第三十六話 霧の外へ
屋敷の外は、まだ白い霧に沈んでいた。
リリアは古い排水口の縁に両手をかけ、湿った草の上へ体を引き上げた。
指先に力が入らない。地下水路の冷たさが骨の内側にまで残っている。膝から崩れそうになる。けれど、地面へ手をつく前に踏みとどまった。
すぐ後ろで水が揺れた。
ヴィクトルが排水口から上がってくる。
王室騎士団の灰色の外套は、水と白い泥を吸って重く垂れていた。濃紺の騎士服も膝まで濡れ、腰の剣には細い水滴が伝っている。
最後に地上へ出たシリルは、周囲へ素早く目を走らせた。
人影がないことを確かめ、三人が抜けてきた穴へ石蓋を戻す。縁へ泥を塗り、草をかぶせると、古い排水口は霧の中に紛れた。
「行くぞ」
シリルが先に立った。
屋敷から、鐘の音が響いてくる。
一度。
少し間を置いて、続けて二度。
朝を告げる鐘ではない。
鋭い音へ、馬の嘶きと走る靴音が重なった。北庭を封鎖しろと叫ぶ声が上がり、別の者が裏門と馬車口へ騎士を回すよう命じている。
リリアは思わず振り返りかけた。
「前を見てください」
ヴィクトルが左手を取った。
声には緊張があったが、指へ込められた力は乱暴ではない。
「はい」
屋敷に残してきた人々の顔が、霧の向こうへ浮かんだ。
ジューン。
マリアンネ。
マーサとセシル。
クララ。
そして、イザベラとハインリヒ。
リリアは濡れた革靴で、足元の土を踏みしめた。
ジューンが選んでくれた靴。
足首まで紐で固定され、底には濡れた石でも滑りにくいよう細かな刻みが入っている。
シリルは外壁に沿って進み、低い生け垣の陰へ身を入れた。
普段は庭師さえ使わない場所だ。伸びた枝を押し分けると、その奥に獣道ほどの細い踏み跡が現れる。
「北庭の排水口は、すぐに調べられる」
ヴィクトルが低く言った。
「裏門と馬車口も、すでに塞がれているでしょう」
「だから、どれも使わない」
シリルは振り返らない。
「森の手前に炭焼き小屋がある。そこで外套と匂いを変える」
「馬は」
「一頭」
「三人は乗れない」
「乗るためじゃない。北へ走らせる」
ヴィクトルの視線が鋭くなった。
「囮か」
「ああ」
リリアは二人の会話を聞きながら、足を止めないよう必死だった。
地下水路を抜けた体は冷え切っている。濡れた外套が肩へ張りつき、息を吸うたび肺の奥まで冷たい空気が入り込んだ。
ヴィクトルの手が少し強くなる。
「走れますか」
「走ります」
反射的に答えた。
ヴィクトルは一瞬だけリリアを見る。
「無理を感じた時は、言ってください」
「でも、止まったら追いつかれます」
「止まるか、進み方を変えるかを決めるためにも、あなたの状態を知る必要があります」
リリアは返事に迷った。
痛いと言えば、迷惑をかける。
苦しいと言えば、二人の足を止める。
「……分かりました」
約束するように頷いた。
外套の内側で、右腕の痣が重く疼く。
追手への恐怖のせいなのか。
アンを思い浮かべたせいなのか。
リリアには、分からなかった。
◆
炭焼き小屋は、屋敷の外壁から少し離れた森の手前にあった。
崩れかけた石積みの煙突。
黒ずんだ木戸。
壁際には割られた薪が積まれ、湿った灰と古い炭の匂いが漂っている。
シリルは小屋の周囲を一周し、戸口へ戻ってきた。
「新しい足跡はない。入れ」
三人が中へ入ると、すぐに木戸が閉められた。
室内は薄暗い。
壁際には麻袋と古い水桶が置かれ、梁には焦げ茶色の短い外套が掛けられている。床の隅には、黒い根と炭粉をまぶした布が用意されていた。
ヴィクトルは剣を壁へ立てかけ、濡れた灰色の外套を脱いだ。
その下から現れたのは、濃紺の騎士服だった。
胸元には、剣と冠をかたどった銀の徽章が残っている。
ヴィクトルは徽章を外した。
掌の上で、銀が鈍く光る。
灰を入れた炉の方へ手を動かしかけたところで、シリルが止めた。
「捨てるな。お前がここを通った証拠になる」
ヴィクトルは徽章を見つめた。
「持ったまま逃げろと?」
「今はな」
王室騎士である証。
今のヴィクトルにとっては、身分を示すものではなく、追われる理由でしかない。
汚れを指で払い、騎士服の内側へしまう。
シリルが梁から焦げ茶色の外套を外し、ヴィクトルへ投げた。
「これを着ろ。剣帯も外せ」
