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第五十三話 思い出したい

◆


 朝の光が、紙を張った戸の向こうから静かに差し込んでいた。


 隣で眠るアンの小さな寝息。


 ほどかれた金色の髪。


 少し色の戻った頬。


 その指は、リリアの袖を握ったままだった。


「アン様」


 小さく呼ぶ。


 アンは起きなかった。


 ただ、袖を握る指先が少しだけ動いた。


 アンが、生きて、ここにいる。


 その事実を確かめるだけで、胸の奥が少し温かくなる。


 けれど、これからどうなるのだろう。


 いつまでも葛花に留めておけば、今度はこの場所が侯爵令嬢を人質に取ったと疑われるかもしれない。


 そして、自分は。


 リリアは右腕へ目を落とした。


 何もかもが、まだ霧の向こうだった。


 戸の外で衣擦れの音がする。


「リリア様。起きていらっしゃいますか」


 医女長の声だった。


「はい」


「入ってもよろしいでしょうか」


 リリアは一度、隣のアンを見た。


「……はい」


 戸が静かに開く。


 医女長が盆を持って入ってきた。


「こちらは葛の若葉と、身体を温める乾燥生姜を少量使ったお茶です」


 茶葉の入った小皿も盆へ置く。


「ご自身で確かめますか」


 リリアは皿へ目を落とした。


 細く刻んだ葉。


 薄く乾かされた根。


 それ以外のものは見当たらない。


「……ありがとうございます」


「苦手でしたら、白湯へ替えます」


「飲んでみます」


 湯呑みを受け取る。


 苦みの奥に、かすかな辛さがあった。


「昨日より顔色は戻っていますが、まだ長く起きているのはお控えください」


「はい」


 リリアは盆を見る。


 湯を使った。


 服も借りた。


 食事も、寝具も、手当ても。


 あとで何を返せばいいのだろう。


 何を求められるのだろう。


「食べた分を返していただく必要はありませんよ」


 医女長が言った。


 リリアは顔を上げる。


「……顔に出ていましたか」


「少しだけ」


 医女長は責めるでもなく答えた。


「今のリリア様には、食べることも休むことも必要です。だから用意しております」


「必要だから……」


「はい」


「私に?」


「はい」


 当たり前のように返される。


 必要だから食べる。


 必要だから休む。


 その考えは、今のリリアにはまだ遠い。


「リリア……?」


 隣でアンが身じろぎした。


「はい。ここにいます」


 アンの目が開く。


 袖を握る指に力が戻った。


「いなくなってない」


「はい」


「よかった」


 小さな声だった。


 医女長はアンにも茶を見せる。


「アン様も少し飲みましょう。葛の葉と生姜のお茶です。苦ければ白湯へ替えます」


 アンは湯呑みを見てから、リリアを見る。


「リリアも飲む?」


「はい」


「では、私も」


 二人で口をつける。


 アンはすぐに眉を寄せた。


「……苦い」


「少しだけ生姜も入っていますから」


 アンはもう一度、恐る恐る口をつけた。


「リリアは、昔も苦いお茶を飲んでた」


 ぽつりと言ってから、口を閉じる。


 リリアが覚えていないことを思い出したのだろう。


「私が?」


 リリアが尋ねると、アンは迷いながら頷いた。


「うん。私が苦いって言ったら、リリアが先に飲んでくれたの」


「先に?」


「リリアが飲んだら、私も少しだけ飲めたから」


「そうでしたか」


「……ごめんね」


「どうしてですか」


「私ばかり覚えてる」


 リリアは首を横へ振った。


「謝らないでください」


 アンを見る。


「アン様が覚えていてくださることが、私は嬉しいです」


 アンはしばらくリリアを見つめた。


 それから、小さく頷いた。


◆


 朝食を終えてしばらくすると、戸口に人影が現れた。


「入ってもいいか」


 シリルだった。


「はい」


 昨日までとは違う東国風の衣。


 腰には短剣。


 そして何より、もう髪を染めてはいない。


 アンはしばらく、その姿を見つめた。


「……シリル?」


「ああ」


「髪……黒かったの?」


「元からな」


「ずっと?」


「ああ」


 アンは驚いたように黒い髪を見つめる。


