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第四十四話 戻れない騎士



 山番小屋へ向かう道は、もはや道とは呼べないほど荒れていた。


 濡れた落ち葉が斜面に貼りつき、木の根が泥の中から腕のように突き出している。


 霧はますます濃くなり、少し先を行くシリルの背中さえ白く霞んでいた。


 その背に、リリアがいる。


 意識を失ったまま、シリルの肩へ身体を預けていた。


 黒髪が流れ、細い腕には力がない。


 固定された右足は揺れないよう、布でシリルの腰へ留められている。


 ヴィクトルは荷を左肩へ掛け、傷ついた右肩を庇いながら後ろを歩いた。


 右肩から胸元へ走る傷は、シリルが巻いた布で押さえられている。


 出血は収まりつつあったが、一歩ごとに鈍い痛みが響いた。


 だが、それとは別に、胸の奥に、自分のものではない気配がある。


 弱く。


 遠く。


 それでも、リリアへ意識を向けるたびに、確かに返ってくる。


 リリアが生きている。


 シリルの背にある彼女の呼吸を見なくても、脈へ触れなくても。


 理由もなく、それだけは分かった。


「シリル」


「何だ」


「今、俺の中にあるものは何だ」


 シリルは振り返らない。


「山番小屋で話すと言った」


「先延ばしにする理由は」


「歩きながら聞いて済む話じゃない」


 ヴィクトルは口を閉じた。


 霧の奥から、犬の声がした。


 低く長い声が、谷を隔てた反対側の斜面から届く。


 シリルが足を止めた。


「まだ遠い。ただ、お前の血は拾われる」


 リリアを背負い直し、ヴィクトルの姿を見る。


「その外套を脱げ」


 ヴィクトルは自分の肩へ目を落とした。


 茶色の外套には、右肩から流れた血が染みている。


「ああ」


「惜しむなよ」


「惜しんでない」


 外套を脱ぎ、シリルへ渡した。


 シリルは腰の小袋から黒い布を取り出し、血の多く染みた部分を包む。


 裾だけを細く切り、道端の石へ固く結びつけた。


「何をする」


「匂いを下へ落とす」


 石を持ち上げ、二人が進む方向とは反対側の斜面へ投げ込む。


 血のついた布片は低い枝を折りながら落ち、霧の下へ消えた。


 残った外套を黒布で包み、荷の底へ押し込む。


 地面に落ちた血へ、湿った土を掛け、乾いた葉を指先で揉み潰して散らした。


 苦い匂いが霧へ広がる。


「匂いを一度迷わせる」


「リリアは?」


 シリルは少し間を置いた。


「黒百合を強く使った。香りが残っているかもしれない」


「犬が拾うか」


「分からない」


 シリルが歩き出す。


 その背で、リリアの頭が揺れた。


 同時に、ヴィクトルの胸の奥でも、かすかな気配が動いた。



 山番小屋は、針葉樹の古木に囲まれた斜面の中腹にあった。


 古い石積みの土台。


 黒ずんだ木壁。


 苔の生えた屋根。


 遠目には、長く捨てられた小屋にしか見えない。


 戸口近くの枝には、黒紫の糸が巻かれていた。


 三度。


 短い端は、戸口を示している。


 シリルはすぐには近づかなかった。


 周囲の土、窓の下、戸口。


 新しい足跡がないことを確かめてから、取手へ手を掛ける。


「使える」


 扉を押した。


 乾いた木と薬草の匂いが流れ出る。


 中には粗末な寝台と炉、薪の束、空の水瓶。


 壁際には、湿気を避けるため布と油紙に包まれた薬草、包帯、火打ち石、保存食が置かれていた。


 ヴィクトルは室内を見回す。


「ずいぶん手回しがいいな」


 ヴィクトルが視線を巡らせると、シリルは荷を解きながら短く「ああ」とだけ返した。


「お前ではない?」


「違う」


「誰だ」


「あとだ」


 ヴィクトルが息を吐く。


「またそれか」


 シリルは答えず、リリアを慎重に寝台へ横たえ、乱れた呼吸と脈拍が落ち着いていくのをじっと見守る。


 異様な黒さを帯びていた痣も、普段の黒紫へ戻りつつある。


「脈は?」


「落ち着いた。呼吸も深くなってる」


 ヴィクトルが近づいた。


「起こせるか」


「まだ触るな。少し待て」


 シリルは、ようやくヴィクトルを見た。


「小屋の裏に湧き水がある。傷を洗う。話はそのあとだ」


 ヴィクトルは左手を胸へ当てたまま、頷いた。



 シリルは小屋の裏から水を汲み、火を起こした。


 犬の声は、まだ谷の反対側にある。


