第四十四話 戻れない騎士
◆
山番小屋へ向かう道は、もはや道とは呼べないほど荒れていた。
濡れた落ち葉が斜面に貼りつき、木の根が泥の中から腕のように突き出している。
霧はますます濃くなり、少し先を行くシリルの背中さえ白く霞んでいた。
その背に、リリアがいる。
意識を失ったまま、シリルの肩へ身体を預けていた。
黒髪が流れ、細い腕には力がない。
固定された右足は揺れないよう、布でシリルの腰へ留められている。
ヴィクトルは荷を左肩へ掛け、傷ついた右肩を庇いながら後ろを歩いた。
右肩から胸元へ走る傷は、シリルが巻いた布で押さえられている。
出血は収まりつつあったが、一歩ごとに鈍い痛みが響いた。
だが、それとは別に、胸の奥に、自分のものではない気配がある。
弱く。
遠く。
それでも、リリアへ意識を向けるたびに、確かに返ってくる。
リリアが生きている。
シリルの背にある彼女の呼吸を見なくても、脈へ触れなくても。
理由もなく、それだけは分かった。
「シリル」
「何だ」
「今、俺の中にあるものは何だ」
シリルは振り返らない。
「山番小屋で話すと言った」
「先延ばしにする理由は」
「歩きながら聞いて済む話じゃない」
ヴィクトルは口を閉じた。
霧の奥から、犬の声がした。
低く長い声が、谷を隔てた反対側の斜面から届く。
シリルが足を止めた。
「まだ遠い。ただ、お前の血は拾われる」
リリアを背負い直し、ヴィクトルの姿を見る。
「その外套を脱げ」
ヴィクトルは自分の肩へ目を落とした。
茶色の外套には、右肩から流れた血が染みている。
「ああ」
「惜しむなよ」
「惜しんでない」
外套を脱ぎ、シリルへ渡した。
シリルは腰の小袋から黒い布を取り出し、血の多く染みた部分を包む。
裾だけを細く切り、道端の石へ固く結びつけた。
「何をする」
「匂いを下へ落とす」
石を持ち上げ、二人が進む方向とは反対側の斜面へ投げ込む。
血のついた布片は低い枝を折りながら落ち、霧の下へ消えた。
残った外套を黒布で包み、荷の底へ押し込む。
地面に落ちた血へ、湿った土を掛け、乾いた葉を指先で揉み潰して散らした。
苦い匂いが霧へ広がる。
「匂いを一度迷わせる」
「リリアは?」
シリルは少し間を置いた。
「黒百合を強く使った。香りが残っているかもしれない」
「犬が拾うか」
「分からない」
シリルが歩き出す。
その背で、リリアの頭が揺れた。
同時に、ヴィクトルの胸の奥でも、かすかな気配が動いた。
◆
山番小屋は、針葉樹の古木に囲まれた斜面の中腹にあった。
古い石積みの土台。
黒ずんだ木壁。
苔の生えた屋根。
遠目には、長く捨てられた小屋にしか見えない。
戸口近くの枝には、黒紫の糸が巻かれていた。
三度。
短い端は、戸口を示している。
シリルはすぐには近づかなかった。
周囲の土、窓の下、戸口。
新しい足跡がないことを確かめてから、取手へ手を掛ける。
「使える」
扉を押した。
乾いた木と薬草の匂いが流れ出る。
中には粗末な寝台と炉、薪の束、空の水瓶。
壁際には、湿気を避けるため布と油紙に包まれた薬草、包帯、火打ち石、保存食が置かれていた。
ヴィクトルは室内を見回す。
「ずいぶん手回しがいいな」
ヴィクトルが視線を巡らせると、シリルは荷を解きながら短く「ああ」とだけ返した。
「お前ではない?」
「違う」
「誰だ」
「あとだ」
ヴィクトルが息を吐く。
「またそれか」
シリルは答えず、リリアを慎重に寝台へ横たえ、乱れた呼吸と脈拍が落ち着いていくのをじっと見守る。
異様な黒さを帯びていた痣も、普段の黒紫へ戻りつつある。
「脈は?」
「落ち着いた。呼吸も深くなってる」
ヴィクトルが近づいた。
「起こせるか」
「まだ触るな。少し待て」
シリルは、ようやくヴィクトルを見た。
「小屋の裏に湧き水がある。傷を洗う。話はそのあとだ」
ヴィクトルは左手を胸へ当てたまま、頷いた。
◆
シリルは小屋の裏から水を汲み、火を起こした。
犬の声は、まだ谷の反対側にある。
血のついた布片へ引かれたのか、声は一度、斜面の下へ遠ざかった。
