第四十一話 水車小屋の二つの印
◆
炭焼き道へ入ってから、追手の声は聞こえなくなった。
犬も、馬も、騎士の号令も。
それが、かえって不気味だった。
細い道の両側から、濡れた木々が迫ってくる。
朝から残る霧が地面近くを漂い、黒い幹の間をゆっくりと流れていた。
古い轍は泥と落ち葉に埋もれ、道の端には草が入り込んでいる。
人が使わなくなって久しいのだろう。
シリルが先頭を歩く。
数歩後ろをリリアが進み、その左にはヴィクトルがついている。
湿地で捻った右足首は、地面へつくたび外側が痛んだ。
それでも、まだ歩ける。
リリアはそう思っていた。
「追ってこないな」
ヴィクトルが声を落とした。
シリルは前を向いたまま答える。
「来てる」
「音がしない」
「後ろから追う必要がないんだろ」
ヴィクトルが木々の間へ目を向けた。
「先へ回っている」
「ああ」
リリアは霧の向こうを見つめた。
王室騎士団は、ただ後ろから追い立てているのではない。
姿を見せずに進路を狭め、先で待っている。
「私たちに、道を選ばせているのでしょうか」
リリアが尋ねると、シリルは短く答えた。
「選べる道を減らしてる」
追われる方が、まだ分かりやすい。
今は姿の見えない手によって、少しずつ行き先を狭められている。
「なら」
ヴィクトルが周囲を見た。
「次の道を間違えれば終わりだ」
「間違えなければいい」
「簡単に言うな」
「簡単じゃない。だから見てる」
シリルは歩きながら、泥の深さ、折れた枝、轍の乱れまで確かめていた。
リリアも足元へ目を戻した。
右足へ体重を預ける時間をできるだけ短くする。
一歩。
また一歩。
急げば痛む。
遅れれば追いつかれる。
その間を探すように進んだ。
◆
しばらくして、シリルが足を止めた。
「待て」
ヴィクトルが周囲へ目を向ける。
「何だ」
道の脇に、古い石標が半ば土へ埋もれていた。
文字も紋章も削れ、何のために置かれたものか分からない。
シリルはその裏へ回り、根元を覗き込んだ。
黒紫の糸が結ばれている。
石切り場で見たものと、同じ色だった。
「また……」
糸は細い根へ二度巻かれている。
短い端は、左下へ向けて別の根の下へ挟まれていた。
シリルが結び目へ指を添える。
「新しい」
「分かるのか」
「内側が乾いてる」
表面には細かな水滴がついている。
だが、締められた結び目の奥までは湿っていなかった。
頭上からは今も雫が落ち続けている。
「置かれてから、それほど経っていないということか」
「ああ」
リリアは石標の左側を見た。
道らしきものはない。
低い草。
崩れた石。
その奥へ、細い斜面が落ちている。
「どちらを示しているんですか」
「谷側だ」
「葛花とは違う方向では」
ヴィクトルが言った。
「そのまま下ればな」
「また迂回か」
「たぶん」
ヴィクトルは黒紫の糸からシリルへ視線を移した。
「信じるのか」
「信じてない。ただ、このまま炭焼き道を進めば塞がれる」
「この印が罠なら?」
「その時は変える」
「戻れる保証はないぞ」
「他の道にもない」
リリアは黒紫の糸を見つめた。
誰が置いたのか分からない。
善意なのか。
罠なのか。
それでも、少なくとも今いる道の先には王室がいる可能性が高い。
「確かめましょう」
二人がリリアを見る。
「この印を信じるのではありません」
リリアは続けた。
「このまま進む方が危ないことは分かっています。だから、使える道なのか確かめたいです」
ヴィクトルはしばらくリリアを見ていた。
やがて頷く。
「分かりました」
シリルはすでに斜面へ足を向けていた。
「行くぞ」
◆
石標の左から斜面へ入った。
昔、人が通ったらしい跡だけが木々の間へ細く残っている。
濡れた根。
崩れた土。
足を取る石。
炭焼き道よりも歩きにくい。
「そこ、滑る」
シリルが言った。
リリアは枝へ手を伸ばし、左足を先へ出した。
右足を下ろした瞬間、鋭い痛みが走る。
「……っ」
ヴィクトルがすぐに腕を支えた。
「痛みましたか」
「はい」
