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第四十話 十二の傷

食事が運ばれる。


 水差しが替えられる。


 火鉢へ新しい炭が足される。


 壁際に立つ見張りの女が、ときおり扉の外へ耳を澄ませる。


 それだけが、この石の部屋にも時間が流れている証だった。


 窓はなく、天井近くに細い通気口が開いているだけだ。


 外の景色は見えない。


 朝なのか、もう昼に近いのか。


 雨なのか、霧なのか。


 アンには分からなかった。


 ただ、その日は朝から様子が違っていた。


 いつもは壁の一部のように動かない見張りが、何度も扉を気にしている。


 廊下では、押し殺した声が交わされていた。


 アンに意味の分かるローダン語ではない。


 短く、硬い響きの言葉。


 それを制する低い女の声。


 やがて早い足音が近づいてくる。


 アンは寝台の端で膝を抱えた。


 泣いてはいけない。


 そう思うほど、胸の奥が苦しくなる。


 リリアを呼んではいけない。


 呼べば、来てしまう。


 来てほしい。


 でも、来てはいけない。


 二つの願いが絡まったままだった。


 毛布を握っていると、鍵が鳴った。


 見張りが姿勢を正す。


 扉が開いた。


 入ってきたのは、背の高い女だった。


 黒い布で頭を覆い、飾りのない暗色の長衣をまとっている。腰には細身の短剣。


 その後ろには、黒衣の男が二人控えていた。


 一人は頬に古い傷があり、腰に短剣を帯びている。


 もう一人は年嵩で、武器を持っていなかった。


 頬に傷のある男がアンを見る。


 その目にあるものを見た瞬間、背中が冷たくなった。


 知らない人だった。


 それでも、この人は自分を憎んでいる。


 それだけは分かった。


 見張りが女へ頭を下げる。


「御前より、この部屋を任されております」


 流暢なローダン語だった。


 女も、同じ言葉で答えた。


「知っている。外へ出なさい」


 見張りが顔を上げる。


「ですが御前からは、この娘を一人にするなと」


「一人にはしない。私がいる」


「御前の許しを確認しておりません」


 頬に傷のある男が一歩前へ出た。


 聞き慣れない言葉を、見張りへ鋭く投げる。


 廊下から聞こえていたものと同じ響きだった。


 見張りも同じ言葉で短く返す。


 アンには内容が分からない。


 ただ、どちらも譲ろうとしていないことだけは、その声で伝わった。


 男は舌打ちし、ローダン語へ戻した。


「ナディア様に逆らうのか」


 見張りは男を見る。


 それからアンへ一度だけ視線を向ける。


「外で待機いたします」


「好きになさい」


 見張りが出て、扉が閉まった。


 鍵は掛からなかった。


 ナディアと呼ばれた女が近づいてくる。


「これが、ローゼンベルクの娘」


 値踏みするような声だった。


 アンは黙った。


「名は」


 答えない。


「アン・ローゼンベルク。十二歳。ローゼンベルク侯爵家の末娘」


 知っているなら、どうして聞いたのだろう。


 アンは毛布を握ったまま、女を見返した。


「家中の者に傅かれて育った金色の小鳥」


 頬に傷のある男が口を開く。


「金色か」


 男のローダン語は通じたが、ナディアや見張りほど滑らかではなかった。


 言葉の切れ目に、先ほどの硬い響きが残っている。


「俺の妹は、黒髪というだけで市場で石を投げられた」


 アンは男を見る。


「十一だった。お前より一つ下だ」


 男の手が、腰に差した短剣の柄へ伸びる。


「倒れても、誰も助けなかった。頭から血を流していたのに。三日後に死んだ」


 最後の言葉だけ、ローダン語の音が強く崩れた。


 アンは何も言えなかった。


「お前は十二か。妹より長く生きたな」


「下がれ」


 ナディアが言った。


 男は止まった。


 だが、柄から手を離さない。


「聞こえたでしょう」


 ナディアがアンを見る。


「お前を見るだけで、嫌な思いをする者がいる」


「私は……」


「何もしていない?」


 先に言われた。


「そうでしょうね。お前自身は何もしていない」


 その言葉に、一瞬だけ救われそうになった。


 だが、ナディアの声は冷たいままだった。


「だから何?」


 アンの指が止まる。


「私たちの子供も、何もしていなかった」


「……」


「黒い髪に生まれただけ。黒百合を信じる家に生まれただけ。石を投げられ、家を焼かれ、消えていった」


 ナディアがさらに一歩近づく。


「お前が何もしていないことなど、私たちは知っている」


 知らずに憎んでいるのではない。