「どうして、茶色くしていたの?」


「ローダンで黒髪は目立つ」


 シリルは壁際に立ったまま答えた。


「俺が何者か知られるわけにはいかなかった」


「何者って……」


「守り人だ」


 アンの表情が変わった。


「守り人?」


「リリアを守るために、ローゼンベルク家へ入った」


 リリアもシリルを見る。


 アンの前で改めて口にされると重みが違った。


 アンは掛け布を握りしめた。


「……庭師見習いというのは?」


「屋敷にいるための身分だ」


「本当は庭師ではなかったの?」


「庭仕事は覚えた」


 シリルは淡々と答える。


「だが、それが目的じゃない」


 アンは黙った。


 先ほどまでの驚きとは違う。


 考えている顔だった。


「お父様は知っていたの?」


「知らない」


 答えは短かった。


「お母様も?」


「知らないはずだ」


 アンの指が掛け布を強く握った。


「では……黙って屋敷へ入ったの?」


「ああ」


 シリルは否定しなかった。


 アンの顔から、わずかに血の気が引いた。


「どうして……」


「リリアの近くにいるためだ」


「でも」


 アンはシリルを見る。


「ローゼンベルク家は、私たちの家よ」


「ああ」


「そこへ、何者なのか隠して入ったの?」


「ああ」


 もう一度、シリルは認めた。


「……怖いわ」


 小さな声だった。


 シリルは何も言わなかった。


 安心させようともしない。


 しばらくして、低く答えた。


「そう思って当然だ」


 アンが顔を上げる。


「俺を信用する必要はない」


「でも、祠に来てくれた」


「ああ」


「リリアを背負って、ここまで連れてきてくれた」


「それも事実だ」


 アンはしばらく黙っていた。


「……よく分からない」


「それでいい」


 アンは、シリルから目を逸らさなかった。


 怖いと思うことと、助けてもらったこと。


 その二つを、今すぐ一つに決めなくてもよいのかもしれない。


「シリルさん」


 リリアが尋ねる。


「手当ては受けましたか」


「受けた」


 腕には、擦り傷を覆う細い布が巻かれている。


 医女長が横から言った。


「診察の途中で立とうとなさいましたが」


 シリルが医女長を見る。


「結局、最後まで受けただろ」


「医師に止められてからです」


「……受けたことには変わりない」


 アンの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。


◆


「失礼します」


 戸口から、別の声がした。


 アンが振り向く。


「ヴィクトル?」


「はい」


 灰色の東国風の衣を着たヴィクトルが立っていた。


 右肩から胸元には厚い布が巻かれている。


 アンの顔に、今度ははっきりと心配が浮かんだ。


「その肩……」


「大丈夫です」


「大丈夫には見えないわ」


 ヴィクトルが一瞬、言葉に詰まった。


「……回復しています」


 ヴィクトルは軽く頭を下げた。


「入ってもよろしいですか」


「ええ」


 ヴィクトルが部屋へ入る。


 アンは、その姿を見つめた。


「その服も変」


「お借りしたものです」


「そうではなくて……」


 アンはヴィクトルを見る。


 何かを思い出すように。


「ヴィクトルは、従僕見習いでしょう?」


 部屋が静かになった。


 ヴィクトルはすぐには答えなかった。


 アンも何かを感じ取ったらしい。


「……違うの?」


「申し訳ありません、アン様」


 ヴィクトルは姿勢を正した。


「私は王室騎士団に所属する騎士です」


 アンは目を見開いた。


「王室……騎士?」


「はい」


「でも」


 声が少し大きくなる。


「食堂で給仕をしていたでしょう?」


「はい」


「荷物も運んでいたし、廊下の灯りも替えていたでしょう?」


「はい」


「私が落とした本を、図書室まで持ってきてくれたこともあった」


「覚えております」


「なのに、騎士なの?」


「はい」


 アンは言葉を失った。


 やがて、ゆっくりとシリルを見る。


 そしてヴィクトルを見る。


「……二人とも?」


 誰もすぐには答えなかった。


「二人とも、何者なのかを隠して、うちにいたの?」


