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第四十一話 水車小屋の二つの印



 炭焼き道へ入ってから、追手の声は聞こえなくなった。


 犬も、馬も、騎士の号令も。


 それが、かえって不気味だった。


 細い道の両側から、濡れた木々が迫ってくる。


 朝から残る霧が地面近くを漂い、黒い幹の間をゆっくりと流れていた。


 古い轍は泥と落ち葉に埋もれ、道の端には草が入り込んでいる。


 人が使わなくなって久しいのだろう。


 シリルが先頭を歩く。


 数歩後ろをリリアが進み、その左にはヴィクトルがついている。


 湿地で捻った右足首は、地面へつくたび外側が痛んだ。


 それでも、まだ歩ける。


 リリアはそう思っていた。


「追ってこないな」


 ヴィクトルが声を落とした。


 シリルは前を向いたまま答える。


「来てる」


「音がしない」


「後ろから追う必要がないんだろ」


 ヴィクトルが木々の間へ目を向けた。


「先へ回っている」


「ああ」


 リリアは霧の向こうを見つめた。


 王室騎士団は、ただ後ろから追い立てているのではない。


 姿を見せずに進路を狭め、先で待っている。


「私たちに、道を選ばせているのでしょうか」


 リリアが尋ねると、シリルは短く答えた。


「選べる道を減らしてる」


 追われる方が、まだ分かりやすい。


 今は姿の見えない手によって、少しずつ行き先を狭められている。


「なら」


 ヴィクトルが周囲を見た。


「次の道を間違えれば終わりだ」


「間違えなければいい」


「簡単に言うな」


「簡単じゃない。だから見てる」


 シリルは歩きながら、泥の深さ、折れた枝、轍の乱れまで確かめていた。


 リリアも足元へ目を戻した。


 右足へ体重を預ける時間をできるだけ短くする。


 一歩。


 また一歩。


 急げば痛む。


 遅れれば追いつかれる。


 その間を探すように進んだ。



 しばらくして、シリルが足を止めた。


「待て」


 ヴィクトルが周囲へ目を向ける。


「何だ」


 道の脇に、古い石標が半ば土へ埋もれていた。


 文字も紋章も削れ、何のために置かれたものか分からない。


 シリルはその裏へ回り、根元を覗き込んだ。


 黒紫の糸が結ばれている。


 石切り場で見たものと、同じ色だった。


「また……」


 糸は細い根へ二度巻かれている。


 短い端は、左下へ向けて別の根の下へ挟まれていた。


 シリルが結び目へ指を添える。


「新しい」


「分かるのか」


「内側が乾いてる」


 表面には細かな水滴がついている。


 だが、締められた結び目の奥までは湿っていなかった。


 頭上からは今も雫が落ち続けている。


「置かれてから、それほど経っていないということか」


「ああ」


 リリアは石標の左側を見た。


 道らしきものはない。


 低い草。


 崩れた石。


 その奥へ、細い斜面が落ちている。


「どちらを示しているんですか」


「谷側だ」


「葛花とは違う方向では」


 ヴィクトルが言った。


「そのまま下ればな」


「また迂回か」


「たぶん」


 ヴィクトルは黒紫の糸からシリルへ視線を移した。


「信じるのか」


「信じてない。ただ、このまま炭焼き道を進めば塞がれる」


「この印が罠なら?」


「その時は変える」


「戻れる保証はないぞ」


「他の道にもない」


 リリアは黒紫の糸を見つめた。


 誰が置いたのか分からない。


 善意なのか。


 罠なのか。


 それでも、少なくとも今いる道の先には王室がいる可能性が高い。


「確かめましょう」


 二人がリリアを見る。


「この印を信じるのではありません」


 リリアは続けた。


「このまま進む方が危ないことは分かっています。だから、使える道なのか確かめたいです」


 ヴィクトルはしばらくリリアを見ていた。


 やがて頷く。


「分かりました」


 シリルはすでに斜面へ足を向けていた。


「行くぞ」



 石標の左から斜面へ入った。


 昔、人が通ったらしい跡だけが木々の間へ細く残っている。


 濡れた根。


 崩れた土。


 足を取る石。


 炭焼き道よりも歩きにくい。


「そこ、滑る」


 シリルが言った。


 リリアは枝へ手を伸ばし、左足を先へ出した。


 右足を下ろした瞬間、鋭い痛みが走る。


「……っ」


 ヴィクトルがすぐに腕を支えた。


