第五十六話 黒百合と皇帝
◆
夕刻が近づくにつれ、葛花の霧は少しずつ濃くなっていった。
中立庵へ続く道は、屋敷の奥へ向かう道より広い。
それでも馬車が通れるほどではなく、左右から伸びた葛の蔓が低い枝へ絡みつき、紫の花房がところどころ頭上へ垂れている。
リリアは杖をついていた。
右足へ体重をかけないよう、左側にはシリルがついている。
少し後ろにはヴィクトル。
前方をファリダが歩き、その先をセイランが進んでいる。
誰も、あまり話さなかった。
これから会うのは、ヤシャラ皇帝、ナディル・サルヴァーン。
セイランへ、自分を探すよう命じた人物。
そして、これから向かおうとしている国の皇帝。
考えるほど、胸の奥が落ち着かなくなる。
それだけではない。
リリアにはヤシャラ語が分からない。
セイランも、ファリダも、シリルも、ローダン語とヤシャラ語の両方を話せる。
けれど、自分とヴィクトルは違う。
皇帝とは、いったいどうやって話すのだろう。
リリアは杖の柄を握り直した。
「緊張していますか」
後ろからヴィクトルが尋ねた。
「……はい」
素直に答えると、少し恥ずかしくなった。
「ヴィクトルさんは?」
「しています」
意外だった。
シリルが横から口を挟む。
「だからって、おまえが皇帝の顔色ばかり見る必要はない」
「でも、皇帝陛下です」
「それはそうだ」
「シリルさんは、緊張していないのですか」
「してるように見えるか」
「……見えません」
「なら、そういうことにしとけ」
返事になっていない。
けれど、そのいつもの調子に、リリアは小さく息を吐いた。
少しだけ、肩の力が抜けた。
◆
やがて前方の霧が薄くなる。
葛の蔓に囲まれた、小さな平地が現れた。
中央には、古い木造の建物が一つ。
中立庵。
屋根は低く、装飾もほとんどない。
入口の左右には、ローダンとヤシャラ、それぞれの文字で同じ文言が刻まれた石板が立っていた。
――武器を置く者のみ入るべし。
――地位を持ち込む者、争いを持ち込むべからず。
庵の前には、すでに数人の人影があった。
その中で、一人だけ明らかに空気の違う男がいる。
長身。
黒に近い濃紺の長衣。
前皇帝の肖像で見たような、宝石を散りばめた豪奢な皇帝衣ではない。
ただ、胸元と剣の柄にだけ金の意匠が入っている。
青みを帯びた艶のある黒髪。
やや浅黒い肌。
こちらを向いた時、濃い琥珀金の瞳が夕暮れの中でもはっきりと見えた。
右の眉尻には、細い傷がある。
表情はほとんど動かない。
怖い人なのだろうか。
怒っているのだろうか。
何も読み取れなかった。
リリアの足が止まる。
「あの方が……」
「ああ」
セイランが低く答えた。
「ナディル・サルヴァーン陛下だ」
次の瞬間、ファリダが片膝をついた。
右手を胸元へ添え、深く頭を下げる。
皇帝の後ろに控えていた者たちも、同じように臣下の礼を取った。
そして、セイランも迷いなく膝を折る。
リリアは息を呑んだ。
背後で衣擦れの音がした。
ヴィクトルだった。
片膝はつかない。
右肩を固定したまま、左手を胸元へ添え、立ったまま深く頭を下げている。
王室騎士としての礼なのだろう。
いつもより背筋が固い。
青灰色の瞳も伏せられている。
リリアには、それだけでヴィクトルが本当に緊張しているのだと分かった。
ナディルの視線がヴィクトルへ移った。
金髪。
固定された右肩。
剣を帯びていない腰。
そして、その顔。
ナディルが何かを言った。
低く、聞き慣れない響き。
ヤシャラ語だ。
リリアには意味が分からない。
皇帝の側に立っていた年配の男が、一歩進み出た。
「陛下がお尋ねです。そなたはローダン王室騎士か、と」
流暢なローダン語だった。
通訳なのだ。
ヴィクトルは頭を下げたまま答える。
「はい。ヴィクトルと申します」
通訳がヤシャラ語へ訳す。
ナディルはヴィクトルをもう一度見た。
何か短く答える。
「『そうか』と」
