第三十三話 逃亡の鐘
夜明け前、最初の鐘が鳴った。
低い音が一度だけ、眠った屋敷を震わせる。
地下の果実貯蔵室で、リリアは目を開けた。
眠っていたわけではない。
ただ、目を閉じていただけだった。
黒い外套は肩に掛けられている。
古い革靴は、すでに足に馴染んでいた。
手首には革紐の跡。
背中には古い痛み。
右腕の黒百合は、袖の下で静かに熱を持っている。
扉の外で、鎧の音がした。
「移送準備」
王室騎士の声だった。
鍵が鳴る。
かちり。
扉が開いた。
ジューンが入ってきた。
その後ろに、王室の女性騎士が一人。
灰色の外套をまとい、腰に細い剣を帯びている。
昨夜と同じ検分役だった。
「最終確認を行います」
女性騎士は事務的に言った。
リリアは頭を下げる。
「はい」
ジューンが外套の襟を整える。
女性騎士はリリアの袖口、裾、靴紐、腰回りを順に確認した。
胸元に手が近づいた瞬間、リリアの呼吸が止まる。
香り袋は昨夜すでに検分され、所持品として記録されている。
女性騎士は外套の上から袋の形を確かめただけで、すぐに手を離した。
「異常なし」
女性騎士が告げる。
扉の外の書記官が、板に挟んだ紙へ書きつけた。
対象、移送支度確認済み。
外套、靴、香り袋一点。
危険物なし。
リリアは浅く息をした。
「立ちなさい」
ジューンが言った。
「はい」
リリアは立ち上がる。
膝が震えた。
けれど、つかなかった。
膝をつかないこと。
マリアンネの声が、胸の奥で蘇る。
泣かない。
名を呼ばない。
足を止めない。
右腕を出さない。
促されたら、逆らわずに動く。
リリアは目を伏せたまま、小さく頷いた。
扉の向こうには、王室騎士が二人立っている。
その奥に、ヨーゼフがいた。
屋敷側の護衛騎士として、壁際に控えているだけだった。
彼は何も言わない。
リリアを見ても、表情を変えなかった。
「対象を出す」
王室騎士が告げる。
リリアは一歩、地下の外へ出た。
冷たい廊下の空気が頬に触れる。
朝の霧の匂いが、石壁の隙間から流れ込んできた。
◆
北側馬車口へ続く廊下には、王室騎士団が並んでいた。
地下から上がる階段に二人。
香草室前に二人。
北廊下の角に一人。
馬車口に四人。
王室の灰色の外套が、屋敷の朝を支配していた。
屋敷側の使用人たちは、壁際に下がらされている。
ジューンだけが、移送支度の責任者としてリリアの少し後ろに立つことを許されていた。
ハインリヒは北廊下の端にいた。
黒い礼服。
厳しい横顔。
その隣にはイザベラがいる。
白い顔をして、アンのハンカチを握りしめていた。
マリアンネの姿はない。
少なくとも、リリアの目には見えなかった。
立会いを許されていないのだと、リリアは思った。
そして、廊下の空気がいつもより白く、湿っていることを感じていた。
レオナール・グレイヴスが現れた。
短く周囲を見回す。
その目は、霧より冷たい。
「対象を移送する」
彼の声で、廊下の空気がさらに硬くなった。
「抵抗した場合は拘束。右腕の反応を最優先で抑えろ。剣は命令があるまで抜くな」
「はっ」
騎士たちが応じる。
レオナールの視線が、ヴィクトルへ向いた。
ヴィクトルは王室騎士の外套を着ていた。
剣を帯び、背筋を伸ばし、リリアの右側へ立つ。
リリアは目を伏せた。
ヴィクトル。
胸が小さく揺れた。
けれど、名は呼ばない。
誰かの名を呼ばないこと。
「右側につけ」
レオナールが言った。
「はい」
ヴィクトルの声は静かだった。
「左側はラウラ」
女性騎士がリリアの左側へ立つ。
