第五十八話 帰ってきた書記官
◆
東門の前で、二台の馬車が止まっていた。
一台は王室騎士団の護送馬車。
もう一台は、王都から来た細身の黒い馬車だった。
白い霧の中、車輪の跡が濡れた石畳へ二本の線を残している。
先に扉が開いたのは、王室騎士団の馬車だった。
医師が降りる。
続いて女性騎士。
その奥から、薄い毛布に包まれた小さな少女が姿を現した。
「アン……」
玄関広間の奥で、イザベラが声を漏らした。
アンは歩いていた。
けれど足取りは頼りなく、女性騎士に身体を支えられている。
長く閉じ込められていた疲労が、まだ抜けていないのだろう。
髪の一部は短く切られている。
それを見た瞬間、イザベラが一歩前へ出た。
「アン!」
王室騎士団の騎士が、その前へ立つ。
「お待ちください」
「娘です」
「承知しております。ですが、医師の診察と初期聴取が終わるまでは、接触をお控えください」
「そんな……」
イザベラの声が掠れた。
ハインリヒが妻の肩へ手を置いた。
彼は前へ出ようとはしなかった。
今のローゼンベルク侯爵家に、それを押し通せる権限がないことを理解している。
アンが顔を上げた。
父と母を見つける。
「お母様……」
小さな声だった。
イザベラの顔が崩れた。
「アン……」
けれど、二人の間には王室騎士団の騎士がいる。
アンは何か言いたそうに口を開いた。
だが、女性騎士がそっと声をかける。
「まず、診察を受けましょう」
アンは一度だけ母を振り返り、東棟へ連れていかれた。
その姿が廊下の奥へ消えるまで、イザベラは動かなかった。
父も母も、娘へ触れることはできない。
もう一台の馬車から降りた青年が、その光景を見ていた。
黒に近い濃紺の外套。
裾には、王都からの道でついた乾いた泥が残っている。
淡い栗色の髪も、霧を含んで少し乱れていた。
クラウス・ローゼンベルク。
ローゼンベルク侯爵家嫡男。
そして、王宮政務院、宰相府付書記官。
クラウスは、東棟へ消えていく妹を見つめていた。
声は出さなかった。
駆け寄ることもしなかった。
ただ、外套の下で握った手が、しばらく開かなかった。
「クラウス様」
門の内側に立つ騎士が一歩前へ出る。
「現在、ローゼンベルク侯爵家は王室騎士団の管理下にあります。入館には確認が必要です」
「承知しています」
クラウスは懐から封書を取り出した。
宰相府の封蝋が押されている。
「クラウス・ローゼンベルク。王宮政務院、宰相府付書記官」
一度、言葉を切る。
「本日は、侯爵家嫡男としての帰邸ではありません。宰相府の許可に基づき、保全記録の照合に参りました」
騎士が封書を受け取り、印を確認する。
「レオナール隊長へ確認します」
「お願いします」
クラウスは静かに答えた。
その視線は、まだ東棟へ続く廊下の方を向いていた。
◆
レオナール・グレイヴスは、北棟へ続く廊下の手前にいた。
屋敷の者と王室騎士団の者が交差する場所。
そこを押さえられたことで、以前は絶えず使用人が行き交っていた屋敷が、今は息を潜めている。
閉ざされた扉の前には騎士が立ち、書類を運ぶ者にも監視がついていた。
クラウスには、自分の生家というより、証拠保全中の現場にしか見えなかった。
「クラウス・ローゼンベルク殿」
レオナールが言った。
「到着を確認しました」
「ありがとうございます」
「妹君への面会については――」
「分かっています」
クラウスは先回りして答えた。
「医師の診察と初期聴取が終わるまで、家族との接触は禁止。私も例外ではない」
「はい」
クラウスは東棟の方へ目を向けた。
「承知しました」
それから封書を差し出す。
「では、書記官として話します」
レオナールが封を確認する。
「宰相府より許可された照合対象は、今回の事件に関する屋敷側の原記録、押収物一覧、三年前の馬場事件に関する処分記録、投薬に関する帳簿、及び王室騎士団が保全した文書です」
