第五十七話 黒百合の庭
◆
中立庵を出ても、リリアの言葉はナディルの耳に残っていた。
――保護と監禁を同じにするな。
そう言った自分に、少女は怯えながらも答えた。
――私には、まだ同じように思えてしまいます。
ナディルは石段を下りる足を止めた。
葛花の庭は、薄紫の霧に包まれている。
湿った石畳。
苔むした低い塀。
盛りを過ぎた葛の花房。
先を歩いていた近衛が振り返ったが、ナディルは片手を上げて待たせた。
リリアは、自分を信じるとは言わなかった。
助けを拒んだわけでもない。
だが、自分は誰かのものになるためにヤシャラへ行くのではないと告げた。
黒百合だけとして扱われるためでもない。
リリアとして、自分が何者なのかを知りたいのだと。
声は震えていた。
言葉の途中で何度も迷っていた。
それでも、口を閉ざさなかった。
そして最後には、影をつけられることを「嫌だ」と言った。
ナディルは、その言葉を覚えておくと答えた。
影を外したわけではない。
旅へ出るための金と馬を用意し、ファリダを同行させる。
影には護衛と所在確認をさせる。
私信や日々の会話を報告させず、命に関わる危険がない限り、本人の判断へ介入させない。
譲ったつもりだった。
だが、影をつけると決めたのも自分だ。
どこまでが危険で、どこから介入するのか。
最後にその境を決めるのも、今のところは皇帝である自分だった。
ナディルは足元へ落ちた葛の花を見下ろした。
雨に濡れた花弁は黒ずみ、薄紫の色を失いかけている。
その色が、遠い日に拾った一枚の花弁を思い出させた。
黒百合を咲かせるために。
父が、人の血で染めた白い庭を。
◆
皇子ナディルが父に呼ばれた朝、皇宮の祀殿の鐘は鳴らなかった。
いつもなら夜明けとともに三度、澄んだ音が白い外壁を越えていく。
祀殿に仕える者たちは鐘を合図に水を運び、香を焚き、庭へ落ちた花を拾う。
ナディルも幼い頃から聞き慣れていた。
けれど、その朝は鐘の代わりに、金属の擦れる音が柱廊の向こうから届いていた。
近衛兵の鎧。
剣の鞘。
石床を踏む軍靴。
南庭へ近づくほど、その数は増えていく。
「父上は、何をなさるつもりだ」
先を歩く侍従へ尋ねると、男の歩調が乱れた。
「陛下より、殿下には庭で直接ご覧いただくよう申しつけられております」
「何を見る」
侍従は答えなかった。
十三歳のナディルにも、それ以上問い詰めても意味がないことは分かった。
知らないのではない。
知っていても、口にできないのだ。
南庭へ通じる扉が開いた。
ナディルは足を止めた。
最初に目へ入ったのは、各国から献上された花々ではなかった。
人だった。
祀殿に仕える者たちが、庭の端へ一列に並ばされている。
老女。
若い男。
書庫番らしい女。
まだ十歳にもならない少年。
額から血を流した少女。
全員が後ろ手に縛られていた。
「父上」
庭の奥に、皇帝ザフィールが座っている。
金糸を織り込んだ黒衣。
太い指には、赤い宝石を嵌めた指輪。
その周囲には文官と武官、侍医まで並んでいた。
「これは何です」
「来たか、ナディル」
ザフィールは息子の問いには答えず、自分の傍らを示した。
「そこへ立て」
ナディルは動けなかった。
兵に囲まれた一人の女が目に入ったからだ。
長い黒髪。
白い祀衣。
右腕を覆う長い袖。
黒百合の巫女、ミレナ。
名だけなら、何度も聞いていた。
父は、黒百合を特別な力を持つ存在として語っていた。
同時に、皇帝が求めれば、その力を差し出すべきだとも言った。
それが古くからの定めなのか、父自身がそう信じているだけなのか。
十三歳のナディルには、まだ分からなかった。
ただ、父の口から語られるミレナはいつも、力を持ちながら従わない女。
