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第四十二話 見捨てられない騎士

ヴィクトルは霧の斜面を駆け下りた。


 濡れた枝が頬を打つ。


 踏み込んだ石が靴の下で滑る。


 外套の裾が木の根に引っかかり、泥が膝まで跳ねた。


 水車小屋の方角から、馬の悲鳴が上がる。


 続いて、森の奥を震わせる咆哮が響いた。


「止まれ、ヴィクトル!」


 背後からシリルが追ってくる。


「止まれない」


「相手は一頭とは限らない」


「分かってる」


「リリアを一人にした」


 ヴィクトルの歩調が一瞬落ちた。


 だが、止まりはしなかった。


「あそこにいる方が安全だ」


「お前が戻らなければ意味がない」


「戻る」


「何を見て言ってる」


 答えず、ヴィクトルは木々の間を抜けた。


 斜面の下に、水車小屋が現れる。


 屋根から上がっていた煙は、夜明け前の霧へ薄く溶けていた。


 小屋の前は荒れている。


 引きちぎられた手綱。


 泥へ落ちた剣。


 割れた鞍。


 折れた水車の羽根。


 一頭の馬が道端に倒れ、傷ついた後ろ脚を震わせていた。


 もう立てないのか、白い息を荒く吐きながら、泥の中で首だけを動かしている。


 獣は、水車小屋の正面に立っていた。


 北方の灰熊だった。


 ヴィクトルがこれまで見たどの個体よりも大きい。


 四つ足のままでも人の胸ほどの高さがあり、灰黒色の毛は泥と露に濡れ、重く垂れている。


 左肩には、折れた矢が一本刺さっていた。


 逃げた騎士の誰かが放ったのだろう。


 傷つけられたうえ、暴れた馬と水車小屋に退路を塞がれた灰熊が襲いかかったらしい。


 口元には馬の血がこびりついていた。


 その向こう。


 水車小屋の壁際に、一人の騎士が倒れている。


 折れた水車の羽根が左脚へ乗っていた。


 剣は数歩先。


 濡れた栗色の髪。


 苦痛に歪んだ横顔。


 ヴィクトルは、その男を知っていた。


 王室騎士団で同じ小隊にいた男だった。


 親しい友と呼ぶには遠い。


 それでも、隊へ入ったばかりのヴィクトルへ仕事を教えたのは、この男だった。


「オスカー」


 騎士が顔を上げた。


 ヴィクトルを認めた途端、その顔に、苦痛とは別の驚きが浮かぶ。


「……ヴィクトル? どうして、お前が……」


「話はあとだ」


 ヴィクトルは剣を抜いた。


 灰熊の耳が動く。


 黒い目が、ゆっくりとヴィクトルへ向いた。


「脚は動くか」


「挟まってる」


「ほかの者は」


「馬が暴れて、隊が分かれた。矢を射た奴がいて、さらに荒れた」


 灰熊が前脚を地面へ叩きつけた。


 泥が跳ねる。


「来るぞ」


 オスカーの声が硬くなる。


 ヴィクトルは剣を構えた。


 追いついたシリルは、泥の上から短槍を拾い、言った。


「お前はそいつを出せ」


「一人で抑えられるか」


「倒す必要はない。向きを変えればいい」


 シリルは足元の石を拾い、灰熊の鼻先へ投げつけた。


 石が当たる。


 灰熊が唸り、シリルへ顔を向ける。


「こっちだ」


 短槍の石突きで、水車の残った軸を強く打つ。


 硬い音が谷へ響いた。


 灰熊の身体がそちらへ向いた。


 その一瞬に、ヴィクトルはオスカーのもとへ走った。



「持ち上げる。脚を抜け」


 ヴィクトルは剣を置き、折れた羽根へ両手をかけた。


「無理だ。水を吸ってる」


「やるしかない」


 腰を落とし、肩を木材の下へ差し入れる。


 力を込めた。


 泥へ張りついた木材が、少しずつ浮く。


「今だ」


 オスカーが両手で地面を掴み、身体を後ろへ引いた。


 苦痛に顔が歪む。


「動かない……」


「折れていても、今は抜くしかない」


「ヴィクトル」


「黙って動け」


 咆哮が響いた。


 ヴィクトルが顔を上げる。


 灰熊の前脚が、シリルへ振り下ろされていた。


 シリルは短槍を横へ払い、爪の軌道を逸らす。


 衝撃で槍の柄が大きくしなる。


 シリルは逆らわず、斜め後ろへ跳んだ。


 追いかけようとした灰熊が、途中で動きを止める。


 血の匂いに引かれたのか、倒れた馬へ顔を向けた。


 鼻先を震わせ、泥の中の馬へ近づいていく。


「今のうちだ!」


 ヴィクトルは歯を食いしばった。


 木材をさらに押し上げる。


 腕が震える。


 肩へ食い込んだ重みが、骨まで沈んでくる。


「オスカー!」


 オスカーが両腕で地面を掻いた。


 挟まれていた左脚が抜ける。


 同時にヴィクトルの力が尽き、折れた羽根が泥へ落ちた。


「壁際まで下がれ。腕は動くだろ。這え」


 ヴィクトルは剣を拾い上げた。


 オスカーが両腕だけで身体を引きずる。


 灰熊が、倒れた馬の首元へ鼻先を寄せた。


