第三十七話 檻の朝
薄い粥が運ばれ、火鉢の炭が替えられた。
窓はない。
天井近くに細い通気口があるだけで、空も朝の光も見えなかった。
それでも、流れ込む空気が夜明け前ほど冷たくなくなったことで、朝が進んでいるのだと分かる。
アンは寝台の端に座り、膝の上で両手を組んでいた。
手首は縛られていない。
足も自由だった。
部屋の中なら歩ける。
水も飲める。
寒くなれば炭が足され、決まった時間には食事も運ばれてくる。
けれど、厚い扉は外から施錠されている。
逃げられないことに変わりはなかった。
壁際には、女の見張りが立っていた。
黒い髪を後ろできつくまとめ、飾りのない濃紺の服を着ている。腰に武器は見えない。
それでも、扉へ駆けたところで簡単に止められるだろう。
女は必要な時以外、ほとんど口を開かなかった。
アンは胸元へ手を伸ばしかけ、途中で止めた。
そこにあった香り袋は、もうない。
薄桃色の小さな袋。
白い花と紫色の蔓。
リリアと一緒に結んだ二つの結び目。
アンは、その中へ自分の髪を一本だけ入れた。
生きていること。
リリアを忘れていないこと。
その二つを伝えたかった。
ただ、その香り袋を見つけたリリアがどうするかまでは考えていなかった。
きっと、放ってはおかない。
アンが危ないと知れば、自分から探そうとする。
リリアは、そういう人だ。
だからこそ、あの男へ香り袋を託したことが、本当に良かったのか分からなくなっていた。
「食べないのですか」
見張りの声に、アンは顔を上げた。
盆に置かれた粥からは、もう湯気が消えている。
「後で」
「後では下げられます」
「お腹が空いていないの」
「それでも、少しは口へ入れてください」
心配しているというより、決められた役目を果たそうとしている声だった。
アンは匙を取り、一口だけすくった。
薄い塩味。
屋敷で食べていた朝食とは違う。
焼きたてのパンも。
温めた乳も。
蜂蜜を添えた果物もない。
それでも、食べられないほど粗末ではなかった。
弱らせるつもりはない。
逃がすつもりもない。
それだけは分かった。
廊下から足音が聞こえた。
アンは匙を置き、寝台から立ち上がった。
扉へ近づこうとする。
見張りが音もなく前へ出た。
「戻りなさい」
「誰か来たの?」
「ここから離れないで」
「少しだけ廊下を見たいの」
「許可できません」
アンの足が止まった。
許可。
ここでは、扉へ近づくにも許可がいる。
誰かへ声をかけることにも。
顔を見ることにも。
湿った石の匂いに、記憶の中の別の匂いが重なった。
濡れた土。
摘み取った薬草。
秋の白い霧。
同じような言葉を、以前にも聞いたことがある。
自分にではない。
リリアへ向けられた言葉だった。
◆
三年前。
馬場の事件から、二か月ほどが過ぎた頃だった。
事件のあと、アンは一週間、目を覚まさなかった。
目を覚ましてから、大人たちは似たような話を何度もした。
リリアの力が暴走した。
そのため、アンが危険に晒された。
当主の娘を害しかねない力を使ったため、リリアは罰を受けた。
どんな罰だったのかは教えてもらえなかった。
尋ねても、子供が知ることではないと言われた。
どうしてリリアが力を使ったのか。
本当にアンを傷つけようとしたのか。
そこを尋ねても、誰もきちんとは答えなかった。
アンは、大人の話を信じようとした。
母が言うのだから。
侍女たちも同じことを言うのだから。
父も否定しないのだから。
きっと、自分の覚えていないところで恐ろしいことが起きたのだ。
それでも、リリアが、わざとアンを傷つけようとした。
それだけは、どうしても信じられなかった。
だから何度も父へ頼んだ。
リリアに会いたい。
遠くから顔を見るだけでもいいから。
◆
父の書斎には、ヨーゼフもいた。
「危険です」
ヨーゼフの声は固かった。
「あの娘へアン様を近づけるべきではありません」
「アンが望んでいる」
ハインリヒは机の上へ視線を落とした。
「処遇を確認させるだけだ」
父は机の向こうから答えた。
「あの娘が以前とは違う立場にあると理解させる」
そこでヨーゼフは黙った。
父がお願いを聞いてくれた。
その時のアンは、そう思った。
許されたのは、面会ではなかった。
名目は、リリアの処遇確認。
リリアに会いに行くのではない。
アンを危険に晒した者が、決められたとおりに扱われているかを見る。