「長くは持たない」
水を火へ掛ける。
「その間に済ませる」
湯が温まるのを待ち、ヴィクトルの右肩へ巻かれた布を外した。
出血は弱まっている。
だが、熊の爪が残した傷には泥と血がこびりついていた。
「洗うぞ」
「ああ」
傷へ水が触れた瞬間、ヴィクトルの肩が強張る。
「……っ」
「動くな」
「動いてない」
「これからもっと痛む」
「先に言え」
「言ったら痛くなくなるのか」
シリルは傷を丁寧に洗い、汚れを落とした。
止血と化膿止めに使う薬草を清潔な布へ包み、傷口へ当てる。
さらに新しい布を胸へ回し、右肩が大きく動かないよう固定した。
「右腕は使うな。熱が出たらすぐ言え」
「ああ」
ヴィクトルが上着を戻したところで、寝台から小さな息が漏れた。
二人が振り返る。
リリアの指が動いていた。
「……ん」
シリルがそばへ戻る。
「リリア」
閉じた瞼が動く。
ゆっくりと目が開いた。
「ここは……」
「山番小屋だ。水車小屋から離れた」
リリアはしばらく天井を見ていた。
やがて記憶が戻ったように、視線が動く。
「ヴィクトル様は」
「生きてる」
シリルが短く答えた。
リリアは、すぐにヴィクトルを探した。
戸口近く。
右肩から胸元へ布を巻き、顔色もよくない。
泥と血で汚れた上着の下から、裂けた革胴衣が覗いている。
剣は左手に持っていた。
それでも立っている。
「生きてます」
ヴィクトルが言った。
リリアは、そこでようやく息を吐いた。
だが、すぐに右腕へ目を落とす。
「私……また、何かを」
「あなたか私を助けてくれました」
「分かりません」
リリアは首を振ろうとしたが、途中で止めた。
「何が起きたのか分かりません」
息を整える。
「アン様の時も、きっと同じだったんです。助けようとしただけだった。でも、アン様は一週間も目を覚まさなくなって……」
言葉が細くなる。
右腕を身体へ寄せた。
痣はまだ熱を残している。
「私が、また何かを……」
「縁ができた」
シリルが言った。
リリアが顔を上げる。
「えにし……?」
「黒百合がヴィクトルを守った時、二人の間に残ったものだ」
リリアの視線がヴィクトルへ向く。
「私が……ヴィクトル様に?」
「お前がそうしようと思って結んだものじゃない。守った結果だ」
リリアは言葉を失った。
「では、ヴィクトル様に何か悪いことが」
「今、分かる異常はない」
「今?」
「分からないものを安全とは言い切れない」
リリアの指が寝台の布を掴んだ。
「私のせい」
「違います」
ヴィクトルが遮った。
「でも」
「あなたのおかげで、私は生きています」
静かな声だった。
「あなたの力が、私を灰熊から守った」
右腕が疼くたびに警戒され、監視され、罪に問われてきたリリアには、その言葉はすぐには信じられなかった。
「今、私の胸の奥に、リリアの気配がある」
ヴィクトルが言った。
「リリアが生きていると分かる。この感覚は、離れても続くのか」
「分からない。どれくらい続くのかも」
「確かなことは?」
シリルは少し考えてから答えた。
「黒百合が強く誰かを守ったあと、守られた相手との間に何かが残ることがある。ヤシャラでは、それを縁と呼ぶ」
「それだけか」
「俺が知ってるのは、それだけだ。あとは伝え聞いた話しかない」
「どんな話だ」
「縁が深ければ、互いを強く気に掛けることがある。離れていても」
「人の考えまで変えることは」
「分からない」
「そういう話はないのか」
シリルの顔から表情が消える。
「本人の気持ちと縁の影響を、誰がどう分ける」
ヴィクトルは胸の奥へ意識を向けた。
リリアを感じる。
その感覚に安堵している。
その安堵は自分のものなのか。
縁によって強められたものなのか。
今は判断できなかった。
「リリアは、このことを知っていたのか」
シリルは答えなかった。
それだけで十分だった。
「知らなかったんだな」
「……ああ」
リリアがシリルを見る。
「シリルさんは知っていたのに、今まで黙っていたんですか」
