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第五十四話 帰る者、旅立つ者

◆


 葛花の外縁には、まだ朝の霧が残っていた。


 薄く紫を含んだ霧が森の縁を低く覆い、甘さの中に苦みを含んだ花の香りが、湿った空気へ混じっている。


 森と街道の境には、苔むした二本の石柱が立っていた。


 片方にはローダンの古い文字。


 もう片方にはヤシャラの文字。


 その間には、どちらにも属さないことを示す葛の紋が刻まれている。


 石柱の向こうがローダン領。


 こちら側が、緩衝地帯である葛花だった。


 王室騎士団の猟犬たちは、境界から離れた場所で地面を嗅ぎ、鼻先を上げては落ち着きなく行き来している。


 花の香りに惑わされ、ここから先の匂いをうまく拾えないらしい。


 騎士たちは全員、ローダン側で待機していた。


 馬はさらに後方へ下げられ、剣も鞘へ収められている。


 レオナール・グレイヴスは、二本の石柱の手前に立っていた。


 ここから先はローダンではない。


 王室騎士団が隊列を組んで葛花へ踏み込めば、単なる追跡では済まない。


 休戦協定への違反となり、王室そのものが責任を問われる。


 やがて、霧の奥で葛の蔓が揺れた。


 重なっていた葉が左右へ分かれ、細い道が現れる。


 最初に姿を見せたのはファリダだった。


 顔の下半分を薄布で隠している。


 境界から十分な距離を残して足を止めた。


 その後ろから、二人の女が担架を運んでくる。


 厚い毛布。


 その中に見える金色の髪。


 片側だけになった薄桃色のリボン。


 アン・ローゼンベルクだった。


 騎士たちの間から、抑えきれない息が漏れた。


 生存を告げる手紙が届いてはいた。


 それでも、生きた姿を確かめるまでは、誰も本当の意味で安心できなかったのだ。


 担架の後ろには、ヴィクトルがいた。


 右肩から胸元には厚い布が巻かれている。


 灰色の東国風の衣。


 剣は持っていない。


 顔色もよくなかった。


 それでも、自分の足で歩いている。


 レオナールの視線が、一度、ヴィクトルで止まった。


 だが、すぐにアンへ戻る。


 彼は一人で境界へ近づき、石柱の手前で止まった。


「アン・ローゼンベルク様」


 担架の上で、アンが顔を動かす。


「……はい」


「レオナール・グレイヴスです。お分かりになりますか」


「はい」


 レオナールはその場へ片膝をついた。


 指揮官として威圧するためではない。


 怯えた十二歳の少女と、できるだけ目の高さを合わせるためだった。


「ご無事で何よりです」


 その言葉を聞いた途端、アンの目に涙が浮かんだ。


「リリアが、来てくれました」


 掠れた声だった。


 レオナールは遮らず、続きを待った。


「私を助けに。怖いところまで来て、輪の外へ出してくれました」


「その時のことは、体調が戻ってから詳しく伺います」


「でも、今言っておきたいです」


 アンは小さく首を振った。


「今、書いてください」


 レオナールは頷いた。


「分かりました」


「リリアが私を探しに来てくれました。シリルと、ヴィクトルも一緒でした」


 二つの名が出た瞬間、後方にいる騎士たちの空気が変わった。


 レオナールは動かない。


「祠に、変な輪がありました」


 アンの指が毛布をつかむ。


「リリアが外から手を伸ばしてくれて、私を引き出してくれました」


「輪とは、地面に作られていたものですか」


 尋ねた瞬間、アンの身体が強張った。


 呼吸が浅くなる。


 レオナールはすぐに問いを引いた。


「今は、そこまでで結構です」


 アンが、ほっとしたように息を吐く。


「でも、リリアが助けてくれたことは」


「記録します」


「本当に?」


「アン様ご本人の初期証言として、今ここで記録させます」


 アンはようやく、肩の力を抜いた。


 レオナールは立ち上がり、副官を呼ぶ。


「記録しろ」


「はっ」


「アン・ローゼンベルク嬢本人より初期証言。リリア、庭師見習いシリル、王室騎士ヴィクトルの三名が拘束地点へ到達。三名は救出に直接関与。特にリリアが、アン嬢を輪と呼ばれる拘束地点から外へ出した」