リリアは息を整える。
「さっきより、強いです」
「休みますか」
シリルが振り返った。
斜面の途中に、腰を下ろせそうな場所はない。
「ここでは無理です」
「次に止まれる場所まで行く」
「はい」
再び下った。
左足。
枝。
ヴィクトルの腕。
それだけを頼りに進む。
やがて斜面が緩くなり、前方に倒れた大木が見えた。
その近くで、シリルが一度しゃがんだ。
湿った土に、深い窪みが残っている。
「何だ」
湿った土に、大きな足跡が残っている。
幅の広い掌、その先に並ぶ五つの爪跡。
「熊か」
ヴィクトルが尋ねた。
「ああ。大きい」
「新しいのか」
「古い。雨が降る前の跡だ」
シリルは足跡の向きを確かめた。
「谷の水場へ下りてる」
リリアは窪みを一度見て、その横を通り過ぎた。
シリルが倒木を越える。
「この先は少し急だ」
ヴィクトルがリリアを見る。
「ゆっくり行きましょう」
「はい」
リリアは倒木へ手をついた。
左足を越える。
右足を持ち上げ、反対側へ下ろした。
体重を移した途端、右脚から力が抜けた。
ヴィクトルが腕を掴み、地面へ落ちる前に支える。
「リリア」
「すみま――」
言いかけて、止まった。
また、大丈夫だと取り繕うところだった。
「痛みます」
リリアは言い直した。
「かなり」
「立てますか」
支えられながら、右足を地面へつける。
足首から脛へ痛みが突き抜けた。
反射的に足を浮かせる。
「今は、難しいです」
シリルが戻ってきた。
「限界か」
「少し休めば――」
「ここでは止まれない」
周囲を見る。
「見つかる」
「分かってる」
ヴィクトルはリリアの前へ出て、背を向けた。
その場へ片膝をつく。
「乗ってください」
「でも、私を背負えば、ヴィクトル様まで遅れます」
「それを含めて俺が判断します」
「ですが――」
「今は遠慮している場合ではありません」
ヴィクトルは背を向けたまま動かなかった。
リリアは自分の右足を見た。
歩けると言えば、嘘になる。
今の自分には、誰かの助けが必要だった。
「……背負ってください」
「はい」
リリアは腕をヴィクトルの肩へ回した。
彼が立ち上がると、体が一気に高くなる。
「落ちそうになったら言ってください」
「はい」
前を歩き始めたシリルが言った。
「遅い」
ヴィクトルが顔を上げる。
「誰のせいで、こんな道を通っていると思ってる」
「俺は道を選んだだけだ」
「なら、もう少しましな道を選べ」
「贅沢を言うな」
ヴィクトルは何か言い返しかけたが、短く息を吐いた。
「今はやめておく」
リリアはヴィクトルの背で目を伏せた。
「すみません」
「リリア」
「はい」
「謝らないでください」
間を置いて、リリアは答えた。
「……はい」
ヴィクトルは足場を確かめながら、一定の歩幅で斜面を下っていった。
背中越しに森を見ていたリリアは、木々の間で揺れるものを見つけた。
「待ってください」
ヴィクトルが足を止める。
「あそこです」
低い枝に、黒い布が結ばれていた。
黒紫の糸よりも幅が広く、長い端が風に揺れている。
シリルが近づいた。
「別の印だ」
「誰か別の人が置いたのでしょうか」
「たぶん」
布が垂れる方向には、木々の間から古い屋根が見えていた。
「水車小屋だ」
ヴィクトルが黒布を見る。
「こちらは、水車小屋の正面を示しているように見える」
「黒紫の糸は谷側へ回してる」
シリルが答えた。
「同じ建物なのに」
リリアは二つの印を見比べた。
「入り方が違う」
ヴィクトルが言った。
シリルは水車小屋へ目を向ける。
「正面は使わない」
「同感だ。これほど目立つなら、誰かに見つけさせるための印だ」
「なら、黒紫の糸は?」
「分からない」
シリルは黒布から目を離した。
「先に見る」
「一人で行くのか」
「三人で近づくよりいい」
「俺も……」
「リリアを置いていくのか」
ヴィクトルが黙った。
シリルは根のめくれた倒木を指す。
「そこで待て」
◆
古い水車小屋は、谷へ落ちる水路の脇に建っていた。
水車は止まり、木の羽根は何枚も欠けている。
