第三十四話 霧の手
逃亡を告げる鐘が鳴り終わっても、屋敷の霧は晴れなかった。
むしろ、白さは濃くなっていた。
北側馬車口。
香草室。
使用人棟。
裏門。
庭の排水溝。
王室騎士団の足音が、屋敷中に響いている。
「北庭を封鎖しろ!」
「排水口へ回れ!」
「裏門は開けるな!」
「使用人を全員、その場に伏せさせろ!」
怒号が飛び交う。
だが、その中心で、レオナール・グレイヴスだけは声を荒げなかった。
香草室の床板は外されている。
その下には、白い石組みの古い水路が口を開けていた。
リリアとヴィクトルは、そこから消えた。
庭師見習いのシリルも屋敷内から姿を消している。
三人が合流した可能性は高かった。
王室騎士が二人、鎧を外して水路へ降りていく。
別の騎士たちは、北庭と裏門へ走った。
レオナールは床板の縁に膝をつき、水路の奥を見た。
狭く、暗い。
古い地図に記されていない枝道がある。
「屋敷の古い排水図を持ってこい」
「はっ」
「庭師見習いの部屋を押さえろ。香草室、物置、炭置き場、雨樋、外壁沿いの排水溝。すべて調べろ」
「はっ!」
レオナールは立ち上がった。
その視線が、廊下へ向く。
そこには、残された者たちがいた。
ハインリヒ。
イザベラ。
マリアンネ。
ジューン。
ヨーゼフ。
白布を抱えた侍女たち。
湯桶を落とした若い使用人。
王室騎士の前で身動きできず、壁際に固まっている屋敷の者たち。
誰も逃げていない。
誰も剣を抜いていない。
誰も、王室に逆らってはいない。
明白な反逆なら、王室の法に従って処断できる。
だが、今ここにあるのは、霧のような手だった。
火鉢。
湯。
白布。
倒れた奥方。
支えた護衛騎士。
王室騎士の視線を、ほんの一瞬ずつ逸らした小さな出来事。
偶然と言えば、すべて偶然に見える。
だが、偶然が重なりすぎていた。
「全員、その場を動くな」
レオナールが言った。
声は大きくはない。
けれど、廊下の端まで届いた。
「この時点より、屋敷内の移動は王室騎士団の許可制とする。使用人、家臣、侍女、護衛騎士、例外は認めない」
ハインリヒが、静かに顔を上げた。
「グレイヴス隊長」
「当主殿」
「倒れた妻に医師を呼ぶ許可はいただけるか」
レオナールはイザベラを見た。
イザベラはマリアンネに支えられ、白い顔をしていた。
意識があるのかないのか、判然としない。
「女性の医務官を向かわせます」
レオナールは言った。
「屋敷の者だけで奥方を運ばせることは認めません」
ハインリヒの声に、初めて硬さが滲んだ。
「ここは私の屋敷だ」
「現在、この屋敷は王室管理案件の現場です」
レオナールは即座に返した。
「ご理解を」
言葉は丁寧だった。
だが、拒否ではなく命令だった。
ハインリヒはしばらくレオナールを見ていた。
そして、短く頷いた。
「承知した」
その返事を聞いた瞬間、屋敷の者たちの顔が沈んだ。
◆
最初に呼ばれたのは、マリアンネだった。
北廊下の脇にある小部屋。
かつては花瓶や予備の燭台を置いていた部屋が、急ごしらえの聴取室になっている。
扉の外には王室騎士。
中にはレオナールと、女性書記官が一人。
マリアンネは椅子には座らなかった。
背筋を伸ばし、両手を前で重ねて立っていた。
レオナールは机の上に、短い記録紙を置いた。
「あなたには、立会いを許可していなかったはずです」
「立ち会ってはおりません」
マリアンネは答えた。
「母の介添えとして、北廊下に控えていました」
「移送対象が香草室へ逸れた瞬間、あなたは廊下にいた」
「母が倒れました」
「倒れる前から、あなたは廊下にいた」
「母の体調が悪かったからです」
「火鉢、湯、白布。すべてあなたが命じたと聞いています」
