第三十五話 わが息子にあらず
エルンスト家の本邸は、古かった。
石門には、長い年月に磨かれた家紋が彫られている。
かつては黒々と輝いていたはずの鉄柵も、今ではところどころ塗装が剝がれ、門柱の角には小さな欠けがあった。
庭は広い。
けれど、王都の貴族屋敷にあるような噴水も、遠国から取り寄せた珍しい花もない。
手入れされた果樹と、小さな薬草畑があるだけだった。
門の内側には、領民から届けられた薪が積まれている。その隣には、土のついた野菜の籠が置かれていた。
献上品と呼ぶには、あまりにささやかだ。
だが、届ける者も、受け取る者も、それを恥じてはいなかった。
エルンスト家は、歴史だけは古い。
王宮の派閥に加わらず、政争を避け、領民へ余分な税を課さなかった。
その代わり、家には古い屋敷と、古い家名と、容易には曲げられない誇りだけが残った。
それでも、屋敷は荒れていない。
廊下は清潔に磨かれ、窓硝子には曇り一つない。擦り切れた敷物も、破れた箇所を丁寧に繕われていた。
豊かな家ではない。
だが、貧しさを言い訳にはしない。
それが、エルンスト家だった。
リリアの移送を翌日に控えた、遅い朝。
一台の軽荷車が、エルンスト家の石門をくぐった。
荷台は、ほとんど空だった。
ローゼンベルク家の庭へ、果樹の苗木を運んだ帰りだという。
両家の領地は近い。
東街道へ出て、低い丘を二つ越えれば、昼前にはエルンスト家の本邸へ着く。
商人は荷台の底から、小さな油紙の包みを取り出した。
「当主様へ、直接お渡しするよう頼まれました」
門番は、すぐには手を出さなかった。
「誰からだ」
「ローゼンベルク家で荷を下ろすのを手伝ってくれた、若い庭番です」
「名は」
「聞いておりません」
商人は困ったように首を振った。
「ただ、急ぎだと。中身は見ておりません」
包みは薄かった。
細い麻紐で二重に結ばれ、封蝋も家紋もない。
油紙の表に、乱れのない硬い字で宛名が記されている。
エルンスト家当主 父上へ。
門番には見覚えのない筆跡だった。
だが、家令は違った。
包みを見せられた瞬間、眉が僅かに動いた。
「これは……ヴィクトル様の字だ」
家令は商人を門番へ任せ、油紙の包みを手に執務室へ急いだ。
◆
アロイス・フォン・エルンストは、領地の帳簿を見ていた。
細身で、少しだけ猫背。
淡い色の上着は上等なものではないが、襟も袖口も丁寧に手入れされている。
顔立ちは柔らかく、目元にはいつも穏やかな笑みがあった。
初めて会う者は、彼を気弱そうだと言う。
長く付き合う者は、口が裂けても言わない。
「旦那様」
家令は机の前で足を止めた。
「ヴィクトル様からの書状かと存じます」
アロイスが顔を上げた。
口元の笑みは消えなかった。
だが、その目の奥に鋭い光が差した。
「どこから届いた」
「ローゼンベルク家から戻った苗木商が、若い庭番に託されたと」
「その商人は中を見たか」
「いいえ。紐にも油紙にも、開かれた跡はございません」
「そうか」
アロイスは包みを受け取った。
麻紐の結び方も、油紙の折り方も、飾り気がない。
必要なところだけを固く閉ざす。
息子らしい包み方だった。
「夫人を呼んでくれるかな。それから、アルベルトも」
「かしこまりました」
家令が下がって間もなく、夫人が執務室へ入ってきた。
その後ろには、長男のアルベルトがいる。
アロイスより僅かに背が高く、濃い灰色の上着を隙なく着こなしていた。
穏やかな目元は母に似ている。
けれど、表情を動かさないところは父以上だった。
いずれエルンスト家を継ぐ者として、すでに領地の仕事の多くを任されている。
次男のテオドールは、領地北部の村へ出ていた。
大雨で傷んだ橋を調べるため、早朝から本邸を留守にしている。
「ヴィクトルからだ」
アロイスが油紙の包みを見せた。
夫人の目が一瞬だけ揺れた。
アルベルトは何も言わない。
ただ、封蝋も家紋もない包みを見て、眉間に浅い皺を寄せた。
「読みましょう」
夫人が言った。
アロイスは頷き、麻紐を解いた。