屋根の一部は落ち、壁板には苔が張りついていた。
長い間使われていない建物だった。
それなのに、正面の入口だけは不自然なほど開けている。
扉の脇にも黒布が結ばれていた。
しばらくして、木々の陰からシリルが戻ってきた。
「どうだった」
ヴィクトルが尋ねる。
「正面に新しい足跡がある。馬もいた」
ヴィクトルは正面入口へ目を向けた。
「騎士団か」
「たぶん」
「中は?」
「正面からは見えない。裏は入れる」
シリルはリリアを見た。
ヴィクトルは問われる前に、その場へ片膝をつく。
「背負います」
「お願いします」
リリアはヴィクトルの肩へ手を伸ばした。
今度は迷わなかった。
三人は正面を避け、水路側から小屋の裏手へ回った。
崩れかけた石積みの陰。
低い枝の裏。
そこにも、黒紫の糸が結ばれている。
二度巻かれた糸の端は、建物の裏口を示していた。
「正面は炭焼き道から見える」
シリルが小屋の位置を確かめる。
「見張りが戻れば、すぐ気づかれる。糸を置いた奴は、水路側を使えと言ってるらしい」
「黒布は、騎士団の印でしょうか」
リリアが尋ねた。
ヴィクトルは正面へ目を向けた。
「騎士団でも似たものを使います。ただ、この結び方は俺のいた隊ではありません」
「別の隊?」
「その可能性はあります。領内の護衛隊かもしれません」
「少なくとも、人が戻ってくる場所だ」
シリルが言った。
「長居はできないな」
ヴィクトルが答えた。
シリルは半分外れた裏戸へ手をかける。
「入るぞ」
軋んだ音を立てて、戸が開いた。
小屋の中は暗かった。
湿った木の匂い。
腐りかけた藁。
壁際の壊れた桶。
中央には古い木製の歯車が残っている。
暗がりへ目を凝らしても、人影はなかった。
ヴィクトルがリリアを壁際へ下ろした。
リリアは左足だけで立ち、彼の腕を借りて中へ入る。
水路を流れる音だけが、壁の向こうから聞こえてくる。
ヴィクトルは何も言わず、リリアの腕を支えた。
その時だった。
――カラン。
床下で金属が石へ当たった。
シリルが片手を上げる。
「動くな」
ヴィクトルが剣へ手を伸ばす。
シリルは音のした床板へ近づき、剣先を隙間へ差し込んだ。
「下がれ」
板を持ち上げる。
床下に人影はない。
暗い水路へ太い鎖が垂れている。
流れに引かれるたび、錆びた輪が石へ当たり、音を立てていた。
「水門を動かす鎖か」
ヴィクトルが言った。
シリルは鎖ではなく、その脇の泥を見ていた。
「誰かが下りてる」
湿った土に、鋲を打った靴底の跡が残っている。
ヴィクトルがしゃがみ込み、跡の幅を確かめた。
「騎士団の靴だ」
「新しいか」
「ああ。泥の縁がまだ崩れていない」
床下には、松明の燃えかすも落ちていた。
ヴィクトルが立ち上がる。
「ここは、すでに捜索されている」
正面には馬の跡。
床下には騎士靴の跡。
この水車小屋は、騎士団の捜索地点だ。
「戻ってくる可能性が高い」
「ここにはいられないな」
ヴィクトルが言った。
「だが、リリアの足では歩き続けられない」
シリルは床下を流れる水を見た。
「上流側に、採石場跡の岩穴がある」
「知っているのか」
「屋敷へ入る前に、この辺りの道は一度見てる」
ヴィクトルはシリルを見たが、問いたださなかった。
「そこまでどれくらいだ」
「背負っても、半刻はかからない。炭焼き道からは見えない」
「獣は」
「痕跡を見てから決める」
シリルは炉へ目を向けた。
「煙を見せる」
ヴィクトルがシリルを見る。
「見つけた奴はまず小屋へ来る。そのあと、下流の足跡を拾わせる」
シリルが水の流れる方向を指す。
「俺たちは途中で上流側へ回る」
「犬に追われないか」
「水路を使う。匂いも足跡も拾いにくくなる」
ヴィクトルが短く頷いた。
「分かった」
◆
三人は急いで準備を整えた。
シリルは古い炉へ乾いた木片を入れ、細い煙が上がる程度の火をつけた。
リリアは壁際に座ったまま、空の包み紙へパン屑を残した。
誰かが短く休んだ痕跡。
ヴィクトルは荷の底から、淡い灰色の細紐を取り出した。
