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第三十八話 霧の道標


 シリルは石切り場へ入るなり、崩れた石壁の向こうへ消えた。


 足跡や、人が潜んでいないかを確かめているのだろう。


 ヴィクトルは風の当たらない壁際へリリアを座らせ、自分も片膝をついた。


「右足を見せてください」


「歩けます」


「それは先ほど聞きました」


 穏やかな声だったが、引く様子はない。


 リリアはためらった末、右足を前へ出した。


 濡れた革靴には、沢の白い泥がこびりついている。


 ヴィクトルは靴紐を解き、足首が動きすぎない位置を確かめながら、締めつけを少し緩めて結び直した。


「痛みは」


「じっとしていれば、あまり」


「歩くと?」


「体重をかけた時に痛みます」


 ヴィクトルは靴の上から、足首の形を慎重に確かめた。


「靴を脱がせなければ詳しくは分かりませんが、今のところ、形が変わるほどは腫れていないようです」


 ここで靴を脱げば、腫れたあとに履き直せなくなるかもしれない。


 ヴィクトルはそれ以上触れず、立ち上がった。


 石壁の向こうから、シリルが戻ってくる。


「後ろに新しい足跡はない」


 ヴィクトルが振り返った。


「犬は」


「北へ向かったままだ」


「囮が効いているのか」


「今はな」


 シリルは石壁の隙間から霧の向こうを探った。


「荷馬が見つかれば戻ってくる」


「レオナール隊長なら、外套だけで北へ向かったとは信じない」


「分かってる」


 シリルは腰を下ろすことなく、石切り場の奥へ顔を向けた。


「ここから真東の古道へ出れば、葛花には近い」


「使わないのか」


「使えない」


 ヴィクトルの表情から柔らかさが消えた。


「なぜだ」


「王室が押さえるなら、まずそこだ」


「おまえならそうする、というだけだろう」


 シリルはヴィクトルへ向き直った。


「真東の古道を空けておく理由がない」


 ヴィクトルは否定しなかった。


 王室騎士団が土地の地図を持っているなら、街道だけでなく、葛花へ通じる旧道も調べるはずだ。


 リリアは二人を交互に見た。


「では、どこへ行くんですか」


「一度、南東へ回る」


 シリルが答えた。


「湿地を抜ければ、葛花へ続く古い炭焼き道へ出られる」


「遠回りになるんですか」


「多少はな」


 シリルは石切り場の外れへ歩き出した。


 数歩進んだところで、急に立ち止まる。


 視線が地面へ落ちていた。


 リリアも目を凝らす。


 濡れた落ち葉。


 苔。


 大小の小石。


 一見すると、変わったものはない。


 シリルはその場へしゃがみ込み、三つ並んだ石の配置を確かめた。


 中央の石だけが、ほかの二つよりわずかに傾いている。


 指先で持ち上げると、その下に細い枯れ枝が隠されていた。


 枝には、黒とも紫ともつかない糸が二度巻かれている。


 そして、枝の細い先端は、左側の石の下へ挟み込まれていた。


 黒紫の糸。


 なぜか目を離せなかった。


 光の加減で黒にも紫にも見える色は、自分の瞳を思わせた。


「触るな」


 ヴィクトルが告げた。


 シリルの手が止まる。


「分かってる」


「知っている印なのか」


「似たものは見たことがある」


「どこで」


 シリルは答えなかった。


 三つの石。


 二重に巻かれた糸。


 左を示す枝。


 その配置を、もう一度確かめる。


「昔見たものと同じなら、右は見せ道。左へ入れ、という意味だ」


 ヴィクトルが眉を寄せた。


「左は湿地だぞ」


「だから、水を使えということだと思う」


「思う?」


「同じ印ならな」


 ヴィクトルが一歩近づいた。


「誰が使う印だ」


「知らない」


「読めるのに?」


「結び方を知ってることと、置いた人間を知ってることは別だ」