 副官は手帳へ書き留める。


「詳細な聴取は、医師が可能と判断するまで行わない」


「承知しました」


「急使も出せ。ローゼンベルク侯爵家へ、アン嬢生存。王室騎士団が保護し、現在は医師の診察を優先していると伝えろ」


「救出者についても記載いたしますか」


「ああ。今の証言を省くな」


 副官が頭を下げ、後方へ走る。


 すぐに一頭の馬が引き出された。


 アンはその様子を見ながら、小さく呟いた。


「ちゃんと、届いて」


◆


 葛花側の担架が、境界標の手前へ下ろされた。


 ローダン側からは、王室付きの医師と衛生兵が空の担架を運んでくる。


 互いに境界を越えない位置で止まった。


 レオナールがファリダへ尋ねる。


「現在の状態は」


 ファリダが、付き添ってきた医女長へ視線を向ける。


 医女長はローダン語で答えた。


「発熱と脱水、強い疲労がございます。手首には拘束痕がありますが、骨に異常は見られません。食事と水分は少量ずつ取れています」


「移動の注意は」


「馬へは乗せないでください。揺れの少ない担架を使い、途中で休ませること。今日中に長距離を移動させるのも避けてください」


 王室の医師が頷く。


「引き継ぎます」


「それから」


 医女長は続けた。


「祠で起きたことを、今すぐ詳しく尋ねないでください。先ほども、輪について問われた時に呼吸が乱れました」


 レオナールは反論しなかった。


「承知した」


 両側の担架が境界ぎりぎりまで寄せられる。


 毛布ごと、身体を傾けないように。


 アンは慎重に、王室側の担架へ移された。


 その瞬間、アンの手が葛花側へ伸びた。


「ヴィクトル」


 ヴィクトルは境界の内側で膝をつく。


「はい」


「リリアに伝えて」


「何をでしょう」


「待ってるって」


 アンは泣きながら言った。


「私、ちゃんと言うから。リリアが助けてくれたって、何回でも言うから」


「必ず伝えます」


「無茶しないで、ちゃんと休んでって」


「それも伝えます」


「シリルにも」


「はい」


「約束を忘れないでって」


「リリアさんのそばにいる、という約束ですね」


「うん」


 アンは少し考えた。


「……ちゃんと伝えてね」


「承知しました」


 その視線が、ヴィクトルの右肩へ向く。


「ヴィクトルも無茶しないでね」


「気をつけます」


 アンの眉が寄った。


「その言い方、あまり信用できないわ」


 後方にいる騎士たちの前で、ヴィクトルは返事に詰まった。


「……医師の指示には従います」


「本当に?」


「はい」


「なら、信じます」


 アンは少しだけ目を伏せた。


「ヴィクトル」


「はい」


「またね」


 ヴィクトルの表情が揺れた。


「……はい。また」


 王室側の担架が、ゆっくりと境界から離れていく。


 アンは何度も顔を動かし、葛花の霧を見ようとした。


 やがて王室の侍女が付き添い、少しずつ水を飲ませる。


 アンを乗せた担架が安全な距離まで運ばれたところで、レオナールがヴィクトルへ向き直った。


◆


「ヴィクトル」


「はい」


「そこから動くな」


「承知しました」


 ヴィクトルは葛花側へ立ったまま動かなかった。


 レオナールもローダン側から出ない。


 ほんの数歩。


 だが二人の間には、休戦協定の境界があった。


「自分が今、どういう立場にいるか理解しているな」


「はい」


「言ってみろ」


「護送対象だったリリアさんの逃走に協力し、王室騎士団の命令に背きました」


「追跡も妨げた」


「はい」


「その後も対象と行動を共にしている」


「はい」


 レオナールはヴィクトルの負傷した右肩を見る。


「ローダン側へ戻れば拘束する」


「承知しています」


「命令違反だけではない。逃亡幇助、追跡妨害、機密情報の不正利用についても聴取する」


「はい」