それだけだった。
ヴィクトルがゆっくりと顔を上げた時、その表情にはかすかな緊張が残っていた。
次にナディルの視線がリリアへ向く。
リリアは慌てた。
自分は、どうすればいいのだろう。
セイランたちのように膝をつくのか。
ヴィクトルのように立ったまま礼をするのか。
リリアが杖を動かそうとすると、シリルが支える腕へ力を入れた。
「待て」
「でも」
「足」
「皇帝陛下です」
その時だった。
「そのままでいい」
リリアは目を瞬いた。
聞き慣れた言葉。
ローダン語だった。
発音には少し異国の響きがある。
けれど、確かに分かった。
皇帝は続けて何かを言う。
今度はヤシャラ語だった。
通訳が訳す。
「『怪我人に膝を折らせるつもりはない』と仰せです」
「ですが……」
ファリダが立ち上がり、静かに言った。
「リリア様。黒百合の巫女には、ヤシャラに古くから伝わる礼があります」
「黒百合の……?」
「皇帝陛下に対してのみ行う、特別な礼です」
リリアはますます困ってしまった。
「私、その礼を知りません」
「当然です」
ファリダが答えるより先に、ナディルがヤシャラ語で何かを言った。
通訳が訳す。
「陛下は、『知らない礼を形だけ真似る必要はない』と」
リリアはナディルを見る。
皇帝はもう一言続けた。
「『意味を知ってから、自分で行えばよい』」
意味を知ってから。
リリアは少し迷ったあと、杖を持ったまま、できる範囲で上体を下げた。
「……初めてお目にかかります。リリアと申します」
通訳がヤシャラ語へ訳そうとした。
けれど、その前にナディルが答えた。
「知っている」
たどたどしさのあるローダン語だった。
胸の奥がひやりとする。
自分のことを、この人はどこまで知っているのだろう。
「顔を上げろ」
通訳の言葉を受け、リリアはおそるおそる姿勢を戻した。
ナディルはしばらくリリアを見た。
黒髪。
顔。
そして、右腕。
何を確かめられているのか分からない。
ローゼンベルク家で痣を見せるよう命じられた時の感覚が、身体の奥へ蘇りかける。
無意識に右腕を左手で覆いそうになった。
その時。
「リリア」
皇帝が言った。
ローダン語だった。
黒百合ではない。
名前だった。
「はい」
ナディルがヤシャラ語へ戻る。
通訳が告げた。
「『お前に会うために来た』と」
「……なぜ、ですか」
尋ねてから、こんな聞き方でよかったのだろうかと不安になる。
通訳が訳す。
ナディルの表情は変わらなかった。
「中で話す」
◆
中立庵の中には、低い卓が一つだけ置かれていた。
皇帝のための玉座はない。
上座も下座もない。
全員が武器を入口の外へ預けた。
ナディルも腰の剣を外す。
シリルも短剣を置いた。
ヴィクトルは、もともと剣を持っていない。
セイランとファリダも武器を預ける。
石板に刻まれていた言葉の意味を、リリアはようやく少し理解した。
ここでは、皇帝も玉座には座らない。
ナディルが卓の一方へ座る。
その正面へ、リリア。
右側にはシリル。
少し後ろにヴィクトル。
セイランとファリダは離れた位置へ座った。
皇帝の側には、先ほどの年配の通訳だけが残った。
「今日は公式の聴取ではない」
ナディルがヤシャラ語で話し、通訳がローダン語へ変える。
「記録も取らない。尋問でもない。陛下は、あなたご自身の意思を聞くために来られました」
「私の……?」
通訳が訳す。
ナディルが頷いた。
「セイラン様から、聞いていないのですか」
「聞いた」
今度の短い言葉は、ナディル自身のローダン語だった。
それからヤシャラ語で続ける。
「『だが、本人の口から聞く』と」
リリアは膝の上で指を組んだ。
自分の言葉で。
そう言われると、急に緊張した。
「お前はヤシャラへ行くつもりだと聞いた。なぜだ」
「黒百合について……知りたいからです」
通訳が訳す。
ナディルの視線が、リリアの右腕へ一度落ちた。
「それから」
