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第五十五話 守る者、共に歩く者

◆


 アンが葛花を去ってから、五日が過ぎた。


 リリアの右足の腫れは、少しずつ引き始めていた。


 固定板はまだ外せない。


 それでも杖があれば、右足へ体重をかけず、短い距離なら移動できるようになっている。


 ヴィクトルの右肩も、傷口が閉じ始めていた。


 剣を振れる状態ではないが、熱は出ず、医師から室内を歩くことは許されている。


 出発を急かす者はいなかった。


 リリア自身も、以前のように、歩けると言い張って身体を無視することはしなかった。


 黒百合のこと、母のこと、三年前のこと。


 一日でも早く知りたい。


 それでも、自分で選んだ道だからこそ、自分の身体まで置き去りにはしたくなかった。


 その朝、リリアは屋敷の奥にある小さな座敷にいた。


 窓の外には、霧に濡れた葛の蔓。


 低い卓の上には、葛花から東へ延びる道を描いた古い地図が広げられている。


 その先には、ヤシャラという国がある。


 母ミレナを知る者たちがいるという国。


 黒百合が、ローダンとは違う意味を持つ国。


 そして、自分を探していた皇帝がいる国。


 向かいには、シリルとヴィクトルが座っていた。


 セイランはいない。


 旅立つ前に、二人だけと話したい。


 そう頼んだのは、リリアだった。


「お尋ねしたいことがあります」


 リリアが言うと、シリルが顔を上げた。


「何だ」


「ヤシャラへ行く前に、お二人のことを、もう少し知りたいのです」


「俺たちの?」


「はい」


 リリアは膝の上で手を重ねた。


「私は、お二人に一緒に来ていただけたら、とても心強いです」


 それは偽りのない気持ちだった。


「でも、それを当然のことにはしたくありません」


 シリルの眉が寄る。


「何が言いたい」


「私は、お二人に何度も助けていただきました」


 リリアはシリルを見る。


「王室騎士団の追跡を避けながら、葛花まで導いてくださいました」


 次にヴィクトルへ目を向ける。


「ヴィクトルさんにも、何度も身体を支えていただきました」


「その後は、私が守られました」


 ヴィクトルが静かに言う。


 リリアは首を横へ振った。


「それでも、ヴィクトルさんがいてくださらなければ、水車小屋まで辿り着くこともできなかったと思います」


 そして、もう一度シリルを見る。


「シリルさんも、黒紫の糸を読み、危険な道を避け、私たちが進める道を探してくださいました」


「俺が選んだ道で足を怪我したけどな」


「それは、シリルさんのせいではありません」


「そう言い切るのか」


「はい」


 迷わず答える。


 シリルは何も返さなかった。


「だからこそ、お二人が何を背負っているのかも知らないまま、私のために来てくださいとは言いたくないのです」


「面倒なことを言うようになったな」


 シリルが呟く。


 責めている声ではなかった。


「ごめんなさい」


「謝れって意味じゃない」


「でも、シリルさんたちに教えていただきました」


「何を」


「知らないまま決めてはいけない、と」


 シリルは一瞬黙った。


「……言ったな」


「はい」


 リリアの口元に、小さな笑みが浮かんだ。


「ですから、教えてください」


◆


「守り人とは、何を守る人なのですか」


 最初に尋ねたのは、それだった。


「黒百合の巫女だ」


「私を守るのですか。それとも、黒百合の力を?」


「おまえだ」


 返事に迷いはなかった。


「力を使わせるためではないのですね」


「逆だ」


 シリルの声が低くなる。


「黒百合は、自分自身のためには咲かない。誰かを守ろうとした時に咲く」


 リリアは袖の上から右腕へ触れた。


「だから、守り人がいる」


 リリアは少し考えた。


「祀院が言う、巫女の従者とは違うのですね」


 シリルの表情が硬くなる。