「取り調べだけで済む保証はない」


「それも承知しています」


「戻れ」


「戻りません」


 答えは短かった。


「葛花にいれば、王室が手を出せないと分かって言っているのか」


「はい」


「境界を盾にするつもりか」


「この境界は、私一人を守るために定められたものではありません」


 ヴィクトルはレオナールから目を逸らさなかった。


「私を拘束するために隊長が越えれば、王室騎士団が休戦協定を破ることになります」


「正しい」


 レオナールは即座に認めた。


「だから、私は越えない。部下にも越えさせない」


「はい」


「だが、お前がこちらへ一歩でも入れば別だ。その時は拘束する」


「承知しています」


「今なら、自分の足で戻れる」


「戻りません」


 同じ答えだった。


「なぜだ」


 ヴィクトルはすぐには答えなかった。


 胸の奥に、今も微かな気配がある。


 自分のものではない。


 けれど、確かに途切れずに残っている。


 そのことを、レオナールへ話すつもりはなかった。


「リリアさんが、これから何を知り、何を選ぶのかを見届けたいからです」


「随分と個人的な理由になったな」


「はい」


「王室騎士なら、命令へ戻るべきではないのか」


「以前の私なら、そう考えました」


「今は違う?」


「はい」


 ヴィクトルは一度、ローダン側に立つ騎士たちを見た。


 同じ訓練場に立った者。


 同じ命令を受けた者。


 少し前まで、自分もその中にいた。


「命令されたから正しい。王室が決めたから疑わない」


 レオナールへ視線を戻す。


「そういう騎士には、もう戻れません」


「それでも王室騎士を名乗るのか」


「今の私に、その資格が残っているとは思っていません」


「なら、何者だ」


 ヴィクトルは少し考えた。


「まだ、決めている途中です」


 霧が二人の間を流れる。


 レオナールはしばらく何も言わなかった。


「任務を放棄している自覚はあるな」


「あります」


「その選択に、あとから王室の名を使うな」


「使いません」


「命令で同行したとも言うな」


「言いません」


「すべて自分で選んだと?」


「はい」


 レオナールの視線が鋭くなる。


「その判断が間違っていた時、責任を王室へ戻すな」


「戻しません」


「変わったな、ヴィクトル」


「そうかもしれません」


「以前なら、迷わずこちらへ戻った」


「以前の私なら、戻ることが正しいのかを考えなかったと思います」


 レオナールは短く息を吐いた。


「リリアは、何をするつもりだ」


 ヴィクトルは答えを選んだ。


「自分を知ることを選びました」


「具体的には」


「本人から聞いてください」


「答えられない、ではなく?」


「答えません」


「庭師見習いのシリルも一緒だな」


「はい」


「三年前からローゼンベルク家にいた男だった」


 ヴィクトルは黙っている。


「ただの庭師見習いが、王室の追跡を避けながら葛花まで来る道を知っていたとは思えない」


「でしょうね」


「あの男は何者だ」


「本人が明かすべきことです」


「知らないのか」


「知っていることはあります」


「なら話せ」


「私から申し上げることではありません」


「お前も秘密を持つようになったか」


「そうかもしれません」


 レオナールはしばらくヴィクトルを見据えた。


「今ここでお前を拘束しないのは、赦したからではない」


「分かっています」


「葛花だからだ」


「はい」


「次にローダン領で会えば、話は別だ」


「承知しています」


「シリルも同じだ。リリアの逃走に関与した者として、王室はあの男も追う」


「……伝えます」


「それから、リリアにも」


 ヴィクトルが顔を上げる。


「アン嬢の証言は受け取った。侯爵家へも、救出に直接関わった事実を伝える」


「はい」