「第七隔離塔に関するものも?」
「含めます」
レオナールの視線が上がった。
「王都で、どこまで確認しました?」
「受入準備簿と移送起案簿」
クラウスは答えた。
「アン失踪前日の日付で、第三収容室の準備が始まっていました。右腕重点監視。鎮静準備。面会制限」
「そこまで見たか」
「第二隊長決裁なし。担当者名も空欄」
短い沈黙があった。
「私の決裁ではありません」
「承知しています」
「なら、なぜ私へ確認する」
「原本と現場記録を照合するためです」
クラウスは淡々と答えた。
「王都にある写しだけでは、誰がどの段階で文書を動かしたのか確定できない」
「第二隊内部も調べるつもりか」
「それは、あなたの仕事でしょう」
クラウスはレオナールを見る。
「私は宰相府から見る。あなたは騎士団の中から見る」
「同じものが見えるとは限らない」
「だから照合するのです」
レオナールは少しの間クラウスを見た。
「厄介な書記官だ」
「上司にも言われます」
レオナールは封書を畳んだ。
「アン様は保護されました」
「はい」
「目立った外傷はありません。ただし、疲労が強い。監禁中に髪を切られたことも確認しています」
クラウスの指が止まった。
「……そうですか」
「初期証言も取れています」
「リリアについては?」
「屋敷での調査結果と、大きな矛盾はありません」
クラウスが顔を上げる。
「リリア名義の手紙。偽造された札。エリーズの供述。それらを合わせれば、別の者がアン様の誘拐を利用してリリアを動かそうとした可能性が高かった」
「では、アン本人の証言は」
「それをさらに裏づけています」
「何と?」
「リリアに救出された、と」
クラウスの目が揺れた。
「本人の言葉で?」
「はい」
王都で紙を追い続けた。
そこへようやく、妹本人の声が加わった。
「エリーズの供述との照合は?」
「続けています」
「本人の身柄は」
「引き続き王室騎士団の拘束下です」
レオナールの声が低くなる。
「本人が事件への加担を認めています。侯爵家内部の処分で済ませられる段階ではありません」
「間者としての経歴についても?」
「含めて調べています」
クラウスは頷いた。
「エリーズの供述、アンの証言、押収された手紙、偽造された札。それぞれを分けて残してください」
「そのつもりです」
「御前については?」
レオナールの目がクラウスへ向いた。
「アン様から、新しい証言が出ています」
「新しい?」
「名前が分かりました」
クラウスは黙って続きを待った。
「セイラン」
聞き覚えのない名だった。
「それが、御前?」
「アン様はそう証言しています」
「エリーズが『御前』と呼んでいた人物と同一ですか」
「現時点では、その可能性が高い」
レオナールは一度言葉を切った。
「ただし、まだ断定はしていません」
「では、アンの誘拐も?」
「そこが合わない」
レオナールの声が変わった。
「合わない?」
「アン様は、セイランに助けられたと話しています」
クラウスの眉が動いた。
◆
初期聴取で、アンは何度も言葉を選んだという。
「セイランは、私を助けてくれました」
レオナールが尋ねた。
「どう助けたのですか」
アンは短く切られた髪へ触れた。
「ナディアたちに、髪を切られました」
「ナディア?」
「女の人です」
「その者が、あなたを監禁していた?髪を切ったのも?」
「はい」
アンは少し黙った。
「それから、もっと髪を切って、血も取ろうとしていました」
「何のために?」
「リリアを呼ぶため」
レオナールは記録係へ目を向けた。
筆が走る。
「それを、セイランが止めた?」
「はい」
「何と言いました」
「髪も血も取るなって。みんな下がれって」
「あなたを使ってリリアを呼ぶことにも反対していた?」