「はい」
「その結果、北廊下には通常より多くの使用人がいた」
「母のためです」
「白布が崩れ、王室騎士の視線が逸れた」
「使用人の粗相です」
「湯気と煙で廊下の視界が乱れた」
「冷えた廊下で母を待たせるつもりでしたか」
マリアンネの返答は速かった。
震えはない。
だが、指先だけがわずかに白くなっていた。
レオナールはその手を見た。
「あなたはリリアを逃がしましたか」
「いいえ」
「ヴィクトルと通じていましたか」
「いいえ」
「シリルの逃走経路を知っていましたか」
「いいえ」
「ならば、なぜ移送直前にあれほど人と物を北廊下へ集めた」
沈黙。
マリアンネは一度、目を伏せた。
それから、ゆっくりと答えた。
「母が倒れると思ったからです」
「実際、倒れた」
「はい」
「都合がいい」
「母にとっては、少しも都合のよいことではありません」
マリアンネは顔を上げた。
「アンのものが届いたのです。母は昨夜からほとんど眠っておりません。移送を見れば、倒れる可能性は十分にありました」
「その奥方の失神が、逃亡の隙になった。リリアには何と伝えた」
「何も」
「唇が動いたと証言した者がいる」
マリアンネの胸が、ほんの少しだけ上下した。
「母の名を呼んだのでは」
「歩きなさい、と言ったのでは」
沈黙。
女性書記官の筆が止まった。
マリアンネは答えない。
レオナールは静かに言った。
「答えなさい」
「覚えておりません」
「便利な言葉です」
「母が倒れ、妹の命が脅かされ、屋敷の者が騒ぎ、王室騎士が叫んでいました。あの一瞬に、自分の唇が何を動かしたか、覚えておりません」
嘘ではなかった。
真実でもなかった。
レオナールは、しばらくマリアンネを見ていた。
「あなたを屋敷内拘束とします」
マリアンネは目を上げた。
「罪状は」
「現時点では、移送妨害の疑い。逃亡幇助の疑い」
「証拠は」
「これから集めます」
冷たい言葉だった。
「正式な身柄移送には、当主と王室の確認が必要でしょう。あなたはローゼンベルク家の令嬢ですから」
レオナールは続けた。
「ですが、屋敷内での移動は禁じます。自室謹慎。書簡の送受信禁止。侍女の出入りは王室騎士団の確認後。窓下にも見張りを置く」
「軟禁、ということですね」
「保護です」
マリアンネは笑わなかった。
「王室の言葉は便利です」
「貴族の言葉ほどではありません」
二人の視線がぶつかる。
マリアンネは一礼した。
「承知しました」
その声に、屈服はなかった。
だが、勝利もなかった。
王室騎士が扉を開ける。
マリアンネは部屋を出る前に、ふと足を止めた。
「グレイヴス隊長」
「何です」
「リリアは、まだ捕まっておりませんね」
「なぜ、そう思う」
「捕まっていれば、あなたはもっと早くその報告を私たちに聞かせるでしょうから」
レオナールは答えなかった。
マリアンネは深く頭を下げ、部屋を出た。
扉が閉まる。
女性書記官が、沈黙のまま記録を続けた。
◆
次に呼ばれたのは、ジューンだった。
女中頭の制服を着たまま、彼女は聴取室へ入った。
顔色は悪い。
けれど、背は曲がっていなかった。
レオナールは机の上に、外套と靴を置かせた。
リリアが着ていったものではない。
予備として用意されていた、同じ布地の外套と同じ職人が直した靴だった。
「この靴を選んだのは、お前か」
「はい」
「底が柔らかい。音が立ちにくい。濡れた石で滑りにくい」
「地下から馬車口まで歩かせるためです」
「水路でも滑りにくい」
ジューンの目が一瞬だけ揺れた。
「存じません」
「外套は厚手。右腕を隠しやすい」
「対象は右腕を隠す癖があります。出せば騎士が警戒します」