皇帝の命令を拒む女。
そういう存在だった。
だからナディルは、もっと恐ろしい女を想像していた。
だが、実際のミレナは違った。
縛られた者たちを案じ、そこから目を離せずにいる。
ただそれだけの、まだ若い女性に見えた。
「こちらへ来い」
再び命じられ、ナディルは父の傍らへ進んだ。
「よく見ておけ」
「何をです」
「力ある者を、どう扱うべきかを」
嫌な予感がした。
ザフィールが片手を上げる。
庭の反対側で待機していた弓兵たちが、一斉に弓を構えた。
矢先は、縛られた祀殿の者たちへ向けられている。
「父上、何を――」
「黙って見ていろ」
ザフィールの声には、怒気さえなかった。
古い記録を読み上げるような静かな口調で、父は続けた。
「記録には、黒百合は守ろうとする者の危機に応じて力を現すとある」
ミレナが皇帝を見た。
「人を傷つけて試すことではありません」
「余が求めても、おまえは力を見せぬ」
「命じられて咲かせることができるものではありません」
「ならば、咲く状況を作ればよい」
その返答に、迷いはなかった。
ナディルはようやく理解した。
庭へ並べられた者たちは、罪人ではない。
見せしめですらない。
黒百合を試すために連れてこられたのだ。
「まず、端の男を射よ」
「お待ちください!」
弦が鳴った。
矢が青年の脇腹へ突き刺さる。
青年の身体が折れ、白い石床へ崩れた。
「父上!」
ナディルが一歩踏み出す。
「医師を」
「必要ない」
「このままでは死にます」
「だから試せる」
ザフィールは息子を見もしなかった。
見ているのは、ミレナだけだった。
彼女の右腕を覆う袖の下から、黒い影のようなものが滲んだ。
霧にも見えた。
だが、形になる前に消える。
「まだか」
父の声に浮かんだのは、負傷した青年への憐れみではなかった。
望んだ反応が得られなかったことへの苛立ちだった。
ナディルの胃の奥が重くなる。
「次」
今度は書庫番の女へ矢が向けられた。
「やめてください!」
矢は女の太腿を貫いた。
悲鳴とともに身体が倒れる。
後ろ手に縛られているため、傷口を押さえることさえできない。
ザフィールは侍医へ尋ねた。
「死ぬか」
「すぐに処置すれば、命は――」
「処置はするな」
「陛下」
「まだ終わっていない」
侍医は黙った。
武官も文官も、近衛兵も、誰一人動かなかった。
ナディルも同じだった。
父へ逆らえばどうなるかを、皇宮で育った彼は知っている。
それでも、目だけは逸らせなかった。
見なければ、自分までこの庭で起きたことを、なかったことにしてしまう気がした。
倒れた青年が、震える指で石床を掻いている。
まだ生きていた。
「そこの男は、死ぬまで時間がかかるな」
ザフィールが言った。
「父上」
「喉を切れ」
ナディルは耳を疑った。
「すでに傷を負っています」
「だからだ」
「意味が分かりません」
そこで初めて、ザフィールが息子を見た。
「死ぬかもしれぬ、では足りぬのだろう。ならば、死が避けられぬ時にどうなるかを見る」
兵が青年へ歩み寄った。
髪を掴み、顔を上げさせる。
ミレナが身を乗り出した。
「やめて!」
兵の短剣が青年の首へ触れる。
青年は助けてくれとは言わなかった。
恐怖に見開いた目でミレナを見て、ただ名を呼んだ。
「ミレナ……様」
刃が走った。
血が白い石へ広がる。
黒百合は咲かなかった。
ザフィールは遺体をしばらく見下ろした。
「一人では足りぬらしい」
ナディルは父の横顔を見た。
その時、初めてはっきり分かった。
この人は。
望む結果が得られるまで、やめない。
◆
次に列から引き出されたのは、老女だった。
ミレナの顔色が変わった。
その女性が、彼女にとって特別な存在なのだと、ナディルにも分かった。