 シリルが答える。


「ああ」


 ヴィクトルも頭を下げた。


「はい」


 アンの顔が強張った。


「お父様は?」


 ヴィクトルを見る。


「私が王室騎士であることを、侯爵閣下にはお伝えしておりませんでした」


「お父様は知らなかったのね?」


「はい」


「二人とも?」


「そうだ」


 シリルが答えた。


 アンは掛け布の上へ視線を落とした。


「……どうして」


 声が震える。


「どうして、うちに知らない人が二人もいたの?」


 十二歳の少女の声だった。


 けれど同時に、ローゼンベルク家の娘としての問いでもあった。


 自分が暮らしてきた屋敷。


 父が治める家。


 騎士も使用人もいて、守られているはずだった場所。


 そこへ、身分を偽った者が二人も入り込んでいた。


「シリルは、リリアを守るためだと言ったわ」


「ああ」


 アンはヴィクトルを見る。


「ヴィクトルは?」


「王室騎士団の任務です」


「何のための?」


 ヴィクトルは少し間を置いた。


「ローゼンベルク家と、その周辺で起きている事柄を調べるためです」


「私たちを見張っていたの?」


「結果として、そうなる部分もありました」


 アンの顔が曇る。


「では、私にお辞儀していたのも?」


 ヴィクトルが顔を上げた。


「それは違います」


「違う?」


「従僕見習いという身分は偽りでした」


 ヴィクトルは静かに続ける。


「ですが、アン様へ礼を尽くしたことまで偽りだったつもりはありません」


 アンは彼を見つめた。


「本を持ってきてくれた時も?」


「はい」


「私が厨房へ行こうとして、クララに見つかりそうになった時、反対の廊下を教えてくれたのも?」


 ヴィクトルの眉がわずかに動いた。


「……覚えておられたのですか」


「覚えてるわ」


「それも任務ではありません」


「では、どうして?」


「アン様が、ひどく困っておられましたので」


 アンは何も言わなかった。


 しばらくして、小さく息を吐く。


「……分からないことばかり」


「申し訳ありません」


「謝られても、すぐには分からないわ」


「はい」


 ヴィクトルは否定しなかった。


 アンは右肩の傷を見る。


「でも、その怪我は」


「逃走の途中で負ったものです」


「リリアを守ってくれたの?」


 ヴィクトルは少し考えた。


「守れたところもあります」


 短く間を置く。


「反対に、私が守られた場面もありました」


 リリアは右腕へ意識を向けた。


 ヴィクトルへ残してしまった縁。


 それが何を意味するのかは、まだ分からない。


 アンは二人を見た。


「……二人とも、助けに来てくれたことは本当なのね」


「ああ」


 シリルが答える。


「はい」


 ヴィクトルも頷いた。


 アンは少し考えた。


「なら、それにはお礼を言うわ」


 シリルがわずかに眉を上げる。


「それには、か」


「だって、黙って屋敷に入っていたことまで、今すぐいいことだったとは思えないもの」


 シリルは一瞬黙った。


「……そうだな」


 ヴィクトルは深く頭を下げた。


「アン様のおっしゃる通りです」


 アンは二人を見る。


「リリアを助けてくれて、ありがとう」


 そして、少しだけ声を強くした。


「でも、全部信用したわけではないからね」


「それでいい」


 シリルが答えた。


 ヴィクトルも頷いた。


「当然です」


 アンは二人の答えを聞き、ようやく少しだけ肩の力を抜いた。


◆


 しばらくして、戸の外にセイランが現れた。


 中には入らず、敷居の向こうで足を止める。


「二人とも、具合は」


「その前に」


 シリルが遮った。


「昨日の続きを聞く」


 セイランがシリルを見る。


「待ってください」

 

 リリアが言った。


 セイランを見る。


「昨日は……ありがとうございました」


「アン様を助けてくださったことも、ここへ連れてきてくださったことも」


 少し迷ってから続ける。


「まだ、あなたを信用しているわけではありません」


「分かっている」


「それでも、お礼は申し上げたかったんです」


 アンも小さく頭を下げた。


「私からも。助けてくださって、ありがとうございました」


 セイランは短く頷いた。

 