油紙の中にあったのは、二つに折られた便箋一枚だけだった。
紙を開く。
無駄のない、硬い字が並んでいる。
父上。
この書をもって、私ヴィクトル・フォン・エルンストは、エルンスト家の名を離れることを願い出ます。
今後、私がいかなる行いに出ようとも、それはエルンスト家の命によるものではありません。
父上、母上、二人の兄上をはじめ、家臣、領民の誰にも、その責を負わせることのないようお取り計らいください。
私の名を家譜から除き、エルンスト家に連なる者として有する一切の権利を剝奪したうえで、王室ならびに然るべき役所へお届けください。
不孝をお許しください。
兄上たちにも、どうかお詫びをお伝えください。
けれど、これは私自身が選んだ道です。
どうか私を、息子としてではなく、一人の男としてお見送りください。
ヴィクトル
最後まで読み終えても、アロイスは紙を畳まなかった。
文字の大きさも、行間も、最後まで乱れていない。
脅されて書かされた文ではない。
迷いがなかったわけではないだろう。
それでもヴィクトルは、自分の意思で最後まで書き切っている。
あの三男は、軽々しく家名を捨てるような男ではない。
だからこそ、この手紙は本気だ。
夫人も、アルベルトも何も言わない。
部屋には、置時計の針が進む音だけが響いていた。
最初に口を開いたのは、夫人だった。
「二十一になって、初めて寄越した長い手紙が、これなのですね」
「長いとは言えないな」
アロイスが答える。
「これまでの手紙に比べれば、十分に長いわ」
任務は順調です。
ご心配には及びません。
ヴィクトルが家へ送る手紙は、いつもそれだけだった。
アルベルトが、父の手元にある便箋を見つめた。
「ヴィクトルは、自分だけを切り離せば済むと思っているのですね」
静かな声だった。
だが、机の脇で握られた手には力が入っている。
「お前なら、どうする」
アロイスが尋ねた。
「止めます」
アルベルトは迷わなかった。
「居場所を突き止め、事情を聞きます。そのうえで、本邸へ連れ戻します」
「それを、ヴィクトルも分かっている」
アロイスは手紙の一節へ視線を落とした。
兄上たちにも、どうかお詫びをお伝えください。
「だから、お前たちには相談しなかった」
アルベルトの顎が僅かに強張った。
「相談されなくても、弟であることに変わりはありません」
「公には、変えなければならない」
アロイスの声が低くなった。
アルベルトは、すぐには答えなかった。
次代当主としてなら、父の判断が正しいことは分かる。
王室騎士が命令に背いたと見なされれば、本人だけでなく家族も疑われる。
ヴィクトルは三男だ。
家督を継ぐ立場ではない。
それでもエルンスト家の名を持つ以上、兄たちも無関係ではいられない。
アルベルトは、次代当主として王室への忠誠を問われる。
テオドールも、弟の企てを知っていたのではないかと疑われる。
ヴィクトルは、それを恐れて、自分を兄たちから切り離そうとしている。
「テオドールへ使いを出すのは、宣言を終えてからにしてください」
アルベルトが言った。
夫人が息子を見る。
「なぜ?」
「先に知れば、止めに走ります」
「お前も同じだろう」
アロイスが尋ねた。
「ええ」
アルベルトは父を見た。
「だからこそ、今は次代当主としてここにいます」
アロイスはしばらく長男を見ていた。
やがて、僅かに息を吐く。
「お前を呼んだのは、弟を止めさせるためではない」
「分かっています」
「これから行うことの証人になってもらう」
アルベルトの目が僅かに揺れた。
「家名から、ヴィクトルを除くのですね」
「ああ」
「本人の願いどおりに」
「あれが選んだ道だ」
アルベルトは手紙を見た。
すぐには頷かなかった。
三人の息子は、それぞれ似ていない。
アルベルトは、家と領地を背負う者として、感情を抑えることを覚えた。
テオドールは、考えるより先に身体が動く。兄と弟のどちらかが傷つけば、相手が誰であろうと飛び出していく。
三男のヴィクトルは、二人の兄の背を追って剣を選び、十八歳で王室騎士団へ入った。