「ミレナ」
老女は振り返らずに言った。
「こちらを見てはいけません」
ザフィールが興味を示す。
「なぜ見るなと言う」
老女は答えない。
「巫女を動揺させぬためか。顔をこちらへ向けさせよ」
兵が老女の髪を掴み、無理やり顎を上げた。
ミレナと目が合う。
「この女の指を一本落とせ」
「父上」
ナディルの声が掠れた。
「一人を殺しても咲かなかった」
「だから、指を落とすのですか」
「死より長く続く恐怖ならば、違う反応をするかもしれぬ」
父は、本気でそう考えている。
目の前にいる人間の痛みも恐怖も、条件を変えた試験にしか見えていない。
兵が老女の左手を石台へ押さえつける。
「ミレナ」
老女は痛みに備えるように目を閉じた。
「あなたのせいではありません」
刃が振り下ろされた。
悲鳴が庭を裂いた。
その瞬間、空気が変わった。
ミレナの右腕を覆う白い袖の下で、黒い痣が鮮明に浮かび上がる。
石床の隙間から、黒い霧が噴き上がった。
風もないのに、庭の花々が大きく揺れる。
黒い霧は真っ先に老女を包み込み、刃を持っていた兵を押し退けた。
落ちた刃が石を叩く。
無数の黒い花弁のような影が、老女を守るように渦を巻いた。
ナディルは息を呑んだ。
恐ろしいとは思わなかった。
あれほど追いつめられた末に現れた力が、最初にしたことは、人を傷つけることではない。
傷つけられた者を覆った。
守ったのだ。
「咲いた」
ザフィールが立ち上がった。
その声に、初めて明確な喜びが宿る。
青年が死んだ時にも。
女が射られた時にも。
老女が傷つけられた時にも見せなかった表情だった。
「父上、もう結果は出ました」
「一度では足りぬ」
「十分です」
「次は二人だ」
弓兵が向きを変える。
矢先が、まだ十歳にもならない少年と、額を負傷した少女へ向けられた。
「やめてください!」
今度は考える前に声が出た。
庭にいた者たちの目が、一斉にナディルへ集まる。
ザフィールも息子を見た。
ナディルの足は震えていた。
それでも、後ろへ下がらなかった。
「黒百合は力を現しました。これ以上、人を傷つける必要はありません」
「二人を同時に守れるかは分からぬ」
「そんなことを知って、何になるのです」
ザフィールの目に、それまでとは違う光が浮かんだ。
怒りではない。
好奇心だった。
そのことが何より恐ろしかった。
「では、おまえも並ぶか」
ナディルの身体が強張る。
「黒百合が皇子を守るか。試してみるのもよい」
側近たちは一斉に目を伏せた。
誰も皇子を庇おうとはしない。
この庭では、自分さえ父にとって特別ではない。
皇子という条件を加えた、新しい試験材料にすぎない。
「陛下」
ミレナが呼んだ。
ナディルは彼女を見る。
「皇子殿下を巻き込む必要はありません」
信じられなかった。
自分は彼女を助けていない。
父を止められず、目の前で人が殺されるのを見ていただけだ。
その自分を、ミレナは庇った。
「やはり守るのか」
ザフィールが笑った。
その一言で、ナディルの胸に湧いたものが冷えた。
ミレナが自分を庇ったことさえ、父にとっては次の結果でしかない。
「放て」
弦が鳴った。
二本の矢が子どもたちへ飛ぶ。
黒い霧が庭いっぱいに広がった。
一方の矢は、黒い花弁のような影に包まれて地面へ落ちた。
もう一方は霧に触れて軌道を逸らし、少年の肩先を掠めたあと、石柱へ激突した。
矢柄が折れる。
黒い花弁が、二人の子どもを覆った。
「二人を守った」
ザフィールは喜びを隠そうともしなかった。
ミレナは荒い呼吸を繰り返している。
「もう……やめてください」
「まだできる」
「この力は、そのためのものではありません」