アンは頷いた。
「私を傷つけるなって言いました」
「その後は?」
「ナディアたちを近づけなかった。何かあったら、自分に知らせろって、見張りの人にも言っていました」
「それで、あなたはセイランに助けられたと思っている?」
「思っているんじゃないです」
アンが顔を上げた。
「助けてくれたの」
レオナールは一度黙った。
「では、確認します」
「はい」
「あなたを攫うよう、セイランが命令したところを見ましたか」
「見てません」
「セイラン自身が、あなたを使ってリリアを呼べと命じたところは?」
「見てません」
「反対に、あなたを傷つけようとする者を止めたところは?」
「見ました」
「セイランが、誘拐そのものに関わっていたかは?」
アンは口を開きかけた。
けれど、やがて首を振った。
「分かりません」
「それでいいのです」
レオナールの声は穏やかだった。
「分からないことは、分からないと答えてください」
「でも」
「はい」
「私を助けてくれたことは、本当です」
「分かりました」
レオナールは記録係を見る。
「事実と本人の認識を分けて残せ」
「はい」
アンは少し安心したように息を吐いた。
◆
「御前がエリーズを動かした」
クラウスが言った。
「そして御前がセイランなら、その男は事件に関わっている」
「そうなります」
「ですが、アンを利用することは止めた」
「アン様の証言では」
クラウスは黙った。
紙の上に、二つの線を思い浮かべる。
一つ。
リリアを屋敷から出そうとした者。
もう一つ。
アンを誘拐し、その危機を利用してリリアを動かそうとした者。
「同じ計画ではなかったのでは?」
レオナールがクラウスを見る。
「何?」
「リリアを屋敷から出すことと、アンを誘拐することです」
「……」
「前者を計画した者と、その計画へ後からアンを組み込んだ者が、同じとは限らない」
レオナールはすぐには答えなかった。
「エリーズは、どこまで知っていた」
「本人の供述では、リリアを屋敷から出すことが目的だった」
「アンを傷つけて黒百合を動かすことは?」
「そこまでの指示を御前から受けたとは供述していない」
クラウスは視線を落とした。
「なら、分けて調べるべきです」
「ああ」
「セイランが何を命じたのか」
「ナディアが何をしたのか」
「そして、その二つがどこで繋がったのか」
レオナールは短く頷いた。
「それは私が調べる」
「私は記録を追います」
クラウスが答えた。
◆
「一つ、聞いてもいいですか」
レオナールが言った。
「何でしょう」
「あなたはリリアを庇うために来たのですか」
クラウスは少し考えた。
「兄としての私と、書記官としての私では答えが違います」
「兄としては?」
クラウスの目が東棟へ向いた。
「アンを助けてくれたのなら、感謝したい」
「では、書記官としては」
「庇いません」
声は静かだった。
「罪があるなら残します。なければ、なかったと残します」
「侯爵家に都合が悪くても?」
「はい」
「王室騎士団に都合が悪くても?」
「同じです」
レオナールの目が鋭くなる。
クラウスは続けた。
「ローゼンベルク家がしたことは、ローゼンベルク家が負うべきです」
鞭。
隔離。
薬。
「ですが、王宮側が知っていたことまで、すべて侯爵家だけの責任として終わらせるつもりもありません」
「言葉を選びなさい」
「選んでいます」
クラウスは目を逸らさなかった。
「王室薬務院には、三年前の薬剤使用後の記憶混濁についての記録が残っていた」
レオナールは黙る。
「半年前には、流通経路まで調べられていた」
「それは私の調査だ」
「確認しました」
「なら分かるでしょう。私は――」
「だから、あなた個人を責めているのではありません」
クラウスは静かに遮った。
「問題は、知っている者が点々と存在していたことです」