それから三年。
末の息子は今、兄たちを巻き込まないため、自分の名を家譜から消してほしいと願っている。
アルベルトは深く息を吸い、背筋を伸ばした。
「次代当主として、立ち会います」
夫人の指が、ドレスの布を強くつかんだ。
「兄としては?」
アルベルトは一度、目を閉じた。
「……許してはいません」
その声だけが僅かに掠れた。
「ですが、弟が家を守るために捨てたものを、私の感情で無駄にはしません」
アロイスは長男を見た。
「よく言った」
「褒めないでください」
「なぜだ」
「今は、父上を恨みたい気分です」
夫人が顔を上げた。
アロイスは、少し困ったように笑う。
「それはテオドールの役目だと思っていたよ」
「私も、あなたの息子です」
アロイスの笑みが消えた。
手紙へ視線を戻す。
「まったく」
小さく息を吐く。
「私の息子だな」
夫人は目を伏せた。
「ええ」
アルベルトも答えた。
「私の弟です」
「いや」
アロイスは静かに言い直した。
「今からは、そう言ってはならない」
アルベルトの手が、再び固く握られた。
それでも、次代当主として頷く。
「承知しました」
アロイスは呼び鈴へ手を伸ばした。
「家令と書記を。屋敷にいる家臣も全員、広間へ集めてくれ」
入ってきた家令が息を呑んだ。
「旦那様」
「今すぐだ」
アロイスの口調は穏やかだった。
だからこそ、その決定が覆らないことが分かった。
◆
大広間に、エルンスト家の者たちが集められた。
古参の家令。
領地の帳簿を預かる書記。
騎士が二人。
夫人付きの侍女。
若い従僕。
その時、本邸にいた者は、身分を問わず全員呼ばれていた。
後になって、密かに作られた宣言ではないと証明するためだった。
古い貴族法には、当主が複数の証人の前で家名からの除名を宣言し、その日のうちに領内の役所へ記録を届け、王室へ使者を立てれば、宣言した時刻をもって効力を認めるという規定がある。
今では、ほとんど使われない法だ。
それでも、法として残っている。
広間の中央に、アロイスが立った。
その隣には夫人。
アルベルトは家臣たちの先頭に立っていた。
次代当主として、父の宣言を見届けるために。
普段のアロイスなら、張り詰めた者たちを和ませるため、軽い冗談の一つでも口にしたかもしれない。
だが、この時は笑っていなかった。
「聞け」
アロイスの声は大きくない。
けれど、古い広間の隅まで届いた。
「この時をもって、ヴィクトル・フォン・エルンストを、エルンスト家の家譜から除く」
家臣たちが息を呑んだ。
若い従僕が思わず顔を上げる。
夫人付きの侍女が口元を押さえた。
アルベルトは目を伏せなかった。
弟の名が家から切り離される瞬間を、次代当主として見届けている。
「エルンスト家に連なる者として有する一切の権利を剝奪する」
アロイスは続けた。
「以後、当人がいかなる行いに出ようとも、エルンスト家は関与しない。我が家の命令によるものでもない」
「旦那様」
古参の家令が一歩前へ出た。
声が震えている。
「本当に、それでよろしいのでございますか」
「よろしいかどうかではない」
アロイスは静かに答えた。
「必要なのだ」
「しかし、ヴィクトル様は――」
「その名に敬称をつけるな」
広間の空気が止まった。
いつも温和な当主のものとは思えない、鋭い声だった。
家令が唇を閉じる。
アロイスは、すぐに口調を戻した。
穏やかに。
けれど、決して柔らかくはなかった。
「この時刻より、あれは当家の者ではない。公の場では、私の息子でもない。分かったか」
夫人が一歩前へ出た。
家臣たちの視線が集まる。
「当主の決定に異存はありません」
母の声ではなかった。
エルンスト家の夫人としての声だった。
「この時刻より、ヴィクトルは、エルンスト家の子ではありません」
夫人付きの侍女が、小さく息を呑んだ。
夫人の声は震えなかった。
アロイスが書記へ顔を向ける。
「記録しろ」
書記は慌てて机へ向かった。
「日付だけではない。時刻も記せ」