「俺は祀院の人間じゃない」


「祀院は、ヤシャラの組織ではないのですか」


「違う。国境を越えて存在してる」


 シリルは卓の地図へ視線を落とした。


「ヤシャラ人も多い。だが、ローダン人もいる。黒百合を敬う奴もいれば、力を利用しようとする奴もいる」


「守り人は、祀院には属さない」


「ああ」


「ヤシャラの兵でも?」


「ない」


「皇帝陛下の臣下でも?」


「違う」


「では、誰の命令を受けるのですか」


「誰の命令も受けない」


 リリアは目を瞬いた。


「それなのに、なぜ私を守ってくださるのですか」


 シリルは、すぐには答えなかった。


 やがて、短く息を吐く。


「自分のためには咲けない花を、誰かが守らなきゃならないからだ」


 その言葉が、胸へ静かに落ちた。


「シリルさんは、いつから私が黒百合だと知っていたのですか」


「三年前」


「馬場の事件の時?」


「ああ。事件のあとに、おまえのことを知った」


 リリアの手が止まる。


「報せを受けた。ローゼンベルク家に、黒百合の痣を持つ少女がいるって」


「それで、屋敷へ?」


「ああ」


 シリルは卓の上へ視線を落とした。


「すぐに入りたかった。でも、馬場の事件のあとで屋敷の警戒が強くなってた。使用人の出入りまで厳しく調べられてたからな」


「どれくらい、かかったのですか」


「三か月近く」


 リリアの胸が詰まる。


 三か月。


「では、シリルさんが屋敷へ入った頃には……」


「ああ」


 声が低くなる。


「おまえは、もう薬を飲まされていた」


 リリアは黙った。


「俺がようやく庭師見習いとして潜り込んだ時には、おまえは記憶を失っていた」


「シリルさんは、それより前の私を知っていたのですか」


「会ったことはない」


「では」


「記録と、聞いた話だけだ」


 シリルはリリアを見る。


「本当はもっと早く入れればよかった」


「……罰を受ける前に?」


 シリルの顎がわずかに強張る。


「ああ」


 静かな声だった。


 リリアはしばらく彼を見つめた。


「シリルさんは、その時おいくつだったのですか」


「十五」


 一瞬、意味が分からなかった。


「……十五歳?」


「ああ」


 隣にいたヴィクトルも、はっきりと驚いた顔をした。


「待て」


「何だよ」


「三年前に十五歳なら」


「今は十八」


 座敷に沈黙が落ちた。


 リリアはシリルの顔を見る。


 追手をかわす道を選び、祀院や黒百合について多くを知り、いつも周囲を警戒していた青年。


「十八歳……」


「何だ」


「もう少し、年上だと思っていました」


「何歳に見えてた」


 リリアは答えに迷った。


「……二十二歳くらいでしょうか」


「そんなにかよ」


 シリルの表情が、初めて年相応に崩れた。


 ヴィクトルが口元へ左手を当てる。


「私も、それくらいだと思っていた」


「おまえまで言うな」


「落ち着いて見えた」


「老けて見えたってことだろ」


「そうは言っていない」


 リリアは思わず小さく笑った。


 シリルがこちらを見る。


「笑うな」


「ごめんなさい」


「また謝ってる」


「でも、本当に驚いたんです」


 ヴィクトルの口元も、わずかに緩む。


 張りつめていた空気が少しだけほどけた。


 三年前、まだ少年だったシリルが、顔も知らない自分を守るため、侯爵家へ入ろうとしていた。


 ようやく潜入した時には、自分は過去を失っていた。


「シリルさん」


「何だ」


「間に合わなかったこと、ずっと気にしていたのですか」


 シリルは答えなかった。


 その沈黙だけで十分だった。


 リリアは静かに言った。


「私は、今のことは覚えています」


 シリルが顔を上げる。


「今?」


「はい」


 リリアは彼を見る。


「アン様を探すために、一緒に来てくださったこと」


 シリルの目が止まる。


「私が歩けなくなった時に、背負ってくださったこと」