 血のついた布片へ引かれたのか、声は一度、斜面の下へ遠ざかった。


「長くは持たない」


 水を火へ掛ける。


「その間に済ませる」


 湯が温まるのを待ち、ヴィクトルの右肩へ巻かれた布を外した。


 出血は弱まっている。


 だが、熊の爪が残した傷には泥と血がこびりついていた。


「洗うぞ」


「ああ」


 傷へ水が触れた瞬間、ヴィクトルの肩が強張る。


「……っ」


「動くな」


「動いてない」


「これからもっと痛む」


「先に言え」


「言ったら痛くなくなるのか」


 シリルは傷を丁寧に洗い、汚れを落とした。


 止血と化膿止めに使う薬草を清潔な布へ包み、傷口へ当てる。


 さらに新しい布を胸へ回し、右肩が大きく動かないよう固定した。


「右腕は使うな。熱が出たらすぐ言え」


「ああ」


 ヴィクトルが上着を戻したところで、寝台から小さな息が漏れた。


 二人が振り返る。


 リリアの指が動いていた。


「……ん」


 シリルがそばへ戻る。


「リリア」


 閉じた瞼が動く。


 ゆっくりと目が開いた。


「ここは……」


「山番小屋だ。水車小屋から離れた」


 リリアはしばらく天井を見ていた。


 やがて記憶が戻ったように、視線が動く。


「ヴィクトル様は」


「生きてる」


 シリルが短く答えた。


 リリアは、すぐにヴィクトルを探した。


 戸口近く。


 右肩から胸元へ布を巻き、顔色もよくない。


 泥と血で汚れた上着の下から、裂けた革胴衣が覗いている。


 剣は左手に持っていた。


 それでも立っている。


「生きてます」


 ヴィクトルが言った。


 リリアは、そこでようやく息を吐いた。


 だが、すぐに右腕へ目を落とす。


「私……また、何かを」


「あなたか私を助けてくれました」


「分かりません」


 リリアは首を振ろうとしたが、途中で止めた。


「何が起きたのか分かりません」


 息を整える。


「アン様の時も、きっと同じだったんです。助けようとしただけだった。でも、アン様は一週間も目を覚まさなくなって……」


 言葉が細くなる。


 右腕を身体へ寄せた。


 痣はまだ熱を残している。


「私が、また何かを……」


「縁ができた」


 シリルが言った。


 リリアが顔を上げる。


「えにし……?」


「黒百合がヴィクトルを守った時、二人の間に残ったものだ」


 リリアの視線がヴィクトルへ向く。


「私が……ヴィクトル様に?」


「お前がそうしようと思って結んだものじゃない。守った結果だ」


 リリアは言葉を失った。


「では、ヴィクトル様に何か悪いことが」


「今、分かる異常はない」


「今?」


「分からないものを安全とは言い切れない」


 リリアの指が寝台の布を掴んだ。


「私のせい」


「違います」


 ヴィクトルが遮った。


「でも」


「あなたのおかげで、私は生きています」


 静かな声だった。


「あなたの力が、私を灰熊から守った」


 右腕が疼くたびに警戒され、監視され、罪に問われてきたリリアには、その言葉はすぐには信じられなかった。


「今、私の胸の奥に、リリアの気配がある」


 ヴィクトルが言った。


「リリアが生きていると分かる。この感覚は、離れても続くのか」


「分からない。どれくらい続くのかも」


「確かなことは?」


 シリルは少し考えてから答えた。


「黒百合が強く誰かを守ったあと、守られた相手との間に何かが残ることがある。ヤシャラでは、それを縁と呼ぶ」


「それだけか」


「俺が知ってるのは、それだけだ。あとは伝え聞いた話しかない」


「どんな話だ」


「縁が深ければ、互いを強く気に掛けることがある。離れていても」


「人の考えまで変えることは」


「分からない」


「そういう話はないのか」


 シリルの顔から表情が消える。


「本人の気持ちと縁の影響を、誰がどう分ける」


 ヴィクトルは胸の奥へ意識を向けた。


 リリアを感じる。


 その感覚に安堵している。


 その安堵は自分のものなのか。


 縁によって強められたものなのか。


 今は判断できなかった。


「リリアは、このことを知っていたのか」


 シリルは答えなかった。


 それだけで十分だった。


「知らなかったんだな」


「……ああ」


 リリアがシリルを見る。


「シリルさんは知っていたのに、今まで黙っていたんですか」


「ああ」


「どうして」


「必要だと思わなかった」