「時刻も、でございますか」
「必要だ。この時刻以降の行いは、エルンスト家の行いではない。王室にも、そう認めさせる」
「承知いたしました」
書記の筆が走り始める。
乾いた音が広間に響いた。
「王室への届け出を用意しろ。領内の役所にも同時に出す。家譜には朱を入れろ」
騎士の一人が口を開いた。
「王室へ先に確認を取らずとも、よろしいのでしょうか」
「確認を待てば遅れる」
アロイスは即答した。
「遅い決断は、決断ではない」
広間に沈黙が落ちた。
「我が家は、王宮の派閥に属していない」
アロイスの視線が、家臣たちを巡る。
「いざという時、どの派閥も我々を守らない」
誰も反論しなかった。
それは、この家の誰もが知る事実だった。
「ならば、我々で守るしかない」
アロイスは言った。
「家を。領民を。ここに仕える者たちを」
少しだけ間を置く。
「あれが、自分で選んだ道も」
家臣の何人かが顔を伏せた。
その意味を悟った者もいた。
悟らないふりを選んだ者もいた。
「以後、屋敷内でヴィクトルについて私的に詮索することを禁じる」
アロイスは続けた。
「手続きが終わるまで、外で名を口にすることも許さない。泣くなら自室で泣け。広間では泣くな」
夫人付きの侍女が、必死に涙をこらえながら頭を下げた。
「承知いたしました」
家臣たちも続く。
「承知いたしました」
広間に重なる声を聞きながら、アロイスは一度だけ目を伏せた。
アルベルトは動かなかった。
今すぐにでも弟を捜しに行きたい思いを、次代当主として押し殺している。
「アルベルト」
アロイスが呼んだ。
「はい」
「証人として署名しろ」
書記が差し出した記録の下へ、アルベルトは名を書いた。
アルベルト・フォン・エルンスト。
線は乱れなかった。
署名を終えた指だけが、僅かに震えていた。
◆
書類は、すぐに整えられた。
エルンスト家は豊かではない。
だが、事務は乱れていない。
古い家ほど、古い手続きが持つ重みを知っている。
書記は震える手で、正確に文面を書いた。
ヴィクトル・フォン・エルンストを家譜から除く。
エルンスト家に連なる者として有する一切の権利を剝奪する。
以後、当人の行いは、エルンスト家の命によるものではない。
日付。
時刻。
証人。
家令の署名。
次代当主アルベルトの署名。
当主の署名。
夫人の確認。
アロイスは、迷いのない字で署名した。
夫人も確認欄へ名を書く。
白い指が一瞬だけ止まった。
それでも、線は震えなかった。
書類へ封蝋が押される。
領内の役所へ向かう使者と、王室へ向かう使者が立てられた。
家令が尋ねた。
「旦那様。王室へ送る書付には、理由をどこまで記しましょう」
「本人の願いにより、とだけ」
「王室から問い返された場合は」
「答える」
「どのように」
アロイスは僅かに笑った。
いつもの飄々とした笑みだった。
ただし、目は笑っていない。
「エルンスト家は、本人の意思を尊重した。それ以上の理由が必要なら、王室が直接、本人へ尋ねればよい」
家令は深く頭を下げた。
「承知いたしました」
「アルベルト」
アロイスが長男を呼んだ。
「テオドールへ使いを出せ」
「今からですか」
「ああ。もう宣言は終わった。あれが馬を出しても、手続きは止められない」
アルベルトは一瞬だけ目を伏せた。
「何と伝えます」
「弟が家を離れた、と」
「それだけでは、納得しません」
「お前から説明しろ」
「私が?」
「私が話せば、あれは私を殴りかねない」
「父上を殴ることはありません」
「お前なら殴らないと?」
アルベルトは返事をしなかった。
アロイスは小さく肩をすくめた。
「なら、二人で話そう」
「……承知しました」
アルベルトが頭を下げる。
その横顔を、夫人は黙って見つめていた。
アロイスは息子を家から切り離した。
ヴィクトルが選んだ道と、ここに残る者たちの双方を守るために。
アルベルトもまた、弟が家族を守るために手放した家名を、次代当主として守る側に立った。
そしてテオドールは、まだ何も知らない。
◆