リリアは胸元へ手を置いた。
「母を知る方々が、ヤシャラにいると聞きました」
ナディルは短く答えた。
「ミレナか」
その名は、訳されなくても分かった。
母の名前。
皇帝の口から出たその響きに、胸が強く打った。
「母をご存じなのですか」
ナディルは頷いた。
リリアは思わず身を乗り出しかける。
右足へ鈍い痛みが走った。
「……っ」
「動くな」
シリルがすぐに支える。
「すみません」
「だから謝るな」
「……はい」
リリアは姿勢を戻した。
それでも、ナディルから目を離せない。
「会ったことが……あるのですか」
ナディルの答えは短かった。
「あった」
「いつ……」
ナディルはすぐには答えなかった。
何を話すか選んでいるというより、遠い記憶へ目を向けているように見えた。
やがて口を開く。
「私が十三の時だ」
「十三歳……」
今の自分より幼い。
皇帝になる前の少年だったナディルが、母を知っていた。
母は、その少年に何を話したのだろう。
「母は……どのような人でしたか」
尋ねながら、声が小さくなる。
通訳がヤシャラ語へ訳す。
ナディルは一度だけ卓へ視線を落とした。
「その問いに、一言で答えるつもりはない」
期待がしぼみ、リリアは目を伏せた。
「……話したくないのですか」
通訳が訳し終える前から、ナディルが首を振った。
「違う」
ローダン語だった。
リリアは顔を上げる。
ナディルはヤシャラ語へ戻った。
「私が知っているミレナは、お前の母になる前の一部分にすぎない。私が見たものだけを、お前の母のすべてとして渡すつもりはない」
通訳の言葉を、リリアは一つずつ聞いた。
「では……いつか」
少し迷ってから続ける。
「いつか、教えてくださいますか」
「ああ」
ナディルは頷いた。
そして、通訳を介して続ける。
「ただし、楽しい話ではない」
リリアの指が止まる。
「私の父が関わっている」
セイランの視線がナディルへ向いた。
「前皇帝陛下が……?」
「ああ」
それ以上は語らない。
けれど、リリアには分かった。
この人は母の名前を知っているだけではない。
「母について、ほかにも知っている方がいらっしゃるのですか」
「いる」
「一人ではなく?」
「何人かはな」
胸元へ添えた手へ力が入る。
「では……その方々からも、お話を聞いてみたいです」
「そうしろ」
「皇帝陛下のお話も?」
ナディルは一瞬黙った。
「ああ。お前が聞くと決めた時にな」
◆
「では……私からも、お尋ねしてよろしいでしょうか」
「聞け」
「皇帝陛下は、なぜ私を探していたのですか」
通訳がヤシャラ語へ訳した。
庵の中が静まった。
ナディルは隠さなかった。
「黒百合だからだ」
分かっていたはずなのに。
通訳からその言葉を聞いた瞬間、指先が冷たくなった。
「私自身ではなく……?」
聞いてしまったあと、少し怖くなった。
ナディルは間を置いた。
「最初はな」
リリアは目を瞬く。
「最初は……?」
「ああ」
「では、今は……違うのですか」
「同じではない」
「なぜでしょうか」
「報告を読んだからだ」
「私についての?」
ナディルは頷いた。
「ローゼンベルク家での扱い。三年前の馬場事件。その後の処罰。記憶を失った経緯。王室による移送。逃走。そして、アン・ローゼンベルクの救出」
鞭。
薬。
第七隔離塔。
霧。
一つずつ、通訳の口からローダン語になって戻ってくる。
自分の人生が、遠い国で報告書になっていた。
そう思うと、不思議な気持ちがした。
そして、怖くもあった。
「それを読んだ」
「……はい」
「だから、黒百合だけを見ればよいとは思っていない」
リリアはナディルを見る。
「それでも……皇帝陛下は、私をヤシャラへ連れていきたいのですよね」
「ああ」
迷いはなかった。
「なぜですか」
「ヤシャラで保護するためだ」
リリアは少し眉を寄せる。
「外で何が動いているか分からないまま逃げ続けるより、ヤシャラへ入り、自分を狙う者と、そうでない者を知った方がいい」