王室薬務院。
第二隊。
宰相府の地下記録。
侯爵家。
それぞれが、少しずつ知っていた。
だが誰も、すべてを見てはいなかった。
「誰が、いつ、何を知っていたのか」
クラウスは言った。
「それを残します」
「記録が、リリアを守るとは限らない」
レオナールの声が低くなる。
「黒百合だと記録へ残れば、別の者が利用する可能性もある」
「だから、残すものと秘匿するものを分ける必要があります」
「……」
「ですが、存在しなかったことにするのとは違う」
クラウスは続けた。
「記録がなければ、力を持つ者が好きな名をつけます」
罪人。
共犯者。
危険人物。
収容対象。
「彼女の名は、リリアです」
クラウスは言った。
「何をした人間なのかを調べる前に、別の名で処理するのは終わりにしたい」
レオナールはしばらく答えなかった。
「同感です」
やがて、短く言った。
◆
北棟へ向かう途中、クラウスは小書斎の前で父と会った。
いつものように背筋は伸びている。
だが、目の下には深い疲労が残っていた。
「クラウス」
「父上」
周囲には王室騎士団の騎士がいる。
この家の当主と嫡男であっても、今は二人きりで話すことはできない。
「アンは」
「医師の診察中です。命に別状はありません」
「そうか」
それだけだった。
だが、ハインリヒの肩から張りつめていたものが少し抜けた。
「父上」
「何だ」
「三年前の記録を確認します」
ハインリヒの表情が硬くなる。
「今か」
「今です」
「アンが帰ったばかりだ」
「だからです」
クラウスは声を荒らげなかった。
「アンが帰ってきた。そして、リリアは帰ってこなかった」
ハインリヒの目が動く。
「その理由の一部が、この家にあります」
「何を知った」
「王都で、薬務院と騎士団の記録を読みました」
クラウスは答えた。
「ですが、屋敷の原記録をまだ見ていません」
「……」
「馬場事件」
「やめろ」
低い声だった。
クラウスは止めなかった。
「鞭打ち十二回」
ハインリヒの顎が固くなる。
「その三か月後に行われた投薬」
「クラウス」
「記憶を失ったあとも続いた隔離」
廊下の空気が張りつめる。
「今、話す必要があるのか」
「今まで話さなかったから、今になりました」
父の拳が握られる。
「家を裁くつもりか」
「違います」
「同じことだ」
「いいえ」
クラウスは首を振った。
「調査より先に、十三歳のリリアへの処分が決まりました」
「アンが死にかけた」
初めて、ハインリヒの声が揺れた。
「私は、娘を失うところだった」
「分かっています」
「分かるものか」
「はい」
クラウスは否定しなかった。
「私は王都にいました」
ハインリヒが黙る。
「倒れたアンを見ていません」
「……」
「父上が、その時何を見て、何を恐れたのかも、私は知りません」
クラウスは父を見た。
「だから、記録を読みます」
「記録で何が分かる」
「すべては分かりません。だからこそ、父上が見たことも、リリアがしたことも、何をしていなかったのかも、分けて確かめます」
父と息子は長く見つめ合った。
やがてハインリヒが目を逸らした。
「……オットーに案内させる」
「ありがとうございます」
「礼を言われることではない」
◆
記録庫は北棟の奥にあった。
鍵はすでに王室騎士団が管理している。
オットーが呼ばれた。
老執事は以前よりも、小さく見えた。
「三年前の馬場事件に関する原記録を」
クラウスが言う。
オットーの視線が下がる。
「ございます」
「お願いします」
王室騎士団の騎士が鍵を開ける。
オットーが棚の前へ進み、一冊の帳面を抜き出した。
黒に近い革表紙。
角は擦れ、金具もくすんでいる。
クラウスは帳面を受け取った。
「ここで開きますか」
レオナールが尋ねる。
「はい」
「家族としてではなく?」
クラウスは表紙を見つめた。