 分かったうえで、憎まれている。


「それでも、お前がローゼンベルクの娘であることは変わらない」


 アンは毛布を胸元まで引き寄せた。


「お前の家は、鞭を使ったそうね」


 頬に傷のある男の手が、柄を握り込む。


「十二回」


 アンには、何の数字なのか分からなかった。


「何の……話?」


 ナディアが目の前で止まった。


「リリア様が、お前の家で受けた罰よ」


 毛布を握る指へ力が入る。


「石の部屋で、十二回」


「嘘……」


「嘘ではない」


 ナディアは淡々と言った。


「十三歳の娘を、鞭で十二回打った。皮膚が裂けても、罰は続いた」


「やめて……」


「お前は知っておくべきだ」


 アンは首を振った。


 聞きたくない。


 それでも、十二という数字が頭から離れなかった。


「……誰が」


 声がうまく出なかった。


「誰が……したの」


「命じたのは、ローゼンベルク家の当主だ」


 父の顔が浮かぶ。


「お父様……?」


「執行したのは、家の護衛隊長」


「ヨーゼフ……?」


 誰も否定しない。


「……嘘」


 三年前、リリアは罰を受けた。


 厳しい罰だったとも聞いた。


 だが、どんな罰だったのかは、誰も教えてはくれなかった。


 処遇確認の名で見たリリアの姿が浮かぶ。


 膝をつく直前、身体が止まった。


 顔を上げなかった。


 右腕を出せと命じられ、背中を不自然に庇っていた。


 あれは。


「……まだ、痛かったの?」


 答えはなかった。


 ナディアは、アンが泣くのを待つように顔を見つめていた。


「分かったでしょう。私たちが、なぜローゼンベルクを許さないのか」


 リリアのために怒っている。


 そう言いながら、その怒りは、鞭打ちを命じた父だけに向いているわけではない。


 何も知らなかった自分へも向けられている。


 頬に傷のある男が、年嵩の男へ何かを言った。


 年嵩の男が、低い声で問い返す。


 男はアンを見たまま、もう一度同じ数字を口にした。


 その数字だけは、ローダン語とよく似ていた。


 十二。


 アンの身体が硬くなる。


「何を話しているの」


 尋ねても、誰も答えない。


 頬に傷のある男がローダン語へ戻した。


「十二の傷で返せばいい」


 アンを見ている。


「あの娘が受けた数だけ、この娘の身体へ刻む」


 ナディアは男を止めなかった。


「十二は多すぎるわ。この娘が死ぬのは困る」


「……多すぎる?」


「今はね」


 今は。


 その二文字が、何よりも怖かった。


「安心なさい」


 ナディアが後ろの男へ目を向けた。


「私たちは鞭は使わない」


 頬に傷のある男が短剣を抜いた。


 細い刃が、火鉢の明かりを拾う。


 アンは反射的に寝台の奥へ下がった。


「ナディア様」


 年嵩の男が、制した。


「御前からは、娘を傷つけるなと」


「髪なら傷にはならない」


 ナディアはアンの金色の髪を見る。


「リリア様へ届けられる」


 刃を持った男がアンの前へ立った。


 アンは髪を両手で押さえる。


「近づかないで」


「髪だけだ」


 男は言った。


 だが、その顔は髪だけで満足する者の顔ではなかった。


「触らないで」


「じっとしてろ」


 アンは寝台の端まで逃げた。


 後ろは石壁だ。


「嫌」


「少しでいい」


 刃先が上がる。


「嫌!」


「暴れると切れるぞ」


 どこが。


 髪なのか。


 頬なのか。


 首なのか。


 男は言わなかった。


 ナディアも止めない。


「リリアに、そんなものを見せないで」


「なぜ?」


「来てしまうから」


「来てほしいのでしょう」


「違う!」


「では、誰が助けるの」


 ナディアの声に苛立ちが混じる。


 それまで滑らかだったローダン語の発音が硬くなった。


「父親? リリア様を鞭打たせた男が?」


「やめて!」


 声が石壁へ跳ね返った。


 男の刃が金色の髪へ触れる。


 一房の髪が切れ、毛布の上へ落ちた。


 アンの身体が動かなくなった。


「これだけで顔色が変わる」


 男が言う。


「妹は、石が頭に当たっても逃げられなかった」


「やめなさい」


 ようやくナディアが言った。


 男が止まる。


「まだ殺すな」


 その言葉が、アンの耳に残った。


 まだ。


 殺すな。


 アンは理解した。


 この人たちは、自分が死んでも構わないと思っている。


「……来ないで」


 気づけば呟いていた。


 リリア。


 来ないで。


 こんな人たちのところへ。


 でも。


「でも……見つけて」