 シリルは石を持ち上げたまま、湿地へ目を向けている。


 ヴィクトルは、その横顔を見据えた。


「おまえは何者だ」


 シリルの指が止まった。


 遠くで犬が吠える。


 一度。


 続けて、もう一度。


 先ほどより近い。


「今、それを話してる時間はない」


「答える気はあるのか」


「ここを抜けられたらな」


 シリルはヴィクトルを見返した。


「それまで俺を信用できないなら、足跡と道だけ見ろ。判断するのはおまえたちだ」


 それだけを告げて、シリルは立ち上がった。


「それに、この印を置いた奴が味方とも限らない」


 ヴィクトルはなおもシリルを見ていたが、再び響いた犬の声に追及をやめた。


「この話は、湿地を抜けたあとに聞く」


「好きにしろ」


 右手には、歩きやすそうな細い獣道が続いている。


 左手には、葦の生えた湿地が広がっていた。


 どう見ても、右の方が進みやすい。


 リリアは石の下の印へ目を戻した。


「右が、見せ道……」


「確かめる」


 シリルは獣道へ近づいた。


 少し先には、深い靴跡が続いている。


 折れた枝。


 踏み倒された草。


 誰かが急いで森の奥へ逃げたように見えた。


 ヴィクトルも隣へしゃがみ込む。


「いつのものだ」


「新しい」


 シリルは踏み折られた草の茎へ指を近づけた。


「折れ口がまだ白い」


 次に、靴跡の縁を確かめる。


「泥も崩れてない。今朝だ」


「では、俺たちより先に誰かがここへ来た」


「そういうことだ」


 リリアは右の獣道を見た。


「この足跡は、誰のものですか」


「分かりません」


 ヴィクトルが答えた。


「ただし、逃げる人間が残したものとしては不自然です」


「どうしてですか」


 ヴィクトルは一つ目の跡から、その先へ視線を移した。


 一歩。


 その次。


 さらに先。


 どの靴跡も、ほとんど同じ深さで地面へ沈んでいる。


「深さが揃いすぎています。急いでいれば踏み込みは乱れます。片側だけ深くなることもある。滑れば、靴底が泥を削った跡も残る」


「でも、これは……」


「一定の力で、一つずつ足を置いています」


「見せるためにつけた足跡ですか」


「その可能性が高い」


 シリルが立ち上がる。


「追手を右へ向かわせるためだろう」


 ヴィクトルは獣道から目を離さなかった。


「都合が良すぎる」


「俺もそう思う」


「俺たちがここを通ると読んでいた」


「そうらしい」


「追手が来ることも」


「ああ」


「そして、俺たちを湿地へ入れようとしている」


 シリルは答えなかった。


 霧の中で葦が揺れた。


 リリアは胸元へ手を添えた。


 黒布の下に、アンの香り袋がある。


 そこへ触れた時、さっきから続いていた右腕の疼きが、少しだけ強くなった。


「……っ」


 ヴィクトルがすぐに振り返る。


「痣ですか」


「少し、熱くなりました」


 シリルもリリアへ顔を向けた。


「今、強くなったのか」


「……たぶん」


「強いか」


「いいえ。少しだけです」


 リリアは右腕を押さえた。


 正体の分からない誰かに先回りされていると知ったからなのか。


 アンのいる場所へ近づいているかもしれないと考えたからなのか。


 ただ自分が怖がっているせいなのか。


 それとも、遠くにいるアン様の身に何か起きているのか。


 どれが原因なのか、判断できなかった。


「理由は?」


 シリルが尋ねた。


 リリアは首を横へ振った。


「分かりません」


 ヴィクトルが頷く。


「それで構いません」


 リリアは顔を上げた。


「分からないものを、分かったことにはしないでください」


 ヴィクトルは黒紫の糸へ視線を戻した。


「痣が熱を持ったからといって、この印が正しいとも、この先にアン様がいるとも限りません」