「だが、それで黒百合に関する問題も、王室管理下から離れた事実も消えるわけではない」


「分かっています」


「過去を知るつもりなら」


 レオナールの声が低くなる。


「自分に都合のよいものだけを拾うな。知った事実が自分にとって不都合でも、目を逸らすなと伝えろ」


 厳しい言葉だった。


 それでも、ヴィクトルにはレオナールらしい言葉だと思えた。


「伝えます」


 ヴィクトルは静かに頭を下げた。


 そして境界へ背を向ける。


「ヴィクトル」


 レオナールが呼び止めた。


 足を止める。


「生きて戻るなら」


 短い間があった。


「その時は、自分の言葉で話せ」


 ヴィクトルは振り返らなかった。


「はい」


 そのまま、葛花の霧へ歩き出した。


◆


 ヴィクトルが戻ると、リリアは寝具の上に身体を起こしていた。


 シリルは部屋の端に立ち、セイランは敷居の外にいる。


「戻りました」


 リリアの顔が上がる。


 胸の奥に感じていた気配だけではない。


 自分の目で、ヴィクトルが戻ったことを確かめる。


「お帰りなさいませ、ヴィクトルさん」


「はい」


「アン様は」


「レオナール隊長が保護しました。王室の医師もついています」


 リリアの肩から力が抜ける。


「無事に?」


「はい。ローゼンベルク侯爵家へは、王室騎士団から急使が出ました」


「……よかった」


 目を閉じる。


 胸の内へ張りついていたものが、ほんの少し緩んだ。


「アン様から伝言です」


 リリアは再び顔を上げる。


「待っている、と。自分は、リリアさんが助けてくれたことを何度でも話す、と」


「アン様……」


「それから、無茶をしないで、きちんと休んでほしいそうです」


 いかにもアンらしい言葉だった。


 リリアの口元がわずかに緩む。


「……はい。きちんと休みます」


 言ってから、隣の寝具を見る。


 急がなければならないことは、いくらでもある。


 それでも、身体を壊してまで急ぐことが、前へ進むことではないと今は分かっていた。


「シリルにも伝言があります」


 ヴィクトルが続ける。


「何だ」


「リリアさんのそばにいるという約束を、忘れないでほしいと」


 シリルは少し黙った。


「……忘れねえよ」


 ヴィクトルは頷いた。


 そして、リリアへ向き直る。


「レオナール隊長からも伝言があります」


「私に?」


「はい。アン様の証言は受け取った。リリアさんが救出に直接関わった事実も侯爵家へ伝える、と」


 リリアは黙って聞く。


「ただし、アン様を救ったことで、黒百合に関する問題も、王室管理下から離れた事実も消えるわけではないそうです」


「……はい」


「過去を知るなら、自分に都合の悪い事実であっても、目を逸らすな、と」


 リリアは少し考えた。


「分かりました」


 掛け布の上へ置いた手を握る。


「私にとって都合の悪いことがあったとしても、それをなかったことにはしません」


「はい」


「ただ」


 リリアは右腕へ目を落とす。


「誰かが決めた罪を、そのまま自分の罪だと思うこともしません」


 ヴィクトルが静かに頷いた。


「それでいいと思います」


◆


「アン・ローゼンベルクは戻った」


 セイランが敷居の外から言った。


「侯爵家にも、じきに知らせが届く」


「はい」


「ここから先は、おまえの道だ」


 リリアは彼を見る。


 深い菫色の瞳。


 祠で初めて見た時から、なぜかその色が気になっている。


「三年前のことを知るには、どこから始めればいいのでしょう」


 リリアが尋ねた。


「馬場で起きたことを調べるのですか」


「それも必要だ」


 セイランが答える。


「だが、その前に知るべきことがある」


「何をですか」


「黒百合だ」


 リリアは右腕へ目を落とした。


「この痣のことを?」


「痣だけではない」


