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第五十六話 黒百合と皇帝

◆


 夕刻が近づくにつれ、葛花の霧は少しずつ濃くなっていった。


 中立庵へ続く道は、屋敷の奥へ向かう道より広い。


 それでも馬車が通れるほどではなく、左右から伸びた葛の蔓が低い枝へ絡みつき、紫の花房がところどころ頭上へ垂れている。


 リリアは杖をついていた。


 右足へ体重をかけないよう、左側にはシリルがついている。


 少し後ろにはヴィクトル。


 前方をファリダが歩き、その先をセイランが進んでいる。


 誰も、あまり話さなかった。


 これから会うのは、ヤシャラ皇帝、ナディル・サルヴァーン。


 セイランへ、自分を探すよう命じた人物。


 そして、これから向かおうとしている国の皇帝。


 考えるほど、胸の奥が落ち着かなくなる。


 それだけではない。


 リリアにはヤシャラ語が分からない。


 セイランも、ファリダも、シリルも、ローダン語とヤシャラ語の両方を話せる。


 けれど、自分とヴィクトルは違う。


 皇帝とは、いったいどうやって話すのだろう。


 リリアは杖の柄を握り直した。


「緊張していますか」


 後ろからヴィクトルが尋ねた。


「……はい」


 素直に答えると、少し恥ずかしくなった。


「ヴィクトルさんは?」


「しています」


 意外だった。


 シリルが横から口を挟む。


「だからって、おまえが皇帝の顔色ばかり見る必要はない」


「でも、皇帝陛下です」


「それはそうだ」


「シリルさんは、緊張していないのですか」


「してるように見えるか」


「……見えません」


「なら、そういうことにしとけ」


 返事になっていない。


 けれど、そのいつもの調子に、リリアは小さく息を吐いた。


 少しだけ、肩の力が抜けた。


◆


 やがて前方の霧が薄くなる。


 葛の蔓に囲まれた、小さな平地が現れた。


 中央には、古い木造の建物が一つ。


 中立庵。


 屋根は低く、装飾もほとんどない。


 入口の左右には、ローダンとヤシャラ、それぞれの文字で同じ文言が刻まれた石板が立っていた。


 ――武器を置く者のみ入るべし。


 ――地位を持ち込む者、争いを持ち込むべからず。


 庵の前には、すでに数人の人影があった。


 その中で、一人だけ明らかに空気の違う男がいる。


 長身。


 黒に近い濃紺の長衣。


 前皇帝の肖像で見たような、宝石を散りばめた豪奢な皇帝衣ではない。


 ただ、胸元と剣の柄にだけ金の意匠が入っている。


 青みを帯びた艶のある黒髪。


 やや浅黒い肌。


 こちらを向いた時、濃い琥珀金の瞳が夕暮れの中でもはっきりと見えた。


 右の眉尻には、細い傷がある。


 表情はほとんど動かない。


 怖い人なのだろうか。


 怒っているのだろうか。


 何も読み取れなかった。


 リリアの足が止まる。


「あの方が……」


「ああ」


 セイランが低く答えた。


「ナディル・サルヴァーン陛下だ」


 次の瞬間、ファリダが片膝をついた。


 右手を胸元へ添え、深く頭を下げる。


 皇帝の後ろに控えていた者たちも、同じように臣下の礼を取った。


 そして、セイランも迷いなく膝を折る。


 リリアは息を呑んだ。


 背後で衣擦れの音がした。


 ヴィクトルだった。


 片膝はつかない。


 右肩を固定したまま、左手を胸元へ添え、立ったまま深く頭を下げている。


 王室騎士としての礼なのだろう。


 いつもより背筋が固い。


 青灰色の瞳も伏せられている。


 リリアには、それだけでヴィクトルが本当に緊張しているのだと分かった。


 ナディルの視線がヴィクトルへ移った。


 金髪。


 固定された右肩。


 剣を帯びていない腰。


 そして、その顔。


 ナディルが何かを言った。


 低く、聞き慣れない響き。


 ヤシャラ語だ。


 リリアには意味が分からない。


 皇帝の側に立っていた年配の男が、一歩進み出た。


「陛下がお尋ねです。そなたはローダン王室騎士か、と」


 流暢なローダン語だった。


 通訳なのだ。


 ヴィクトルは頭を下げたまま答える。


「はい。ヴィクトルと申します」


 通訳がヤシャラ語へ訳す。


 ナディルはヴィクトルをもう一度見た。