そういう形でなければ許されなかった。
それでもアンは、行くと答えた。
◆
香草園へ向かうアンの周りには、大人ばかりいた。
母。
侍女が二人。
侍従が二人。
前後には護衛騎士。
少し離れてヨーゼフ。
ただ庭へ行くだけなのに。
こんなに大勢はいらない。
リリアは怖い子ではない。
そう言いたかった。
けれど、隣を歩く母の横顔があまりに硬く、口にできなかった。
母はアンを見なかった。
前だけを見ている。
香草園には、秋の白い霧が低く流れていた。
濡れた土。
薬草の青い匂い。
小さな札が並ぶ畝の間に、灰色の作業着を着た少女がいた。
黒い髪を背中へ垂らし、摘み取った葉を籠へ入れている。
リリアだった。
以前より細くなったように見えた。
「リリア」
アンは思わず一歩出た。
母の手が、すぐ肩へ置かれる。
「アン」
短い制止だった。
その声で、リリアの手が止まった。
顔が上がりかける。
だが、アンを見る前に下を向いた。
籠を地面へ置く。
その場へ膝をつこうとして、一度だけ身体が止まった。
背中へ力が入る。
それでも、そのまま膝を折った。
両手を揃え、頭を深く下げる。
アンは何も言えなくなった。
リリアは、こちらを見ない。
見ないのではない。
見ることを許されていない。
今のアンなら、そう分かる。
「そのままでいろ」
ヨーゼフが告げた。
「はい」
細い声だった。
アンが知っているリリアの声とは違って聞こえた。
以前なら、アンが庭を走れば困ったように追いかけてきた。
花壇へ入りそうになれば、
服が汚れますよ。
そう言って手を引いた。
アン様、と呼ぶ声も柔らかだった。
目の前にいるリリアは、顔を上げることさえしない。
母が前へ出た。
「体調は」
「問題ございません」
「仕事は」
「滞りなく」
「周囲に迷惑をかけたことは」
「ございません」
アンには、それが会話には聞こえなかった。
質問。
報告。
それだけ。
リリアはここで、以前のように暮らしているわけではない。
何をするにも、誰かに決められている。
「右腕を」
ヨーゼフが命じた。
リリアの身体が強張った。
左手で右の袖をつかむ。
袖をまくり、腕を差し出した。
白い肌に、黒百合の痣が浮かんでいた。
怖いとは思わなかった。
花なのに、傷のようだと思った。
白い肌の奥へ、黒い形だけが深く沈み込んでいるように見えた。
護衛騎士の一人が近づく。
腕には触れない。
痣の形を確認する。
「変化はありません」
「下ろしてよい」
許しを得て、リリアは袖を戻した。
アンはもう我慢できなかった。
「リリア」
周囲の空気が変わった。
侍女が息を呑む。
リリアの肩が跳ねる。
それでも、顔は上げなかった。
「アン」
母の声が低くなった。
「許可なく声をかけてはいけません」
「でも」
「これは面会ではありません」
「私はリリアに会いたくて来たの」
「処遇を確認するために許可したのです」
「そんなの、会ったことにならないわ」
肩へ置かれた母の指に力が入る。
「アン」
もう言うな。
そういう声だった。
アンは、それでもリリアを見ていた。
「リリアは、私を見てもいけないの?」
すぐには誰も答えなかった。
やがて、ヨーゼフが言った。
「許可されておりません」
「どうして?」
「アン様の安全のためです」
「私を傷つけたから?」
土の上へ置かれたリリアの手が動いた。
「みんな、リリアが私を傷つけたって言うわ」
「アン、その話はやめなさい」
母が止める。
「でも、私はリリアに聞いていない」
「アン」
「わざとだったのか、聞いていないもの」
リリアは何も答えなかった。
今なら分かる。
答えなかったのではない。
答えられなかったのだ。
「私は、もう元気よ」
アンは言った。
リリアの手が土の上で握られる。
「一週間、目を覚まさなかったって聞いた。でも、今は前と同じよ」
喉が苦しくなった。
「だから……もう、そんなに謝らなくていいの」
リリアの肩が揺れた。
返事はない。
膝の前の土へ、小さな雫が落ちた。
もう一つ。
リリアが泣いている。
顔を上げることもできず。
声を出すこともできず。
湿った土へ、ただ涙を落としている。
「リリアのところへ行かせて」
アンは母の手を外そうとした。
「確認は終了です」
ヨーゼフが告げた。
「まだ何も聞いてないわ」
「終了です」