「私が知らなくても?」


 シリルはリリアの視線を受けた。


「俺は、お前を危険から遠ざけることばかり考えていた。知れば狙われる。思い出せば、また力を使うかもしれない。だから黙ってる方がいいと思った」


「それは、私のためですか」


「ああ。俺が勝手に決めた」


 リリアは何も言わない。


「次は同じにしない。葛花へ入る前に、俺が知ってることを話す。そのあとで、お前が決めろ」


 リリアは寝台の布を握ったまま、シリルを見た。


 厳しい顔。


 ぶっきらぼうな声。


 それでも、自分が正しかったとは言い張らない。


「……分かりました」


 シリルが小さく息を吐いた。



「湿地でリリアへ話したことまで疑うつもりはない」


 シリルはヴィクトルへ顔を向けた。


「あの時には、縁はなかった」


「ああ」


「お前はその前から、王室の命令に逆らった。だが、これからは分からない」


 ヴィクトルはすぐには答えなかった。


 左手を胸へ当てる。


「この感覚が、俺の判断へどう影響するのかは分からない」


 リリアが彼を見る。


「なら離れるか」


 シリルが問う。


「いや」


「なぜ」


「縁ができる前に、もう決めていた」


 ヴィクトルはリリアを見る。


「湿地であなたへ話したことは、縁が結ばれる前の私の意思です」


 リリアは黙って彼を見た。


「命令と、目の前にいるあなた。そのどちらを信じるべきなのか、分からなくなった」


 あの時の声が蘇る。


「少なくとも、私が見ていたあなたは、アン様を傷つけるような人でも、見捨てられるような人でもなかった」


 後悔していませんか。


 今のところは。


 これからするかもしれません。


 その答えを、リリアは覚えていた。


「それは、縁ができる前の私が決めたことです」


 ヴィクトルは続けた。


「これから先も、その都度、自分で決めます」


「でも……」


「縁があるから、あなたのそばにいる」


 そこで言葉を切る。


「そう言えば、私は縁を、あなたのそばに居続けるための鎖にしてしまう」


 リリアは何も言えなかった。


「私は、そんな鎖にはしたくありません」


「言葉では何とでも言える」


 シリルが返す。


「その通りだ」


「縁と自分の意思を取り違えたら、俺がお前を止める」


「分かった」


「守るつもりでリリアを縛るなら、その時は敵だ」


 ヴィクトルは左手を剣の柄へ置いた。


「その時は抵抗する」


「抵抗するのか」


「ああ」


 答えに迷いはなかった。


「俺も、自分の意思まで手放すつもりはない」


 小屋の中に沈黙が落ちた。


 リリアは寝台の上から、二人を見ていた。


 縁。


 自分が知らないうちに、ヴィクトルとの間へ残してしまったもの。


 怖くないと言えば嘘になる。


 ヴィクトルは影響されていないとは言わなかった。


 すべてが自分の意思だとも言わなかった。


 分からないことを、分からないまま認めている。


 そのことは、信じてもいいように思えた。



 犬が鳴いた。


 先ほどより近い。


 それでも、まだ谷の下のようだ。


 シリルが戸口へ向かい、扉の隙間から外を確認する。


「長居はできない」


「どこへ向かう」


 ヴィクトルが尋ねた。


「葛花だ」


 その名に、リリアは右腕へ手を添えた。


 痣には、まだ熱が残っている。


 アンの香り袋に入っていた花。


 その名へ続く場所。


「……葛花」


 小さく繰り返す。


「アン様は、そこに?」


「可能性がある」


 リリアは起き上がろうとした。


 身体に力が入らない。


 視界が揺れる。


「動くな」


 シリルがすぐに戻った。


「まだ立てる状態じゃない」


「でも、アン様が」


「分かってる。だから行く」


「私も」


「置いていくつもりはない」


 リリアは口を閉じた。


 右腕の熱が葛花という名に反応したのか。


 黒百合を使った熱が、まだ鎮まっていないだけなのか。


 今のリリアには分からない。


 意味を探るのはやめた。


 シリルは壁際の薬草と包帯を手早くまとめる。


 ヴィクトルは残った荷を左肩へ掛けた。


 最後に、シリルがリリアの右足を確認する。


 腫れはまだ強い。


「まだ歩くな」


「はい」


 固定を締め直す。


 荷をまとめ終えたところで、シリルがリリアを見る。


「葛花へ入る前に、一度お前に選ばせる」