「それは――」


「祠まで来てくださったことも」


 リリアは頭を下げた。


「ありがとうございます」


「……三年前には間に合わなかった」


「はい」


 その事実を否定はしなかった。


「でも、今度は間に合ってくださいました」


 シリルの唇が閉じる。


「今の私には、そのことが大切です」


 長い沈黙のあと、シリルが顔を逸らした。


◆


「守り人には、一つ、絶対に忘れちゃならないことがある」


 しばらくして、シリルが言った。


「守り人は、黒百合を守る」


 黒い瞳がリリアへ戻る。


「黒百合に守られる側にはなるな」


 リリアの指が止まった。


「それは……」


「俺が、おまえに黒百合を使わせるような状況を作るなってことだ」


「シリルさんが危険になっても?」


「その前にどうにかする」


「もし、どうにもならなかったら」


「それでも、おまえに力を使わせるような真似はしない」


 リリアは右腕を押さえた。


「でも、私は何もしないでいられるとは思えません」


「リリア」


「シリルさんが私を守ろうとしてくださるように」


 一度、息を整える。


「私も、シリルさんを守りたいです」


 シリルの表情が少しだけ変わった。


「守っていただくことを、当然だとは思いたくありません」


「これは、おまえに課す決まりじゃない」


「でも……」


「俺が背負うものだ」


 シリルは言った。


「おまえに俺を見捨てろって命じるつもりはない。俺が、おまえに黒百合を使わせるような真似をしない」


 リリアは少し考えた。


「では、私も」


「何だ」


「できるだけ黒百合へ頼らずに済むよう、自分にできることを増やします」


 シリルが僅かに目を見開く。


「守られるだけではなく?」


「はい」


 リリアは頷いた。


「逃げ方も。危険の見分け方も。薬草以外のことも」


「……それならいい」


「教えてくださいますか」


「俺が知ってることならな」


「ありがとうございます」


「だから、すぐ礼を言うな」


「これは、教えてくださることへのお礼です」


「細かいな」


 ぶっきらぼうな声だった。


 けれど、拒む声ではなかった。


「守り人になったのは、シリルさんがご自分で決めたのですか」


「全部を選べたわけじゃない」


「生まれた時から?」


「守り人の血を引いてることは、自分で選んだわけじゃない」


「今も役目だから?」


「違う」


 返事は早かった。


「最初は役目だった」


 一度、言葉を切る。


「今は、俺が決めてる」


「私を守ると?」


「ああ」


「私が黒百合を使わないと決めても?」


「守る」


「ローダンへ戻ると決めても?」


「おまえ自身が決めたならな」


「ヤシャラを出ると決めても?」


 シリルは迷わなかった。


「ああ」


「皇帝陛下が止めても?」


 そこで初めて、シリルの目が鋭くなった。


「おまえが本当に出たいなら」


 短く言う。


「その時は、出る道を探す」


 リリアはゆっくりと頷いた。


「私が守られたくないと言ったら?」


 今度は返事が少し遅れた。


「……その時は考える」


「考える?」


「守ることと、つきまとうことは違うからな」


 リリアの胸の奥が、少しだけ温かくなった。


「ありがとうございます」


「またか」


「私の答えも聞いてくださることに、です」


 シリルは困ったように目を逸らした。


◆


 次にリリアは、ヴィクトルへと向き直った。


「ローダンへ戻れば、どうなるのですか」


 ヴィクトルは驚かなかった。


「拘束されます」


「そのあとは?」


「命令違反、逃亡幇助、追跡妨害について聴取を受けます」


「騎士ではなくなるのですか」


「騎士位を剥奪される可能性は高いでしょう」


「ほかには」


「投獄。重く判断されれば、反逆に準じる罪へ問われる可能性もあります」


 リリアは膝の上で指を握った。


「命を取られることも?」