リリアは二人の騎士に挟まれる。
右にヴィクトル。
左にラウラ。
前に王室騎士。
後ろにジューンと、もう一人の騎士。
逃げ場はなかった。
レオナールが短く告げる。
「進め」
リリアは歩き出した。
一歩。
二歩。
靴底が石床に触れる音は、思ったより小さかった。
ジューンが選んだ靴。
柔らかく、音が立ちにくい靴。
濡れた石でも滑りにくい靴。
リリアは足元を見すぎないように歩いた。
見すぎない。
止まらない。
膝をつかない。
北廊下の窓の外は白い霧だった。
朝なのに、夜の続きのように暗い。
やがて、二度目の鐘が鳴った。
低い音が一度だけ響く。
馬車口の方で、馬の蹄が石畳を叩く音がした。
イザベラが小さく息を呑む。
「アン……」
その声に、リリアの胸が痛んだ。
振り返ってはいけない。
謝ってはいけない。
泣いてはいけない。
リリアは前を向いた。
いや、顔は伏せたまま、足だけを前へ出した。
その時、廊下の奥で侍女が湯桶を運んできた。
湯気が白く立ち上る。
火鉢の炭に、湿った香草が落ちたのか、薄い煙がふわりと広がった。
強い煙ではない。
目を焼くほどでもない。
けれど、朝の霧と混ざると、廊下の輪郭を一瞬、曖昧にした。
「下がれ」
王室騎士が侍女に言う。
「申し訳ございません」
侍女は慌てて壁際へ寄った。
その拍子に白布の束が崩れる。
廊下に白い布が広がった。
ジューンが動く。
「拾いなさい。奥様の前で粗相をするな」
叱る声。
使用人たちが布を拾う。
その動きに、王室騎士の視線が一瞬だけ散った。
レオナールは動かなかった。
彼だけは、リリアから目を離していない。
「止まるな」
彼が言った。
リリアは歩いた。
止まらない。
足を止めない。
香草室の前へ差しかかる。
その時、三度目の鐘が鳴った。
低い音が、一度だけ屋敷を震わせた。
リリアには、それが何の合図か分からなかった。
けれど、右側のヴィクトルの気配が変わった。
ほんのわずかに。
刃が鞘の中で向きを変えるように。
リリアの足が、白布の端に引っかかった。
体が傾く。
膝が折れそうになる。
その瞬間、ヴィクトルの手が伸びた。
右腕ではない。
左手だった。
リリアの左手を掴む。
強く、けれど、痛くない力で。
「膝をつくな」
耳元に、低い声が落ちた。
王室騎士の命令にも聞こえる声だった。
けれど、リリアには分かった。
これは、押さえつける声ではない。
立たせる声だ。
「対象が乱れました。支えます」
ヴィクトルが言う。
ラウラがリリアの左側から手を伸ばそうとした。
だが、ヴィクトルが半歩前へ出る。
「右腕の反応を避けます。左で保持します」
王室騎士としての言葉だった。
不自然ではない。
黒百合のある右腕を避けるために、左手を取る。
レオナールの目が細くなる。
「ヴィクトル」
名前だけだった。
警告だった。
ヴィクトルは答えない。
リリアの左手を取ったまま、体勢を戻す。
そのまま、ほんの少しだけ進路をずらした。
香草室の扉の方へ。
「戻せ」
レオナールの声が鋭くなる。
その瞬間、イザベラが崩れた。
「奥様!」
ジューンの声が廊下に響く。
イザベラの膝が落ちる。
ハインリヒが支えようとする。
白いハンカチが床へ落ちた。
侍女たちが動く。
白布。
湯。
火鉢。
奥方の体。
廊下が一瞬、乱れた。
本当に限界だったのか。
それとも、何かを察した身体の動きだったのか。
リリアには分からなかった。
ただ、その乱れの中で、廊下の角にマリアンネの姿が見えた。
彼女は母へ駆け寄るでもなく、リリアへ駆け寄るでもなく、ただこちらを見ていた。