「剣を置いていけと言うのか」
「鞘ごと布で巻いて背負え。騎士の剣を提げた炭焼きなんて、霧の中でも目立つ」
ヴィクトルは剣帯を外し、用意されていた粗い布で鞘を包んだ。焦げ茶色の外套を羽織り、その下へ剣を斜めに隠す。
近くで見れば、立ち方も体つきも騎士そのものだ。
だが、霧の中で遠目に見れば、薪割り道具を背負った男に見えなくもない。
シリルはリリアへ灰色の粗布を差し出した。
「黒い外套の上から掛けろ」
布は炭袋の覆いに使われていたらしい。古い灰と土の匂いが染み込んでいる。
リリアが肩へ掛けると、黒い外套も髪の輪郭も少し隠れた。
次にシリルは、床へ置かれていた黒い根を折った。
切り口から、青臭さに苦みを混ぜたような強い匂いが広がる。
それをリリアとヴィクトルの靴底へ擦りつけた。
「何ですか」
「臭根。炭焼きが獣除けに使う」
「犬を撒けるのか」
ヴィクトルが尋ねる。
「鼻を少し迷わせるだけだ」
シリルは根をさらに靴底へ擦り込んだ。
「森へ入って沢へ着くまでの時間稼ぎだ」
ヴィクトルが自分の靴底へ視線を落とす。
「沢へ入れば、落ちるぞ」
「それでいい」
シリルは即答した。
「そこまで持てば十分だ。水へ入ったら、今度は臭根ごと陸の匂いを切る」
ヴィクトルは短く頷いた。
シリルの視線が、リリアの胸元へ向く。
「香り袋も包む」
炭粉をまぶした黒布を差し出した。
「花の香りは、人の汗や泥とは違う。犬にとって目印になる」
「これで消えるんですか」
「完全には消えない。目立ちにくくするだけだ」
リリアは胸元から、薄桃色の香り袋を取り出した。
白い花の刺繍。
紫色の蔓。
二つの結び目。
袋の中には、アンの淡い金色の髪が入っている。
ヴィクトルは、何も言わずに背を向けた。
リリアは香り袋を黒布で包んだ。
柔らかな桃色も、刺繍も、すべて黒い布の内側へ隠れていく。
アンまで見えなくなるようで、指が止まりかけた。
「見えなくても、なくなりません」
背を向けたまま、ヴィクトルが言った。
リリアは包みを両手で握る。
「はい」
外套の奥へ戻し、紐へしっかり固定した。
「馬を放す」
シリルは木戸へ向かった。
◆
小屋の裏手から林へ入り、十歩ほど進んだ場所に、小柄な荷馬が繋がれていた。
灰色がかった毛並みの、目立たない馬だった。
背には古い荷籠と炭袋が載せられている。
「この馬は?」
リリアが尋ねる。
「北の炭焼き場と屋敷を往復してる」
シリルは綱を解きながら答えた。
「放せば、いつもの道を戻る」
ヴィクトルが脱いだ灰色の王室外套を、荷籠の奥へ押し込む。荷籠の底へ白い泥水が染み出した。
その上へ炭袋をかぶせるが、裾だけは籠の隙間から見えるよう残した。
「人の目には、これで十分だ」
シリルは今度はリリアの外套の裾をつまんだ。
「少し切る」
「え……」
「犬が追うのは、お前の匂いだ」
小刀で外套の内側から細い布片を切る。
表から見ても、ほとんど分からない大きさだった。
その布を、ヴィクトルの王室外套へ固く結びつける。
リリアは切られた裾を見つめた。
自分の匂いが、アンとは別の方角へ連れていかれる。
「人間には灰色の外套を見せる。犬にはリリアの匂いを追わせる」
「レオナール隊長は、すぐに気づく」
「だろうな」
シリルは馬を、三人が歩いてきた草地へ連れ出した。
「逃げ切るためじゃない。考えさせるための囮だ」
馬の蹄で、三人の足跡を何度か踏ませる。
白い泥が跳ね、草が倒れた。
それからシリルは、馬の頭を北へ向けた。
「頼んだぞ」
馬の首を一度撫で、臀部を軽く叩く。
荷馬は最初こそゆっくり進んだが、やがて見慣れた道を思い出したかのように歩調を速めた。
霧の中へ、王室外套とリリアの匂いを運んでいく。
「半刻は稼げるか」
ヴィクトルが言った。
「四半刻かもしれない」
「少ないな」
「ないよりましだ」
シリルは馬の消えた北とは反対へ顔を向けた。
「俺たちは南東から森へ入る」
三人は炭焼き小屋へ戻らず、そのまま森の奥へ進んだ。
◆
霧はさらに濃くなった。
枝の先に水滴が溜まり、落ち葉は湿って足音を吸い込んでいく。
シリルは土の柔らかい場所を避け、張り出した根や平たい石を選んで歩いた。
リリアに、その歩き方を真似るのは難しい。