「ああ」
「どうして」
「必要だと思わなかった」
「私が知らなくても?」
シリルはリリアの視線を受けた。
「俺は、お前を危険から遠ざけることばかり考えていた。知れば狙われる。思い出せば、また力を使うかもしれない。だから黙ってる方がいいと思った」
「それは、私のためですか」
「ああ。俺が勝手に決めた」
リリアは何も言わない。
「次は同じにしない。葛花へ入る前に、俺が知ってることを話す。そのあとで、お前が決めろ」
リリアは寝台の布を握ったまま、シリルを見た。
厳しい顔。
ぶっきらぼうな声。
それでも、自分が正しかったとは言い張らない。
「……分かりました」
シリルが小さく息を吐いた。
◆
「湿地でリリアへ話したことまで疑うつもりはない」
シリルはヴィクトルへ顔を向けた。
「あの時には、縁はなかった」
「ああ」
「お前はその前から、王室の命令に逆らった。だが、これからは分からない」
ヴィクトルはすぐには答えなかった。
左手を胸へ当てる。
「この感覚が、俺の判断へどう影響するのかは分からない」
リリアが彼を見る。
「なら離れるか」
シリルが問う。
「いや」
「なぜ」
「縁ができる前に、もう決めていた」
ヴィクトルはリリアを見る。
「湿地であなたへ話したことは、縁が結ばれる前の私の意思です」
リリアは黙って彼を見た。
「命令と、目の前にいるあなた。そのどちらを信じるべきなのか、分からなくなった」
あの時の声が蘇る。
「少なくとも、私が見ていたあなたは、アン様を傷つけるような人でも、見捨てられるような人でもなかった」
後悔していませんか。
今のところは。
これからするかもしれません。
その答えを、リリアは覚えていた。
「それは、縁ができる前の私が決めたことです」
ヴィクトルは続けた。
「これから先も、その都度、自分で決めます」
「でも……」
「縁があるから、あなたのそばにいる」
そこで言葉を切る。
「そう言えば、私は縁を、あなたのそばに居続けるための鎖にしてしまう」
リリアは何も言えなかった。
「私は、そんな鎖にはしたくありません」
「言葉では何とでも言える」
シリルが返す。
「その通りだ」
「縁と自分の意思を取り違えたら、俺がお前を止める」
「分かった」
「守るつもりでリリアを縛るなら、その時は敵だ」
ヴィクトルは左手を剣の柄へ置いた。
「その時は抵抗する」
「抵抗するのか」
「ああ」
答えに迷いはなかった。
「俺も、自分の意思まで手放すつもりはない」
小屋の中に沈黙が落ちた。
リリアは寝台の上から、二人を見ていた。
縁。
自分が知らないうちに、ヴィクトルとの間へ残してしまったもの。
怖くないと言えば嘘になる。
ヴィクトルは影響されていないとは言わなかった。
すべてが自分の意思だとも言わなかった。
分からないことを、分からないまま認めている。
そのことは、信じてもいいように思えた。
◆
犬が鳴いた。
先ほどより近い。
それでも、まだ谷の下のようだ。
シリルが戸口へ向かい、扉の隙間から外を確認する。
「長居はできない」
「どこへ向かう」
ヴィクトルが尋ねた。
「葛花だ」
その名に、リリアは右腕へ手を添えた。
痣には、まだ熱が残っている。
アンの香り袋に入っていた花。
その名へ続く場所。
「……葛花」
小さく繰り返す。
「アン様は、そこに?」
「可能性がある」
リリアは起き上がろうとした。
身体に力が入らない。
視界が揺れる。
「動くな」
シリルがすぐに戻った。
「まだ立てる状態じゃない」
「でも、アン様が」
「分かってる。だから行く」
「私も」
「置いていくつもりはない」
リリアは口を閉じた。
右腕の熱が葛花という名に反応したのか。
黒百合を使った熱が、まだ鎮まっていないだけなのか。
今のリリアには分からない。
意味を探るのはやめた。
シリルは壁際の薬草と包帯を手早くまとめる。
ヴィクトルは残った荷を左肩へ掛けた。
最後に、シリルがリリアの右足を確認する。
腫れはまだ強い。
「まだ歩くな」
「はい」
固定を締め直す。