冷たい目だった。
泣いていない。
叫んでいない。
けれど、唇だけがわずかに動いた。
歩きなさい。
リリアには、そう見えた。
アンのために。
そう言われたようにも見えた。
「行くぞ」
ヴィクトルが低く言った。
促されたら、逆らわずに動く。
リリアは動いた。
左手を引かれるまま、香草室の扉へ入る。
「対象が逸れた!」
ラウラの声が上がる。
レオナールの声が廊下を裂いた。
「止めろ!」
王室騎士が動く。
白布を拾おうとした侍女の足元へ、傾いた湯桶から湯が広がった。
侍女の靴が滑る。
倒れかけた身体を支えるため、ヨーゼフが一歩、廊下の中央へ出た。
その肩が、追おうとする王室騎士の進路をほんの一瞬だけ塞ぐ。
「退け!」
「失礼」
ヨーゼフは侍女を壁際へ戻すと、すぐに下がった。
反抗ではない。
ただ、転びかけた使用人を支えただけ。
それだけだった。
ヴィクトルはリリアを香草室へ引き入れ、背後の扉を蹴り閉めた。
扉が閉じた勢いで、脇に張られていた細い紐が引かれる。
積まれていた空箱と乾燥薬草の束が崩れ、扉の前へ雪崩れ落ちた。
完全に塞ぐほどではない。
だが、追手の足を数秒止めるには十分だった。
「頭を下げろ」
ヴィクトルが言った。
リリアは従った。
三度目の鐘の余韻が消えた時、棚の陰から鈍い音がした。
ヴィクトルが振り返る。
床板の一部が、下から僅かに持ち上がっていた。
白い石の隙間から、灰金の目が覗く。
「遅い」
シリルだった。
ヴィクトルは睨む。
「入口の場所くらい書いておけ」
「文句は後だ」
「後があればな」
シリルは床板を押し上げた。
その下には、白い石組みの細い水路があった。
水はほとんど流れていない。
けれど、冷たい湿気が下から吹き上がってくる。
「白水だ」
シリルが言った。
「王室が見張っている庭の排水路とは別なのか」
ヴィクトルが問う。
「あれは今の水路だ」
シリルは短く答えた。
「こっちは古い廃水路だ。今の図面には残っていない」
「出口は」
「北庭の排水口とは、外壁を挟んで反対側へ抜ける」
廊下側で、扉を塞いでいた木箱が動く音がした。
時間はない。
「降りろ」
ヴィクトルが言った。
「でも」
「膝をつくな」
ヴィクトルは短く続ける。
「落ちるな。俺の手を離すな」
その言葉に、リリアは息を呑んだ。
王室騎士としての命令ではなかった。
ヴィクトルの声だった。
リリアは水路へ足を入れる。
冷たい。
靴底が濡れた石を捉える。
滑らない。
ジューンの靴。
マリアンネの命令。
ヴィクトルの手。
すべてが、今ここに繋がっていた。
「ヴィクトル!」
レオナールの声が香草室の外から響いた。
怒りではない。
冷たい確認の声だった。
「戻れ」
ヴィクトルは答えなかった。
リリアの後に、自分も水路へ降りる。
シリルはリリアを見る。
その目が一瞬だけ、彼女の胸元へ落ちた。
けれど、何も言わなかった。
「こっちだ」
シリルは水路の奥へ身を沈める。
リリアは振り返りそうになった。
北廊下。
ジューン。
イザベラ。
ハインリヒ。
マリアンネ。
アンのハンカチ。
すべてが後ろにある。
けれど、振り返らない。
誰かの名を呼ばない。
泣かない。
膝をつかない。
足を止めない。
リリアは左手を握り返した。
ヴィクトルの手が、わずかに強くなる。
「行け」
彼が言った。
リリアは頷いた。
声は出さなかった。
◆
香草室の外で、レオナールは床板の裂け目を見下ろしていた。
王室騎士が二人、すでに水路へ降りようとしている。
「狭いです」
