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第四十三話 黒百合が選んだ者


 黒い霧が、ヴィクトルと灰熊の間へ広がった。


 振り下ろされた爪が、その中心へ叩きつけられる。


 鈍い衝撃が、森を震わせた。


 爪は、ヴィクトルへ届かなかった。


 黒い霧が幾重にも重なり、花弁のような形を作りながら、巨大な前脚を押し留めている。


 灰熊が吠えた。


 前脚を引こうとするたび、霧の花弁が爪へまとわりつくように揺れる。


 泥に倒れたヴィクトルの顔。


 そのすぐ手前で、太い爪が止まっていた。


「……何だ」


 壁際のオスカーが呟いた。


 ヴィクトルも、目の前に現れたものから目が離せなかった。


 広がった黒い霧が、地面を這っていく。


 泥の上を。


 折れた水車の羽根を。


 流れた血の縁を。


 やがて霧が持ち上がった。


 一枚。


 また一枚。


 黒い花弁の形へ変わりながら、ヴィクトルを覆うように重なっていく。


 一輪の、大きな百合。


 その向こうで、リリアが右手を伸ばしていた。


 太い枝へ左手で縋り、左足だけで身体を支えている。


 袖口の奥では、右腕の痣が黒く浮かび上がっていた。


 脈打つたび、その色が深くなる。


「リリア……」


 ヴィクトルが名を呼んだ。


「離れてください」


 小さな声だった。


 それでも、灰熊へ向けた言葉は、はっきりしていた。


「ヴィクトル様から、離れて」


 黒い花弁が一斉に開いた。


 灰熊の前脚が押し返される。


 巨体が泥を滑り、折れた水車の軸へ肩を打ちつけた。


 太い木材が軋む。


 灰熊は苦痛に吠え、四つ足へ戻った。


「リリア、それ以上は駄目だ!」


 シリルが叫んだ。


 リリアの顔から色が失われている。


 呼吸も激しい。


 右腕から肩、背中へ焼けるような熱が走っていた。


 それでも、手を下ろさない。


 灰熊は逃げなかった。


 低く唸りながら、再びヴィクトルへ顔を向ける。


 右肩から流れる血。


 泥に倒れた身体。


「来ないで」


 リリアが言った。


 黒い霧が地面を這う。


 ヴィクトルの前で持ち上がり、再び花弁を重ねた。


 灰熊が鼻先を揺らす。


 低い唸りが続く。


 やがて、一歩退いた。


 さらに一歩。


 傷ついた左肩と脇腹を庇うように、身体をひねる。


 次の瞬間、身を翻した。


 水路を越え、霧の森へと駆け込んでいく。


 木々が激しく揺れた。


 枝の折れる音が遠ざかる。


 灰熊の姿が消えても、黒い花はヴィクトルを包んだままだった。


「もういい!」


 シリルがリリアへ駆け寄る。


「止めろ!」


 リリアがそちらを向こうとした。


 その前に、枝が手から滑り落ちた。


「……ヴィクトル、様」


 身体から力が抜ける。


 地面へ倒れる寸前、シリルが抱き留めた。


 リリアの頭が、その肩へ落ちる。


「リリア」


 返事はない。


 瞼も動かない。


 呼吸は浅い。


 同時に、ヴィクトルを覆っていた黒い花が輪郭を失った。


 花弁が崩れる。


 黒い霧へ戻り、地面近くへ落ちていく。


 やがて、夜明け前の霧へ溶けるように消えた。


 脈打つように濃くなっていた痣も、少しずつ普段の黒紫へ戻っていく。


「リリア!」


 ヴィクトルが身体を起こそうとした。


 右腕へ力を入れた途端、肩から胸元へ鋭い痛みが走る。


「……っ」


 身体が泥へ戻った。


「動くな」


 シリルが低く言った。


「リリアは」


「息はある」


「なら、どうして」


「力を使った反動だ、と思う」


「思う?」


「断言できない」


 シリルはリリアを横たえた。


 外套を丸め、頭の下へ入れる。


 首筋に指を滑らせて脈を追い、上下する胸の動きに視線を落とす。


「脈が速い。呼吸も浅い」


「大丈夫なのか」


「今すぐ、どうにかなる状態ではない」


 ヴィクトルの顔が険しくなる。


「その言い方はやめろ」


「なら、お前も勝手に起きるな」


 シリルは立ち上がった。


 道端へ一度目を向ける。


 倒れた馬は、もう動いていなかった。


「まず止血だ」



「傷を見せろ」


「リリアは」


「お前が先だ」


 シリルは裂けた外套を開いた。


 右肩から胸元へ、灰熊の爪痕が走っている。


 出血は多い。


 だが、傷口のすべてが深く抉られているわけではなかった。


 革胴衣が裂け、そこから皮膚へ爪が届いている。


 シリルは慎重に傷の周囲へ触れた。


「指は動くか」


 ヴィクトルが右手を握る。


 痛みに顔をしかめながら、ゆっくり開いた。


「動く」


「肘は」


「曲がる」


「肩を上げるな」


「骨は」


「外から見て、形は崩れてない。それ以上は分からない」


「腕が動かない」


「無理に確かめるな」