 ヴィクトルも姿勢を正した。


「私からも、お礼を申し上げます」


 セイランがヴィクトルを見る。


「リリアさんとアン様の保護。それに、私の治療まで手配していただいた」


「王の騎士を死なせれば面倒だからな」


「理由が何であれ、助けられた事実は変わりません」


 ヴィクトルは静かに頭を下げた。


「ありがとうございました」


 セイランは一瞬だけ黙った。


「……受け取っておく」


 シリルが壁際から言う。

「礼は終わったな」


 セイランがシリルを見る。


「俺は昨日から聞きたいことが山ほどある。祀院のこと。あの輪のこと。それから――」


 シリルの視線が鋭くなる。


「皇帝の側近であるあんたが、どこまで知っていたのか」


 リリアもセイランを見る。


 皇帝の側近。


 その言葉が、今までとは違った重みを持って聞こえた。


「全部話してもらう」


「答えられることには答える」


「またそれか」


「だが」


 セイランはリリアへ目を向ける。


「本人が聞くことを望むなら」


 リリアの胸が大きく打った。


 怖くないはずがない。


 それでも。


「聞きたいです」


 自分の声が、思ったよりはっきりと出た。


「私も聞きたい」


 アンが続ける。


 セイランは二人を見てから尋ねた。


「入ってもいいか」


「……はい」


 リリアが答える。


 セイランが敷居を越えた。


 シリルが最初に口を開く。


「祠の輪は、黒百合の力を祠へ縛るためのものだった」


「ああ」


「アン様を使ったのは、黒百合が自分のためには咲かないからだ」


「ああ」


「そこまでは俺にも分かる」


 シリルの声が低くなる。


「守ろうとする相手を危険に置けば、リリアは力を使う。祀院はそれを利用した」


「そうだ」


「俺が聞きたいのは、その先だ」


「何だ」


「祀院は、なぜリリアの力を祠へ縛ろうとした」


「自由にさせたくなかったからだ」


「祀院のものにするためか」


 セイランは少し黙った。


「祀院の中でも、考えは一つではない」


「今回動いた連中は?」


「黒百合を、本人の意思とは関係なく管理下へ置こうとした」


 アンの指がリリアの袖をつかむ。


「だから、私を?」


 セイランはアンを見る。


「ああ」


「私を危ない目に遭わせれば、リリアが力を使うから?」


「そうだ」


 アンの顔から色が失われる。


「私が騙されたから……」


「違います」


 リリアは思わず強く言った。


 アンがこちらを見る。


「アン様のせいではありません」


 迷いはなかった。


「アン様を利用した人たちが悪いのです」


 アンの目に涙が浮かんだ。


 リリアは、その手を握る。


 シリルが再び口を開いた。


「三年前の馬場も」


 その言葉に、リリアの呼吸が止まる。


「黒百合がリリア自身のために咲いたんじゃない。それは間違いない」


「ああ」


 セイランは即答した。


「黒百合は、自分自身を守るためには咲かない」


「俺もそう教えられている」


 シリルが言った。


「だから、三年前に何が起きたにせよ、リリアが自分を守るために力を暴走させたという話はおかしい」


 リリアの指が強張る。


「では……」


 声が震えた。


「三年前も、私は誰かを守ろうとしたのですか」


「その可能性が高い」


 セイランが答える。


「アン様を?」


 セイランはすぐには答えなかった。


「断言はできない」


「なぜですか」


「私は、あの日その場にいなかった」


「俺も見てない」


 シリルも言った。


「でも、黒百合の性質そのものは変わらない」


 リリアは右腕を押さえた。


 三年前。


 馬場。


 アン。


 暴れた馬。


 自分に下された罰。


「では、私は……」


 喉が詰まる。


「アン様を傷つけるために、力を使ったのではない?」


「ああ」


 セイランの答えは早かった。


「黒百合は、誰かを傷つけるために咲くものではない。守ろうとして咲く」


「でも、アン様は一週間、目を覚まさなかったと……」


「力が現れた理由と、その結果起きたことは別だ」


 シリルが言う。


「守ろうとして力が出ても、その場で何が起きたのかまでは、俺たちには分からない」


