第三十九話 霧の包囲
湿地へ入ってすぐ、足元の感触が変わった。
土ではない。
水でもない。
一歩ごとに、靴底へ泥がまとわりつく。
シリルは細い枝で水面を探りながら、足場を選んでいた。
「そこは踏むな」
振り返らずに言う。
「左へ半歩。次は俺の足跡の上だ」
リリアは頷いた。
示された場所へ右足を下ろす。
泥が沈む。
足首の外側へ、鈍い痛みが走った。
「右足は」
半歩後ろから、ヴィクトルが尋ねた。
「石切り場を出た時と同じくらいです」
「変わったら、すぐ言ってください」
「はい」
今度は迷わず答えた。
ヴィクトルはそれ以上何も言わなかった。
リリアの半歩後ろを進み、足を取られればすぐ左腕を掴める距離を保っている。
前では、シリルが葦をかき分けた。
「次、右」
リリアはその足跡を追った。
湿地の上には、朝の霧が低く残っている。
少し先を歩くシリルの姿でさえ、ときどき白い中へ消えた。
足元。
次の一歩。
それだけを見る。
アンのことを考えれば、先を急ぎたくなる。
追手を考えれば、立ち止まることが怖くなる。
けれど急げば転ぶ。
リリアは一歩ずつ、シリルの足跡へ自分の足を重ねた。
◆
湿地の半ばを過ぎた頃だった。
遠くで犬が吠えた。
三人の足が止まる。
一度。
少し間を置いて、もう一度。
北ではない。
石切り場の方角だった。
ヴィクトルが振り返る。
「戻ってきた」
「ああ」
シリルの声が低くなる。
「囮を見破った」
「ここまで来るのに、どれくらいだ」
「真っすぐなら早い。右を調べれば遅れる」
犬の声が再び響いた。
先ほどより近い。
「急ぐぞ」
シリルが前を向く。
リリアも続こうとして、右足が深く沈んだ。
「……っ」
泥が靴を呑み込む。
反射的に足を引こうとした瞬間、さらに沈んだ。
「動くな」
シリルが戻ってくる。
「右か」
「はい」
ヴィクトルがすぐにリリアの左腕を取り、自分の方へ体重を預けさせた。
シリルは枝を差し込み、沈んだ靴の周囲の泥を崩していく。
「そのまま」
遠くで犬が鳴く。
焦りが胸を締めつける。
早く。
早く抜かなければ。
袖の下で、右腕の疼きが強くなった。
黒百合が何かに反応しているのか。
ただ恐怖で痣が疼いているだけなのか。
リリアには分からない。
「今だ。ゆっくり上げろ」
リリアはヴィクトルへ体重を預け、右足を持ち上げた。
泥が重く抵抗する。
ずぶり、と鈍い音を立てて靴が抜けた。
その反動で体が傾く。
ヴィクトルの腕が背中を支えた。
「痛みは」
「さっきより少し強いです」
リリアは息を整えた。
「歩けます。でも、右足だけで踏ん張るのは難しいです」
シリルが湿地の先を見る。
「あと少しで葦が濃くなる。抜ければ固い場所だ」
「行けますか」
ヴィクトルが尋ねる。
「支えてもらえれば」
「分かりました」
三人は再び進み始めた。
◆
しばらくして、シリルが突然片手を上げた。
リリアとヴィクトルが止まる。
遠くから声がした。
低い男たちの声。
短い号令。
霧に遮られ、言葉までは聞き取れない。
だが、誰なのかは分かった。
王室騎士団。
「近い」
「ああ」
シリルは周囲を見た。
葦は人の背丈より高い。
右手には浅い水溜まり。
左は泥が深い。
「伏せろ」
三人は葦の中へ身を沈めた。
冷たい泥水が膝へ染み込む。
リリアは息を殺した。
霧の向こうで犬が一度吠えた。
すぐに男の声が続く。
「止めろ」
犬の声が途切れた。
「先は湿地です」
別の男が言う。
「匂いが乱れています」
「無理に入るな。東側へ回れ」
シリルが顔を少し上げる。
追ってこない。
少なくとも、今は。
足音が湿地の外側を移動し始めた。
東へ。
三人の進む先へ回り込むように。
ヴィクトルが唇だけ動かす。
「囲む気だ」
シリルが小さく頷いた。
リリアの胸が強く鳴る。
追われているのに、追ってこない。
その方が怖かった。
行ける道を一つずつ塞がれていく。