 声が震えた。


「見つけてほしい……」


 ナディアの口元が歪む。


「都合のよい小鳥ね」


 否定できない。


 リリアを守りたい。


 それでも、自分も生きて家へ帰りたかった。


 どちらか一つなど選べない。


「まだ信じているの?」


 ナディアが言う。


「お前が屋敷へ帰れると」


 アンは何も答えなかった。


「帰ったところで、もう以前と同じ家ではない。それでも帰りたい?」


「帰りたい!」


 叫んだ。


「お母様にも、お父様にも会いたい!」


 男の顔が険しくなる。


「その父親が――」


「それでも!」


 アンは男を見た。


 刃も、その目にある殺意も怖かった。


 それでも叫んだ。


「私のお父様なの!」


 静寂が落ちた。


 その時、扉の外で足音が止まった。


 黒衣の男たちが振り返る。


 続いて、見張りの女の声がした。


 最初はアンには分からない言葉だった。


 早口で何かを告げたあと、ローダン語で言い直す。


「御前。ナディア様が、許可なく中へ」


 扉が開いた。


 黒い外套の男が立っていた。


 東国の古い意匠を残した長衣。


 灯りによって、黒にも紫にも見える瞳。


 その後ろでは、部屋を出された見張りが頭を下げている。


 男は室内へ入ると、最初にアンを見た。


 次に抜かれた短剣。


 毛布の上へ落ちた金髪。


 最後に、ナディアを見る。


 誰も動かなかった。


 火鉢の炭が崩れる音だけが、石の部屋へ落ちた。


「何をしている」


 大きな声ではない。


 刃を持った男が短剣を下げる。


「御前」


「しまえ」


 男は動かなかった。


 御前の口から、短い言葉が落ちた。


 アンには意味が分からない。


 だが、その一言で室内にいた者たちの姿勢が変わった。


 男の顔が強張り、短剣が鞘へ戻る。


 御前はローダン語へ戻した。


「全員、娘から離れろ」


 黒衣の者たちが一歩下がる。


 ナディアだけは動かなかった。


「まだ傷つけておりません」


 御前と呼ばれる男は、毛布の上の金髪を見た。


「それを傷と呼ばないのか」


「髪です」


「次は?」


 ナディアの手が、長衣の脇で握られた。


「頬か。指か。それとも、血が出ればどこでもよかったか」


「ローゼンベルクの娘です」


「知っている」


「あの家の血を引いています」


「憎むなら家を憎め。子供へ向けるな」


 頬に傷のある男が顔を上げる。


「御前。我々の子供は守られませんでした」


「だから、同じものになるのか」


「我々だけが耐え続けろと?」


「そうは言っていない」


「なら、償わせるべきです」


「十二歳の娘に?」


「ローゼンベルクの血です」


「だから殺してもいいと?」


 男は口を閉じた。


「この髪をリリアへ届けるつもりだったか」


 ナディアは答えない。


「それで呼び寄せられると?」


「リリア様は、この娘を見捨てません」


「お前たちは、リリアを見ていない」


 静かな声だった。


「黒百合を見ているだけだ」


 ナディアの表情が硬くなる。


「私たちは、あのお方をお迎えするために」


「刃として?」


「違います」


「なら、アンを傷つける理由はない」


「ローゼンベルクへの償いは」


「リリアが望んだのか」


 ナディアは答えなかった。


「自分たちの憎しみを、リリアの名で飾るな」


 誰も口を開かなかった。


 御前が何かを命じた。


 今度は少し長い言葉だった。


 黒衣の男たちが一斉に頭を下げる。


 男たちが扉へ向かう。


 頬に傷のある男だけが、アンを一度振り返った。


 その目に残るものを見て、アンは悟った。


 今度は髪だけでは、すまないかもしれない。


 ナディアは残った。


「王室は、すでに森へ兵を出しています」


 アンへ聞かせるためなのか、ローダン語だった。


「報告は受けている」


「このままではリリア様が王室へ奪われます。ならば、この娘を使うべきです」


 アンの背中を冷たいものが走った。


「必要ない」


「なぜです」


 その時、廊下から短い合図があった。


「入れ」


 泥のついた外套の男が入ってくる。


 息が上がっている。


 男は御前へ話し始めた。


 アンには何を話しているのか分からない。


 ただ、何度か森や方角を示す身振りをし、三本の指を立てた。


「三人?」


 思わず声が出た。


 報告役がアンを見る。


 御前がローダン語へ切り替えた。


「石切り場から南東へ、王室の兵が動いているそうだ」


「三人は」


「遠目だが、それらしい姿を確認した」