荷をまとめ終えたところで、シリルがリリアを見る。
「葛花へ入る前に、一度お前に選ばせる」
「選ぶ?」
「アンを探すために進むのか。それとも別の道へ逃げるのか」
「私はアン様を――」
「今はまだ聞かない」
シリルが遮った。
リリアが言葉を止める。
「葛花へ入れば、ただアンを探すだけでは済まない」
シリルの声が低くなる。
「お前が何者として見られるのか。何を求められるのか」
そこで一度区切った。
「その前に、俺が知ってることを話す」
リリアは黙って聞いた。
「お前はずっと、知らないまま決められてきた」
短い言葉だった。
けれど、いくつものことが浮かぶ。
ローゼンベルク家へ連れてこられたこと。
三年前の事件。
罰。
痣を抑える薬。
失われた記憶。
地下での暮らし。
「次まで同じにはしない」
シリルが言った。
「知ってから選べ」
リリアは返事を忘れた。
「……はい」
ようやく答えた。
ヴィクトルが口を開く。
「俺も、その話を聞いていいのか」
シリルが振り返る。
「お前にも選ばせる」
「俺も?」
「縁があるからついていく。それなら、ここで別れろ」
「その答えはない」
ヴィクトルはすぐに返した。
「なら、自分で理由を決めろ」
「ああ」
シリルがリリアの前へ背を向け、片膝をついた。
「背負うぞ」
「……お願いします」
慎重に身体を起こされる。
リリアは腕をシリルの肩へ回した。
固定された右足も、揺れないよう布で留められる。
ヴィクトルは戸口へ立った。
シリルが言う。
「リリア」
「はい」
「右腕に変化があったら、すぐ言え」
「分かりました」
扉が開いた。
冷たい霧が、小屋の中へ流れ込んだ。
◆
山番小屋を出ると、道はさらに細くなった。
馬車の轍はない。
人が通った跡さえ、ほとんど消えている。
濡れた落ち葉。
低く垂れた枝。
苔のついた岩。
ヴィクトルは後ろを歩きながら、ときどき胸の奥へ意識を向けた。
分かる。
シリルの背で、リリアが生きている。
分かってしまう。
けれど、この感覚へ判断を預けてはいけない。
リリアを、自分が安心するための印にしてはいけない。
この縁を、自分の選択の理由にしてはいけない。
王宮へ戻る日が来るかもしれない。
自分がしたことの責任を負うために。
けれど、命令されたから、王室が決めたから。
それだけで正しいのだと信じていた騎士には、もう戻れない。
自分で見て、疑い、選んだ。
結果が何であろうと、以前と同じ場所には立てない。
三人はしばらく無言で進んだ。
やがて霧の先に、小さな石橋が現れた。
水の少ない沢へ架かる古い橋。
苔むした石。
一部が崩れた欄干。
シリルが橋の手前で止まる。
その先の白い霧の奥に、薄紫の花房が見えた。
葛の蔓が木々へ絡まり、湿り気を帯びた花が静かに揺れている。
「近い」
シリルが言った。
「葛花ですか」
背中のリリアが尋ねる。
「ああ」
リリアは霧の向こうを見つめた。
右腕には、まだ黒百合の熱が残っている。
それが何を意味しているのかは分からない。
アンがいるからなのか。
力を使ったためなのか。
ただ恐怖で痣が疼いているだけなのか。
今は、どれとも決められなかった。
シリルが少しだけ首を回す。
「この先で話す」
「はい」
「そのあとで選べ」
リリアは頷いた。
逃げる道があると言われても、今なら、きっとアンを探す方を選ぶ。
それでもシリルは、その答えをまだ受け取ろうとしない。
知らないまま選ぶなと言う。
怖かった。
何を知らされるのか。
知ったあと、自分がどうなるのか。
それでも、誰かに代わりに決められるのではなく、自分で選べと言われたことは、救いでもあった。
前には、葛花。
右腕には、黒百合の熱。
後ろには、ヴィクトルがいた。
剣を左手へ持ち替え、縁だけを理由にはせず、命令にも判断を預けず、これから先も、自分で選ぶと決めた騎士。
リリアはシリルの背で、短く息を吸った。
この先に何があるのか、まだ分からない。
ただ、地下の小部屋へ戻る道は、霧の向こうへ消えていた。