 セイランは静かに続ける。


「黒百合が何なのか。なぜ守るために咲くのか。祀院がなぜおまえを求めるのか。そして、黒百合の巫女が本来どういう存在なのか」


 リリアは顔を上げた。


「ローダンには、その記録がないのですか」


「ないわけではない」


「では」


「だが、ローダンに残っている記録の多くは、黒百合を外から見た者が書いたものだ」


 セイランの声は淡々としていた。


「異能。危険。監視対象。捕らえるべき者」


 聞き覚えのある言葉ばかりだった。


「それだけを読めば、おまえはまた、他人が決めた黒百合を知ることになる」


 リリアは袖の下の右腕を押さえた。


「では、本当のことはどこに」


「ヤシャラだ」


 部屋が静まった。


「ヤシャラ……」


 自分の口から出したその名は、まだ遠い国の名だった。


 追手の中にいた者たち。


 祀院。


 セイラン。


 ファリダ。


 そして、自分の母が生まれた国。


「ヤシャラには、黒百合についての記録が残っている」


「祀院にですか」


「祀院だけではない」


 セイランの返答は早かった。


「祀院にあるものだけを真実だと思うな」


 シリルが壁際から口を開く。


「そこは俺も同意する」


 リリアがシリルを見る。


「黒百合は祀院のものじゃない」


「はい」


「巫女を祀院の管理下へ置こうとする連中もいる。昨日見ただろ」


 祠の輪が脳裏へ浮かぶ。


 アンを内側へ置き、自分の力を引き出そうとした輪。


「では、誰に聞けばいいのでしょう」


 セイランが答える。


「記録だけでは足りない」


「人にも?」


「ああ」


 少し間を置く。


「おまえの母を知る者が、まだヤシャラにいる」


 リリアの呼吸が止まった。


「母を……」


「ああ」


「ミレナを知っている人が?」


「いる」


 胸の奥で、何かが大きく鳴った。


「どんな人ですか」


「一人ではない」


 思わず身を乗り出しかけ、右足に痛みが走る。


「……っ」


「リリアさん」


 ヴィクトルが動きかける。


 リリアは首を振った。


「大丈夫です」


「今のは大丈夫な動きじゃない」


 シリルが言った。


「……すみません」


「謝る前に動くな」


 リリアは身体を戻した。


 それでも視線だけはセイランから離さない。


「母を知る人たちは、母がどういう人だったのかも知っているのですか」


「知っている者もいる」


「私のことも?」


 セイランは一瞬黙った。


「おまえが生まれる前のことを知る者がいる」


 リリアの指が掛け布をつかんだ。


 自分が知らない母。


 自分が生まれる前のミレナ。


 なぜローダンへ来たのか。


 なぜ自分はローゼンベルク家にいたのか。


 そして。


「父のことも分かりますか」


 セイランの表情は変わらなかった。


「そこへつながるものもある」


 答えは、それだけだった。


 だが十分だった。


「行きたいです」


 リリアは言った。


 シリルがすぐに口を挟む。


「まだ行くとは決めるな」


「ですが」


「ヤシャラだぞ」


 シリルの声から軽さが消える。


「分かっています」


「分かってない。ローダンで追われるのと、ヤシャラへ自分から入るのは違う」


 リリアは黙った。


 シリルはセイランを見る。


「それに、皇帝がいる」


 その一言で、空気が変わる。


 リリアもセイランを見る。


 皇帝の側近。


 セイランが誰の命令で自分を探していたのかは、すでに聞いている。


「皇帝陛下は、私を探していたのですよね」


「ああ」


「皇帝は、私をどうするつもりなのですか」


「それは本人に聞け」


 シリルの眉が寄る。


「簡単に言うな」


「私が代わりに皇帝の意思を決めて話す方が問題だ」


「それはそうだが」


「私は皇帝の側近だ」


 セイランは隠さなかった。