 シリルは清潔な布を傷へ押し当てた。


 ヴィクトルが息を詰める。


「痛いか」


「かなり」


「なら、余計なことを話すな」


「それはどういう理屈だ」


「手当ての邪魔をするなって意味だ」


 布を重ね、出血を抑える。


 さらに胸へ回すように巻き、右肩が大きく動かないよう固定した。


「走るな。右手で剣も振るうな」


「リリアを背負う」


「その肩で?」


「左で支えれば」


「転んだら二人とも終わる」


 ヴィクトルは言葉を止めた。


 左肘を使い、慎重に身体を起こす。


 痛みは強い。


 それでも足は動く。


「俺が背負う」


 シリルが言った。


「お前は荷を持て。剣も左で持て」


「分かった」


「傷は塞がってない。小屋へ着いたら、洗い直す」


「ああ」


 シリルはオスカーへ向き直った。


 オスカーは壁際へ背を預け、左脚を投げ出している。


 顔色は悪い。


「次はお前だ」


「俺は隊が戻るまで持つ」


「その脚のままか」


 水車の羽根に挟まれていた脛から足首にかけて、すでに腫れが広がっている。


「足先は動くか」


 オスカーが顔を歪めながら、つま先を動かした。


「少し」


「感覚は」


「ある」


「立つな」


「言われなくても無理だ」


 骨が皮膚を突き破ってはいない。


 だが、体重をかけられる状態ではなかった。


 シリルは折れた水車の細い板を二本拾い、長さを確かめる。


「何をする」


「固定する」


「お前、妙に慣れてるな」


「黙ってろ」


 左脚へ布を巻き、その上から二本の板を両側へ当てる。


 さらに布で膝下から足首までを固定した。


 締めたところで、オスカーの表情を確認する。


「足先の感覚は」


「ある」


「痺れが強くなったら緩めろ」


「ああ」


「隊が戻るまで動くな」


「逃亡者に命令されるとはな」


「俺は逃亡者じゃない」


 シリルが答える。


「怪しいけどな」


 オスカーが返した。


 シリルは無言だった。



「隊は、どれくらいで戻る」


 ヴィクトルが尋ねた。


「長くても半刻だ。馬を落ち着かせれば、必ずここへ戻る」


「その後は追跡か」


「俺を回収してからな」


 オスカーは泥の上へ落ちた金属笛を見た。


 王室騎士が、自分の位置を知らせるためのもの。


 手を伸ばせば届く。


 だが、取らなかった。


「小屋の裏から、水路へ入った痕跡までは確認した」


 ヴィクトルが眉を寄せる。


「隊長へ報告する内容か」


「ああ。そこまでは実際に跡がある」


 シリルが黙って聞く。


「その先は、熊が出て混乱した。俺は脚を挟まれた。水路をどちらへ進んだかまでは確認していない」


「上流へ向かったことは」


「俺は見てない」


 オスカーがヴィクトルを見る。


「それで十分だろ」


「隊長が現場を見れば、気づくかもしれない」


「それは俺の仕事じゃない」


 オスカーはヴィクトルの右肩を見た。


「今すぐ笛を吹いて、命の恩人を売るほど安くもない」


 シリルは答えなかった。


 信用したわけではない。


 だが、少なくとも今すぐ騎士団を呼ぶつもりはないらしい。


 シリルはリリアのそばへ戻った。


 慎重に身体を起こし、両腕を自分の肩へ回す。


 意識のないリリアの黒髪が、シリルの肩から流れた。


 固定された右足が揺れないよう、布で自分の腰へ留める。


「ここで見たものを、どう報告すればいい」


 オスカーが低く尋ねた。


 シリルの手が止まる。


「熊に襲われて、混乱していた」


「……あれもか」


 シリルがゆっくり振り返った。


「何を見た」


「熊の爪が止まった」


 オスカーはリリアを見る。


「黒い霧が、花みたいな形になった」


「忘れろ」


「簡単に言うな」


「リリアが人として見られなくなる」


 オスカーの顔が硬くなった。


「王室を信用していないのか」


「信用してたら」


 シリルはヴィクトルを示した。


「こいつはここにいない」


 ヴィクトルは何も言わなかった。


「騎士団に戻れなくなるぞ」


 オスカーがヴィクトルへ言った。


「何事もなかった顔で戻るつもりはない」


 ヴィクトルは迷わず答えた。


「見たことをどう報告するかは、お前が決めろ」


 オスカーはヴィクトルを見ていた。


 やがて、王宮の方角へ目を向ける。


「古い紋章画で、似た花を見たことがある」


 シリルの空気が、一瞬で張り詰めた。


 短剣に手を伸ばしてすらいない。


 それでも、オスカーを射抜く視線には明確な警戒が宿っていた。


「名前も意味も知らない。ただ、似ていた。それだけだ」


「なら、そのまま忘れろ」


「努力はする」


「努力じゃ足りない」


「少なくとも、俺から進んで話すつもりはない」


 オスカーは泥の上の笛を見た。


「隊が戻るまでは、これも鳴らさない」


「その後は」