「今日は、それを分けるために来ました」
帳面を開く。
紙の匂い。
整った筆跡。
日付。
場所。
対象。
処分。
三年前。
馬場。
対象――リリア。
年齢、十三。
クラウスの指が止まった。
十三。
王都で何度も資料を読んだ。
年齢も知っていた。
それでも、家の帳面に書かれた数字は、ひどく幼く見えた。
視線を下へ移す。
右腕拘束。
騎士待機。
処分――鞭打ち十二。
命令者ハインリヒ・ローゼンベルク。
執行責任者ヨーゼフ。
さらに、その下。
右腕の黒色痕、発現。
周囲に黒色の霧状現象を確認。
原因不明。
危険性不明。
黒百合という言葉はない。
当時、この家はまだ、それが何なのか分かっていなかった。
次の頁。
処分後。
対象、高熱。
その後、奥向きより監督強化の指示。
アン・ローゼンベルクとの接触制限。
クラウスは目を閉じた。
そして、次の帳面を求めた。
「投薬記録を」
オットーの顔がこわばる。
「……はい」
三か月後。
ヴェルディア伯爵家の医師から紹介された薬剤。
奥方付きへ受け渡し。
立会――ジューン。
服用。
強い眠気。
意識混濁。
数日後。
記憶障害。
クラウスは頁の上部へ戻った。
当主承認欄。
空白。
指先が止まる。
「父上の承認がない」
オットーは答えなかった。
「鞭打ちは父の命令です」
クラウスは静かに言った。
「ですが、投薬は違う」
「……はい」
「父上への報告は?」
頁をめくる。
記憶障害が確認された後だった。
王室薬務院で読んだ記録と一致する。
「これも分けて残します」
クラウスが言った。
「誰が何をしたのかを、一つにまとめてはいけない」
オットーが俯いた。
「クラウス様。それを外へ出せば、この家は――」
「傷つきますか」
「……」
「もう傷ついています」
クラウスは帳面を閉じなかった。
「隠しても、起きたことは変わりません」
長い沈黙のあと、オットーが言った。
「私は……あの時、旦那様を止められませんでした」
クラウスが顔を上げる。
「止めようとはしたのですか」
オットーは答えられなかった。
その沈黙を、クラウスは急かさなかった。
「……それも残します」
オットーが目を閉じる。
「責めるためではありません」
クラウスは帳面へ視線を戻した。
「誰が何をしたのか。何をしなかったのか。それを、なかったことにしないためです」
◆
廊下の向こうから、足音が近づいた。
軽い。
だが、途中で何度か止まる。
「クラウス様」
女性騎士の声がした。
「医師の許可が出ました。アン様をお部屋へお戻しします」
診察に使われた部屋から東棟へ戻るには、この連絡廊下を通る。
クラウスが振り返った。
女性騎士に支えられ、アンが立っている。
顔色はまだ白い。
それでも、自分の足で立っていた。
アンの目がクラウスを見つける。
「……お兄様?」
クラウスの身体が止まった。
「アン」
声が、初めて書記官のものではなくなった。
一歩、思わず前へ出る。
だが、自分で止まった。
アンが不思議そうに見る。
女性騎士がレオナールへ視線を向けた。
レオナールが頷く。
「短時間なら」
クラウスは妹へ歩み寄った。
けれど、抱きしめる直前で止まる。
「触れてもいいか」
アンの目が大きくなった。
それから、小さく頷く。
「うん」
クラウスは妹を抱きしめた。
肩へそっと腕を回す。
アンの額が兄の胸へ触れた。
「お兄様……」
「ああ」
「帰ってきたの?」
「ああ」
それ以上言えば、声が崩れそうだった。
やがてアンが、クラウスの外套を小さく掴んだ。
アンの目に涙が溜まる。
「リリアは悪くないの」
「聞いた」
「本当に悪くないの」
「うん」
「私を助けてくれたの」
「それも聞いた」
アンは首を振った。
「違う」
「何が?」
「聞いた、じゃなくて」
涙が頬を伝う。
「信じて」
クラウスは黙った。