「皇帝の命を受けて、おまえを探していた。それも事実だ」


 リリアは静かに聞いていた。


「だが、ヤシャラへ行くかどうかは、おまえが決めろ」


「行かなければ?」


「別の道を探す」


「母について知ることを諦めなければなりませんか」


「いや」


「では、無理に連れていかない?」


「ああ」


 リリアはセイランを見つめた。


 すべてを信用したわけではない。


 皇帝のことも、ヤシャラのことも、セイラン自身のことも。


「少し考えさせてください」


「それでいい」


 リリアは小さく息を吐いた。


◆


 昼を過ぎても、リリアはすぐには答えを出さなかった。


 食事を取り、薬草を替えてもらい、医女長に足を診てもらった。


 眠ろうとして目を閉じても、いくつもの言葉が浮かんでくる。


 ヤシャラ。


 黒百合。


 ミレナ。


 母を知る者。


 そして皇帝。


 怖い。


 その感情は消えなかった。


 けれど、怖いから行かないと決めるのも、違うように思えた。


 夕刻、紙を張った戸の向こうから差し込む光が、薄い橙色へ変わった頃、リリアは、シリルとヴィクトルを呼んだ。


 セイランも戸の外にいた。


「決めました」


 三人がリリアを見る。


「ヤシャラへ行きます」


 シリルはすぐには答えなかった。


「本当にいいのか」


「怖いです」


 リリアは正直に答えた。


「祀院も怖いです。皇帝陛下が私をどう考えているのかも分かりません」


 右腕へ触れる。


「でも、私は黒百合について何も知らないままです」


 自分の腕に咲くものなのに。


 自分の力なのに。


 ずっと他人の言葉でしか知らなかった。


「母を知っている人にも会いたいです」


 胸の奥が痛む。


「母がどんな人だったのか。なぜローダンへ来たのか。どうして私を残したのか」


 少し間を置く。


「知りたいです」


 セイランが尋ねる。


「皇帝に会うことになるかもしれない」


「はい」


「おまえをヤシャラへ留めようとする者も出る」


「それでも、行きます」


「黒百合の巫女として扱われることになる」


 リリアは眉を寄せた。


「それが、どういう意味なのかも分かりません」


「なら、それも知ればいい」


「はい」


 リリアは頷いた。


「知らないから怖いのなら、まず知りたいです」


 シリルが壁から背を離す。


「俺も行く」


 リリアが顔を上げる。


「守り人だから、ですか」


「ああ」


 短い返事だった。


 少ししてから付け加える。


「それに、アン様とも約束した」


 リリアの口元が少し緩む。


「忘れないでくださいね」


「おまえまで言うな」


 ほんの少しだけ空気が和らぐ。


 ヴィクトルが続いた。


「私も同行します」


 リリアは彼を見る。


「レオナール隊長から、戻るよう言われたのでは?」


「言われました」


「それでも?」


「戻らないと、自分で答えました」


「縁があるからですか」


 ヴィクトルは少し考えた。


「縁が、今の私へ何も影響していないとは言い切れません」


 正直な答えだった。


「ですが、あなたを王室へ引き渡さないと決めたのは、縁が生まれる前です」


 リリアを見る。


「これから同行することも、縁だけを理由にはしません」


「なら、何が理由だ」


 シリルが問う。


「私自身が見たものに対する責任だ」


「便利な言葉だな」


「そうかもしれない」


 ヴィクトルは否定しなかった。


「だから、途中で自分の判断が間違っていると思えば、その時は考え直す」


 シリルはしばらく彼を見る。


 リリアは二人を見る。


 シリル。


 ヴィクトル。


 二人とも、自分とは違う理由でここにいる。


 誰かに命じられたからではなく、少なくとも今は、自分で選んで。


「いつ出るのですか」


 リリアが尋ねる。