 馬が残った力で身をよじる。


 その動きに驚いた灰熊が前脚を振るい、馬の身体を泥へ押しつけた。


 馬の悲鳴が途切れる。


 灰熊は血の匂いを嗅ぎ、再び頭を上げた。


 黒い目が、動いているオスカーを捉える。


 シリルが短槍で地面を打った。


 灰熊が顔を向ける。


 シリルはさらに水車の軸を叩き、音を立てながら横へ走った。


 だが、灰熊は追わない。


 低く唸り、オスカーへ身体を向けた。


「シリル!」


 ヴィクトルが叫ぶ。


「分かってる!」


 シリルは槍を構え直し、灰熊の横から穂先を突き出した。


 鼻先へ長いものを入れ、進路を逸らす。


 灰熊が前脚を振るう。


 爪が槍の柄へ当たった。


 乾いた音とともに、ひびの入っていた柄が折れる。


 短槍の先が泥へ落ちた。


 シリルは残った柄を捨て、横へ転がる。


 灰熊の爪が外套の背を掠めた。


 布が裂ける。


 シリルは起き上がりざま、短剣を抜いた。


 灰熊は、なおもオスカーへ向かっている。


 オスカーは壁際を這い、落とした剣へ手を伸ばしていた。


 届かない。


 灰熊が地面を蹴った。


 ヴィクトルは考えるより先に走り出していた。



 岩穴に残されたリリアは、遠くの音を聞いていた。


 金属が何かへぶつかる音。


 獣の咆哮。


 木材の砕ける音。


 その一つひとつが、谷の霧を越えて届く。


 シリルは、ここを動くなと言った。


 それが正しいことは分かっている。


 右足は板で固定されている。


 立つだけでも痛む。


 今の自分が向かったところで、助けになれるとは思えない。


 むしろ、二人の邪魔になる。


 それでも。


 水車小屋の方角から、短い叫び声が上がった。


 誰の声かは分からない。


 続いて、何かが倒れる重い音。


 リリアは岩壁へ手をついた。


 動くな。


 待っていろ。


 ここにいれば安全だ。


 頭では分かっている。


 行けば、二人の邪魔になる。


 足をさらに悪くする。


 逃げられなくなる。


 それも分かっていた。


 それでも。


 ここで何も知らないまま待つことには、耐えられなかった。


 アンが消えた夜も、リリアは地下にいた。


 何も知らず、何もできないまま。


「もう……嫌です」


 入口近くに、折れた太い枝が落ちていた。


 リリアはそれを引き寄せ、杖のように地面へ立てる。


 左手で岩壁を押す。


 右手で枝を握る。


 左足だけに力を込め、身体を持ち上げた。


 視界が揺れる。


「……っ」


 固定された右足が地面へ触れ、激痛が走った。


 すぐに浮かせる。


 枝へ体重を預けた。


 倒れない。


 立っている。


 岩穴から水車小屋までは、急げば四半刻もかからない。


 ヴィクトルに背負われて来た道を、逆へ辿ればよい。


 枝を前へ出す。


 左足を運ぶ。


 右足は地面から浮かせたままにする。


 一歩。


 止まる。


 もう一歩。


 肩と腕へ負担が集中し、すぐに息が乱れた。


 岩穴の外へ出る。


 夜はまだ明けきっていない。


 霧の中に木々の影が重なり、水車小屋へ続く斜面を覆っている。


 それでも方角は分かる。


 獣の声がする方だ。


 枝をつく。


 左足を進める。


 緩い場所だけは立ったまま進んだ。


 急な斜面では、枝を置いて腰を下ろす。


 左足と両手で身体を支え、固定された右足を浮かせたまま、少しずつ下へずらしていく。


 濡れた落ち葉が掌へ張りつく。


 木の根を掴んだ指が滑る。


 身体が横へ傾き、反射的に右足が地面へ触れた。


「……っ!」


 固定板越しに衝撃が伝わり、足首から頭まで白い火花のような痛みが突き抜けた。


 リリアは泥の上へ膝をついた。


「痛い……」


 息が上がる。


 腕も疲れている。


 手のひらには小石が食い込んでいた。


 怖い。


 戻りたい。


 自分が向かっても、きっと何もできないだろう。


 それどころか、助けられる側が一人増えるだけかもしれない。


 また痣が疼くかもしれない。


 自分の中の、あの得体の知れないものが目を覚ますかもしれない。


 それでも。


 剣の音は、まだ消えていない。


 消えていないのなら、間に合うかもしれない。


 リリアは枝を握り直した。


 左足へ力を込める。


「私も行きます」


 正しい判断なのかは分からない。


 それでも、自分で選んだ。


 霧の向こうで、獣がまた吠えた。



 ヴィクトルは灰熊の横へ回り込み、鼻先へ剣を突き出した。


 目の前へ刃を入れ、顔を逸らさせる。


 灰熊の進路がずれ、振り下ろされた爪はオスカーの外套だけを裂いた。


「離れろ!」


 ヴィクトルはオスカーの胸当てを掴み、壁際へ引きずった。


「腕で進め」