「俺は王室騎士だ。すべてを黙り続けるとは約束できない」


「それでいい」


 ヴィクトルが答えた。


「いいのか?」


「ああ」


 オスカーは乾いた息を吐く。


「……本当に馬鹿だな、お前」


「知ってる」


「上流へ向かったところは見ていない。黒い花も、何だったか分からない。それ以上は保証しない」


「十分だ」


 オスカーは壁へ背を預け直した。


「行け。隊長が戻れば、俺も時間を稼げない」


 ヴィクトルは立ち上がった。


 右肩は痛む。


 だが、歩くことはできる。


 剣を左手へ持ち替え、残った荷を背負った。


「その娘は大丈夫なのか」


 オスカーが尋ねた。


 シリルは背中のリリアの呼吸を確かめる。


 わずかに深くなっていた。


「呼吸と脈は落ち着いてきた」


「目を覚ますのか」


 今度はヴィクトルが尋ねた。


「必ずとは言えない」


 ヴィクトルは、それ以上は尋ねなかった。


 三人は水車小屋の裏へ向かった。



「葛花へ直行はしない。先に山番小屋へ向かう」


 水車小屋から離れたところで、シリルが言った。


「距離は」


「健康なら二刻ほどだ」


「今の俺たちなら」


「昼前に着けば上出来だ」


「騎士団より先に着けるか」


「オスカーの話で下流側を確認してくれれば、その分、稼げる」


「レオナール隊長なら、すぐ疑う」


「それでも、確認しないわけにはいかない」


 しばらく進んだところで、ヴィクトルが足を止めた。


「どうした」


 先を行くシリルが振り返る。


「何か……」


 ヴィクトルは左手を胸元へ当てた。


 傷の痛みではない。


 胸の奥に、自分のものではない気配がある。


 弱く。


 遠く。


 それでも、リリアへ意識を向けるたび、確かに返ってくる。


「リリアを下ろせ」


「なぜ」


「確かめたい」


「何を」


「分からない」


 ヴィクトルはシリルの背へ近づいた。


 リリアの顔はまだ青ざめている。


 目も閉じたままだ。


「脈ならある」


「違う」


「何が違う」


「俺の胸の中に、何かある」


 シリルが止まった。


 ほんの一瞬だった。


 だが、ヴィクトルは見逃さなかった。


「知っているのか」


「今はリリアを運ぶ」


「逃げるな」


「山番小屋へ着いたら話す」


「必ずだな」


 シリルはすぐには答えなかった。


 背中のリリアが、小さく息を吐く。


 その瞬間。


 ヴィクトルの胸の奥で、かすかな気配が揺れた。


 鼓動ではない。


 声でもない。


 ただ、リリアがそこにいる。


 理屈ではなく、胸の奥がそう告げていた。


「リリア」


 名を呼ぶ。


 返事はない。


 それでも、胸の奥の感覚は消えなかった。


「……分かった」


 シリルは答えた。


「山番小屋へ着いたら話す」


 ヴィクトルは胸元へ手を置いたまま、頷いた。


 二人は再び歩き始めた。



 シリルは背中から伝わるリリアの呼吸を確かめながら、古い山道を進んだ。


 一歩進むたび、その呼吸が途切れていないか耳を澄ます。


 ヴィクトルへ何を告げるべきか。


 何を、まだ伏せておくべきか。


 胸の奥に、自分のものではない気配を感じる。


 リリアがそこにいると、理由もなく分かる。


 それが何を意味するのか。


 シリルは知っていた。


 だからこそ、歩きながら告げられることではなかった。


 知らなければ、選ばずに済むことがある。


 知らなければ、背負わずに済むものもある。


 だが、リリアは何も知らないまま、ヴィクトルを守ると決めた。


 自分の力を恐れながら。


 三年前の記憶さえ戻らないまま。


 それでも手を伸ばした。


「シリル」


 後ろからヴィクトルが呼んだ。


「何だ」


「リリアの呼吸は」


「さっきより深い」


「そうか」


 短い返事だった。


 それでも、ヴィクトルが胸元から手を離すことはなかった。


 やがて、霧の先に、黒紫の糸が見えた。


 古い枝へ三度巻かれている。


 短い端は斜面の上。


 山番小屋へ続く印だった。


 シリルは立ち止まり、周囲の足跡を確かめる。


 糸へは触れなかった。


 少し離れた場所から、示された方角だけを見る。


「また印か」


 ヴィクトルが言った。


「ああ」


「従うのか」


「道は知ってる。印がなくても山番小屋へ向かう」


「なら、これは何のためだ」


「俺たちをそこへ向かわせたい奴がいる。それだけだ」


「誰だ」


「まだ言えない」


「山番小屋で話す内容が増えたな」


「分かってる」


 シリルはリリアを背負い直した。


 後ろでは、ヴィクトルがまだ胸へ左手を置いている。


 その意味を告げられないまま、シリルは再び霧の奥へ足を踏み出した。



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