「逃亡時にも役に立つ」
「移送時にも役に立ちます」
「昨夜、対象に何を教えた」
「歩き方です」
「左手を先に出せ、と」
「転倒を防ぐためです」
「右腕を出すな、と」
「騎士を刺激しないためです」
「促されたら従え、と」
「移送対象として当然の注意です」
「膝をつくな、と」
「地下で膝をつけば、引きずられる恐れがありました」
「お前はリリアを逃がすつもりだったか」
「いいえ」
「では、なぜ逃げられた」
「分かりません」
「本当に?」
「はい」
「お前は何を知っていた」
ジューンは黙った。
何を知っていたのか。
リリアが恐怖で膝をつく子だということ。
痛みに耐える時、右腕を抱え込むこと。
謝るために足を止めること。
叱られれば、顔を伏せること。
そして、アンの名を聞けば、何よりも先に心が動くこと。
ジューンはそれを知っていた。
育てたからだ。
縛ったからだ。
叱ったからだ。
守りきれなかったからだ。
「私は」
ジューンは静かに言った。
「あの子が、移送の途中で潰れないように支度をしました」
「逃亡の途中で潰れないように、ではなく?」
「移送です」
ジューンは顔を上げた。
「王室騎士団の皆様が、あの子を王宮へ運ぶとお決めになったからです」
「言葉を選べ」
「選んでおります」
女性書記官の筆だけが、かすかに動く。
「ジューン」
レオナールは低く言った。
「お前の女中頭としての職務を、当面停止する。屋敷内の鍵を返却し、保管庫、衣装室、香草室への立ち入りを禁じる。」
ジューンは目を閉じた。
「承知しました」
「以後、王室騎士団の許可なく使用人に命令することを禁じる」
「はい」
「身柄は北棟へ移す。聴取が終わるまで、屋敷の者との接触は認めない」
ジューンの指が、わずかに震えた。
北棟。
ジューンは頭を下げた。
「承知しました」
扉が開く。
女性騎士が二人、廊下に立っていた。
ジューンは歩き出す。
その足取りに乱れはなかった。
けれど、扉を出る直前、彼女は一度だけ振り返った。
「グレイヴス隊長」
「何だ」
「あの子は、自分の足で歩いていましたか」
レオナールは答えなかった。
ジューンは小さく息を吐いた。
「そうですか」
「何が分かった」
「いいえ」
ジューンは静かに首を振った。
「何も」
そして、部屋を出た。
◆
ヨーゼフが呼ばれた時は、すでに昼近かった。
霧はまだ晴れない。
追跡隊からの報告は途切れ途切れに届いていた。
北庭の排水口は空。
裏門付近に足跡なし。
外壁沿いの草に乱れあり。
炭焼き小屋方面に馬の跡あり。
しかし、確証はない。
レオナールの顔に焦りはなかった。
ヨーゼフは聴取室へ入ると、一礼した。
「座れ」
「このままで結構です」
「命令だ」
ヨーゼフは椅子に座った。
腰には剣がある。
レオナールの視線が、そこへ落ちる。
「移送時、あなたは王室騎士の進路を塞いだ」
「倒れかけた侍女を支えました」
「偶然か」
「その場におりましたので」
「都合よく」
「護衛騎士は、倒れた者を支える位置に立つものです」
「王室騎士の前に出る位置ではない」
「剣は抜いておりません」
「抜けば、その場で斬っていた」
「でしょうな」
ヨーゼフの声は平坦だった。
レオナールは机の上に指を置いた。
「ハインリヒ卿から何を命じられた」
「マリアンネ様を守るように」
「それだけか」
「それだけです」
「アン嬢については、何も命じられなかった?」
ヨーゼフの目が、わずかに動いた。
「当主は、父親です」
「答えになっていない」
「父親が娘を取り戻したいと願うのは、命令ではなく当然のことです」
レオナールはしばらく黙った。
「リリアを逃がせとは命じられていない?」