「痛みましたか」


「はい」


 リリアは息を整える。


「さっきより、強いです」


「休みますか」


 シリルが振り返った。


 斜面の途中に、腰を下ろせそうな場所はない。


「ここでは無理です」


「次に止まれる場所まで行く」


「はい」


 再び下った。


 左足。


 枝。


 ヴィクトルの腕。


 それだけを頼りに進む。


 やがて斜面が緩くなり、前方に倒れた大木が見えた。


 その近くで、シリルが一度しゃがんだ。


 湿った土に、深い窪みが残っている。


「何だ」


 湿った土に、大きな足跡が残っている。


 幅の広い掌、その先に並ぶ五つの爪跡。


「熊か」


 ヴィクトルが尋ねた。


「ああ。大きい」


「新しいのか」


「古い。雨が降る前の跡だ」


 シリルは足跡の向きを確かめた。


「谷の水場へ下りてる」


 リリアは窪みを一度見て、その横を通り過ぎた。


 シリルが倒木を越える。


「この先は少し急だ」


 ヴィクトルがリリアを見る。


「ゆっくり行きましょう」


「はい」


 リリアは倒木へ手をついた。


 左足を越える。


 右足を持ち上げ、反対側へ下ろした。


 体重を移した途端、右脚から力が抜けた。


 ヴィクトルが腕を掴み、地面へ落ちる前に支える。


「リリア」


「すみま――」


 言いかけて、止まった。


 また、大丈夫だと取り繕うところだった。


「痛みます」


 リリアは言い直した。


「かなり」


「立てますか」


 支えられながら、右足を地面へつける。


 足首から脛へ痛みが突き抜けた。


 反射的に足を浮かせる。


「今は、難しいです」


 シリルが戻ってきた。


「限界か」


「少し休めば――」


「ここでは止まれない」


 周囲を見る。


「見つかる」


「分かってる」


 ヴィクトルはリリアの前へ出て、背を向けた。


 その場へ片膝をつく。


「乗ってください」


「でも、私を背負えば、ヴィクトル様まで遅れます」


「それを含めて俺が判断します」


「ですが――」


「今は遠慮している場合ではありません」


 ヴィクトルは背を向けたまま動かなかった。


 リリアは自分の右足を見た。


 歩けると言えば、嘘になる。


 今の自分には、誰かの助けが必要だった。


「……背負ってください」


「はい」


 リリアは腕をヴィクトルの肩へ回した。


 彼が立ち上がると、体が一気に高くなる。


「落ちそうになったら言ってください」


「はい」


 前を歩き始めたシリルが言った。


「遅い」


 ヴィクトルが顔を上げる。


「誰のせいで、こんな道を通っていると思ってる」


「俺は道を選んだだけだ」


「なら、もう少しましな道を選べ」


「贅沢を言うな」


 ヴィクトルは何か言い返しかけたが、短く息を吐いた。


「今はやめておく」


 リリアはヴィクトルの背で目を伏せた。


「すみません」


「リリア」


「はい」


「謝らないでください」


 間を置いて、リリアは答えた。


「……はい」


 ヴィクトルは足場を確かめながら、一定の歩幅で斜面を下っていった。


 背中越しに森を見ていたリリアは、木々の間で揺れるものを見つけた。


「待ってください」


 ヴィクトルが足を止める。


「あそこです」


 低い枝に、黒い布が結ばれていた。


 黒紫の糸よりも幅が広く、長い端が風に揺れている。


 シリルが近づいた。


「別の印だ」


「誰か別の人が置いたのでしょうか」


「たぶん」


 布が垂れる方向には、木々の間から古い屋根が見えていた。


「水車小屋だ」


 ヴィクトルが黒布を見る。


「こちらは、水車小屋の正面を示しているように見える」


「黒紫の糸は谷側へ回してる」


 シリルが答えた。


「同じ建物なのに」


 リリアは二つの印を見比べた。


「入り方が違う」


 ヴィクトルが言った。


 シリルは水車小屋へ目を向ける。


「正面は使わない」


「同感だ。これほど目立つなら、誰かに見つけさせるための印だ」


「なら、黒紫の糸は?」


「分からない」


 シリルは黒布から目を離した。


「先に見る」


「一人で行くのか」


「三人で近づくよりいい」


「俺も……」


「リリアを置いていくのか」


 ヴィクトルが黙った。


 シリルは根のめくれた倒木を指す。


「そこで待て」



 古い水車小屋は、谷へ落ちる水路の脇に建っていた。