「はい」


「今あるものだけで考えましょう」


 右には、誰かが残した偽の足跡。


 左には、進みにくい湿地。


 真東の道には、王室騎士団がいる可能性が高い。


 そして、正体の分からない誰かが、左へ進めと印を残している。


 安全な道はない。


 また犬が吠えた。


 今度は、騎士の号令らしき声も重なる。


 シリルが湿地へ顔を向けた。


「俺なら左へ行く。真東は塞がれる。戻れば追手とぶつかる」


「印は信用できないぞ」


「だが、湿地の先が炭焼き道へ続くのは事実だ」


 シリルはリリアを見た。


「決めるのはおまえだ。左へ行くか」


 リリアは葦の向こうを見た。


 泥が深そうだった。


 右足は痛む。


 一歩ごとに、誰かの助けが必要になるかもしれない。


 怖かった。


 けれど、これまで自分の行き先は、いつも誰かが決めていた。


 地下へ行け。


 部屋へ戻れ。


 近づくな。


 王室へ移せ。


 また犬が吠えた。


 先ほどより近い。


「左へ行きます」


 ヴィクトルがリリアを見る。


「印を残した者が敵でも?」


「怖いです。でも、右へ行っても、戻っても同じです」


 リリアは息を整えた。


「葛花へ近づける可能性があるなら、私は左を選びます」


 ヴィクトルはすぐに頷いた。


「分かりました」


 シリルは持ち上げていた石を元へ戻し、黒紫の糸と枯れ枝をその下へ隠した。


「返事は残さないのか」


 ヴィクトルが尋ねる。


「読んだと教える必要はない」


 シリルは周囲の落ち葉を元の位置へ戻した。


「助けるふりをして、行き先を決める奴もいる」


 その言葉に、リリアは胸元の香り袋へ指を添えた。


 誰が自分たちを導こうとしているのか。


 その先にアンがいるのか。


 何も分からない。


 それでも、行き先は自分で決めた。


「右足は」


 シリルが尋ねた。


 リリアは立ち上がり、ゆっくりと右足へ体重をかけた。


 足首から脛へ、鈍い疼きが響く。


「歩けます」


 そこで一度言葉を切り、続けた。


「でも、泥に足を取られたら、一人では難しいかもしれません」


 ヴィクトルが頷く。


「俺が後ろにつきます」


 シリルは湿地の入口を見定めた。


「俺が足場を探す。リリアは俺の跡だけを踏め。ヴィクトルは後ろだ」


「分かった」


「沈みかけても前へ倒れるな。足を抜こうと暴れれば、余計に沈む」


 シリルが葦の間へ一歩入った。


 泥が靴の半分近くまで沈む。


 すぐに足を引き抜き、少し右へずれた場所を踏んだ。


 そこでは、靴底が浅く沈んだだけだった。


「ここだ」


 次の足場へ進む。


「俺が踏んだところだけ来い」


「はい」


 リリアは最初の一歩を踏み出した。


 右足を置く場所を確かめる。


 後ろにはヴィクトルがいる。


 泥に足を取られた瞬間、左腕を掴める距離だった。


 湿地の冷たい水が、靴の縁へ触れた。



 リリアたちが石切り場へ着く少し前、北へ向かった荷馬は、森の外れで捕らえられていた。


 灰色の王室外套。


 その上へ積まれた炭袋。


 籠の隙間へ結びつけられた、細い布片。


 レオナールは王室外套を地面へ広げた。


 泥の付き方を確かめる。


 裾を裏返す。


 そして、結びつけられていた布片を外した。


「隊長」


 副官が尋ねた。


「北ではありませんか」


「北へ行かせたいだけだ」


 レオナールは立ち上がった。


「馬の背に、人が乗った跡もない」


「では、囮だと?」


「ああ。戻るぞ」


 すでに別働隊から、森の手前にある炭焼き小屋を発見したとの報告が届いていた。


 小屋には、濡れた外套を置いた跡と、折られたばかりの臭根が残されていた。


 そこから南東へ続く痕跡を、騎士と犬が追った。


 臭根の匂いに惑わされながらも、犬は沢の手前まで進んだ。