「可能性がないとは言えません」


「私のために……」


「違います」


 ヴィクトルが静かに遮った。


「あなたを逃がすと決めたのは、私です」


「でも、私を助けなければ、その選択は必要ありませんでした」


「そうかもしれません」


 否定はしない。


「ですが、原因と責任は同じではありません」


「原因と、責任……」


「あなたがいたから、私は選びました」


 ヴィクトルはまっすぐリリアを見る。


「しかし、選んだ責任はあなたのものではない」


 リリアはしばらく答えられなかった。


 謝るのは違う。


 ヴィクトル自身が選んだことを、自分が罪へ変えてはいけない。


 けれど、何も知らなかったことには、できない。


「ご家族は、どうなるのですか」


「私の行為の責任がエルンスト家へ及ばないよう、手続きを取りました」


「どのような?」


「父に、勘当の上申を出してもらいました」


 リリアは息を呑んだ。


「ヴィクトルさんが、お願いしたのですか」


「はい」


「いつ?」


「ローゼンベルク家から、あなたを連れ出す前です」


「では、あの時には、もう……」


「命令へ背くことも、その後に起こり得ることも考えていました」


「帰る家まで失うかもしれないと分かっていて?」


「はい」


「それでも、私を助けたのですか」


「自分で決めたことです」


 胸が苦しくなる。


 けれど、リリアは「ごめんなさい」とは言わなかった。


「お父様とは、十分にお話しできたのですか」


「いいえ」


「いつか、お話ししたいですか」


 ヴィクトルは長く黙った。


「その必要はあると思っています」


 リリアは顔を上げる。


「その時が来たら、私のために諦めないでください」


「リリアさん」


「私は、ヴィクトルさんから帰る道まで奪いたくありません」


「あなたが奪ったのではありません」


「分かっています」


 今度は迷わなかった。


「でも、私と一緒にいるために、戻りたいという気持ちまで隠してほしくないのです」


 ヴィクトルの表情から、少しだけ力が抜けた。


「分かりました」


「いつか、お父様とお話しできますように」


「はい」


「その時、私にできることがあれば教えてください」


「ありがとうございます」


 今度はヴィクトルが礼を言った。


 その言葉に、リリアの胸が少しだけ温かくなる。


「もう一つ、お聞きしてもいいですか」


「はい」


「ヤシャラへ同行したいと思うのは、縁があるからですか」


 ヴィクトルは少し考えた。


「縁が、今の感情へ何も影響していないとは言い切れません」


 誤魔化さない答えだった。


「ですが、あなたを王室へ引き渡さないと決めたのは、縁が生まれる前です」


「はい」


「これから同行することも、縁だけを理由にはしません」


「私が来ないでほしいと言ったら?」


「理由は尋ねます」


 ヴィクトルは答えた。


「それでも望まれないなら、同行しません」


 リリアは静かに頷いた。


 ヴィクトルの声は静かだった。


「恩を返さなければならない相手としてではなく」


 一度、言葉を切る。


「一緒に道を選ぶ者と思っていただければ、十分です」


「一緒に道を……」


「はい」


 リリアは少し迷ってから、呼んだ。


「ヴィクトルさん」


「はい」


 いつもと変わらない返事だった。


 それなのに、二人の間にあった何かが、ほんの少しだけ変わったように思えた。


◆


 リリアは二人を見た。


「私は、お二人に一緒に来ていただけたら、本当に嬉しいです」


 声が少し揺れる。


「でも、守り人だから。縁があるから。私を助けた責任があるから。それだけで来てほしくはありません」


 シリルを見る。


「シリルさんには、守り人として背負っているものがあります」


 ヴィクトルを見る。


「ヴィクトルさんには、ローダンへ残してきたものがあります」


 一度、息を整えた。