 水車は止まり、木の羽根は何枚も欠けている。


 屋根の一部は落ち、壁板には苔が張りついていた。


 長い間使われていない建物だった。


 それなのに、正面の入口だけは不自然なほど開けている。


 扉の脇にも黒布が結ばれていた。


 しばらくして、木々の陰からシリルが戻ってきた。


「どうだった」


 ヴィクトルが尋ねる。


「正面に新しい足跡がある。馬もいた」


 ヴィクトルは正面入口へ目を向けた。


「騎士団か」


「たぶん」


「中は?」


「正面からは見えない。裏は入れる」


 シリルはリリアを見た。


 ヴィクトルは問われる前に、その場へ片膝をつく。


「背負います」


「お願いします」


 リリアはヴィクトルの肩へ手を伸ばした。


 今度は迷わなかった。


 三人は正面を避け、水路側から小屋の裏手へ回った。


 崩れかけた石積みの陰。


 低い枝の裏。


 そこにも、黒紫の糸が結ばれている。


 二度巻かれた糸の端は、建物の裏口を示していた。


「正面は炭焼き道から見える」


 シリルが小屋の位置を確かめる。


「見張りが戻れば、すぐ気づかれる。糸を置いた奴は、水路側を使えと言ってるらしい」


「黒布は、騎士団の印でしょうか」


 リリアが尋ねた。


 ヴィクトルは正面へ目を向けた。


「騎士団でも似たものを使います。ただ、この結び方は俺のいた隊ではありません」


「別の隊?」


「その可能性はあります。領内の護衛隊かもしれません」


「少なくとも、人が戻ってくる場所だ」


 シリルが言った。


「長居はできないな」


 ヴィクトルが答えた。


 シリルは半分外れた裏戸へ手をかける。


「入るぞ」


 軋んだ音を立てて、戸が開いた。


 小屋の中は暗かった。


 湿った木の匂い。


 腐りかけた藁。


 壁際の壊れた桶。


 中央には古い木製の歯車が残っている。


 暗がりへ目を凝らしても、人影はなかった。


 ヴィクトルがリリアを壁際へ下ろした。


 リリアは左足だけで立ち、彼の腕を借りて中へ入る。


 水路を流れる音だけが、壁の向こうから聞こえてくる。


 ヴィクトルは何も言わず、リリアの腕を支えた。


 その時だった。


 ――カラン。


 床下で金属が石へ当たった。


 シリルが片手を上げる。


「動くな」


 ヴィクトルが剣へ手を伸ばす。


 シリルは音のした床板へ近づき、剣先を隙間へ差し込んだ。


「下がれ」


 板を持ち上げる。


 床下に人影はない。


 暗い水路へ太い鎖が垂れている。


 流れに引かれるたび、錆びた輪が石へ当たり、音を立てていた。


「水門を動かす鎖か」


 ヴィクトルが言った。


 シリルは鎖ではなく、その脇の泥を見ていた。


「誰かが下りてる」


 湿った土に、鋲を打った靴底の跡が残っている。


 ヴィクトルがしゃがみ込み、跡の幅を確かめた。


「騎士団の靴だ」


「新しいか」


「ああ。泥の縁がまだ崩れていない」


 床下には、松明の燃えかすも落ちていた。


 ヴィクトルが立ち上がる。


「ここは、すでに捜索されている」


 正面には馬の跡。


 床下には騎士靴の跡。


 この水車小屋は、騎士団の捜索地点だ。


「戻ってくる可能性が高い」


「ここにはいられないな」


 ヴィクトルが言った。


「だが、リリアの足では歩き続けられない」


 シリルは床下を流れる水を見た。


「上流側に、採石場跡の岩穴がある」


「知っているのか」


「屋敷へ入る前に、この辺りの道は一度見てる」


 ヴィクトルはシリルを見たが、問いたださなかった。


「そこまでどれくらいだ」


「背負っても、半刻はかからない。炭焼き道からは見えない」


「獣は」


「痕跡を見てから決める」


 シリルは炉へ目を向けた。


「煙を見せる」


 ヴィクトルがシリルを見る。


「見つけた奴はまず小屋へ来る。そのあと、下流の足跡を拾わせる」


 シリルが水の流れる方向を指す。


「俺たちは途中で上流側へ回る」


「犬に追われないか」


「水路を使う。匂いも足跡も拾いにくくなる」


 ヴィクトルが短く頷いた。


「分かった」



 三人は急いで準備を整えた。


 シリルは古い炉へ乾いた木片を入れ、細い煙が上がる程度の火をつけた。


 リリアは壁際に座ったまま、空の包み紙へパン屑を残した。


 誰かが短く休んだ痕跡。


 ヴィクトルは荷の底から、淡い灰色の細紐を取り出した。


「それは」