「何のためかを決めるのは、おまえか?」
ミレナが皇帝を見る。
「少なくとも、陛下ではありません」
庭が静まり返った。
ナディルまで息を止めた。
父へ、そんな言葉を言う者を初めて見た。
ザフィールの表情から笑みが消えた。
「力を持つ者が、己でその使い道を決めると?」
「私の意思まで、陛下のものではありません」
その言葉を聞いた時。
ナディルは、なぜ父がミレナを従わせようとしているのかを初めて理解した。
黒百合の力だけではない。
父が欲しいのは、その力を使う者の意思そのものだった。
自分で選ぶことをやめさせる。
誰を守るのか。
いつ力を使うのか。
何を拒むのか。
そのすべてを皇帝へ委ねさせる。
父が壊そうとしているのは、黒百合ではない。
ミレナ自身だった。
「まだ終わっていない」
ザフィールが告げた。
「もう十分です!」
ナディルは再び前へ出た。
「これ以上は、試験ではありません」
「では何だ」
言葉に詰まった。
残虐。
狂気。
悪意。
どれも、父の冷静さを言い表すには足りなかった。
ザフィールは怒っているのではない。
興奮しているのでもない。
「答えられぬか」
父は薄く笑った。
「ならば黙って見ていろ」
ザフィールは庭に倒れた者たちを眺め、最後にミレナを見る。
「情を捨てられぬ者は、情によって動かされる」
それから息子へ視線を移した。
「皇帝は、他者の情に支配されてはならぬ」
ナディルは父を見た。
その言葉を、胸の内で拒んだ。
皇帝だから、こうなるのではない。
この人が、こういう人間なのだ。
だが、それを声に出す勇気は、まだなかった。
◆
その夜、ナディルは一人で南庭へ戻った。
遺体はすでに運び出されている。
召使いたちが何度も水を流し、白い石を擦っていた。
赤く濁った水が、排水口へ吸い込まれていく。
花壇の端に、黒い花弁のようなものが一枚残っていた。
ナディルは腰を屈め、それを拾った。
濡れたそれが、指先へ貼りつく。
昼間、自分は何もできなかった。
父へやめてくれと言った。
前へも出た。
それでも、誰一人救えなかった。
人を守ったのはミレナだった。
しかも彼女は、自分まで庇った。
「私は、あの人のようにはならない」
初めて、声に出した。
「何が違う」
背後から声がした。
身体が強張る。
振り返ると、ザフィールが柱廊の暗がりに立っていた。
いつからそこにいたのか分からない。
父はゆっくり近づき、ナディルの指先にある黒い花弁を見た。
「今日、おまえは余へ逆らった」
「人が殺されていました」
「情に動かされた」
「それの何が悪いのです」
ザフィールの顔から、わずかに残っていた表情が消えた。
「皇帝には邪魔になる」
父はナディルの指から花弁を取り上げた。
指の間で、黒い花弁が潰れる。
滲んだ汁を、ザフィールは息子の頬へ押しつけた。
「安心しろ。おまえが皇帝になる頃には、その甘さもなくなる」
ナディルは動かなかった。
怖かった。
それでも、その恐怖を見せれば、何かを奪われる気がした。
「明日も立ち会え」
ザフィールは背を向ける。
「巫女が何を守り、どこまで耐えるか、よく見ておけ」
足音が遠ざかった。
ナディルは頬についた黒い跡を、すぐには拭わなかった。
怖いと知られてはいけない。
大切なものがあると知られてはいけない。
何かを守りたいと思っていることさえ、父の前では隠さなければならない。
その夜から、ナディルは少しずつ感情を表へ出さなくなった。
それが父の言う「情を捨てること」とどう違うのか。
十三歳の彼には、まだ説明できなかった。
ただ。
父と同じにはならない。
その思いだけは手放さなかった。
◆
翌朝。
黒百合の巫女ミレナは、皇宮から姿を消していた。