「皇帝陛下の庇護の下で……?」
「ああ」
杖を握る指に力が入った。
聞いていいのだろうか。
けれど、聞かなければならない気がした。
「あの……」
通訳がナディルへ伝える。
皇帝がリリアを見る。
「それは……」
一度、視線を落とす。
「皇帝陛下のものになる、ということでは……ありませんか」
通訳が言葉を止めた。
一瞬だった。
それから慎重にヤシャラ語へ訳す。
庵の空気が静まった。
ナディルが答えた。
「誰がそう言った」
「誰も……言っていません」
「なら、なぜそう思う」
「今まで」
喉が少し苦しくなる。
「守ると言われた時、そのあとには、いつも何かを決められました」
通訳が一つずつ訳していく。
「薬を飲みなさい、とか」
「……」
「ここにいなさい、とか」
「……」
「アン様へ近づいてはいけない、とか」
声が小さくなる。
「私のためだと言われても……」
一度、息を吸う。
「嫌だと言えなかったり、そこから出られなかったりしたら」
杖の柄へ視線を落とす。
「私には……」
言っていいのだろうか。
皇帝なのに。
怖い。
それでも。
「檻と、あまり違わないように思えてしまいます」
通訳はすぐには訳さなかった。
ほんの一瞬、言葉を選ぶような間があった。
それからヤシャラ語へ変える。
ナディルは黙って聞いた。
やがて答える。
通訳が慎重に告げた。
「陛下は、『保護と監禁を同じにするな』と仰せです」
リリアの肩が小さく揺れた。
「……すみません」
通訳が訳そうとする。
だが、ナディルが先に言った。
「謝るな」
ローダン語だった。
リリアは顔を上げる。
ナディルはそれ以上ローダン語を続けられないのか、通訳へ何かを告げる。
「『思ったことを言え』と」
リリアは唇を結んだ。
ヤシャラへ行く道まで閉ざされるかもしれない。
けれど。
「……私には」
声が震えた。
「まだ……同じように思えてしまいます」
いったん視線が卓へ落ちる。
それでも、もう一度顔を上げた。
「守るためだと言われて、出ることを許されないのなら……違いが、よく分かりません」
通訳が訳す。
長い沈黙のあと、ナディルが低く息を吐いた。
「……そうか」
否定は、されなかった。
それだけで、張りつめていたものが少し緩む。
「だが、皇帝として、お前を完全に自由にしておけるとも言わない」
リリアの指先が固くなる。
「……どうしてでしょうか」
「お前一人の問題では済まなくなるからだ」
リリアはしばらく黙った。
「でも……」
声は小さい。
「私の人生、ですよね」
通訳が訳す。
ナディルは迷わなかった。
「ああ。お前の人生だ」
その答えに、少しだけ安心する。
けれどナディルは続けた。
「だが、黒百合を祀院、ローダン王室、反皇帝派、あるいは他国が利用しようとすれば、国が動く。お前が望むかどうかに関係なくな」
ローダン王室。
その言葉に、後ろでヴィクトルの左手が膝の上で固く閉じられた。
ナディルは見逃さなかった。
琥珀金の瞳がヴィクトルへ向く。
何かを尋ねた。
通訳が訳す。
「『王室騎士なら、それは分かるだろう』と」
突然向けられた言葉に、ヴィクトルの背筋が伸びる。
「……はい」
通訳が訳す。
ナディルがさらに問う。
「『それでも、なぜここにいる』と」
ヴィクトルはすぐには答えなかった。
リリアも振り返る。
「リリア様を王室へ戻せば、安全になるとは思えませんでした」
静かな声だった。
「騎士として正しい判断だったかは、今も分かりません」
一度、言葉を切る。
「ですが、あの時、この方を引き渡すことは、できませんでした」
リリアの胸が小さく鳴った。
通訳がヤシャラ語へ変える。
ナディルはしばらくヴィクトルを見た。
「命令より、自分の判断を選んだか」
「はい」
「後悔しているか」
ヴィクトルは膝の上の左手を一度開いた。
「命令に背いたことを、軽くは考えておりません」