「誰なの」


「まだ分からない」


「でも」


「確認は取れていない」


 アンは口を閉じた。


 御前が報告役へ何かを尋ねる。


 男は、先頭を歩く者の動きを示した。


 続いて、足を引きずる仕草をする。


「誰か、怪我をしているの?」


「中央を進む者が、片足を庇っていたらしい」


 アンの手から力が抜けかけた。


 三人。


 誰かが、誰かを支えている。


「なら、なおさら急ぐべきです」


 ナディアがアンを見る。


「この娘の髪なら、もう……」


「黙れ」


 御前が遮った。


 毛布の上の金髪へ目を向ける。


「それを持ち出すな」


 ナディアの眉が動く。


「アン・ローゼンベルクは動かさない。髪も血も取るな」


 自分の名を呼ばれ、アンは背を伸ばした。


 御前が初めて正面からアンを見る。


「涙を見せるな」


「……え?」


「ここでは、それすら道具にされる」


 アンはナディアを見た。


「私は……リリアに来てほしくありません」


「嘘だ」


 ナディアが言った。


 アンは首を振る。


「でも……見つけてほしい」


「なら、今は耐えろ」


 慰める声ではなかった。


「髪も、血も、涙も、この者たちへ渡すな」


 御前は見張りへ向き、何かを命じた。


 見張りがすぐにアンとナディアの間へ入る。


 御前はアンにも分かるよう、ローダン語で繰り返した。


「今後、私の許しなく誰も入れるな。武器を持つ者は、この部屋へ入れるな」


 見張りが一瞬だけ御前を見る。


「ナディア様でも、ですか」


「ああ」


「承知しました」


 ナディアの顔が強張る。


「御前」


「武器を預けろ」


「私にまで疑いを?」


「アンのいる区画へ近づくことも禁じる」


 ナディアが顎を上げた。


「祀院は納得しません」


「私の命令だ」


「御前」


「下がれ」


 ナディアは腰の短剣を外し、年嵩の男へ渡した。


 黒衣の者たちとともに扉へ向かう。


 最後まで、アンから顔を逸らさなかった。


「その涙が、いつか必要になります」


「ナディア」


 御前の声が落ちる。


「出ろ」


 今度は従った。


 報告役も廊下へ下がる。


 最後に御前が部屋を出た。


 扉が閉まり、鍵が掛かる。


 再び静かな石の部屋になった。


 見張りは壁際へ戻らず、扉の前に立った。


 アンはしばらく動けなかった。


 毛布の上に、切られた金髪が残っている。


 指で拾おうとして、やめた。


 刃が触れた感触を思い出しそうだった。


 ここには、自分を泣かせようとする人がいる。


 髪や血を、リリアを呼ぶために使おうとする人がいる。


 自分が死んでも構わないと思っている人がいる。


 そして、自分には分からない言葉で、何かを決めている。


 御前が来なかったら、あの男はどこまでやったのだろう。


 御前も、自分を家へ帰してはくれない。


 誰を信じればいいのか分からない。


 誰も、味方ではない。


 それでも、見張りは異変を知らせた。


 御前は刃をしまわせた。


 髪も血も取るなと命じた。


 それは本当だった。


「泣かない」


 アンは小さく呟いた。


 見張りは何も言わない。


「泣かないから」


 声にすると、少しだけ怖さが形になった。


 帰りたい。


 リリアに会いたい。


 家族にも会いたい。


 どれか一つだけを選べるはずがない。


 父がリリアを傷つけたとしても、それでも父だった。


 リリアを助けたい。


 自分も生きて帰りたい。


 だから。


 リリア。


 来ないで。


 ここには、あなたを待っている人がいる。


 あなたを人ではなく、黒百合として待っている人がいる。


 でも。


 どうか。


 私を見つけて。



 厚い扉が閉じた。


 アンの部屋から離れると、セイランはヤシャラ語へ戻した。


「刃を抜いた男を拘束しろ」


 ナディアが顔を上げる。


「御前」


「今すぐだ。武器を取り上げ、この区画から外せ」


「彼は家族をローダンに……」


「だから何だ」


 ナディアが黙る。


「家族を奪われた者なら、十二の娘を殺しても許されるのか」


「殺すつもりまでは」


「お前は、あの目を見ていなかったのか」


 廊下が静まり返った。


 年嵩の男が、頬に傷のある男の短剣を取り上げる。


「連れていけ」


 頬に傷のある男が抗議の言葉を発した。


 激しいヤシャラ語だった。


「下がれ」


 セイランの一言で、男の声が止まる。


 両腕を取られ、廊下の奥へ連れていかれた。


 足音が遠ざかる。


「私は屋敷に眠る影を起こせと命じた」