 何か短く答える。


「『そうか』と」


 それだけだった。


 ヴィクトルがゆっくりと顔を上げた時、その表情にはかすかな緊張が残っていた。


 次にナディルの視線がリリアへ向く。


 リリアは慌てた。


 自分は、どうすればいいのだろう。


 セイランたちのように膝をつくのか。


 ヴィクトルのように立ったまま礼をするのか。


 リリアが杖を動かそうとすると、シリルが支える腕へ力を入れた。


「待て」


「でも」


「足」


「皇帝陛下です」


 その時だった。


「そのままでいい」


 リリアは目を瞬いた。


 聞き慣れた言葉。


 ローダン語だった。


 発音には少し異国の響きがある。


 けれど、確かに分かった。


 皇帝は続けて何かを言う。


 今度はヤシャラ語だった。


 通訳が訳す。


「『怪我人に膝を折らせるつもりはない』と仰せです」


「ですが……」


 ファリダが立ち上がり、静かに言った。


「リリア様。黒百合の巫女には、ヤシャラに古くから伝わる礼があります」


「黒百合の……?」


「皇帝陛下に対してのみ行う、特別な礼です」


 リリアはますます困ってしまった。


「私、その礼を知りません」


「当然です」


 ファリダが答えるより先に、ナディルがヤシャラ語で何かを言った。


 通訳が訳す。


「陛下は、『知らない礼を形だけ真似る必要はない』と」


 リリアはナディルを見る。


 皇帝はもう一言続けた。


「『意味を知ってから、自分で行えばよい』」


 意味を知ってから。


 リリアは少し迷ったあと、杖を持ったまま、できる範囲で上体を下げた。


「……初めてお目にかかります。リリアと申します」


 通訳がヤシャラ語へ訳そうとした。


 けれど、その前にナディルが答えた。


「知っている」


 たどたどしさのあるローダン語だった。


 胸の奥がひやりとする。


 自分のことを、この人はどこまで知っているのだろう。


「顔を上げろ」


 通訳の言葉を受け、リリアはおそるおそる姿勢を戻した。


 ナディルはしばらくリリアを見た。


 黒髪。


 顔。


 そして、右腕。


 何を確かめられているのか分からない。


 ローゼンベルク家で痣を見せるよう命じられた時の感覚が、身体の奥へ蘇りかける。


 無意識に右腕を左手で覆いそうになった。


 その時。


「リリア」


 皇帝が言った。


 ローダン語だった。


 黒百合ではない。


 名前だった。


「はい」


 ナディルがヤシャラ語へ戻る。


 通訳が告げた。


「『お前に会うために来た』と」


「……なぜ、ですか」


 尋ねてから、こんな聞き方でよかったのだろうかと不安になる。


 通訳が訳す。


 ナディルの表情は変わらなかった。


「中で話す」


◆


 中立庵の中には、低い卓が一つだけ置かれていた。


 皇帝のための玉座はない。


 上座も下座もない。


 全員が武器を入口の外へ預けた。


 ナディルも腰の剣を外す。


 シリルも短剣を置いた。


 ヴィクトルは、もともと剣を持っていない。


 セイランとファリダも武器を預ける。


 石板に刻まれていた言葉の意味を、リリアはようやく少し理解した。


 ここでは、皇帝も玉座には座らない。


 ナディルが卓の一方へ座る。


 その正面へ、リリア。


 右側にはシリル。


 少し後ろにヴィクトル。


 セイランとファリダは離れた位置へ座った。


 皇帝の側には、先ほどの年配の通訳だけが残った。


「今日は公式の聴取ではない」


 ナディルがヤシャラ語で話し、通訳がローダン語へ変える。


「記録も取らない。尋問でもない。陛下は、あなたご自身の意思を聞くために来られました」


「私の……?」


 通訳が訳す。


 ナディルが頷いた。


「セイラン様から、聞いていないのですか」


「聞いた」


 今度の短い言葉は、ナディル自身のローダン語だった。


 それからヤシャラ語で続ける。


「『だが、本人の口から聞く』と」


 リリアは膝の上で指を組んだ。


 自分の言葉で。


 そう言われると、急に緊張した。


「お前はヤシャラへ行くつもりだと聞いた。なぜだ」


「黒百合について……知りたいからです」


 通訳が訳す。


 ナディルの視線が、リリアの右腕へ一度落ちた。


「それから」