それからリリアを見る。
「ですが、この方と来たことは後悔しておりません」
リリアは思わず目を伏せた。
そんなふうに言われるとは思っていなかった。
ナディルは二人を見たあと、短く答えた。
「そうか」
ナディルは再びリリアを見る。
「所在は把握する」
シリルの目つきが変わる。
「監視するってことか」
シリルはヤシャラ語で直接言った。
「ああ」
「それを自由って言うのか」
「完全な自由ではない」
「なら――」
「シリルさん」
リリアが小さく呼んだ。
シリルがこちらを見る。
「……聞きたいです」
自分で。
怖くても。
最後まで。
「皇帝陛下」
通訳がリリアの言葉を伝える。
「もし私がヤシャラへ行って、黒百合のことや母のことを知ったあと……ヤシャラを出たいと、思ったら?」
ナディルは黙った。
その沈黙が長い。
やはり駄目なのだろうか。
そう思い始めた時。
「止める理由がなければ、止めない」
リリアは顔を上げる。
「理由が……あれば?」
「止める」
「どんな理由ですか」
「祀院の強硬派が待ち伏せしている。戦が始まっている。お前がその時動けば、多数が死ぬ。そういう時だ」
リリアは膝の上の手を握った。
「私が……嫌だと言っても?」
通訳が訳そうとした、その時、ナディルが片手を上げた。
通訳が口を閉じる。
皇帝がリリアを見る。
「嫌だ、か」
ぎこちないローダン語だった。
ナディルは少し間を置いた。
「『嫌だ』は、分かる」
リリアは何も言えなかった。
通訳が続きを伝えた。
「『それでも、必要なら止める』と」
胸の奥がきゅっと縮む。
「では……その時は、私がどう思っていても止めるのですね」
「そうだ」
「……そう、なのですね」
「皇帝とは、全員の意思を守れる立場ではない」
厳しい言葉だった。
「だが」
ナディルが続ける。
「私が止める時は、理由を言う」
リリアが顔を上げる。
「理由を?」
「ああ」
「皇帝の命令だから、ではなく?」
「少なくとも、お前には」
その言葉に、セイランがナディルを見る。
「なぜ……ですか」
ナディルはしばらく黙った。
「前皇帝が、理由を言わない男だった」
庵の空気が変わった。
「従え」
通訳が訳す。
「黙れ」
次の言葉。
「皇帝が決めた」
それだけで、多くのものを奪った。
ナディルは、それ以上は、説明しなかった。
「私は、同じ皇帝になるつもりはない」
リリアは彼を見つめた。
十三歳の時、母ミレナと会った。
そして、その記憶には前皇帝が関わっている。
この人が自分へ「理由を話す」と言うことと、母の過去は、どこかでつながっているのかもしれない。
◆
「陛下」
セイランがヤシャラ語で口を開いた。
「リリアを皇宮へ入れるつもりですか」
「ああ」
リリアには言葉が分からない。
通訳が会話を追って訳す。
「『ヤシャラへ入るなら、皇宮が最も安全だ』と」
リリアの指が動く。
「皇宮へ……」
セイランが続ける。
「断ったら?」
「別の場所を用意する」
訳を聞いて、リリアは思わず顔を上げた。
シリルの眉も上がる。
今度はシリルがヤシャラ語で言った。
「最初からそう言え」
「皇宮が最も安全なのは事実だ」
「安全だからって、そこしかないみたいに言うな」
「それも正しい」
ナディルは簡単に認めた。
シリルが言葉に詰まる。
「……あんた、本当に皇帝か」
「よく言われる」
「誰にだよ」
「妹に」
通訳がそこまで訳したところで、リリアは思わずナディルを見た。
皇帝の口元がほんの少し緩んでいた。
笑ったというほどではない。
この人も、妹と話す時には違う顔をするのだろうか。
セイランが呆れたように何かを言う。
通訳が訳す。
「『サフィーヤか』と」
ナディルが頷いた。
それだけで表情は元へ戻る。
「皇宮には、私の家族がいる。母。妹たち。皇后。子どもたち」
「皆さん、黒百合についてご存じなのですか」
「知っている。程度の差はあるが」