逃げる先まで、狭められていく。
石切り場の黒紫の糸が頭に浮かんだ。
誰かは自分たちを湿地へ導いた。
王室は、その先を塞ごうとしている。
右腕が再び熱を持った。
ただ、追手の気配が怖かった。
これは黒百合の反応なのか。
恐怖で痣が疼いているだけなのか。
足音は遠ざかったが、シリルは動かなかった。
指を一本ずつ折りながら、霧の向こうへ耳を澄ませている。
最後の一本を折ってから、さらに少し待った。
「行った」
掠れるほど小さな声だった。
「東へ回ってる」
ヴィクトルが周囲を確かめる。
シリルが身を起こした。
「急ぐぞ」
リリアも立ち上がろうとした。
右足へ体重を移した瞬間、痛みに力が抜けた。
「リリア」
ヴィクトルがすぐに支える。
謝りかけて、リリアは口を閉じた。
今、伝えるべきことは別にある。
「右足が、さっきより痛みます」
「立てますか」
「支えてもらえれば」
「分かりました」
ヴィクトルはリリアの左腕を自分の肩へ回した。
シリルが前方を見る。
「ここから十数歩で固い場所だ」
「そこまで行けるか」
リリアは右足を一度だけ地面へつけた。
痛む。
それでも、左足とヴィクトルの支えがあれば進める。
「行けます」
「無理になったら」
「言います」
今度はヴィクトルより先に答えた。
ほんの一瞬、彼の目元から緊張が薄れた。
「では、行きましょう」
◆
湿地を抜けた先には、三方だけ石壁の残った古い風除けがあった。
屋根も扉もない。
昔、炭焼きたちが荷を置く時に使った場所らしい。
シリルが周囲を確かめた。
「新しい足跡はない」
リリアは石壁の内側へ腰を下ろした。
右足を前へ伸ばす。
「少し休ませてください」
二人がリリアを見る。
「今歩くと、また足を取られると思います」
シリルは霧の向こうへ目を向けた。
ヴィクトルが水筒を差し出す。
「飲んでください」
リリアは少しだけ水を飲んだ。
シリルが黒パンを取り出し、三つに割る。
「食え」
「今ですか」
「今だからだ」
小さな欠片を差し出した。
「次は止まれない」
リリアは黒パンを受け取った。
固い。
けれど、何度か噛むうちに、自分が空腹だったことに気づいた。
誰も話さない。
遠くでは、ときどき犬の声が聞こえる。
霧の向こうを、王室騎士団が動いている。
リリアは黒パンを持ったまま、向かいに立つヴィクトルを見た。
ずっと、聞けなかったことがある。
「ヴィクトルさま」
「はい」
「一つ、聞いてもよろしいですか」
「何でしょう」
リリアは少し迷った。
「どうして、私を助けてくださったのですか」
ヴィクトルは水筒をしまいかけた手を止めた。
シリルは何も言わない。
石壁の外へ目を向けたまま、黒パンを食べている。
「あなたは、私を見張るために屋敷へ来たのですよね」
「……はい」
「私が屋敷を出ようとしたら、止めるのが命令だった」
「そうです」
「それなのに、今は一緒に逃げています」
リリアは膝の上で指を組んだ。
「どうしてですか」
ヴィクトルはすぐには答えなかった。
霧の向こうで、犬が短く鳴いた。
「最初は」
やがて、ヴィクトルが口を開く。
「命令だから、あなたを見ていました」
リリアは黙って聞いた。
「何を隠しているのか。王国に危険を及ぼす者なのか。誰とつながっているのか」
淡々とした声だった。
「半年間、そういう目で見ていました」
「……はい」
「ですが」
ヴィクトルは一度言葉を止めた。
「アン様がいなくなってから、あなたを見ていて、分からなくなったんです」
「何がですか」
「俺が受けた命令と、目の前にいるあなたのどちらを信じるべきなのか」
リリアは顔を上げた。
「私は、あなたが何者なのか知りません」
ヴィクトルは静かに続ける。
「三年前、本当に何があったのかも知らない。あなた自身も覚えていない」
「……はい」
「だから、あなたが無実だとも言えません」
胸の奥が少し痛んだ。