祀殿へ戻されることも、南庭へ連れてこられることもなかった。
ザフィールは皇宮の門を閉ざし、街道を封鎖させた。
騎兵が四方へ放たれ、祀殿に仕えていた者たちは改めて厳しく取り調べられた。
それでも、ミレナは見つからなかった。
誰が手を貸したのか。
どの道を使ったのか。
十三歳のナディルには知らされなかった。
そして、自分から調べようともしなかった。
知れば、父に問い詰められた時に隠さなければならなくなる。
ただ一つだけ。
逃げ切ってほしい。
そう願った。
その願いさえ、父に知られてはいけないと思った。
その日からしばらく、祀殿の鐘は鳴らなかった。
◆
歳月が流れた。
ザフィールは死に、ナディルは皇帝になった。
玉座へ座った日に思い出したのは、父の戴冠でも、幼い頃に教え込まれた帝王学でもなかった。
血に濡れた白い庭だった。
喉を切られた青年。
傷つけられた老女。
矢を向けられた子どもたち。
そして、自分まで庇おうとした黒髪の巫女。
皇帝になったナディルは、南庭を閉じた。
ザフィールが集めさせた黒百合に関する記録の多くを封じ、閲覧できる者も限った。
その過程で、父が語っていたことのすべてが古くからの定めではなかったことも知った。
黒百合の巫女は、皇族の臣下ではない。
皇帝の所有物でもない。
皇帝に対してのみ古い礼を交わすが、それも臣従のためではない。
互いの立場を認めるためのものだ。
父は、それを知ってなお歪めていたのか。
あるいは、自分に都合のいい部分だけを真実だと思い込んでいたのか。
今となっては確かめようもない。
だが、黒百合を巡るものすべてを消すことはできなかった。
祀院にも、ヤシャラの貴族にも、父の時代からその力を欲する者は残っている。
祀院は一つの国だけに属する組織ではない。
ヤシャラ人が多くを占めてはいるが、国境を越えて人と思想が入り込み、皇帝の命令だけでその動きを止められるものでもなかった。
黒百合が再び現れれば、誰かが必ず利用しようとする。
だから守らなければならない。
誰にも奪わせてはならない。
そう考えるほど、ナディルは時折、自分がどこまで踏み込んでよいのか分からなくなった。
ザフィールなら迷わなかっただろう。
捕らえる。
囲う。
従わせる。
利用する。
ナディルは、それを拒んだ。
だが。
危険だから所在を把握する。
危険だから護衛をつける。
危険だから行動を止めることもある。
それを続けた先に、父の作った檻とは違うものが本当にあるのか。
黒百合を守ることと、黒百合を自分の手の内へ置くこと。
その境は、皇帝という力を持った今の方が、十三歳の頃より見えにくかった。
◆
「陛下」
近衛の声に、ナディルは現在へ引き戻された。
葛花の庭。
濡れた石畳。
足元には、黒ずんだ葛の花が落ちている。
「そろそろお戻りください」
近衛が馬の手綱を差し出した。
ナディルはすぐには受け取らず、背後を振り返った。
あの庵の向こうに、ミレナの娘がいる。
リリア。
三年前より前の記憶を失った少女。
ローゼンベルク侯爵家では危険な存在として扱われ、祀院の強硬派からは器として狙われ、王室からも管理対象にされた。
そして、自分も。
ヤシャラにとって無視することのできない黒百合として、彼女を見ている。
父とは違う。
人を傷つけて力を試すことなどしない。
拒絶したからといって罰するつもりもない。
そこまでは言い切れる。
だが、リリアのためだと信じて選択肢を狭めれば、結果として彼女を囲うことになる。
大切に扱うことと、自由を認めることは違う。
そのことを、ナディルは誰より知っているはずだった。
――嫌だ。
あの一言は、通訳を介さず理解できた。
そして、自分は答えた。
覚えておく、と。
