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第三十二話 沈黙の手

夜が降りるころ、マリアンネは奥棟の廊下を歩いていた。


 燭台の火が、石壁に細い影を作っている。


 王室騎士団の見張りは増えていた。


 北側馬車口。


 使用人棟。


 香草室。


 庭へ続く扉。


 裏門。


 マリアンネは足を止めなかった。


 侍女に命じる顔で、淡々と歩く。


 その後ろを、ジューンが少し離れてついていた。


「香草室へ続く北廊下にも火鉢を置きなさい」


 マリアンネは前を向いたまま言った。


「母が北廊下を通る時、冷えないように」


「承知しました」


「湯も多めに」


「はい」


「白布を用意して。母が気分を悪くされた時のためです」


「はい」


「寝椅子を覆える大きさのものを。二人で運ぶくらいの」


 ジューンの足が、ほんの一瞬だけ遅れた。


「汚れても構わないものでよろしいでしょうか」


「ええ。明朝だけ使えればいいわ」


「承知しました」


 どれも不自然な命令ではなかった。


 イザベラは今朝から寝込んでいる。


 明朝、アンの命がかかった移送に立ち会えば、倒れてもおかしくない。


 火鉢を用意し、湯を運び、寝椅子を覆える大きな白布を備える。


 屋敷の長女として当然の手配だった。


 けれど、ジューンは気づいていた。


 火鉢を移せば、北廊下に人の出入りが増える。


 湯を運べば、蒸気が上がる。


 大きな白布を抱えた侍女は、扉の前を通っても咎められにくい。


 ひとつひとつは小さい。


 だが、重なれば、廊下にわずかな乱れが生まれる。


 マリアンネがそこまで狙っているのか。


 それとも、本当に母を案じているだけなのか。


 ジューンには分からなかった。


「ジューン」


「はい」


「明朝、あの子が途中で膝をついたら」


 マリアンネの声は低かった。


「引き起こしなさい」


「はい」


「泣いたら」


「声を抑えます」


「右腕を出したら」


「外套で隠します」


「足を止めたら」


「歩かせます」


 マリアンネは黙った。


 ジューンも黙った。


 その答えは、あまりにも冷たく聞こえた。


 けれど、そうしなければリリアは王室騎士に押さえ込まれる。


 動けなくなる。


 何もできなくなる。


 マリアンネは窓の外を見た。


 霧が濃い。


 北側馬車口へ続く石道は、白く煙っている。


「あの子が立てなければ、すべて終わるわ」


 ジューンは何も言わなかった。


 その言葉が、リリアを案じているものなのか。


 アンを救うためにリリアを使う覚悟なのか。


 それとも、その二つを無理に切り分けようとしているだけなのか。


 ジューンには、分からなかった。



 ヴィクトルは、王室騎士団の仮詰所に呼ばれていた。


 屋敷の客間の一つが、今は指揮所になっている。


 机には明朝の移送経路が描かれた簡易地図が広げられ、北側馬車口までの通路に赤い線が引かれていた。


 レオナールは、その地図の右側に指を置いた。


「対象の右側につけ」


「はい」


「右腕から目を離すな」


「はい」


「対象が止まった場合は進ませる。膝をついた場合は立たせる。泣き叫んだ場合は黙らせる」


「はい」


「ただし、命じるまで剣は抜くな」


 ヴィクトルは短く頷いた。


「承知しました」


 レオナールの目が彼を見る。


「私情は不要だ」


「はい」


「対象に同情する必要もない」


「はい」


「お前が何を思おうと、明朝の役目は変わらない」


「承知しております」


 ヴィクトルの声は乱れなかった。


 だが、胸の奥は静かではなかった。


 右側。


 右腕。


 膝をついたら立たせる。


 泣き叫んだら黙らせる。


 それは、命令としては冷たい。


 けれど、リリアを押さえ込む王室騎士の中で、自分だけが彼女の右側に立てるということでもある。


 近くにいられる。


 手が届く。


 その事実だけが、ヴィクトルの内側で小さく燃えていた。


「下がれ」


「はい」


 ヴィクトルは一礼し、指揮所を出た。


 廊下は暗かった。


 王室騎士が角ごとに立っている。


 使用人はほとんど姿を見せない。


 屋敷は、王室の鎧に囲まれた檻のようだった。


 ヴィクトルはそのまま使用人棟へ戻らなかった。


 香草室へ向かう廊下を歩く。


 表向きの理由はある。


 明朝の移送経路に近い香草室の扉と窓を確認するため。


 レオナールが警戒を命じた場所の一つだ。


「香草室を確認します」


 扉の前に立つ騎士へ告げる。


「手短に」


「承知」


 香草室は暗かった。


 乾いた薬草の匂い。


 棚に並ぶ小瓶。


 束ねられた薫衣草。


 古い木箱。


 リリアがかつて出入りを許されていた場所。


 ヴィクトルはそこに立っただけで、胸が少し痛んだ。


 明日の朝、彼女はここを通るのか。


 それとも、通らせてもらえないのか。


 ヴィクトルは香草室の奥へ視線を向けた。


 古い煙突。


 もう使われていない、細い煙道。


 窓の外からシリルが残した言葉が蘇る。


 明日の夜、香草室の古い煙突を見ろ。


 扉の外の騎士が咳払いをした。


 ヴィクトルは煙突口の前へしゃがんだ。


 灰受けを開き、内部に異物が残されていないか確かめる。


 警備確認として、不自然な動作ではない。


 灰の奥へ手を入れた時、指先に何かが触れた。


 小さな木片。