 リリアは胸元へ手を置いた。


「母を知る方々が、ヤシャラにいると聞きました」


 ナディルは短く答えた。


「ミレナか」


 その名は、訳されなくても分かった。


 母の名前。


 皇帝の口から出たその響きに、胸が強く打った。


「母をご存じなのですか」


 ナディルは頷いた。


 リリアは思わず身を乗り出しかける。


 右足へ鈍い痛みが走った。


「……っ」


「動くな」


 シリルがすぐに支える。


「すみません」


「だから謝るな」


「……はい」


 リリアは姿勢を戻した。


 それでも、ナディルから目を離せない。


「会ったことが……あるのですか」


 ナディルの答えは短かった。


「あった」


「いつ……」


 ナディルはすぐには答えなかった。


 何を話すか選んでいるというより、遠い記憶へ目を向けているように見えた。


 やがて口を開く。


「私が十三の時だ」


「十三歳……」


 今の自分より幼い。


 皇帝になる前の少年だったナディルが、母を知っていた。


 母は、その少年に何を話したのだろう。


「母は……どのような人でしたか」


 尋ねながら、声が小さくなる。


 通訳がヤシャラ語へ訳す。


 ナディルは一度だけ卓へ視線を落とした。


「その問いに、一言で答えるつもりはない」


 期待がしぼみ、リリアは目を伏せた。


「……話したくないのですか」


 通訳が訳し終える前から、ナディルが首を振った。


「違う」


 ローダン語だった。


 リリアは顔を上げる。


 ナディルはヤシャラ語へ戻った。


「私が知っているミレナは、お前の母になる前の一部分にすぎない。私が見たものだけを、お前の母のすべてとして渡すつもりはない」


 通訳の言葉を、リリアは一つずつ聞いた。


「では……いつか」


 少し迷ってから続ける。


「いつか、教えてくださいますか」


「ああ」


 ナディルは頷いた。


 そして、通訳を介して続ける。


「ただし、楽しい話ではない」


 リリアの指が止まる。


「私の父が関わっている」


 セイランの視線がナディルへ向いた。


「前皇帝陛下が……?」


「ああ」


 それ以上は語らない。


 けれど、リリアには分かった。


 この人は母の名前を知っているだけではない。


「母について、ほかにも知っている方がいらっしゃるのですか」


「いる」


「一人ではなく?」


「何人かはな」


 胸元へ添えた手へ力が入る。


「では……その方々からも、お話を聞いてみたいです」


「そうしろ」


「皇帝陛下のお話も?」


 ナディルは一瞬黙った。


「ああ。お前が聞くと決めた時にな」


◆


「では……私からも、お尋ねしてよろしいでしょうか」


「聞け」


「皇帝陛下は、なぜ私を探していたのですか」


 通訳がヤシャラ語へ訳した。


 庵の中が静まった。


 ナディルは隠さなかった。


「黒百合だからだ」


 分かっていたはずなのに。


 通訳からその言葉を聞いた瞬間、指先が冷たくなった。


「私自身ではなく……?」


 聞いてしまったあと、少し怖くなった。


 ナディルは間を置いた。


「最初はな」


 リリアは目を瞬く。


「最初は……?」


「ああ」


「では、今は……違うのですか」


「同じではない」


「なぜでしょうか」


「報告を読んだからだ」


「私についての?」


 ナディルは頷いた。


「ローゼンベルク家での扱い。三年前の馬場事件。その後の処罰。記憶を失った経緯。王室による移送。逃走。そして、アン・ローゼンベルクの救出」


 鞭。


 薬。


 第七隔離塔。


 霧。


 一つずつ、通訳の口からローダン語になって戻ってくる。


 自分の人生が、遠い国で報告書になっていた。


 そう思うと、不思議な気持ちがした。


 そして、怖くもあった。


「それを読んだ」


「……はい」


「だから、黒百合だけを見ればよいとは思っていない」


 リリアはナディルを見る。


「それでも……皇帝陛下は、私をヤシャラへ連れていきたいのですよね」


「ああ」


 迷いはなかった。


「なぜですか」


「ヤシャラで保護するためだ」


 リリアは少し眉を寄せる。


「外で何が動いているか分からないまま逃げ続けるより、ヤシャラへ入り、自分を狙う者と、そうでない者を知った方がいい」