覚えるだけでよいのか。
状況が変わった時、本当にもう一度本人へ尋ねられるのか。
自分に都合のいい「危険」を理由に、その機会を奪わずにいられるのか。
父と違う皇帝でありたいと願うだけでは足りない。
どの言葉を選ぶのか。
どこまで手を伸ばすのか。
どこで止まるのか。
そのたびに、自分で決めなければならない。
十三歳のあの日。
父へやめてくれと言いながら、誰一人救えなかった皇子は、もういない。
今のナディルには、命令する力がある。
だからこそ、命令できることと、命令してよいことを取り違えてはならない。
「陛下」
もう一度呼ばれ、ナディルは差し出された手綱を受け取った。
「影へ伝えよ」
「はっ」
「リリアの行動を妨げるな。命に関わる危険がない限り、本人の判断を優先させる」
近衛は一瞬ためらった。
「旅の途中も、でございますか」
「同じだ」
「黒百合に関する手がかりを見つけた場合は」
「報告はさせよ」
ナディルは少し間を置いた。
「だが、本人から奪うな。先にこちらへ持ち込ませることもするな」
「承知いたしました」
「それから」
近衛が顔を上げる。
「状況が変わり、影を減らせると判断した時は、まず私へ報告しろ」
「はっ」
「外せるものを、惰性で残すな」
近衛は今度こそ深く頭を下げた。
命令を下しても、胸の内の迷いは消えなかった。
この命令さえ、ナディルが彼女を見ていることに変わりはない。
影をつけること自体、完全な自由とは呼べない。
それでも、今すぐすべての手を引くこともできなかった。
祀院は動いている。
ローダン王室にも、黒百合を管理しようとする者がいる。
リリア本人は、まだ力の正体も、自分を狙う者たちの全容も知らない。
守る必要はある。
だが、その必要を、奪うための言い訳にしてはならない。
あの日のザフィールは、ミレナの拒絶を認めなかった。
今日のナディルは、リリアの拒絶を聞いた。
それだけだ。
違いだと誇れるほどのものではない。
これからも聞き続けられるか。
嫌だと言われた時に、理由もなく押し切らずにいられるか。
皇帝として止めなければならない時には、その理由を本人へ告げられるか。
その積み重ねでしか、父とは違う皇帝にはなれない。
ナディルは鐙へ足を掛けた。
馬上から、もう一度中立庵のある方角を見る。
リリアは言った。
黒百合として扱われるために行くのではない。
リリアとして、自分が何者なのかを知りたい。
ミレナも、あの白い庭で言った。
――私の意思まで、陛下のものではありません。
母と娘。
声も、立ち方も違う。
ミレナは父へ真っすぐ言い放った。
リリアは声を震わせ、何度も迷いながら言葉にした。
それでも。
言っていることは、よく似ていた。
自分の意思を、他人へ渡さない。
ナディルは手綱を握る。
リリアがヤシャラへ来るのか。
途中で考えを変えるのか。
いつかローダンへ戻るのか。
あるいは、そのどちらでもない道を選ぶのか。
皇帝として、何もせずに見ているだけでは済まない時もあるだろう。
それでも、選べる時まで、皇帝が先に選んではならない。
少なくとも、あの少女が、自分で選べるうちは。
ナディルは馬を進ませた。
葛花は、皇帝の権力さえそのまま持ち込むことのできない場所だ。
以前なら、それを不自由だと思ったかもしれない。
今は、皇帝であっても、踏み込んではならない境があることを思い出させる場所のように感じた。
黒百合を守る。
その言葉を、囲うための美しい名にしてはならない。
血に濡れた白い庭で、何もできなかった十三歳の皇子に恥じないために。
そして、黒百合の巫女へ膝をつかせようとした父と、同じ場所へ立たないために。
ナディルは振り返らず、葛花をあとにした。