 火で炙ったように黒くなった、薄い木片だった。


 そこに、短い文字が刻まれている。


 三つ目の鐘。


 右の花を折るな。


 左で引け。


 白水へ。


 それだけだった。


 ヴィクトルは木片を見つめた。


 右の花。


 右腕。


 折るな。


 左で引け。


 左手を取れということか。


 白水。


 使用人たちがそう呼ぶ、屋敷の古い排水路。


 白い石を組んだ水路が、庭の下を通っている。


 ヴィクトルは半年前、潜入直後に屋敷の出入り口と地下の経路を調べていた。


 その時、庭の外れにある排水格子の位置までは確認している。


 だが、人が抜けられる場所が残っているとは思っていなかった。


 シリルは、その道を知っている。


 ヴィクトルは文字を頭に刻んだ。


 三つ目の鐘。


 右の花を折るな。


 左で引け。


 白水へ。


 木片は持ち出さない。


 証拠を残さない。


 ヴィクトルは木片をもう一度、灰の奥へ戻した。


「長いぞ」


 扉の外から騎士の声がした。


「今出ます」


 ヴィクトルは灰受けを閉めた。


 何事もなかったかのように、香草室を出る。


 廊下へ戻ると、王室騎士が彼を見た。


「異常は」


「ありません」


 ヴィクトルは答えた。


 嘘ではない。


 異常はなかった。


 ただ、明日の朝に向けて、何かが動いているだけだった。



 ヨーゼフは、北側馬車口にいた。


 夜の石畳は湿っている。


 霧は濃く、門灯の光が白く滲んでいた。


 王室騎士団の配置は厳しい。


 馬車口に四名。


 馬車待機場所に二名。


 地下から上がる階段に二名。


 裏門側にも見張りが回されている。


 屋敷側の護衛は、明らかに一歩下がった場所に置かれていた。


 立場は、王室が上だった。


 ヨーゼフはそれを理解していた。


 だからこそ、正面から動くつもりはなかった。


「ヨーゼフ殿」


 若い屋敷付きの騎士が近づいてくる。


「我々はどこへ」


「王室騎士団の邪魔にならぬ位置につけ」


「はい」


「だが、マリアンネ様から目を離すな」


 若い騎士が顔を上げる。


「マリアンネ様、ですか」


「そうだ」


「王室側ではなく」


「王室側を見るな」


 ヨーゼフは低く言った。


「見れば、見ていることが伝わる。お前たちは、屋敷の護衛として立っていればいい」


「承知しました」


「マリアンネ様が転びそうなら支えろ。誰かに問われたら、それだけだと言え」


「はい」


「余計な判断はするな。剣も抜くな」


「承知しました」


 若い騎士は、その意味をすべては理解していなかった。


 それでいい。


 理解しすぎれば、顔に出る。


 顔に出れば、王室騎士に見抜かれる。


 ヨーゼフは霧の中の石道を見た。


 正面からでは無理です。


 だから、正面からはしません。


 マリアンネの言葉が、ハインリヒの部屋で響いていた。


 あれは愚かな言葉だ。


 だが、騎士は時に、愚かな者を守らねばならない。


 ヨーゼフは腰の剣に触れた。


 抜くつもりはない。


 抜けば終わる。


 王室騎士団に対して剣を抜けば、ローゼンベルク家は反逆の家になる。


 だから、剣は抜かない。


 影で動く。


 必要なら、誰かの視線を塞ぐ。


 必要なら、誰かの足を止める。


 必要なら、マリアンネを抱えてでも引き戻す。


 ハインリヒは、リリアを逃がせとは言っていない。


 王室に背けとも言っていない。


 だが、マリアンネを守れと言った。


 そして、アンを取り戻せと言った。


 その二つは、同じ道の上にあるのか。


 それとも、互いに食い違う命令なのか。


 明日の朝になれば分かる。


 ヨーゼフは、霧の奥を見つめた。



 地下の果実貯蔵室で、リリアは眠れずにいた。


 黒い外套を膝にかけている。


 古い革靴は、足元に揃えて置いてあった。


 手首の痛みは少し引いた。


 けれど、背中の奥に古い傷が疼く。


 目を閉じると、石室の床が浮かぶ。


 椅子を打つ鞭の音。


 ハインリヒの影。


 ヨーゼフの靴。


 古い帳面の、かり、かり、という音。


 顔を上げるな。


 右腕を動かすな。


 罰を受けろ。


 リリアは胸元を押さえた。


 外套の下。


 服の奥。


 そこに、小さな香り袋がある。


 薄桃色の布。


 白い花。


 紫の蔓。


 二つの結び目。


 アン様は生きている。


 リリアは、そこだけを握りしめるようにして呼吸した。


 明朝は、振り返らない。


 誰かの名を呼ばない。


 泣かない。


 膝をつかない。


 足を止めない。


 右腕を出さない。


 促されたら、逆らわずに動く。


 それは、マリアンネの命令だった。


 厳しい命令。


 冷たい命令。


 リリアを助けるためのものなのか。


 アンを救うために使うためのものなのか。


 リリアには分からない。


 けれど、明日の朝、それを守らなければならないことだけは分かった。


 遠くで鐘が鳴った。


 一つ。


 夜半を告げる鐘だった。


 地下の空気が、少しだけ震える。


 リリアは目を閉じた。


 黒百合が、袖の下で静かに熱を帯びている。


 まるで、何かを待っているかのように。


 三つ目の鐘が鳴る時、何が始まるのか。


 リリアは、まだ知らなかった。



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