「それは」
リリアが尋ねる。
「騎士団で装具の補修に使う紐です」
ヴィクトルは紐の端を水で濡らし、炉の脇に突き出た釘へ引っかけた。
「知る者なら、足を止めるでしょう。俺のものだと断定はできませんが」
シリルは正面入口から炉まで、二人分の足跡を残した。
「二人分だけか」
ヴィクトルが尋ねる。
「一人は先に水路へ下りたと思わせる。下流側へ足跡を続ける」
「三人とも、そちらへ逃げたと考えさせるのか」
「ああ」
ヴィクトルがリリアの前へ片膝をつく。
「乗ってください」
「はい」
リリアはその背へ腕を回した。
三人は裏手から水路へ下りる。
冷たい水がヴィクトルの靴を濡らし、リリアの裾へ跳ねた。
しばらく流れの中を下流へ進み、柔らかな泥の上へ痕跡を残す。
その後、岩場を利用して向きを変え、上流側の斜面へ回った。
シリルは踏んだ苔へ水をかけ、折れた草を戻していく。
湿地と斜面で、思った以上に時間を失っていた。
森の明るさは、もう朝とはまるで違っている。
やがて水車小屋は木々の向こうへ隠れた。
屋根から上がる細い煙が、霧の上へ残っていた。
◆
岩穴は水車小屋からそれほど遠くはなかった。
水路とは反対側の斜面にあり、炭焼き道から入口は見えない。
昔、石を切り出した跡らしく、横に長く開いている。
奥は浅かった。
シリルは入口の土を調べた。
爪痕。
足跡。
糞。
岩肌へついた毛。
何も見つからないことを確かめ、奥へ入る。
しばらくして戻ってきた。
「新しい獣の痕跡はない」
「安全か」
「今は」
森はすでに暗くなり始めていた。
秋の日は短い。
これ以上進めば、すぐ夜になる。
「ここで夜を越す」
ヴィクトルがリリアを岩壁の近くへ下ろした。
「足を見せてください」
「今ですか」
「今だからです」
リリアは靴紐へ手を伸ばしたが、冷えた指にうまく力が入らない。
ヴィクトルが前へしゃがむ。
「触れます」
「はい」
靴を脱がせると、右足首は赤く腫れていた。
外側は紫色へ変わり始めている。
ヴィクトルの口元から柔らかさが消えた。
「もっと早く、靴を脱がせて確認すべきでした」
「歩けると思っていました」
「思うだけでは、歩けません」
シリルが荷から細い板と布を取り出した。
「固定する」
ヴィクトルが足首へ手を添える。
「痛んだら言ってください」
「はい」
足首へ乾いた布を巻き、その上から細い板を両側へ当てる。
固定したあと、ヴィクトルは足先へ触れた。
「痺れは」
「ありません」
「冷たさは分かりますか」
「はい」
処置を終えると、足首は板の間で動かなくなった。
「今夜は立たないでください」
「見張りは」
「あなたは休んでください」
「でも、二人だけでは」
「無理するな。明日もっと動けなくなる」
シリルはそう言いながら、岩壁へ自分の外套を敷いた。
「ここを使え」
リリアは外套を見た。
「ありがとうございます」
シリルはすでに入口へ背を向けている。
岩穴では火を使えなかった。
煙がこもるうえ、追手に居場所を知らせることになる。
三人は冷えに耐えるしかない。
◆
日が落ちると、昼には聞こえなかった音が森を満たした。
枝が擦れる音。
遠くで鳴く鳥。
落ち葉の上を走る小さな足音。
時折、低い獣の声も聞こえる。
近いのか。
遠いのか。
岩穴の中からは分からなかった。
リリアは外套へ包まり、壁へ背を預けていた。
眠らなければならない。
そう思っても、目を閉じるたびに二つの印が浮かぶ。
水車小屋の正面を示した黒布。
裏手へ導いた黒紫の糸。
「眠れませんか」
向かいに座るヴィクトルが尋ねた。
「少しだけ」
「糸のことを考えているのですか」
「はい」
リリアは暗い入口を見つめる。
「置いた人は、私たちが来ることを知っていたのでしょうか」
「知らなければ、先回りはできません」
「では、ずっと見られているのでしょうか」
ヴィクトルも入口へ目を向けた。
「可能性はあります」
「怖いです」
リリアは正直に言った。
「でも、糸がなければ、正面から小屋へ近づいていたかもしれません」
