じられた瞬間に動きなさい」


 リリアの胸が小さく鳴った。


 命じられた瞬間。


 誰に命じられるのか、マリアンネは言わない。


 それは、騎士に聞かれても不自然ではなかった。


 移送対象への注意として、あまりに当然の言葉だった。


「はい」


「振り返らないこと」


「はい」


「誰かの名を呼ばないこと」


「はい」


「泣かないこと」


「はい」


「膝をつかないこと」


 リリアは一瞬だけ息を止めた。


 膝をつかない。


 それは、リリアにとって一番難しい命令だった。


 怖い時。


 叱られた時。


 許しを乞う時。


 体は勝手に膝を折ろうとする。


「聞こえなかったの」


 マリアンネの声が冷える。


「聞こえております」


「なら、復唱なさい」


 リリアは頭を下げたまま言った。


「明朝は、振り返りません。誰かの名を呼びません。泣きません。膝をつきません」


「足を止めないこと」


「足を止めません」


「右腕を出さないこと」


「右腕を出しません」


「促されたら、逆らわずに動くこと」


「促されたら、逆らわずに動きます」


「よろしい」


 そのやり取りだけなら、厳しい躾だった。


 扉の外の騎士にも、そう聞こえたはずだ。


 リリアは胸の奥で、その言葉をもう一度並べた。


 振り返らない。


 名を呼ばない。


 泣かない。


 膝をつかない。


 足を止めない。


 右腕を出さない。


 促されたら、従う。


 それは、罰を受けないための決まりのようで。


 明日の朝、生きて動くための決まりでもあった。


 マリアンネは、そこで初めてリリアの顔を見た。


「あなたには、まだ役目があります」


 役目。


 それは、救いの言葉ではなかった。


 けれど、見捨てる言葉にも聞こえなかった。


「はい」


「なら、明日の朝まで壊れないでいなさい」


 マリアンネはそう言って、一歩下がった。


 励ましはなかった。


 優しい言葉もなかった。


 ただ、命令だけが残った。


「確認は終わりましたか」


 扉の外から王室騎士の声がした。


 ジューンが立ち上がる。


「終わりました」


 いつもの女中頭の声だった。


「明朝、この外套と靴で移送できます」


 マリアンネも一歩下がった。


 顔はもう、ローゼンベルク家の令嬢のものに戻っている。


「リリア」


「はい」


「明日は、屋敷の恥にならないように」


「承知いたしました」


「罪人であることを忘れないこと」


 リリアの胸が痛んだ。


 けれど、マリアンネの目は冷たくなかった。


 声だけが、冷たかった。


「はい」


「命じられた通りに動きなさい」


「承知いたしました」


 リリアは深く頭を下げた。


 左手を先に出す。


 右腕を出さない。


 誰かに腕を取られても、振り払わない。


 押されても、声を上げない。


 促されたら、従う。


 膝をつかない。


 足を止めない。


 ジューンが布包みを畳む。


 王室騎士が一歩、扉の内側へ入った。


 だが、リリアには触れなかった。


「検分役を」


 短く命じる。


 廊下に控えていた女性騎士が前へ出た。


 王室騎士団の灰色の外套をまとった、若い女だった。腰には細身の剣を帯びている。


「外套と靴を確認します」


 女性騎士は事務的に告げた。


 リリアは頭を下げる。


「はい」


 女性騎士はまず外套の袖口を確かめた。


 右袖。


 左袖。


 裏地。


 裾。


 縫い目。


 次に靴を手に取り、底を見た。


 踵。


 紐。


 内側。


 刃物も、針も、紙片もない。


 それから、リリアの腰回りを軽く確かめる。


 紐や隠し袋がないかを調べているのだと分かった。


 リリアは息を止めた。


 胸元には、香り袋がある。


 女性騎士の手が、外套の合わせ目に触れた。


 リリアの心臓が、強く鳴る。


 女性騎士の指が、外套の合わせ目で止まった。


「これは何だ」