「皇帝陛下の庇護の下で……?」


「ああ」


 杖を握る指に力が入った。


 聞いていいのだろうか。


 けれど、聞かなければならない気がした。


「あの……」


 通訳がナディルへ伝える。


 皇帝がリリアを見る。


「それは……」


 一度、視線を落とす。


「皇帝陛下のものになる、ということでは……ありませんか」


 通訳が言葉を止めた。


 一瞬だった。


 それから慎重にヤシャラ語へ訳す。


 庵の空気が静まった。


 ナディルが答えた。


「誰がそう言った」


「誰も……言っていません」


「なら、なぜそう思う」


「今まで」


 喉が少し苦しくなる。


「守ると言われた時、そのあとには、いつも何かを決められました」


 通訳が一つずつ訳していく。


「薬を飲みなさい、とか」


「……」


「ここにいなさい、とか」


「……」


「アン様へ近づいてはいけない、とか」


 声が小さくなる。


「私のためだと言われても……」


 一度、息を吸う。


「嫌だと言えなかったり、そこから出られなかったりしたら」


 杖の柄へ視線を落とす。


「私には……」


 言っていいのだろうか。


 皇帝なのに。


 怖い。


 それでも。


「檻と、あまり違わないように思えてしまいます」


 通訳はすぐには訳さなかった。


 ほんの一瞬、言葉を選ぶような間があった。


 それからヤシャラ語へ変える。


 ナディルは黙って聞いた。


 やがて答える。


 通訳が慎重に告げた。


「陛下は、『保護と監禁を同じにするな』と仰せです」


 リリアの肩が小さく揺れた。


「……すみません」


 通訳が訳そうとする。


 だが、ナディルが先に言った。


「謝るな」


 ローダン語だった。


 リリアは顔を上げる。


 ナディルはそれ以上ローダン語を続けられないのか、通訳へ何かを告げる。


「『思ったことを言え』と」


 リリアは唇を結んだ。


 ヤシャラへ行く道まで閉ざされるかもしれない。


 けれど。


「……私には」


 声が震えた。


「まだ……同じように思えてしまいます」


 いったん視線が卓へ落ちる。


 それでも、もう一度顔を上げた。


「守るためだと言われて、出ることを許されないのなら……違いが、よく分かりません」


 通訳が訳す。


 長い沈黙のあと、ナディルが低く息を吐いた。


「……そうか」


 否定は、されなかった。


 それだけで、張りつめていたものが少し緩む。


「だが、皇帝として、お前を完全に自由にしておけるとも言わない」


 リリアの指先が固くなる。


「……どうしてでしょうか」


「お前一人の問題では済まなくなるからだ」


 リリアはしばらく黙った。


「でも……」


 声は小さい。


「私の人生、ですよね」


 通訳が訳す。


 ナディルは迷わなかった。


「ああ。お前の人生だ」


 その答えに、少しだけ安心する。


 けれどナディルは続けた。


「だが、黒百合を祀院、ローダン王室、反皇帝派、あるいは他国が利用しようとすれば、国が動く。お前が望むかどうかに関係なくな」


 ローダン王室。


 その言葉に、後ろでヴィクトルの左手が膝の上で固く閉じられた。


 ナディルは見逃さなかった。


 琥珀金の瞳がヴィクトルへ向く。


 何かを尋ねた。


 通訳が訳す。


「『王室騎士なら、それは分かるだろう』と」


 突然向けられた言葉に、ヴィクトルの背筋が伸びる。


「……はい」


 通訳が訳す。


 ナディルがさらに問う。


「『それでも、なぜここにいる』と」


 ヴィクトルはすぐには答えなかった。


 リリアも振り返る。


「リリア様を王室へ戻せば、安全になるとは思えませんでした」


 静かな声だった。


「騎士として正しい判断だったかは、今も分かりません」


 一度、言葉を切る。


「ですが、あの時、この方を引き渡すことは、できませんでした」


 リリアの胸が小さく鳴った。


 通訳がヤシャラ語へ変える。


 ナディルはしばらくヴィクトルを見た。


「命令より、自分の判断を選んだか」


「はい」


「後悔しているか」


 ヴィクトルは膝の上の左手を一度開いた。


「命令に背いたことを、軽くは考えておりません」


 それからリリアを見る。


「ですが、この方と来たことは後悔しておりません」