「……怖がりませんか」
思わず出た問いだった。
「何を」
「私を」
右腕をそっと押さえる。
「黒百合だから……」
通訳が訳す。
ナディルは眉を寄せた。
「黒百合というだけで、お前を怖がる者ばかりではない」
「……ばかりではない?」
「ああ」
少し不安になる答えだった。
「では……どう見られるのでしょう」
「それは自分で確かめろ」
また答えを残された。
けれど、今回は隠されたようには感じなかった。
ヤシャラへ来れば分かる。
そう言われているようだった。
「教えてください」
「何だ」
「先ほど、ファリダさんが……黒百合の巫女には、皇帝陛下に対する特別な礼があると」
「ああ」
「どうしてですか」
ナディルは少し考えてから答えた。
「黒百合の巫女は、皇族の臣下ではない」
リリアは目を見開いた。
「臣下では……ない?」
「違う」
「では、私は……」
「上下ではない」
「違うのですか」
「立場が違う。皇族は皇族。黒百合の巫女は黒百合の巫女だ」
理解できない。
ローゼンベルク家で、自分は使用人だった。
罪人でもあった。
監視される者だった。
「詳しいことは、ヤシャラへ来てから知ればいい」
ナディルが言った。
「お前が自分の目でな」
リリアは小さく頷いた。
「……はい」
◆
ナディルが立ち上がった。
夕暮れの光が、紙窓を通して床へ落ちている。
「今日はここまでだ」
「お帰りになるのですか」
尋ねてから、引き止めるようだったかもしれないと思い、リリアは少し慌てた。
「あ、すみません」
「謝る必要はない」
通訳がナディルの返事を伝える。
「皇帝がいつまでも国境に留まっているわけにもいかぬ」
セイランが言った。
ナディルが彼を見る。
二人はヤシャラ語で短く言葉を交わす。
「『お前に言われるまでもない』」
通訳が訳す。
「『なら最初から少人数で来るな』」
「『大勢連れて来れば、お前が葛花へ入れなかっただろう』」
「『当然だ』」
短いやり取りには皇帝と臣下だけではない、長い付き合いをかんじさせるものがあった。
ナディルがリリアへ向き直る。
「ヤシャラへ入るかどうかは、まだ変えていい」
「私は……行くと決めました」
「ああ」
「それでも?」
「決め直してもいい」
リリアは目を瞬いた。
決めたことは、最後までやり通さなければならない。
そう思っていた。
「途中で……やめても?」
「ああ」
「戻っても?」
「状況が許せばな」
やはり、絶対とは言わない。
けれど、できない約束もしない。
「分かりました」
ナディルが庵の出口へ向かう。
その背へ。
「皇帝陛下」
リリアが呼んだ。
ナディルが振り返る。
リリアは膝の上へ置いた手を握った。
「私は、黒百合について知るためにヤシャラへ行きます」
通訳が訳す。
「母のことも……知りたいです」
ナディルは黙って聞いている。
「でも」
一度、息を吸う。
怖い。
こんなことを皇帝へ言ってよいのか、まだ分からない。
それでも。
「黒百合だけとして扱われるために、行くのではありません」
声は大きくは、なかった。
けれど、途中で止めることもできなかった。
「私は……リリアとして」
一度視線を落とし、それからもう一度ナディルを見る。
「自分が何者なのかを、知りたいです」
通訳がヤシャラ語へ変える。
庵の中は静かだった。
セイランも。
シリルも。
ヴィクトルも。
誰も口を挟まない。
ナディルは長くリリアを見た。
「分かっている」
短いローダン語だった。
リリアは少し驚く。
「……本当に?」
ナディルは頷いた。
そしてヤシャラ語で続ける。
「少なくとも、今のお前についてはな」
その意味までは分からなかった。
「だから、お前も忘れるな。黒百合である前に、自分の意思があることをだ」
胸の奥へ、その言葉が静かに落ちた。
「……はい」
◆
ナディルが外へ向かおうとした時、セイランが呼び止めた。
旅の支度についての話だった。