「命じられておりません」
「王室に背けとも?」
「命じられておりません」
「では、あなたは誰に従った」
ヨーゼフは答えた。
「私の職務に」
「職務?」
「屋敷の護衛騎士として、令嬢を守りました。倒れた者を支えました」
「結果として、対象は逃亡した」
「結果として、逃亡を防げなかったことは否定いたしません」
「責任は?」
「あります」
即答だった。
「認めるのか」
「北側馬車口の混乱を防ぎきれなかった責任は、屋敷の護衛騎士にもあります」
「逃亡幇助の責任は」
「それは認めません」
静かな声だった。
だが、硬かった。
レオナールは椅子に背を預けた。
「あなたは、どこまで知っていた」
「何をでしょうか」
「香草室の水路」
「存じません」
「シリルの正体」
「ただの庭師見習いではないとは思っておりました」
「なぜ報告しなかった」
「確証がなかったためです」
「ヴィクトルの裏切り」
「本日知りました」
「嘘ならば、いずれ分かる」
「承知しております」
ヨーゼフの表情は変わらない。
レオナールはしばらく彼を見ていた。
この男は、何も言わない。
言葉を選んでいる。
嘘をつくより厄介だった。
「剣を置け」
レオナールが言った。
部屋の空気が変わった。
ヨーゼフは、ゆっくりと腰の剣へ手を伸ばした。
王室騎士が一歩動く。
ヨーゼフは鞘ごと剣を外し、机の上へ置いた。
音は静かだった。
だが、その静けさが重い。
護衛騎士から剣を取り上げる。
それは、ただの一時措置ではない。
信頼を取り上げることだった。
「あなたを屋敷内待機とする。帯剣禁止。マリアンネ嬢への接触禁止。ハインリヒ卿への単独接触も禁じる」
「承知しました」
「反論は」
「ございません」
「随分と素直だな」
レオナールの眉がわずかに動く。
ヨーゼフの声は穏やかだった。
「弁明の機会をいただけるだけ、寛大な処分です」
「処分ではない」
レオナールは冷たく言った。
「まだ、な」
ヨーゼフは一礼した。
「承知しました」
◆
午後、ローゼンベルク家の大広間に、屋敷の者たちが集められた。
全員ではない。
主要な家臣。
家令。
女中頭代理。
若い護衛騎士たち。
王室騎士団の立ち会いのもと、ハインリヒが立っていた。
その顔は、いつもより老けて見えた。
だが、声は崩れてはいなかった。
「本日、王室管理対象であったリリアが、移送中に逃亡した」
広間の空気が震えた。
使用人の誰かが小さく息を呑む。
「ヴィクトル・フォン・エルンストは、王室騎士団の任務を放棄し、逃亡に加担したものと見なされる」
ハインリヒの声は淡々としていた。
家臣たちは顔を上げられない。
「屋敷内には、王室騎士団の管理が置かれる。各自、命令なく持ち場を離れることを禁じる。書簡、荷物、人の出入りはすべて検分を受ける」
レオナールが横に立っている。
王室の影のように。
ハインリヒは続けた。
「マリアンネは自室謹慎。ジューンは女中頭としての職務を停止。ヨーゼフは当面、帯剣を禁ずる」
ざわめきが起きかける。
すぐに、王室騎士の視線で消えた。
「これは王室騎士団の決定である」
ハインリヒは言った。
「ローゼンベルク家は、王室の調査に協力する」
その言葉は屈辱だった。
だが、必要な屈辱でもあった。
ここで逆らえば、屋敷ごと潰される。
アンを取り戻す道も閉ざされる。
「各自、余計な詮索をするな。勝手な同情をするな。王室の前で愚かな振る舞いをすれば、その者だけでは済まぬ」
誰も返事をしなかった。
いや、できなかった。
ハインリヒは一度だけ目を閉じた。
そして、最後に言った。
「アンを取り戻す」
その一言だけは、王室への協力でも、屋敷への命令でもなかった。