 リリアは思わず目を伏せた。


 そんなふうに言われるとは思っていなかった。


 ナディルは二人を見たあと、短く答えた。


「そうか」


 ナディルは再びリリアを見る。


「所在は把握する」


 シリルの目つきが変わる。


「監視するってことか」


 シリルはヤシャラ語で直接言った。


「ああ」


「それを自由って言うのか」


「完全な自由ではない」


「なら――」


「シリルさん」


 リリアが小さく呼んだ。


 シリルがこちらを見る。


「……聞きたいです」


 自分で。


 怖くても。


 最後まで。


「皇帝陛下」


 通訳がリリアの言葉を伝える。


「もし私がヤシャラへ行って、黒百合のことや母のことを知ったあと……ヤシャラを出たいと、思ったら?」


 ナディルは黙った。


 その沈黙が長い。


 やはり駄目なのだろうか。


 そう思い始めた時。


「止める理由がなければ、止めない」


 リリアは顔を上げる。


「理由が……あれば?」


「止める」


「どんな理由ですか」


「祀院の強硬派が待ち伏せしている。戦が始まっている。お前がその時動けば、多数が死ぬ。そういう時だ」


 リリアは膝の上の手を握った。


「私が……嫌だと言っても?」


 通訳が訳そうとした、その時、ナディルが片手を上げた。


 通訳が口を閉じる。


 皇帝がリリアを見る。


「嫌だ、か」


 ぎこちないローダン語だった。


 ナディルは少し間を置いた。


「『嫌だ』は、分かる」


 リリアは何も言えなかった。


 通訳が続きを伝えた。


「『それでも、必要なら止める』と」


 胸の奥がきゅっと縮む。


「では……その時は、私がどう思っていても止めるのですね」


「そうだ」


「……そう、なのですね」


「皇帝とは、全員の意思を守れる立場ではない」


 厳しい言葉だった。


「だが」


 ナディルが続ける。


「私が止める時は、理由を言う」


 リリアが顔を上げる。


「理由を?」


「ああ」


「皇帝の命令だから、ではなく?」


「少なくとも、お前には」


 その言葉に、セイランがナディルを見る。


「なぜ……ですか」


 ナディルはしばらく黙った。


「前皇帝が、理由を言わない男だった」


 庵の空気が変わった。


「従え」


 通訳が訳す。


「黙れ」


 次の言葉。


「皇帝が決めた」


 それだけで、多くのものを奪った。


 ナディルは、それ以上は、説明しなかった。


「私は、同じ皇帝になるつもりはない」


 リリアは彼を見つめた。


 十三歳の時、母ミレナと会った。


 そして、その記憶には前皇帝が関わっている。


 この人が自分へ「理由を話す」と言うことと、母の過去は、どこかでつながっているのかもしれない。


◆


「陛下」


 セイランがヤシャラ語で口を開いた。


「リリアを皇宮へ入れるつもりですか」


「ああ」


 リリアには言葉が分からない。


 通訳が会話を追って訳す。


「『ヤシャラへ入るなら、皇宮が最も安全だ』と」


 リリアの指が動く。


「皇宮へ……」


 セイランが続ける。


「断ったら?」


「別の場所を用意する」


 訳を聞いて、リリアは思わず顔を上げた。


 シリルの眉も上がる。


 今度はシリルがヤシャラ語で言った。


「最初からそう言え」


「皇宮が最も安全なのは事実だ」


「安全だからって、そこしかないみたいに言うな」


「それも正しい」


 ナディルは簡単に認めた。


 シリルが言葉に詰まる。


「……あんた、本当に皇帝か」


「よく言われる」


「誰にだよ」


「妹に」


 通訳がそこまで訳したところで、リリアは思わずナディルを見た。


 皇帝の口元がほんの少し緩んでいた。


 笑ったというほどではない。


 この人も、妹と話す時には違う顔をするのだろうか。


 セイランが呆れたように何かを言う。


 通訳が訳す。


「『サフィーヤか』と」


 ナディルが頷いた。


 それだけで表情は元へ戻る。


「皇宮には、私の家族がいる。母。妹たち。皇后。子どもたち」


「皆さん、黒百合についてご存じなのですか」


「知っている。程度の差はあるが」


「……怖がりませんか」


 思わず出た問いだった。


「何を」


「私を」


 右腕をそっと押さえる。