「私のためだけに、それを全部捨ててくださいとは言えません」


「だから?」


 シリルが尋ねる。


「もう一度、考えてほしいのです」


 リリアは頭を下げた。


「そのうえで、それでも一緒に来てくださるなら」


 声を整える。


「どうか、よろしくお願いします」


「頭を上げろ」


 シリルが言った。


 リリアが顔を上げる。


「俺は行く」


「もう考えたのですか」


「三年前から考えてる」


 ぶっきらぼうな声だった。


「守り人だから始めた」


 シリルはリリアを見る。


「でも、今は俺が行くと決めてる」


「ヤシャラへも?」


「ああ」


「祀院がいても?」


「ああ」


「皇帝陛下がいても?」


「さっき答えただろ」


 リリアの目が少し熱くなった。


「ありがとうございます」


「だから、礼はまだ早い」


 ヴィクトルも口を開く。


「私も同行します」


「本当に、よろしいのですか」


「はい」


「王室へ戻る道が、さらに遠くなっても?」


「そのことも含めて考えました」


 ヴィクトルの声は静かだった。


「私は、自分が見てきたものから目を逸らしたくありません」


 リリアを見る。


「あなたが何を知り、何を選ぶのか。それを見届けたい」


 リリアは二人を見つめた。


 守ることを、自分で選んだシリル。


 共に歩くことを、自分で選んだヴィクトル。


 そして、自分も、ヤシャラへ行くことを選んだ。


「よろしくお願いします」


 二人の目を見たまま言う。


「シリルさん。ヴィクトルさん」


「ああ」


「はい」


 二人の答えが、静かな座敷へ残った。


◆


 戸の外から、足音が近づいた。


 三人がそちらを見る。


「失礼いたします」


 ファリダだった。


 戸口で立ち止まり、リリアへ一礼する。


「セイラン様がお呼びです」


「私を?」


「はい」


「何かあったのですか」


 ファリダは一瞬、シリルとヴィクトルへ視線を向けた。


「お二人にも、同席していただいて構わないとのことです」


 シリルが眉を寄せる。


「何の話だ」


 ファリダは答えなかった。


「セイラン様から直接、お聞きください」


◆


 通されたのは、屋敷の中央にある広間だった。


 広間へ入ると、セイランが窓際に立っていた。


 卓の上には、地図と一通の書状が置かれている。


「座れ」


 三人が腰を下ろす。


 セイランはすぐには話し始めなかった。


 リリアが尋ねる。


「ヤシャラへ行く道が決まったのですか」


「その前に、一つ決めることができた」


「何をですか」


「おまえが、ヤシャラへ入る前に会う相手だ」


 リリアの胸がざわつく。


「誰でしょう」


 セイランは答える前に、リリアをまっすぐ見た。


「ナディル・サルヴァーン」


 聞き覚えのない名だった。


 だが、その後に続いた言葉で、意味を知る。


「ヤシャラ皇帝だ」


「皇帝が?」


「ああ」


「どこで」


「ここだ」


 シリルが立ち上がりかけた。


「葛花に皇帝を入れたのか」


「まだ入っていない」


「まだ?」


「先ほど、使者が来た」


 セイランは卓上の書状へ指を置いた。


「皇帝は少数の護衛だけを連れ、葛花のヤシャラ側外縁まで来ている」


「自分で?」


「ああ」


「黒百合を迎えに来たってことか」


「本人に聞け」


「それで済ませるな」


「私が皇帝の言葉を代わりに決めるなと、おまえも言っただろう」


 シリルが口を閉じる。


 リリアはセイランを見る。


「皇帝陛下は、私に会いたいと?」


「ああ」


「私をヤシャラへ連れていくために?」


「その可能性はある」


「あなたにも分からないのですか」


「目的のすべては聞いていない」


 リリアは膝の上で指を重ねた。


 ヤシャラ皇帝。


 自分を探すよう命じた人物。


 セイランが従う相手。


 これから向かおうとしている国の最高権力者。


「断ることはできますか」