手元には、三年前の帳面がある。
紙に書かれた事実。
これから残さなければならない証言。
記録は必要だ。
誰かが都合よく書き換えないために。
なかったことにしないために。
けれど、今、妹が求めているのは、記録ではない。
クラウスはアンと目を合わせた。
「信じる」
アンの唇が震えた。
「おまえが、リリアに助けられたと言うなら」
一度、息を吸う。
「兄として、おまえを信じる」
アンの目から、また涙が落ちた。
「でも」
クラウスは続ける。
「書記官としては、全部調べる」
「……うん」
「リリアがしたことも」
「うん」
「この家がしたことも」
アンの指が、クラウスの外套を握ったまま止まる。
「王宮がしたことも」
クラウスは一拍置いて言った。
「全部残す」
「どうして?」
「誰にも、違う話にさせないためだ」
アンはしばらく考えていた。
やがて、小さく頷く。
「リリアの名前も?」
「ああ」
「ちゃんと?」
「ちゃんと残す」
アンは涙を拭った。
「リリアって」
「ああ」
「罪人じゃなくて」
クラウスの胸が痛んだ。
「黒百合だけでもなくて」
クラウスは黙った。
「リリアって書いて」
クラウスは妹を見た。
「分かった」
短く答える。
「リリアと書く」
◆
その夜、ローゼンベルク侯爵家の記録庫では、王室騎士団立会いのもと、写しの作成が始まった。
三年前の馬場事件。
十二回の鞭打ち。
その後の隔離。
三か月後の投薬。
記憶障害。
今回の偽手紙。
偽造された命令札。
アンの誘拐。
エリーズの供述。
ナディアという女。
御前と呼ばれたセイラン。
リリアの逃走。
そして、アンの救出。
一枚ずつ、一行ずつ、ばらばらだった出来事が並べられていく。
まだ、すべてを一つの事件として結ぶことはできない。
セイランは、なぜエリーズを動かしたのか。
ナディアたちは、誰の命令でアンを利用したのか。
どこまでが同じ計画で、どこから別の思惑が入り込んだのか。
答えは、まだない。
だからこそ、推測と事実を分けて残す。
クラウスは机の前に座っていた。
引き出しの中には、王都から持ってきた小さな栞がある。
アンが昔作った、不揃いな刺繍の小鳥。
その横には、新しく作られた証言記録が置かれていた。
アン・ローゼンベルク。
十二歳。
本人証言。
クラウスは最後の頁へ目を落とした。
――リリア名義の手紙は、本人から受け取ったものではない。
――アン・ローゼンベルクは、リリアに救出されたと証言。
――御前と呼ばれた人物を「セイラン」と認識。
――同人がナディアらによる危害を制止し、自身を保護したと証言。
――セイランが誘拐そのものを命じたかについては、本人は「分からない」と回答。
クラウスはしばらくその文字を見ていた。
証言は、事実のすべてではない。
だが、なかったことにもできない。
別紙を取り出す。
まだ題名だけの白紙。
最初に書いたのは、黒百合ではなかった。
容疑者でも、逃亡者でも、危険対象でもない。
――リリア。
ただ、その名を書いた。
屋敷の外では、白い霧が夜へと溶けていく。
アンは帰ってきた。
けれど、リリアはもう、この家にはいない。
この家が、何もなかった頃へ戻ることはできない。
戻ってはいけない。
クラウスは次の行を書き始めた。
ここまで『黒百合のメイドと花の刃』をお読みいただき、本当にありがとうございました。
リリアとアンをめぐるローダン王国での物語は、ここでひと区切りとなります。
けれど、リリアの物語はまだ終わりません。
失われた記憶。
母・ミレナの足跡。
そして、自分の右腕に咲く「黒百合」とは何なのか。
それを知るため、リリアは新たな土地――ヤシャラへ向かいます。
物語は続編
『黒百合の巫女と花の刃』
へ続きます。
これからも、リリアたちの旅を見守っていただけたら嬉しいです。