「黒百合だから……」


 通訳が訳す。


 ナディルは眉を寄せた。


「黒百合というだけで、お前を怖がる者ばかりではない」


「……ばかりではない?」


「ああ」


 少し不安になる答えだった。


「では……どう見られるのでしょう」


「それは自分で確かめろ」


 また答えを残された。


 けれど、今回は隠されたようには感じなかった。


 ヤシャラへ来れば分かる。


 そう言われているようだった。


「教えてください」


「何だ」


「先ほど、ファリダさんが……黒百合の巫女には、皇帝陛下に対する特別な礼があると」


「ああ」


「どうしてですか」


 ナディルは少し考えてから答えた。


「黒百合の巫女は、皇族の臣下ではない」


 リリアは目を見開いた。


「臣下では……ない?」


「違う」


「では、私は……」


「上下ではない」


「違うのですか」


「立場が違う。皇族は皇族。黒百合の巫女は黒百合の巫女だ」


 理解できない。


 ローゼンベルク家で、自分は使用人だった。


 罪人でもあった。


 監視される者だった。


「詳しいことは、ヤシャラへ来てから知ればいい」


 ナディルが言った。


「お前が自分の目でな」


 リリアは小さく頷いた。


「……はい」


◆


 ナディルが立ち上がった。


 夕暮れの光が、紙窓を通して床へ落ちている。


「今日はここまでだ」


「お帰りになるのですか」


 尋ねてから、引き止めるようだったかもしれないと思い、リリアは少し慌てた。


「あ、すみません」


「謝る必要はない」


 通訳がナディルの返事を伝える。


「皇帝がいつまでも国境に留まっているわけにもいかぬ」


 セイランが言った。


 ナディルが彼を見る。


 二人はヤシャラ語で短く言葉を交わす。


「『お前に言われるまでもない』」


 通訳が訳す。


「『なら最初から少人数で来るな』」


「『大勢連れて来れば、お前が葛花へ入れなかっただろう』」


「『当然だ』」


 短いやり取りには皇帝と臣下だけではない、長い付き合いをかんじさせるものがあった。


 ナディルがリリアへ向き直る。


「ヤシャラへ入るかどうかは、まだ変えていい」


「私は……行くと決めました」


「ああ」


「それでも?」


「決め直してもいい」


 リリアは目を瞬いた。


 決めたことは、最後までやり通さなければならない。


 そう思っていた。


「途中で……やめても?」


「ああ」


「戻っても?」


「状況が許せばな」


 やはり、絶対とは言わない。


 けれど、できない約束もしない。


「分かりました」


 ナディルが庵の出口へ向かう。


 その背へ。


「皇帝陛下」


 リリアが呼んだ。


 ナディルが振り返る。


 リリアは膝の上へ置いた手を握った。


「私は、黒百合について知るためにヤシャラへ行きます」


 通訳が訳す。


「母のことも……知りたいです」


 ナディルは黙って聞いている。


「でも」


 一度、息を吸う。


 怖い。


 こんなことを皇帝へ言ってよいのか、まだ分からない。


 それでも。


「黒百合だけとして扱われるために、行くのではありません」


 声は大きくは、なかった。


 けれど、途中で止めることもできなかった。


「私は……リリアとして」


 一度視線を落とし、それからもう一度ナディルを見る。


「自分が何者なのかを、知りたいです」


 通訳がヤシャラ語へ変える。


 庵の中は静かだった。


 セイランも。


 シリルも。


 ヴィクトルも。


 誰も口を挟まない。


 ナディルは長くリリアを見た。


「分かっている」


 短いローダン語だった。


 リリアは少し驚く。


「……本当に?」


 ナディルは頷いた。


 そしてヤシャラ語で続ける。


「少なくとも、今のお前についてはな」


 その意味までは分からなかった。


「だから、お前も忘れるな。黒百合である前に、自分の意思があることをだ」


 胸の奥へ、その言葉が静かに落ちた。


「……はい」


◆


 ナディルが外へ向かおうとした時、セイランが呼び止めた。


 旅の支度についての話だった。


「金と馬はこちらで用意する」


 通訳が訳す。


「ファリダを同行させる」


「私を?」


 ファリダが思わず顔を上げた。