「金と馬はこちらで用意する」
通訳が訳す。
「ファリダを同行させる」
「私を?」
ファリダが思わず顔を上げた。
「ああ」
「承知いたしました」
「それから、影をつける」
シリルの目が鋭くなる。
「やっぱり監視する気じゃねえか」
「する」
「開き直るな」
「ただし、役目は護衛と所在確認だ」
ナディルがリリアを見る。
「私信も、日々の会話も報告させない。命の危険がない限り、部屋へ勝手に入らせることも、本人の判断へ介入させることもしない」
リリアは少し迷う。
「シリルさんと、ヴィクトルさんには……?」
「向こうから攻撃を受けない限り、手を出させない」
シリルが腕を組む。
「信用はしない」
「それでいい」
どこかで聞いたようなやり取りだった。
リリアは杖の柄を指先で撫でた。
聞いてよいだろうか。
「あの……」
「何だ」
「もし、私が……影をつけてほしくないと言ったら?」
通訳が訳す。
ナディルはすぐには答えなかった。
「今は外せない」
リリアは目を伏せる。
「……そうですか」
「祀院の動きが読めない。お前を狙う者が、どこまで入り込んでいるかも分からない」
「分かりました」
そう答えかけて、リリアは止まった。
本当に、それだけでいいのだろうか。
小さく息を吸う。
「でも……」
ナディルを見る。
「私が嫌だと言ったことは、覚えていてくださいますか」
通訳が口を開きかける。
ナディルが片手で制した。
「嫌だ」
ゆっくりと、ローダン語で繰り返す。
それから。
「分かる」
リリアは目を瞬いた。
ナディルは次の言葉を探すように少し黙った。
「覚えておく」
たどたどしい。
けれど、通訳を介さない言葉だった。
リリアの表情がほんの少し緩む。
「状況が変わったら……もう一度、聞いてください」
今度は通訳が訳した。
ナディルは頷いた。
「分かった」
それで十分とは思わない。
影をつけられることは、やはり怖い。
けれど。
嫌だと言ってもよかった。
その言葉を、消されなかった。
今は、それを大切にしたかった。
◆
庵を出ると、霧は夕闇へ溶け始めていた。
ナディルの近衛たちは、中立庵から離れた場所で待っている。
皇帝は剣を受け取り、腰へ戻した。
リリアは庵の入口から、その背を見る。
母を知っている人。
十三歳の時に、ミレナと会った人。
自分を黒百合として探させた皇帝。
そして、怖いと思う気持ちを口にしても、怒らなかった人。
「皇帝陛下」
もう一度だけ呼んだ。
ナディルが足を止める。
「母は……」
声が詰まりそうになる。
「皇帝陛下を、知っていたのですね」
通訳が訳す。
ナディルは頷いた。
「ああ」
「母と話したことも?」
短い沈黙。
「あった」
「母は……」
聞きたい。
どんな声だったのか。
何を言ったのか。
笑ったのか。
いくつもの問いが一度に浮かぶ。
けれど、今はどれを聞けばよいのか分からなかった。
ナディルは急かさない。
「……また、教えてください」
ようやくそれだけ言った。
「ああ」
リリアは小さく頷いた。
皇帝は今度こそ背を向けた。
その後を近衛と通訳が追う。
リリアは、その背中を見送りながら右腕へ手を置いた。
ヤシャラ。
黒百合。
ミレナ。
皇帝。
知らないことは、減るどころか増えた。
けれど、怖さだけではなかった。
十三歳のナディルが見た母。
ヤシャラに今もいる、母を知る人々。
皇族の臣下ではないという黒百合の巫女。
そのすべてを、今度は、自分の目で見たい。
「……行きます」
小さく呟く。
シリルが隣で聞き返した。
「何が」
「ヤシャラへ」
「……そうか」
リリアは杖を握り直した。
怖くないわけではない。
それでも、誰かに連れていかれるのではない。
自分で、行ってみたいと思った。
リリアは、霧の向こうへ消えていく皇帝の背を見つめた。
そして初めて、母ミレナの過去へ続く道が、ほんの少しだけ現実のものになった気がした。