 セイランの声が低くなる。


「リリアが屋敷を出る時に備えろとも言った」


「……はい」


「だが、アンを中庭へ誘い出せとも、リリアの名を使えとも、娘を攫えとも命じていない」


 誰も答えなかった。


「誰の判断だ」


「必要なことでした」


 ナディアが答える。


「聞いているのは目的ではない」


 セイランはナディアを見る。


「誰が決めた」


「……私です」


「一人で?」


「現場では、私が」


 答えが変わった。


 セイランは聞き逃さなかった。


「祀院の意向か」


 ナディアは否定しない。


「鞭の件は、誰から聞いた」


「話は流れてきます」


「どこから」


「御前へ届く報告を、すべて隠せるとお思いですか」


 ナディアの声に怒りが混じる。


「……罪のない十三歳の娘に、十二回。私たちが怒ることまで禁じるのですか」


「怒るなとは言っていない」


 セイランは答えた。


「その怒りに、リリアの名を使うな」


「私たちは、リリア様のために怒っています」


「なら、自分の名で怒れ」


 ナディアの手が、長衣の脇で固く握られる。


「お前が憎んでいる。リリアが憎んでいるのではない」


「……」


「その憎しみの責任まで、リリアへ背負わせるな」


 ナディアはしばらく黙っていた。


 やがて、別の問いを投げる。


「誘拐を命じていないとおっしゃるなら、なぜあの娘を屋敷へ返さないのです」


 セイランの表情は変わらない。


「今は返せない」


「だから、御前が閉じ込めるのですか」


「そうだ」


 セイランは否定しなかった。


「それが正しいとは言わない」


 ナディアの目が揺れる。


「だが、アンをリリアを呼び出す餌にはさせない」


「では、いつまで」


「安全に返せるまでだ」


「その間にリリア様が捕らえられたら?」


「捕らえさせない」


「だから、道を示すのですか」


 セイランは答えなかった。


「次、アンへ触れようとすれば、任を解く」


「私を外すと?」


「すでに、あの区画へ近づくことを禁じた」


「祀院が黙ってはいません」


「祀院の許しを得て、あの娘を守るつもりはない」


 ナディアは納得していなかった。


 怒りも屈辱も、その立ち姿に残っている。


 それでも最後には頭を下げた。


「承知しました」


「下がれ」


「ですが、王室の動きが――」


「報告は受ける」


 セイランは遮った。


「お前からではない」


 ナディアが顎を上げる。


 それ以上は何も言わず、廊下の奥へ消えていった。


 その足音が聞こえなくなるまで、セイランは動かなかった。


「続けろ」


 残った報告役へ告げる。


「王室は湿地の東側へ兵を回しています。南東の炭焼き道にも一班が先行しました」


「石切り場に残した偽道は」


「見破られました。二名だけを右へ向かわせ、主力は湿地へ回っています」


「レオナールか」


「おそらく」


 セイランは壁際の簡易地図へ向かった。


 石切り場。


 湿地。


 古い炭焼き道。


 王室は追い立てるのではなく、先へ回って待つつもりだ。


「南東は使えない」


 指が別の古い線を辿る。


 谷へ下る細い道。


 今はほとんど使われていない水車道。


「進路を変える」


「水車道へ?」


「ああ」


「途中はかなり荒れています」


「通れないほどではない」


「王室も古い地図を持っている可能性が」


「水車小屋まではな」


 セイランの指が、その先へ進む。


 地図から線が消えた。


「その先は載っていない」


 報告役が地図を見る。


「三人に分かりますか」


 セイランは答えなかった。


「次の地点で、水車道へ振れ」


「黒紫の糸を?」


「ああ」


「王室に見つかれば」


「拾わせるな。だが、読む者には見えるように残せ」


「承知しました」


「祀院に漏らすな」


 報告役の表情が引き締まる。


「必要な者だけに伝えます」


「報告は私へ直接」


「はい」


「急げ」


 男は頭を下げ、森へ続く扉へ向かった。


 セイランは地図の前に残った。


 王室は、静かに輪を狭めている。


 祀院は、リリアを旗にしようとしている。


 自分は、道標によってその進路を変えようとしている。


 王室にも祀院にも先を越させるわけにはいかなかった。


 リリア自身は、そのどちらのものになるつもりもないだろう。


 セイランは地図から手を離した。


 廊下の奥で外扉が開く。


 冷たい霧が流れ込み、石床を白く這った。



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