 足跡は、白く濁った流れの中で途切れていた。


 レオナールは犬を対岸へ渡らせず、騎士たちへ川下と川上を探らせた。


 やがて上流側の岩場で、濡れた靴跡が見つかった。


 歩幅の狭い一人。


 その前後を進む二人。


 途中から、右足だけ踏み込みが浅くなっている。


 その痕跡を辿った先に、古い石切り場があった。


「負傷しています」


 副官が地面を調べながら言った。


「右足を庇っているな」


「はい」


 レオナールは三人分の足跡を追った。


 石切り場の奥で、一度長く立ち止まっている。


 その先、右の獣道へ向かって、別の深い靴跡が続いていた。


 折れた枝。


 踏み倒された草。


 副官が顔を上げる。


「こちらです」


「待て」


 レオナールは獣道へ入らず、その場へ膝をついた。


 最初の靴跡から数歩先へ目を走らせる。


 さらに、その奥。


 泥の上には、同じ向きの足跡だけが等間隔に並んでいた。


「三人のものではない」


「靴底が違うのですか」


「それだけではない」


 レオナールは踵の跡を指した。


「一度も向きを変えていない」


 副官が足跡を見直す。


「どういうことでしょう」


「追われて逃げた者なら、後ろを確かめる。振り返れば、踵か爪先の向きが乱れる。速度を変えれば歩幅も変わる」


 だが、残された靴跡には、踏み直した痕跡さえない。


 歩幅も、向きも、一定だった。


「これは、追手から逃げた者の足跡ではない」


 レオナールは立ち上がった。


「追手に見せるために歩いた跡だ」


 副官の表情が変わる。


「偽の足跡……」


「右は二名で確認しろ。深追いはするな」


「残りは」


「待て」


 レオナールは石切り場の中央へ戻った。


 三人の本物の足跡を逆に辿る。


 歩幅の狭い一人。


 その前後を守るように進む二人。


 石壁の陰から、少しずつ南東側へ寄っている。


 やがて地面が石混じりになり、足跡は薄くなった。


 その先。


 湿地の手前に、浅い踏み込みが一つだけ残っていた。


 すぐ横には、別の靴跡。


 さらに先は、葦と水に消えている。


「南東だ」


 副官が湿地を見る。


「湿地へ入ったと?」


「可能性が高い」


 レオナールは周囲を見回した。


 三人より先に、この場所へ来た者がいる。


 三人がここを通ることを予測し、追手も来ると読んでいた。


「三人だけではありません」


 副官が声を落とした。


「そうだ」


「ヤシャラでしょうか」


「まだ決めるな」


「では、祀院が」


「断定するな」


 レオナールは右の獣道へ視線を向けた。


「偽の足跡を残した者が、三人の味方とも限らない」


「敵が進路を誘導している可能性も?」


「ああ」


 副官が湿地へ目を戻す。


「追いますか」


「追い立てるな」


 副官がレオナールを見る。


「対象は右足を負傷している。急かせば、同行する二人が支える」


「そこを押さえれば」


「ヴィクトルが剣を抜く」


 副官が口を閉じた。


 レオナールは三人の足跡を見下ろした。


「矢も犬も先へ出すな。湿地の出口へ回れ」


「逃がすのですか」


「違う」


 レオナールは霧の残る南東へ顔を向けた。


「行ける道を減らす」


 副官が頭を下げる。


「はっ」


 騎士たちが二手に分かれた。


 レオナールはその場へ残り、偽の足跡をもう一度見た。


 三人より先に、この場所へ来た者がいる。


 逃亡経路を知っている。


 王室がどう追うかも読んでいる。


 それだけではない。


 三人が石切り場で立ち止まり、右と左を見比べることまで見越していた。


「……誰だ」


 霧の向こうで、葦が揺れた。



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