護衛騎士たちが位置を変える。
アンとリリアの間に、人の身体が並んだ。
母が肩を引く。
「戻ります」
「お母様」
「戻ります」
母の声は硬かった。
けれど、肩へ置かれた手に力が入りすぎていた。
母も怖いのだ。
その時のアンには、何を怖がっているのか分からなかった。
去りながら、何度も振り返った。
リリアはまだ頭を下げていた。
誰かが許すまで、顔を上げることさえできなかった。
◆
「寝台へお戻りください」
見張りの声で、アンは現在へ戻った。
石の部屋。
閉ざされた扉。
女はアンと扉の間に立っている。
許可なく近づくな。
三年前、香草園で聞いた言葉とよく似ていた。
アンは寝台へ戻り、腰を下ろした。
「リリアも、許可がなければ顔を上げられなかったのね」
「何のことです」
「本当は、私に会いたくなかったのかも」
「私には分かりません」
アンは冷めた粥を一口飲み込んだ。
「あなたは、リリアを知っているの?」
「お答えできません」
「ここにいる人は、みんな同じことを言うのね」
「答えることを許されておりません」
アンは顔を上げた。
女はすでに扉の方を向いていた。
今の言葉も、口にしすぎたと思っているのかもしれない。
廊下で足音が止まった。
見張りが姿勢を正す。
鍵が外され、厚い扉が開いた。
黒い外套をまとった男が入ってきた。
東国の古い意匠を残した長衣。
灯りによって、黒にも紫にも見える瞳。
アンはまだ、その男の名を知らない。
周囲の者が「御前」と呼ぶこと。
命令へ逆らう者がいないこと。
知っているのは、それだけだった。
男は食事の盆を見た。
「食べているな」
「少しだけ」
「残すな」
「命令ばかり」
「ここでは、そうなる」
男は座らず、火鉢のそばに立った。
「香り袋は」
アンが尋ねた。
「部屋の外へ出た」
胸が大きく鳴った。
「リリアへ届いたの?」
「そこまでは確認していない」
「嘘」
「知らないことを答えるつもりはない」
「知っていても、答えないでしょう」
アンは毛布を握った。
この男は優しくない。
けれど、安心させるための嘘も言わない。
「リリアは、私を嫌っていると思う?」
「なぜ私に聞く」
「誰も答えてくれないから」
「本人へ聞け」
「会えないから聞いているの」
声が強くなる。
見張りが一歩動きかけた。
男は止めなかった。
アンを叱りもしない。
「三年前、リリアは私の顔を見なかった」
「見なかった?」
「そうよ」
「見られなかったとは考えないのか」
アンは言葉を失った。
リリアが顔を上げなかった。
そう思っていた。
違うのかもしれない。
上げることを、許されなかった。
「リリアは、私を嫌っていたわけではないの?」
「それこそ、本人へ聞け」
答えではない。
それでも、胸の奥に絡まっていたものが少しだけほどけた。
「ここへ来ると思う?」
「知らぬ」
「私が香り袋を外へ出したから、来るんじゃないの?」
「香り袋が届いたとしても、来るとは限らぬ」
「でも……」
アンは言葉を飲み込んだ。
来てほしい。
でも、来てほしくない。
ここへ来れば、リリアまで捕まるかもしれない。
「今ここで考えても、何も変わらぬ」
男が言った。
冷たい言葉だった。
でも、責めてもいなかった。
「じゃあ、私を帰して」
「できぬ」
即答だった。
「どうして?」
アンは匙を盆へ戻した。
「知らないことと、話せないことは違うんでしょう」
「ああ」
「では、理由は知っているのね」
男は答えなかった。
「食事を終えろ」
「答えないの?」
「答えられぬ」
男は扉へ向かう。
「待って」
アンが呼び止めた。
足が止まる。
「リリアが来たら、私は本人に聞くわ」
男は振り返らない。
「私を傷つけようとしたのか。どうして罰を受けたのか。あの日、本当は何を言いたかったのか」
扉が開いた。
「そうしろ」
男はそれだけ言った。
「食べて、休め」
扉が閉じる。
鍵が掛かった。
足音が遠ざかっていく。
アンは冷めた粥を見下ろした。
リリアが来るかは分からない。
ここへ来てほしいと願ってよいのかも、分からない。
けれど、もし、もう一度会えたなら。
今度は、誰かに止められる前に聞く。
あの日、何があったのか。
リリアは、本当に自分を傷つけようとしたのか。
そして。
あの時、何を言いたかったのか。
アンは匙を取り、残った粥を口へ運んだ。