 リリアが尋ねる。


「騎士団で装具の補修に使う紐です」


 ヴィクトルは紐の端を水で濡らし、炉の脇に突き出た釘へ引っかけた。


「知る者なら、足を止めるでしょう。俺のものだと断定はできませんが」


 シリルは正面入口から炉まで、二人分の足跡を残した。


「二人分だけか」


 ヴィクトルが尋ねる。


「一人は先に水路へ下りたと思わせる。下流側へ足跡を続ける」


「三人とも、そちらへ逃げたと考えさせるのか」


「ああ」


 ヴィクトルがリリアの前へ片膝をつく。


「乗ってください」


「はい」


 リリアはその背へ腕を回した。


 三人は裏手から水路へ下りる。


 冷たい水がヴィクトルの靴を濡らし、リリアの裾へ跳ねた。


 しばらく流れの中を下流へ進み、柔らかな泥の上へ痕跡を残す。


 その後、岩場を利用して向きを変え、上流側の斜面へ回った。


 シリルは踏んだ苔へ水をかけ、折れた草を戻していく。


 湿地と斜面で、思った以上に時間を失っていた。


 森の明るさは、もう朝とはまるで違っている。


 やがて水車小屋は木々の向こうへ隠れた。


 屋根から上がる細い煙が、霧の上へ残っていた。



 岩穴は水車小屋からそれほど遠くはなかった。


 水路とは反対側の斜面にあり、炭焼き道から入口は見えない。


 昔、石を切り出した跡らしく、横に長く開いている。


 奥は浅かった。


 シリルは入口の土を調べた。


 爪痕。


 足跡。


 糞。


 岩肌へついた毛。


 何も見つからないことを確かめ、奥へ入る。


 しばらくして戻ってきた。


「新しい獣の痕跡はない」


「安全か」


「今は」


 森はすでに暗くなり始めていた。


 秋の日は短い。


 これ以上進めば、すぐ夜になる。


「ここで夜を越す」


 ヴィクトルがリリアを岩壁の近くへ下ろした。


「足を見せてください」


「今ですか」


「今だからです」


 リリアは靴紐へ手を伸ばしたが、冷えた指にうまく力が入らない。


 ヴィクトルが前へしゃがむ。


「触れます」


「はい」


 靴を脱がせると、右足首は赤く腫れていた。


 外側は紫色へ変わり始めている。


 ヴィクトルの口元から柔らかさが消えた。


「もっと早く、靴を脱がせて確認すべきでした」


「歩けると思っていました」


「思うだけでは、歩けません」


 シリルが荷から細い板と布を取り出した。


「固定する」


 ヴィクトルが足首へ手を添える。


「痛んだら言ってください」


「はい」


 足首へ乾いた布を巻き、その上から細い板を両側へ当てる。

固定したあと、ヴィクトルは足先へ触れた。


「痺れは」


「ありません」


「冷たさは分かりますか」


「はい」


 処置を終えると、足首は板の間で動かなくなった。


「今夜は立たないでください」


「見張りは」


「あなたは休んでください」


「でも、二人だけでは」


「無理するな。明日もっと動けなくなる」


 シリルはそう言いながら、岩壁へ自分の外套を敷いた。


「ここを使え」


 リリアは外套を見た。


「ありがとうございます」


 シリルはすでに入口へ背を向けている。


 岩穴では火を使えなかった。


 煙がこもるうえ、追手に居場所を知らせることになる。


 三人は冷えに耐えるしかない。



 日が落ちると、昼には聞こえなかった音が森を満たした。


 枝が擦れる音。


 遠くで鳴く鳥。


 落ち葉の上を走る小さな足音。


 時折、低い獣の声も聞こえる。


 近いのか。


 遠いのか。


 岩穴の中からは分からなかった。


 リリアは外套へ包まり、壁へ背を預けていた。


 眠らなければならない。


 そう思っても、目を閉じるたびに二つの印が浮かぶ。


 水車小屋の正面を示した黒布。


 裏手へ導いた黒紫の糸。


「眠れませんか」


 向かいに座るヴィクトルが尋ねた。


「少しだけ」


「糸のことを考えているのですか」


「はい」


 リリアは暗い入口を見つめる。


「置いた人は、私たちが来ることを知っていたのでしょうか」


「知らなければ、先回りはできません」


「では、ずっと見られているのでしょうか」


 ヴィクトルも入口へ目を向けた。


「可能性はあります」


「怖いです」


 リリアは正直に言った。


「でも、糸がなければ、正面から小屋へ近づいていたかもしれません」


「助けられた可能性は高い」


「次の印があっても、すぐには従いません」