「鎧を外せ」
レオナールは即座に命じた。
「北庭の排水口を押さえろ。裏門へも回せ。馬車口を封鎖。使用人は全員、その場に伏せさせろ」
「はっ!」
「対象を確保しろ。黒百合を傷つけるな」
マリアンネは母を支えたまま、顔を上げない。
イザベラは意識を失ったふりをしているのか、本当に気を失ったのか分からなかった。
ハインリヒは、ただ一度だけ目を閉じた。
ヨーゼフは壁際に立っていた。
ただ、床に落ちた白いハンカチを、誰にも踏ませないように立っていた。
レオナールの視線が、そこへ向く。
ヨーゼフは動かなかった。
レオナールは短く息を吐いた。
「全員、記録する」
低い声だった。
「この屋敷で今、誰がどこにいたか。一人残らず」
マリアンネの指が、母の肩を強く掴んだ。
だが、顔は上げなかった。
◆
白い水路は狭かった。
リリアは体を低くして進む。
水は足首ほどしかない。
けれど、冷たい。
石壁は白く、古い苔でぬめっている。
ここは現在使われている庭の排水路ではない。
屋敷の建て替えより前に造られ、忘れられたまま残された古い水路だった。
頭上では、遠くから王室騎士の怒号が響いている。
追ってくる。
すぐに。
リリアの息が乱れる。
胸元の香り袋が濡れないように、左手で押さえた。
ヴィクトルがその動きに気づいた。
「痛むのか」
リリアは首を横に振る。
「大丈夫です」
何が大丈夫なのか、自分でも分からなかった。
シリルが前を進む。
「声を落とせ。ここは音が響く」
リリアは頷く。
水路の向こうから、薄い白い光が差していた。
霧の光。
外だ。
屋敷の外へ続いている。
リリアの胸が震えた。
怖い。
けれど、止まらない。
アン様は、生きている。
黒百合が袖の下で熱を帯びる。
シリルが振り返る。
「急げ。王室は水路の出口を探しに来る」
「出口は」
ヴィクトルが問う。
「一つじゃない」
シリルは短く答えた。
「だが、間違えれば戻れない」
リリアは唇を噛んだ。
背後で、金属が石にぶつかる音がした。
追手が降りてきたのだ。
ヴィクトルが振り返る。
暗い水路の奥に、王室騎士の灯りが揺れている。
「行け」
ヴィクトルが言った。
「俺が後ろを見る」
「ヴィクトル様」
「名を呼ぶな」
リリアは息を呑む。
マリアンネの命令。
誰かの名を呼ばないこと。
ヴィクトルが今、同じように言った。
「前を見ろ」
リリアは前を向いた。
白い霧の光が、少しずつ近づいてくる。
水路の出口で、冷たい朝の風が吹き込んだ。
シリルが石蓋を押し上げる。
外の霧が、白く流れ込んだ。
その向こうに、屋敷の外壁。
古い排水溝。
湿った草。
そして、まだ誰にも踏まれていない細い道。
現在使われている北庭の排水口は、ここから外壁の反対側にある。
そこには王室騎士がいるはずだった。
だが、この古い出口に人影はなかった。
シリルが先に出る。
リリアは、ヴィクトルに支えられながら外へ這い上がった。
屋敷の外だった。
初めて見る朝の霧が、彼女の頬を濡らした。
自由というには、あまりにも冷たい空気だった。
けれど、檻の中ではなかった。
背後で、王室騎士の怒号が近づく。
シリルが低く言った。
「走れるか」
リリアは答えようとした。
けれど、声が出ない。
代わりに、頷いた。
膝はつかない。
足は止めない。
ヴィクトルがリリアの左手を離さないまま、前を見た。
シリルが霧の中へ踏み出す。
三人の影が、白い朝へ溶けていく。
背後で、屋敷の鐘が鳴った。
それは、移送の鐘ではなかった。
逃亡を告げる鐘だった。