けれど、リリアは目を逸らさなかった。
「でも」
ヴィクトルの声が低くなる。
「少なくとも、俺が見ていたあなたは、アン様を見捨てられる人ではなかった」
リリアの指が止まった。
「それなのに、あなたが何も知らされないまま連れていかれるのを、黙って見ていることはできなかった」
王室へ。
どこか、戻れない場所へ。
リリアはヴィクトルを見つめた。
「……後悔していませんか」
「今のところは」
少し間があった。
「これからするかもしれません」
リリアは思わず彼を見る。
ヴィクトルの口元が、ごく少し緩んだ。
「正直ですね」
「あなたに『分からないことを、分かったことにするな』と言ったばかりですから」
リリアは一瞬きょとんとして、それから小さく息を漏らした。
笑ったのかもしれない。
自分でも分からなかった。
少し離れたところから、シリルの声がした。
「終わったか」
振り返ってもいない。
ヴィクトルが彼を見る。
「聞いていたのか」
「聞こえる」
それだけ答え、シリルは霧の向こうへ視線を戻した。
「シリルさん」
「何だ」
「さっき、痣が熱くなりました」
「ああ」
「何か、気をつけることはありますか」
シリルはリリアへ顔だけを向けた。
「香りだ」
「香り?」
「強く出れば、花の匂いがする」
ヴィクトルの視線が、リリアの右腕からシリルへ移る。
「追手に気づかれる可能性があるのか」
「ああ」
短い返事だった。
リリアは自分の右腕へ目を落とす。
「どんな匂いなんですか」
「百合に似てる」
「シリルさんは、知っているんですか」
シリルは答えなかった。
黒パンの残りを口へ入れ、立ち上がる。
「熱が強くなったら言え。匂いもだ」
「……はい」
それ以上聞くなということなのだろう。
ヴィクトルはシリルを見ていた。
先ほどまでとは違う種類の警戒が、その視線に混じっている。
けれど、今は何も言わなかった。
その時、遠くで枝が折れた。
三人が同時に顔を上げる。
右。
少し間を置いて、左からも音がした。
シリルが風除けの外を見る。
「来た」
ヴィクトルも剣の位置を確かめる。
「東側へ回った班か」
「たぶん」
リリアも立ち上がろうとした。
ヴィクトルが手を差し出す。
リリアはその手を取った。
右足へ体重をかける。
痛む。
「歩けます」
そう言ってから、続けた。
「でも、今は支えてください」
「もちろんです」
シリルが外へ出る。
「炭焼き道へ入る。広い道は使わない」
「葛花へ続く道か」
「ああ」
「そのまま真東へは?」
「出ない」
「王室が待っている」
「ああ」
三人は、再び霧の中へ入った。
◆
レオナールは湿地の外れで、三人の跡を見下ろしていた。
右足の浅い踏み込み。
その半歩後ろへ続く、もう一人の深い足跡。
ところどころ二つの跡が寄っている。
ヴィクトルが支えている。
さらに前には、シリルの足跡が続いていた。
三人の動きは遅くなっている。
「東側の班は」
「炭焼き道の手前へ回っています」
副官が答えた。
「姿は見せるな」
「はい」
「このままでは、さらに南東へ抜けます」
「抜けさせろ」
副官が顔を上げる。
「よろしいのですか」
「南東へしか行けないと思わせろ」
レオナールは地面へ目を戻した。
「そこでまた進路が変わるなら、誰かが先に動いている」
「道を置いている者を追うのですか」
「三人だけを追っていては、その者を見失う」
副官は少し黙った。
「黒百合については」
「余計な刺激は与えるな。前の命令どおりだ」
「はっ」
「南東へ流せ」
「その先で?」
「次の道を見ろ」
レオナールは短く答えた。
三人が、自分たちだけで進路を決めているのか。
それとも、また誰かが先に道を置くのか。
確かめるべきなのは、そこだった。
騎士たちが霧の中へ散っていく。
「輪を狭めろ」
低い命令が、霧の中へ落ちた。
王室の包囲は、音もなく形を変え始めていた。