「お前はどうする」


「時間を稼ぐ」


「無茶だ」


「知ってる」


 オスカーがヴィクトルを見上げた。


「お前は逃亡者だ」


「ああ」


「俺たちは、お前を捕らえに来た」


「それも知ってる」


「なら、どうして戻った」


 ヴィクトルは灰熊から目を離さなかった。


「助けを呼んだだろ」


 オスカーが息を呑んだ。


 灰熊が鼻先を上げる。


 白い息が霧へ混じった。


 黒い目が、ヴィクトルを捉える。


「昔と変わらないな」


 オスカーが掠れた声で言った。


「余計なところで、騎士らしい」


「褒めているのか」


「馬鹿だと言ってる」


「同意する」


 灰熊が地面を蹴った。


 ヴィクトルはオスカーを横へ突き飛ばし、剣を構えた。


 前脚が横薙ぎに振るわれる。


 正面から受ければ、剣ごと腕を折られる。


 ヴィクトルは半歩踏み込み、刃を斜めに立てた。


 爪が剣の上を滑る。


 だが、完全には流しきれなかった。


 外套が裂ける。


 鋭い熱が、右肩から胸元へ走った。


 血が散り、外套を赤く濡らす。


 衝撃で身体が回り、ヴィクトルは泥の中へ倒れた。


「ヴィクトル!」


 オスカーの声が響く。


 起き上がろうとする。


 右腕が上がらない。


 剣は数歩先へ落ちていた。


 灰熊が後脚で立ち上がる。


 前脚を持ち上げた巨体が、夜明け前の空を覆った。


 シリルが横から斬りつける。


 短剣の刃が、灰熊の脇腹へ食い込んだ。


 深く刺すつもりはない。


 ヴィクトルへ向いた注意を、自分へ引くためだった。


 灰熊は身をよじり、肩を振る。


 シリルの身体が地面へ弾き飛ばされた。


「立て!」


 シリルが叫ぶ。


 ヴィクトルは左手を泥へついた。


 力を込める。


 肩から胸へ走った傷が開き、指先から力が抜けた。


 膝を立てることもできない。


 灰熊の前脚が、再び持ち上がる。


 逃げられない。


 次の一撃を受ければ、終わる。


 そう悟った時。


「ヴィクトル様!」


 霧の中から声がした。


 木々の間に、リリアがいた。


 太い枝へ両手で縋り、左足だけで身体を支えている。


 固定された右足は地面から浮き、裾には泥が染みていた。


 片膝まで泥に汚れ、掌にも土がついている。


 顔は青ざめ、呼吸も乱れていた。


 それでも、その目はまっすぐヴィクトルを見ていた。


「来るな!」


 ヴィクトルが叫んだ。


 灰熊の爪が、振り下ろされる。



 ヴィクトルの肩から血が流れていた。


 裂けた外套が、赤黒く染まっている。


 泥の上へ倒れた、その上へ。


 灰熊の前脚が落ちようとしている。


 シリルも倒れていた。


 間に合わない。


 リリアの右腕が熱を持った。


 袖の下で、痣が脈打つ。


 いつもの疼きとは違う。


 熱は右腕から肩へ駆け上がり、背中へ広がっていく。


 皮膚の下で、黒い花が目覚めようとしていた。


 怖い。


 三年前。


 あの日、自分は何をしたのか。


 なぜアンが目を覚まさなかったのか。


 何も分からない。


 ――お前のせいだ。


 声が蘇った。


 誰の声だったのか。


 本当にそう言われたのか。


 それすら、今のリリアには確かめられない。


 白い石室。


 革帯に留められた右腕。


 背後で鳴った鞭。


 断片だけの光景が、熱に浮かされるように揺れる。


 いつもは、この熱が消えることを祈った。


 何も起きないように。


 自分の中にいるものが、目を覚まさないように。


 けれど。


 ヴィクトルが倒れている。


 灰熊の爪が、彼へ迫っている。


「嫌……」


 振り下ろされた影が、ヴィクトルへ届こうとしていた。


「触れないで」


 右腕の熱が増した。


 袖口の奥で、黒い痣が濃く浮かび上がる。


 自分の中に眠るものへ。


 初めて、自分から願っていた。


 リリアは枝から右手を離した。


 身体が傾く。


 左手一本で枝へ縋りながら、ヴィクトルへ右手を伸ばす。


「私が――」


 声が掠れた。


 怖かった。


 この力が。


 自分自身が。


 それでも。


 もう一度、言った。


「私が守ります」


 右腕から背中へ、焼けるような痛みが走った。


 足元を這っていた霧が、不意に流れを変える。


 黒いものが、その中へ滲んだ。


 霧はリリアの周囲へ集まりながら濃さを増し、幾重もの影となって開いていく。


 振り下ろされた爪が、ヴィクトルへ届く寸前。


 黒い霧が二人の間へ広がった。


 花弁を重ねるように。


 一枚。


 また一枚。


 夜明け前の森に。


 黒い百合が咲いた。



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