「選ぶ?」


「アンを探すために進むのか。それとも別の道へ逃げるのか」


「私はアン様を――」


「今はまだ聞かない」


 シリルが遮った。


 リリアが言葉を止める。


「葛花へ入れば、ただアンを探すだけでは済まない」


 シリルの声が低くなる。


「お前が何者として見られるのか。何を求められるのか」


 そこで一度区切った。


「その前に、俺が知ってることを話す」


 リリアは黙って聞いた。


「お前はずっと、知らないまま決められてきた」


 短い言葉だった。


 けれど、いくつものことが浮かぶ。


 ローゼンベルク家へ連れてこられたこと。


 三年前の事件。


 罰。


 痣を抑える薬。


 失われた記憶。


 地下での暮らし。


「次まで同じにはしない」


 シリルが言った。


「知ってから選べ」


 リリアは返事を忘れた。


「……はい」


 ようやく答えた。


 ヴィクトルが口を開く。


「俺も、その話を聞いていいのか」


 シリルが振り返る。


「お前にも選ばせる」


「俺も?」


「縁があるからついていく。それなら、ここで別れろ」


「その答えはない」


 ヴィクトルはすぐに返した。


「なら、自分で理由を決めろ」


「ああ」


 シリルがリリアの前へ背を向け、片膝をついた。


「背負うぞ」


「……お願いします」


 慎重に身体を起こされる。


 リリアは腕をシリルの肩へ回した。


 固定された右足も、揺れないよう布で留められる。


 ヴィクトルは戸口へ立った。


 シリルが言う。


「リリア」


「はい」


「右腕に変化があったら、すぐ言え」


「分かりました」


 扉が開いた。


 冷たい霧が、小屋の中へ流れ込んだ。



 山番小屋を出ると、道はさらに細くなった。


 馬車の轍はない。


 人が通った跡さえ、ほとんど消えている。


 濡れた落ち葉。


 低く垂れた枝。


 苔のついた岩。


 ヴィクトルは後ろを歩きながら、ときどき胸の奥へ意識を向けた。


 分かる。


 シリルの背で、リリアが生きている。


 分かってしまう。


 けれど、この感覚へ判断を預けてはいけない。


 リリアを、自分が安心するための印にしてはいけない。


 この縁を、自分の選択の理由にしてはいけない。


 王宮へ戻る日が来るかもしれない。


 自分がしたことの責任を負うために。


 けれど、命令されたから、王室が決めたから。


 それだけで正しいのだと信じていた騎士には、もう戻れない。


 自分で見て、疑い、選んだ。


 結果が何であろうと、以前と同じ場所には立てない。


 三人はしばらく無言で進んだ。


 やがて霧の先に、小さな石橋が現れた。


 水の少ない沢へ架かる古い橋。


 苔むした石。


 一部が崩れた欄干。


 シリルが橋の手前で止まる。


 その先の白い霧の奥に、薄紫の花房が見えた。


 葛の蔓が木々へ絡まり、湿り気を帯びた花が静かに揺れている。


「近い」


 シリルが言った。


「葛花ですか」


 背中のリリアが尋ねる。


「ああ」


 リリアは霧の向こうを見つめた。


 右腕には、まだ黒百合の熱が残っている。


 それが何を意味しているのかは分からない。


 アンがいるからなのか。


 力を使ったためなのか。


 ただ恐怖で痣が疼いているだけなのか。


 今は、どれとも決められなかった。


 シリルが少しだけ首を回す。


「この先で話す」


「はい」


「そのあとで選べ」


 リリアは頷いた。


 逃げる道があると言われても、今なら、きっとアンを探す方を選ぶ。


 それでもシリルは、その答えをまだ受け取ろうとしない。


 知らないまま選ぶなと言う。


 怖かった。


 何を知らされるのか。


 知ったあと、自分がどうなるのか。


 それでも、誰かに代わりに決められるのではなく、自分で選べと言われたことは、救いでもあった。


 前には、葛花。


 右腕には、黒百合の熱。


 後ろには、ヴィクトルがいた。


 剣を左手へ持ち替え、縁だけを理由にはせず、命令にも判断を預けず、これから先も、自分で選ぶと決めた騎士。


 リリアはシリルの背で、短く息を吸った。


 この先に何があるのか、まだ分からない。


 ただ、地下の小部屋へ戻る道は、霧の向こうへ消えていた。



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