「ああ」


「承知いたしました」


「それから、影をつける」


 シリルの目が鋭くなる。


「やっぱり監視する気じゃねえか」


「する」


「開き直るな」


「ただし、役目は護衛と所在確認だ」


 ナディルがリリアを見る。


「私信も、日々の会話も報告させない。命の危険がない限り、部屋へ勝手に入らせることも、本人の判断へ介入させることもしない」


 リリアは少し迷う。


「シリルさんと、ヴィクトルさんには……?」


「向こうから攻撃を受けない限り、手を出させない」


 シリルが腕を組む。


「信用はしない」


「それでいい」


 どこかで聞いたようなやり取りだった。


 リリアは杖の柄を指先で撫でた。


 聞いてよいだろうか。


「あの……」


「何だ」


「もし、私が……影をつけてほしくないと言ったら?」


 通訳が訳す。


 ナディルはすぐには答えなかった。


「今は外せない」


 リリアは目を伏せる。


「……そうですか」


「祀院の動きが読めない。お前を狙う者が、どこまで入り込んでいるかも分からない」


「分かりました」


 そう答えかけて、リリアは止まった。


 本当に、それだけでいいのだろうか。


 小さく息を吸う。


「でも……」


 ナディルを見る。


「私が嫌だと言ったことは、覚えていてくださいますか」


 通訳が口を開きかける。


 ナディルが片手で制した。


「嫌だ」


 ゆっくりと、ローダン語で繰り返す。


 それから。


「分かる」


 リリアは目を瞬いた。


 ナディルは次の言葉を探すように少し黙った。


「覚えておく」


 たどたどしい。


 けれど、通訳を介さない言葉だった。


 リリアの表情がほんの少し緩む。


「状況が変わったら……もう一度、聞いてください」


 今度は通訳が訳した。


 ナディルは頷いた。


「分かった」


 それで十分とは思わない。


 影をつけられることは、やはり怖い。


 けれど。


 嫌だと言ってもよかった。


 その言葉を、消されなかった。


 今は、それを大切にしたかった。


◆


 庵を出ると、霧は夕闇へ溶け始めていた。


 ナディルの近衛たちは、中立庵から離れた場所で待っている。


 皇帝は剣を受け取り、腰へ戻した。


 リリアは庵の入口から、その背を見る。


 母を知っている人。


 十三歳の時に、ミレナと会った人。


 自分を黒百合として探させた皇帝。


 そして、怖いと思う気持ちを口にしても、怒らなかった人。


「皇帝陛下」


 もう一度だけ呼んだ。


 ナディルが足を止める。


「母は……」


 声が詰まりそうになる。


「皇帝陛下を、知っていたのですね」


 通訳が訳す。


 ナディルは頷いた。


「ああ」


「母と話したことも?」


 短い沈黙。


「あった」


「母は……」


 聞きたい。


 どんな声だったのか。


 何を言ったのか。


 笑ったのか。


 いくつもの問いが一度に浮かぶ。


 けれど、今はどれを聞けばよいのか分からなかった。


 ナディルは急かさない。


「……また、教えてください」


 ようやくそれだけ言った。


「ああ」


 リリアは小さく頷いた。


 皇帝は今度こそ背を向けた。


 その後を近衛と通訳が追う。


 リリアは、その背中を見送りながら右腕へ手を置いた。


 ヤシャラ。


 黒百合。


 ミレナ。


 皇帝。


 知らないことは、減るどころか増えた。


 けれど、怖さだけではなかった。


 十三歳のナディルが見た母。


 ヤシャラに今もいる、母を知る人々。


 皇族の臣下ではないという黒百合の巫女。


 そのすべてを、今度は、自分の目で見たい。


「……行きます」


 小さく呟く。


 シリルが隣で聞き返した。


「何が」


「ヤシャラへ」


「……そうか」


 リリアは杖を握り直した。


 怖くないわけではない。


 それでも、誰かに連れていかれるのではない。


 自分で、行ってみたいと思った。


 リリアは、霧の向こうへ消えていく皇帝の背を見つめた。


 そして初めて、母ミレナの過去へ続く道が、ほんの少しだけ現実のものになった気がした。



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