家臣たちが下がったあと、大広間にはアロイスと夫人、アルベルトの三人が残った。
古い窓から、白い光が差し込んでいる。
外では、使者のための馬が用意されていた。
アロイスは、机の上に残された手紙を見た。
ヴィクトルの硬い筆跡。
どうか私を、息子としてではなく、一人の男としてお見送りください。
夫人が手紙へ手を伸ばした。
家臣たちの前では触れなかった。
今、ようやく指先で紙をつかみ、胸元へ引き寄せる。
その瞬間、夫人の顔に母の色が戻った。
「泣きませんでした」
小さな声だった。
アロイスは妻を見る。
「立派だった」
「立派でいたかったわけではありません」
「分かっている」
「泣けば、止めたくなります」
手紙を抱く指に力が入った。
「止められないのに」
アロイスは黙っていた。
夫人の声が、初めて震えた。
「あの子は、自分で選んだのですね」
「ああ」
「誰かに命じられたのではなく」
「この字を見る限り」
「あなたは、何をしようとしているのか分かっているのでしょう」
アロイスは少しだけ目を細めた。
「正確には分からない」
「本当に?」
「本当だよ」
少し困ったような、いつもの笑みだった。
「ただ、あの子がこの手紙を書く時、何を捨てるつもりだったかは分かる」
「家を」
「名を」
アルベルトが低く続けた。
「帰る場所を」
「それから」
アロイスは静かに言った。
「我々に叱られる権利も」
夫人の瞳に涙が滲んだ。
「叱りたかったわ」
「私もだ」
「馬鹿な子だと」
「まったくだ」
「母に何も相談せず」
「父にもだ」
アルベルトは、机の上の手紙を見つめた。
「兄にもです」
夫人が長男を見る。
アルベルトの顔は、広間に立っていた時と変わらない。
だが、声には押し殺しきれない痛みがあった。
「相談してほしかった」
「相談すれば、お前は止めただろう」
アロイスが言った。
「止めます」
「だからだ」
「それでも」
アルベルトは言葉を切った。
やがて、静かに息を吐く。
「一人で決めてよいことではありません」
「そうだな」
「父上まで認めてしまうとは思いませんでした」
「認めたわけではない」
「では、なぜ」
「あれが家を守るために差し出したものを、父親の情で突き返すわけにはいかない」
アルベルトは唇を結んだ。
「次代当主としては、分かっています」
「兄としては?」
「許していません」
「さっきも聞いたな」
「何度聞かれても同じです」
アロイスは僅かに笑った。
「やはり私の息子だ」
「今は、そう言ってよいのですか」
「お前はまだ家譜にいる」
アルベルトの口元が、ほんの僅かに緩んだ。
夫人も、涙を滲ませたまま小さく笑った。
笑みはすぐに消えた。
「テオドールは、どうするでしょう」
夫人が尋ねた。
「馬を出す」
アロイスとアルベルトの声が重なった。
二人は一瞬、顔を見合わせた。
「それから、ヴィクトルを殴る」
アロイスが続ける。
「一発では済みません」
アルベルトが言った。
「でも、そのあとで隣へ立つわ」
夫人の言葉に、誰も反論しなかった。
三人とも、テオドールがそうすることを知っている。
アロイスは窓の外を見た。
一頭の馬が、石門へ向かっている。
テオドールへ知らせる使者だ。
その後ろでは、王室へ向かう使者も出立の準備を終えていた。
「家名からは外した」
アロイスは言った。
「ええ」
夫人が答える。
「王室にも、そう届ける」
「はい」
アルベルトが頷く。
「書類の上では、あれはもうエルンスト家の者ではない」
夫人は、胸元に抱いた手紙へ目を落とした。
「それでも」
アロイスも、その手紙を見る。
「私たちの息子でなくなるわけではない」
アルベルトが目を伏せた。
「私の弟でも」
「ああ」
夫人の頬を、一粒だけ涙が伝った。
遠くで、馬の蹄が鳴った。
王室へ向かう使者が、古い石門を駆け抜けていった。
その頃、ローゼンベルク家ではまだ、逃亡を告げる鐘は鳴っていなかった。
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