 最初に尋ねたのは、それだった。


 セイランは迷わなかった。


「できる」


 シリルが彼を見る。


「本当にか」


「ああ」


「皇帝本人が来てるのに?」


「ここは葛花だ」


 セイランは静かに答えた。


「ローダンにも、ヤシャラにも属さない」


 リリアを見る。


「会うかどうかは、おまえが決めろ」


 胸の奥で、怖さが広がる。


「お会いしなければ、ヤシャラへは行けませんか」


「そんなことはない」


「皇帝陛下の許しがなくても?」


 セイランの瞳がわずかに細くなる。


「黒百合の巫女がヤシャラへ入るのに、皇帝の許可が必要だと誰から聞いた」


 リリアは言葉に詰まった。


「誰からも……」


「なら、勝手にそう決めるな」


「……はい」


「おまえは、皇帝の所有物としてヤシャラへ行くんじゃない」


 昨日までなら、その言葉をすぐには信じられなかったかもしれない。


 今も、すべてを信じているわけではない。


「お会いします」


 リリアは言った。


 シリルがこちらを見る。


「いいのか」


「はい」


「怖くないのか」


「怖いです」


 正直に答える。


「でも、皇帝陛下が私をどう考えているのかを知らないまま、ヤシャラへ行く方が怖いです」


 ヴィクトルが静かにリリアを見ている。


「人から聞くのではなく」


 リリアはセイランを見る。


「本人から聞きたいです」


 セイランは頷いた。


「分かった」


「シリルさんとヴィクトルさんも、一緒にいていただけますか」


「ああ」


 シリルの返事は早かった。


「もちろんです」


 ヴィクトルも続く。


 セイランがヴィクトルを見る。


「王室騎士だと知られている。それでも来るか」


「はい」


 ヴィクトルの答えに迷いはなかった。


 セイランは次にシリルを見る。


「おまえは聞くまでもないな」


「あんたと皇帝だけで会わせると思うか」


「思わない」


 シリルが鼻を鳴らした。


 リリアは二人を見る。


 少し前までは、一人で何とかしなければならないと思っていた。


 今は違う。


 守ると言ってくれる者がいる。


 共に歩くと言ってくれる者がいる。


 だからこそ、自分で選ぶ。


「いつ、お会いするのですか」


 リリアが尋ねる。


「今日の夕刻」


 セイランが答えた。


「皇帝は葛花の中立庵まで来る」


「中立庵?」


「どちらの国の武装兵も入れない場所だ」


「護衛も?」


「外で待たせる」


「皇帝陛下が、お一人で?」


「側仕えを一人だけ連れることは認められている」


 シリルが低く言う。


「随分、思い切った皇帝だな」


「昔からそういう男だ」


 セイランの声には、僅かな信頼が混じったようにも聞こえた。


 リリアはその変化を聞き逃さなかった。


「セイラン様は、皇帝陛下を信頼しているのですか」


 セイランは少し黙った。


「ああ」


「それでも、私をすぐには引き渡さなかった」


「ああ」


「なぜですか」


「それは」


 セイランはリリアを見る。


「皇帝に会ってから、もう一度聞け」


 また答えを、はぐらかされた。


 でも、夕刻には、自分を探していた皇帝本人に会う。


 ヤシャラへ向かう前に、その国が自分を何者として見ているのかを、自分の耳で確かめる。


 リリアは卓の上に広げられた地図へ目を落とした。


 葛花の向こう。


 東へ続く道。


 母を知る者がいる。


 黒百合の記録がある。


 祀院もいる。


 そして、皇帝がいる。


 怖さは消えない。


 それでも、今度の旅は、誰かに連れていかれる旅ではない。


 シリルも、ヴィクトルも、そして自分も、それぞれが自分で選び、同じ道を歩こうとしている。


 その最初の一歩として、リリアは、ヤシャラ皇帝ナディル・サルヴァーンに会うことを決めた。



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