「まだだ」


 セイランが答えた。


「おまえは歩けない。ヴィクトルも長旅のできる身体ではない」


「はい」


「まず治せ」


「はい」


「食べろ。眠れ」


「……はい」


「返事だけして、勝手に動くな」


 シリルが横から言う。


 リリアは少しだけ困った顔をした。


「今回は、本当に分かっています」


「ならいい」


 リリアは固定された右足を見る。


「自分で選んだ道なら、自分の身体を置き去りにはしたくありません」


 少し前の自分なら、こんなことは考えなかったかもしれない。


 誰かの役に立つためなら、アンを守るためなら、自分が傷つくことなど、後回しでいいと思っていた。


 けれど今は、自分が望んだ道を歩くためにも、自分の身体が必要なのだ。


 セイランが言う。


「身体が戻るまでに、ヤシャラへ入る道を整える」


 シリルがすぐに尋ねる。


「皇帝の命令としてか」


「違う」


「祀院は」


「できる限り避ける」


「できる限り?」


「祀院すべてを敵に回す必要はない。今回動いた者と、祀院そのものを同じには扱わない」


 シリルは納得していない顔をしたが、それ以上は言わなかった。


「セイラン様」


 リリアが呼ぶ。


「何だ」


「ヤシャラへ行っても」


 一度、言葉を止める。


「私は、皇帝陛下のものになるために行くのではありません」


「ああ」


「祀院のものになるためでもありません」


「ああ」


「黒百合だからといって、私の生き方を誰かに決めてほしくありません」


 セイランはリリアから目を逸らさなかった。


「忘れるな」


「何をですか」


「おまえ自身が、今言ったことをだ」


 リリアは少し驚いた。


「ヤシャラへ行けば、おまえを黒百合として見る者は増える」


「……はい」


「敬う者もいる。求める者もいる。利用しようとする者もいる」


 静かな声だった。


「ローダンとは違う形で、おまえ自身が見えなくなることもある」


 リリアはその言葉を胸へ落とした。


 恐れられることだけが、人を縛るのではない。


 敬われることも、求められることも、それが自分自身ではなく、黒百合へ向けられたものなら。


「覚えておきます」


「ああ」


「私は、私を知るために行きます」


 セイランは頷いた。


 シリルも何も言わなかった。


 ヴィクトルも静かに見ている。


 アンは、帰ることを選んだ。


 自分は、まだ帰る場所を知らない。


 だから、まず、自分が何者なのかを知りに行く。


 母が生きた国へ。


 黒百合が恐怖だけでは語られない場所へ。


 自分の知らない、自分へ続く道へ。


 リリアは右腕へ手を置いた。


 袖の下の黒百合は、何も答えない。


 それでも今度は、その沈黙を誰かの言葉で埋めようとは思わなかった。


 自分の目で見て、自分の耳で聞いて、そのあとで、自分で決める。


 ヤシャラへ行く。


 それが、リリアが初めて自分のために選んだ旅だった。


◆


 その日の午後、王室騎士団の急使が、ローゼンベルク侯爵家へ到着した。


 白い霧の残る石畳を馬の蹄が打つ。


 門番が王室騎士団の徽章を認めると、すぐに門が開かれた。


 使者は馬を降りるなり、封蝋の押された書状を差し出した。


 ほどなくして、小広間へ人が集められる。


 ハインリヒ。


 イザベラ。


 監視付きで部屋を出ることを許されたマリアンネ。


 護衛隊長ヨーゼフ。


 老執事オットー。


 女中頭ジューンも、壁際に立っていた。


 誰も、まだ希望という言葉を口にはしなかった。


 王室騎士団の使者が書状を開く。


「レオナール・グレイヴス隊長より、ローゼンベルク侯爵家へ通達」


 イザベラの両手が、膝の上で強く組まれる。


 マリアンネは母の隣に立っている。


 ハインリヒは使者だけを見ていた。