 リリアは続ける。


「見て、考えます。危険だと思えば行きません」


 ヴィクトルがリリアを見る。


「以前より、はっきり言うようになりましたね」


「悪いことですか」


「いいえ」


 ヴィクトルの口元から力が抜けた。


「その方がいい」


 入口側にいたシリルが振り返る。


「もう寝ろ。夜明け前に出る」


 ヴィクトルが立ち上がった。


「俺が先に見張る」


「一刻休め」


「リリアを背負っただけだ」


「それで疲れてないと言うのか。さっきまでのリリアと同じだな」


 ヴィクトルが黙った。


 リリアは思わず彼を見る。


 シリルは入口へ目を戻した。


「動けるうちに休め。一刻後に起こす」


 ヴィクトルはしばらく何も言わなかった。


 やがて岩壁へ背を預ける。


「必ず起こせ」


「ああ」


 リリアも目を閉じた。


 森の音は消えない。


 風。


 枝。


 遠くの獣。


 近くには、ヴィクトルの静かな呼吸が聞こえていた。


 いつしか眠りへ落ちていた。



 どれほど眠ったのか分からない。


 リリアは、遠くで響く音に目を覚ました。


 剣が何か硬いものを打つ音が、立て続けに響いた。


 続いて、馬のいななき。


 誰かの短い叫び。


 岩穴の入口にはヴィクトルが立っていた。


 すでに剣を手にしている。


 シリルも外の暗闇を見つめていた。


「何が……」


 リリアが体を起こす。


「動くな」


 シリルが低く言った。


 もう一度、馬が鳴いた。


 方角は水車小屋だった。


「騎士団だ」


 ヴィクトルが言う。


「分かるのか」


「あの笛は、分かれた隊を呼び戻す合図だ」


 リリアは耳を澄ませた。


 人の声。


 短い命令。


 剣を抜く音。


 その直後。


 森の奥を震わせるような咆哮が響いた。


 木々の間から、鳥の群れが一斉に飛び立つ。


「獣だ」


 シリルが言った。


 昼間、斜面で見た大きな足跡がリリアの頭をよぎった。


「水場へ戻ってきたか」


 ヴィクトルが水車小屋の方角を見る。


「ああ」


 また馬がいなないた。


 木材の折れる音。


「退け!」


 男の声が谷へ反響した。


 複数の蹄と足音が、水車小屋から遠ざかっていく。


 一度だけ、戻ろうとする蹄の音がした。


 だが、獣の咆哮と木材が砕ける音に押し返され、再び遠ざかる。


「待ってくれ!」


 一人の声が、その場に残った。


 ヴィクトルの剣を握る指に力が入る。


 リリアはその横顔を見た。


「知っている人ですか」


 ヴィクトルは答えなかった。


 水車小屋の方角から、再び咆哮が響く。


 今度は近い。


「誰か!」


 助けを求める声が、夜明け前の森を貫いた。


 ヴィクトルが岩穴の外へ一歩出る。


 シリルが横へ回った。


「行くな」


「一人、残っている」


「追手だ」


「分かっている」


「俺たちを捕らえに来た騎士だ」


「それも分かってる」


「今なら、このまま谷を抜けられる」


 ヴィクトルは水車小屋の方角を見た。


 逃げるなら、今だ。


 騎士団は獣へ気を取られている。


 夜明け前の霧も、三人の姿を隠してくれる。


 助けに向かえば、居場所を知られる。


 リリアまで危険にさらす。


 それでも。


「助けてくれ!」


 声が、もう一度響いた。


 ヴィクトルの顔から迷いが消えた。


「あの声は、同じ小隊にいた男だ」


 シリルが腕を掴もうとする。


「見捨てられない」


 その手が届く前に、ヴィクトルは岩穴を飛び出した。


「ヴィクトル様!」


 リリアの声にも、彼は振り返らなかった。


 淡い金髪が、夜明け前の森へ消えていく。


 シリルが低く舌打ちし、短剣を抜いた。


「ここを動くな」


「シリルさんも?」


「あいつ一人で戻れると思うか」


 シリルも木々の間へ走り出した。


 リリアは岩穴の入口へ手をついた。


 立とうとして、右足に激痛が走る。


「……っ」


 体が崩れ、岩壁へ肩を打ちつけた。


 地を震わせるような獣の咆哮。


 人の絶叫。


 そして――何か重いものが、湿った地面へ叩きつけられた。


 鈍い音が、夜明け前の森に響いた。


「ヴィクトル様……」


 リリアは動かない右足を両手で押さえた。


 呼びかけても、答えはない。





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