「助けられた可能性は高い」
「次の印があっても、すぐには従いません」
リリアは続ける。
「見て、考えます。危険だと思えば行きません」
ヴィクトルがリリアを見る。
「以前より、はっきり言うようになりましたね」
「悪いことですか」
「いいえ」
ヴィクトルの口元から力が抜けた。
「その方がいい」
入口側にいたシリルが振り返る。
「もう寝ろ。夜明け前に出る」
ヴィクトルが立ち上がった。
「俺が先に見張る」
「一刻休め」
「リリアを背負っただけだ」
「それで疲れてないと言うのか。さっきまでのリリアと同じだな」
ヴィクトルが黙った。
リリアは思わず彼を見る。
シリルは入口へ目を戻した。
「動けるうちに休め。一刻後に起こす」
ヴィクトルはしばらく何も言わなかった。
やがて岩壁へ背を預ける。
「必ず起こせ」
「ああ」
リリアも目を閉じた。
森の音は消えない。
風。
枝。
遠くの獣。
近くには、ヴィクトルの静かな呼吸が聞こえていた。
いつしか眠りへ落ちていた。
◆
どれほど眠ったのか分からない。
リリアは、遠くで響く音に目を覚ました。
剣が何か硬いものを打つ音が、立て続けに響いた。
続いて、馬のいななき。
誰かの短い叫び。
岩穴の入口にはヴィクトルが立っていた。
すでに剣を手にしている。
シリルも外の暗闇を見つめていた。
「何が……」
リリアが体を起こす。
「動くな」
シリルが低く言った。
もう一度、馬が鳴いた。
方角は水車小屋だった。
「騎士団だ」
ヴィクトルが言う。
「分かるのか」
「あの笛は、分かれた隊を呼び戻す合図だ」
リリアは耳を澄ませた。
人の声。
短い命令。
剣を抜く音。
その直後。
森の奥を震わせるような咆哮が響いた。
木々の間から、鳥の群れが一斉に飛び立つ。
「獣だ」
シリルが言った。
昼間、斜面で見た大きな足跡がリリアの頭をよぎった。
「水場へ戻ってきたか」
ヴィクトルが水車小屋の方角を見る。
「ああ」
また馬がいなないた。
木材の折れる音。
「退け!」
男の声が谷へ反響した。
複数の蹄と足音が、水車小屋から遠ざかっていく。
一度だけ、戻ろうとする蹄の音がした。
だが、獣の咆哮と木材が砕ける音に押し返され、再び遠ざかる。
「待ってくれ!」
一人の声が、その場に残った。
ヴィクトルの剣を握る指に力が入る。
リリアはその横顔を見た。
「知っている人ですか」
ヴィクトルは答えなかった。
水車小屋の方角から、再び咆哮が響く。
今度は近い。
「誰か!」
助けを求める声が、夜明け前の森を貫いた。
ヴィクトルが岩穴の外へ一歩出る。
シリルが横へ回った。
「行くな」
「一人、残っている」
「追手だ」
「分かっている」
「俺たちを捕らえに来た騎士だ」
「それも分かってる」
「今なら、このまま谷を抜けられる」
ヴィクトルは水車小屋の方角を見た。
逃げるなら、今だ。
騎士団は獣へ気を取られている。
夜明け前の霧も、三人の姿を隠してくれる。
助けに向かえば、居場所を知られる。
リリアまで危険にさらす。
それでも。
「助けてくれ!」
声が、もう一度響いた。
ヴィクトルの顔から迷いが消えた。
「あの声は、同じ小隊にいた男だ」
シリルが腕を掴もうとする。
「見捨てられない」
その手が届く前に、ヴィクトルは岩穴を飛び出した。
「ヴィクトル様!」
リリアの声にも、彼は振り返らなかった。
淡い金髪が、夜明け前の森へ消えていく。
シリルが低く舌打ちし、短剣を抜いた。
「ここを動くな」
「シリルさんも?」
「あいつ一人で戻れると思うか」
シリルも木々の間へ走り出した。
リリアは岩穴の入口へ手をついた。
立とうとして、右足に激痛が走る。
「……っ」
体が崩れ、岩壁へ肩を打ちつけた。
地を震わせるような獣の咆哮。
人の絶叫。
そして――何か重いものが、湿った地面へ叩きつけられた。
鈍い音が、夜明け前の森に響いた。
「ヴィクトル様……」
リリアは動かない右足を両手で押さえた。
呼びかけても、答えはない。