「アン・ローゼンベルク嬢、生存。王室騎士団が保護し、現在は医師による診察を受けております。命に別状なし」


 一瞬、誰も動かなかった。


 言葉の意味が届くまでに、時間が必要だった。


「アン……」


 イザベラの声が落ちる。


 次の瞬間、身体から力が抜け、マリアンネがすぐに肩を支えた。


「お母様」


 イザベラは娘の腕につかまりながら、もう一度だけ名を呼ぶ。


「アン……」


 ヨーゼフは口元へ手を当てた。


 オットーも、開いた記録帳へ筆を置けずにいる。


 ジューンは俯いた。


 閉じた瞼の下から、一筋だけ涙が落ちた。


 ハインリヒは席を立たなかった。


 それでも、肺の奥へ溜め込んでいたものをようやく外へ出すように、長く息を吐いた。


 使者が続ける。


「また、アン嬢本人より初期証言あり」


 イザベラが顔を上げる。


「リリア、庭師見習いシリル、ならびに王室騎士ヴィクトルの三名が、アン様の拘束地点まで到達」


 マリアンネが息を呑む。


「三名はいずれも救出へ直接関与。特にリリアが、アン嬢を輪と呼ばれる拘束地点から外へ出したとの証言です」


「……リリアが?」


 イザベラの唇から、掠れた声が漏れた。


「はい」


「本当に、アンがそう言ったのですか」


「アン嬢は『リリアが来てくれた』『助けてくれた』と繰り返し証言しております」


 小広間に沈黙が落ちる。


 マリアンネが目を伏せた。


 ジューンは両手を身体の前で組んだまま、動かなかった。


 使者は書状へ視線を戻す。


「詳細については、アン嬢の体調が回復したのち、正式な聴取を行うとのことです」


 ハインリヒが口を開く。


「アンは、いつ戻る」


「まず王室側の医師が診察いたします。本日は長距離を移動させず、王室騎士団の保護下で休ませます。その後の移送は、医師の判断によります」


「私が迎えに行きます」


 イザベラが立とうとする。


 だが、足元が揺れ、マリアンネが支えた。


「お母様」


「アンが生きているのよ。なら、私が」


「今、馬車を出せば、道中ですれ違う可能性があります」


 オットーが静かに言った。


「まず、王室騎士団から次の知らせを待ちましょう」


 イザベラは何か言い返そうとした。


 けれど、立っていることも難しい自分の身体に気づき、唇を閉じた。


 ハインリヒが使者へ尋ねる。


「リリアは、どこにいる」


「報告には記されておりません」


「ヴィクトルとシリルは」


「同じく、所在は不明です」


「レオナール隊長は、三人を追っているのか」


「葛花の境界を越えての追跡は行っておりません」


 その言葉に、ヨーゼフが顔を上げた。


「葛花にいるのか」


「断定はされておりません」


 使者はそれ以上は答えなかった。


 ハインリヒの指が、椅子の肘掛けへ置かれる。


 アンは戻る。


 だが、リリアは戻らない。


 そして、救出されたアン本人が、リリアに助けられたと証言した。


「旦那様」


 ジューンが低く呼んだ。


 ハインリヒは彼女を見なかった。


「何だ」


「アン様がお戻りになられましたら、まず、ご本人のお言葉をお聞きください」


「そのつもりだ」


「リリアについても」


 小広間の空気が張る。


「アン様が何を見て、何を伝えようとしておられるのか」


 ジューンは頭を下げたまま続ける。


「今度こそ、最後までお聞きください」


 ハインリヒは答えなかった。


 ただ、使者が持つ書状へ目を向けた。


 リリアが来てくれた。


 助けてくれた。


 それは、アン自身の言葉だった。


 記録として、王室騎士団の書面として、誰にも消すことのできない場所へ残される。


 ハインリヒは目を閉じた。


 娘が生きている。


 その安堵のすぐ隣に、三年前から目を背けてきた問いが、静かに立っていた。



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