父親の声だった。
◆
マリアンネの部屋の前には、女性騎士が立った。
内側から鍵はかけられない。
外から見張られる。
侍女が入る時は、籠の中まで検分される。
手紙を書くことも禁じられた。
マリアンネは窓辺に立っていた。
窓の下にも、王室騎士がいる。
庭は白い霧に沈んでいる。
その向こうに、古い排水路がある。
リリアたちは、もう屋敷の外へ出ただろうか。
それとも、捕まっただろうか。
分からない。
マリアンネは拳を握った。
使うしかない。
そう言った。
本当に、そう思っていた。
リリアを道具として扱ってでも、アンを取り戻す。
そう思わなければ、動けなかった。
けれど、香草室へ消える直前、リリアが一瞬こちらを見た気がした。
怯えた目。
迷う目。
それでも、歩こうとする目。
あれは道具の目ではなかった。
マリアンネは唇を噛んだ。
兄がここにいたら、どうしただろう。
王宮にいるクラウスは、剣を抜かない。
命令書を読み、署名を調べ、誰が嘘をついたのかを探す。
その慎重さを、マリアンネはずっと歯痒く思っていた。
けれど今は、剣では届かない場所に兄がいることを、初めて心強いと思った。
「アン」
小さく呟く。
◆
北棟の小部屋で、ジューンは椅子に座っていた。
廊下の向こうで、鍵の回る音がした。
自分はもう、自由に屋敷を歩くことも、誰かに命じることもできない。
その事実は分かっていた。
けれど、恐怖はまだ遠かった。
今、胸を占めているのは、リリアのことだけだった。
歩けただろうか。
膝をつかなかっただろうか。
右腕を抱え込まずにいられただろうか。
誰かが、左手を取ってくれただろうか。
ジューンは膝の上に置いた両手を見た。
リリアの襟を直した手。
薬を飲ませた手。
叱った手。
外套を掛けた手。
あの子を守った手なのか。
縛りつけていた手なのか。
今となっては、もう分からない。
ふと、黒漆の鞘が脳裏に浮かんだ。
光の加減で紫を帯び、銀の百合が刻まれた細身の短剣。
ミレナが遺した、花の刃。
あれを、渡しておくべきだったのだろうか。
逃げるのなら、刃はあった方がいい。
追手に囲まれた時、何も持たないよりは。
けれど、ジューンは小さく首を振った。
まだ早い。
あれは、ただの身を守るための刃ではない。
何も知らないまま、焦りに任せて握らせてよいものでもない。
そう思って、渡さなかった。
だが、本当にそれでよかったのか。
今となっては、確かめることもできない。
ジューンは目を閉じた。
暗闇の中に浮かんだのは、黒い鞘ではなかった。
霧の中を歩いていく、リリアの背中だった。
まだ王宮の檻には入っていない。
そう、信じるしかなかった。
◆
ヨーゼフは、剣のない腰に手をやった。
そこには、何もない。
何十年も当たり前にあった重みが、消えている。
奇妙なほど、体が軽かった。
そして、ひどく不安定だった。
彼は窓の外を見た。
王室騎士が庭を調べている。
足跡。
水路。
折れた草。
霧の中に残ったわずかな痕跡。
追跡は続いている。
ヨーゼフには、もう追えない。
命令も出せない。
剣も抜けない。
できることは、ほとんど残っていない。
それでも、彼は思った。
ローゼンベルク家は、反逆の家にはなっていない。
マリアンネは生きている。
ハインリヒも、当主として立っている。
アンを、取り戻せる可能性がある。
そしてリリアは、まだ檻に入っていない。
ヨーゼフは静かに目を閉じた。
ハインリヒの声が蘇る。
マリアンネを守れ。
そして、アンを取り戻せ。
剣がなくとも、命令は残っている。
霧はまだ晴れなかった。
けれど、霧の向こうで、何かが動いている。
そう信じるしかなかった。