足元ばかり見ていると前の枝へぶつかりそうになり、顔を上げれば滑りやすい根を踏みそうになる。
「枝を掴まないでください」
後ろからヴィクトルが言った。
「折れれば跡が残ります。足元だけでなく、シリルの背を見て」
「はい」
低い枝を避けた拍子に体が揺れる。
ヴィクトルの手が肘へ伸びたが、触れる前にリリアは体勢を戻した。
彼はそのまま手を下ろした。
遠くで犬が吠えた。
三人は同時に足を止めた。
声は北から聞こえる。
短い吠え声のあと、騎士の号令と馬の蹄が重なった。
「囮へ向かった」
ヴィクトルが呟く。
シリルは答えず、倒木の陰へ身を沈めた。
二人も姿勢を低くする。
犬の声は、少しずつ遠ざかっていった。
それでもシリルは、すぐには立たなかった。
霧の向こうへ耳を澄まし、別の足音が近づいていないか確かめる。
「行くぞ」
ようやく声を落とした。
「長くは騙せない」
森の斜面を下ると、細い沢へ出た。
石灰質の岩から流れ出した水は、乳を薄めたように白く濁っていた。
地下水路で冷えた足には、見ているだけで痛みを覚えそうな水だった。
「ここへ入る」
シリルが先に水へ足を置いた。
「流れに沿って二十歩進む。岩場から反対の岸へ上がる」
「匂いを切るのか」
「ああ」
シリルは短く答えた。
「靴底の臭根もここで落とす。犬が追える陸の匂いを、向こう岸まで続けさせない」
ヴィクトルはすぐに理解し、沢へ足を踏み入れた。
白い水が革靴の周りへ広がる。
「冷たいな」
「だから長くは歩かない。二十歩だけだ」
シリルは岩の位置を指で示す。
ヴィクトルがリリアへ手を差し出した。
「俺が踏んだ石を使ってください」
「はい」
リリアはその手を取り、水へ足を入れた。
一歩目。
靴の周りへ水が回った瞬間、地下水路で冷えた足先へ針を刺されたような感覚が走る。
思わず足を引きそうになった。
けれど、止まれない。
革靴の底が、沈んだ石を捉える。
二歩目。
石の表面を覆う薄い苔を踏んだ。
右の靴底が滑った。
濡れた石でも滑りにくい靴だった。
それでも、水を含んだ苔までは止められなかった。
足首が外側に曲がり、鋭い痛みが走る。
「っ……」
息が漏れた。
ヴィクトルの腕が、すぐに腰へ回った。
水へ倒れ込む前に体を支えられる。
「右足ですか」
「少し、捻っただけです」
「動かせますか」
リリアは水の中で、右足首をゆっくりと動かした。
外側へ曲げると痛む。
けれど、足先は動く。
「動きます。歩けます」
「痛みの強さを聞いてます」
声は穏やかだったが、曖昧な答えを許さない響きがあった。
リリアは唇を結び、もう一度足首の状態を確かめる。
「止まっていれば、強くは痛みません。体重をかけると痛みます」
シリルが前から戻ってきた。
沢の中へしゃがみ、リリアの足元を見る。
「腫れはまだ分からないな」
「ここで休ませるか」
「水の中で止まる方がまずい」
シリルはリリアを見る。
「あと二十歩、行けるか」
「はい」
「痛みが増したらすぐ言え。黙って転ぶ方が迷惑だ」
リリアは右足へ少しだけ体重をかけた。
痛みはある。
それでも、立っていられないほどではない。
「行けます」
「強がりじゃないな」
「はい」
「なら進む」
ヴィクトルの手を借り、流れに沿って歩き始める。
一歩ごとに白く濁った水が靴の周りで揺れ、臭根の青臭い匂いも少しずつ薄れていった。
ヴィクトルは先に安全な石を確かめ、リリアの右足へ急な負担がかからない速さで進む。
二十歩ほど上流へ進んだところで、シリルが岩場を指した。
「ここから上がる」
低い岩へ手をかけ、反対側の岸へ出る。
リリアが足を滑らせないよう、ヴィクトルが腰を支えた。
沢を離れて斜面へ入ると、右足首の痛みがはっきりした。
水の中では冷たさに紛れていた痛みが、体重をかけるたび戻ってくる。
平らな場所なら歩ける。
けれど、根を越えるたびに鈍い痛みが脛の奥まで響いた。
先を行くシリルが、何も言わずに歩幅を狭める。
やがて、霧の向こうに、切り立った石壁が現れた。
人の手で削られた不自然な断面。
苔に覆われた石材。
崩れた荷台と、錆びついた滑車。
古い石切り場だった。
シリルが周囲を見回した。
「リリアの足を診る。ここから先の道も決める」