 胸元から、小さな香り袋が引き出される。


 リリアの喉が固くなる。


「眠れない時に使う、香草の袋です」


 女性騎士は袋を指で押した。


 中から、乾いた花の淡い香りがした。硬い物も、刃物も入っていない。


「紐は短いな」


「はい」


 首を絞めるほどの長さはない。


 女性騎士は香り袋をリリアの胸元へ戻した。


「問題なし」


 女性騎士は一歩下がった。


「危険物はありません」


 扉の外の騎士が頷く。


「記録しておけ」


 廊下の女性書記官が、板に挟んだ紙へ短く書きつけた。


 外套、靴、香り袋一点。危険物なし。


 リリアは、ようやく浅く息をした。


 香り袋は、まだ胸元にあった。


 ただひとつの証のように。


「出ます」


 ジューンが言った。


 マリアンネが続く。


 ヨーゼフは廊下の奥を一度だけ見たが、何も言わなかった。


 マリアンネは振り返らない。


 振り返れば、王室騎士に何かを悟られる。


 だから、背を向けたまま歩いた。


 扉が閉まる。


 鍵が鳴る。


 地下の果実貯蔵室に、また静けさが戻った。


 リリアは黒い外套の胸元を、左手でそっと押さえ、先ほどの言葉を胸の中で繰り返した。


 泣かない。


 名を呼ばない。


 膝をつかない。


 足を止めない。


 右腕を出さない。


 促されたら、逆らわずに動く。


 それは、移送のための躾なのか。


 それとも、別の何かのための命令なのか。


 リリアには分からなかった。


 ただ、ひとつだけ分かっていることがある。


 アン様は、生きている。


 リリアは目を閉じた。


 地下は冷たい。


 外套は重い。


 靴は古い。


 それでも、明日の朝、足を止めてはいけない。


 黒百合は、袖の下で静かに熱を帯びていた。



 廊下に出ると、マリアンネはすぐには歩き出さなかった。


 王室騎士がこちらを見ている。


 ジューンは布包みを抱え直し、黙って頭を下げた。


「支度は終わりました」


 王室騎士は頷いた。


「明朝まで、対象には触れさせない」


「承知しております」


 マリアンネは何も言わなかった。


 廊下の冷たい石壁に、地下の湿気が染みている。


 少し離れたところで、ヨーゼフが立っていた。


 忠実な護衛騎士の顔だった。


 マリアンネは、ようやく歩き出した。


 ジューンが後ろに続く。


 階段へ向かう角を曲がったところで、マリアンネは低く言った。


「明朝、あの子は歩ける?」


 ジューンはすぐには答えなかった。


 その問いが、心配なのか、確認なのか、命令なのか。


 どれにも聞こえた。


「歩かせます」


 ジューンは答えた。


「倒れさせないように」


「倒れたら、すべて終わるわ」


 マリアンネの声は冷たかった。


 ジューンは顔を上げない。


「承知しております」


 マリアンネはそこで足を止めた。


 踊り場の小窓から、白い霧が見えた。


 北側馬車口へ続く道が、霧の中に沈んでいる。


「ジューン」


「はい」


「あの子が、アンを連れ戻す鍵になるなら」


 マリアンネは言葉を切った。


 続きは、すぐには出てこなかった。


 ジューンは黙って待った。


「……使うしかないわ」


 それは、小さなささやきだった。


 ジューンの手が、布包みを強く握った。


「マリアンネ様」


「何も言わないで」


 マリアンネは前を向いた。


「私は、妹を取り戻したいだけ」


 その横顔は固い。


 泣いてはいない。


 怒っているようにも見える。


 自分自身に言い聞かせているようにも見える。


 ジューンは、何も言えなかった。


 階段の下では、王室騎士の足音が響いている。


 明日の朝まで、もう時間は少ない。


 使うしかない。


 先ほど自分で口にした言葉が、階段を上りきっても、マリアンネの胸から消えなかった。





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