 セイランも頷いた。


「だから、あの日を実際に見た者の話と、残された記録を確かめる必要がある」


 リリアは掛け布を握った。


「知りたいです」


 誰も口を挟まなかった。


「三年前、馬場で何があったのか」


 一つずつ言葉にする。


「アン様を守ろうとしたのか」


 右腕へ手を置く。


「何が起きて、なぜ私がアン様を傷つけたことになったのか」


 胸が苦しくなる。


「私は、本当に罪人なのか」


 喉が震えた。


「知りたいです」


 失われたものが、すべて戻るとは限らない。


 それでも。


「知らないまま、また誰かに決められるのは嫌です」


 アンが泣きそうな顔で尋ねる。


「思い出したら、リリア、つらい?」


「分かりません」


 リリアは正直に答えた。


「でも、アン様」


 その手を握る。


「今の私は、アン様を大切に思っています」


 アンを見る。


「きっと、昔の私も、アン様が大切だったのだと思います」


「うん」


 アンの声が震える。


「私、覚えてるよ」


「はい」


「リリアはずっと私と一緒にいた。お茶も飲んでくれたし、馬場でも……私を……」


 そこで言葉が止まった。


 アンの顔から色が失われる。


「アン様」


 ヴィクトルが静かに呼ぶ。


「今、無理に話さなくても大丈夫です」


 アンは小さく頷いた。


 リリアは震える指で、その手を包む。


「アン様が覚えていてくださることは、私にとって大切な手がかりです」


「でも……」


「急がなくていいです」


 今度はリリアが言った。


「アン様が話せる時に、教えてください」


 アンは涙を拭いながら頷いた。


◆


 シリルは、まだセイランから目を離していなかった。


「まだ終わってない」


「分かっている」


「皇帝の側近として、どこまで知っていた」


 部屋の空気が変わる。


「祀院がリリアを狙ってることも、黒百合を縛ろうとしてることも。前から知ってたのか」


「祀院が黒百合を求めていることは知っていた」


「今回の計画は」


「知らなかった」


「皇帝の命令でリリアを探していたのか?」


「ああ」


 セイランは迷わなかった。


「皇帝のところへ連れていく命令だったのか」


「そうだ」


 セイランは続ける。


「だが、それだけで動いているわけではない」


「何だ」


「今、言うべき事ではない」


「都合がいいな」


「そう思って構わない」


 リリアは二人のやり取りを聞いていた。


「私を知っていたのですね」


 リリアが尋ねた。


 セイランがこちらを見る。


「ああ」


「母のことも?」


 部屋が静まった。


 菫色を含んだ瞳が、ほんのわずかに揺れたように見えた。


「ああ」


「では、父のことも?」


 今度は沈黙が長かった。


 シリルも何も言わない。


 セイランはリリアから目を逸らさなかった。


「手がかりはある」


 胸の奥がざわつく。


「今は話してくれないのですね」


「ああ」


「なぜですか」


「今のおまえへ何を、どこまで話すべきか、まだ決めていない」


「また、私の代わりに決めるのですか」


 静かな問いだった。


「今、何を話すかについては、そうだ」


 セイランは認めた。


「だが、おまえがこの先どうするかまで決めるつもりはない」


「それでも、私が知りたいと言ったら?」


「いつまでも黙るつもりはない」


「約束してくださいますか」


「ああ」


「私が聞きたくないと言った時は」


「止める」


「途中でも?」


「止める」


 リリアはしばらく彼を見つめた。



「私は記憶を取り戻したいです。母についても知りたいです」


 セイランの答えは早かった。


「少なくとも、おまえの母へつながるものはある」


 リリアの胸が強く打った。


「母に……」


「ああ」


「なら、私は知りたいです」


 右腕を押さえる。


 アンの手へ触れる。


「ヤシャラのためでも、ローダンのためでもなく」


 そして、セイランを見る。


「私が、私を知るために」


 セイランは長く黙った。


 やがて静かに頷く。


「それなら、私は道を示す」


「道だけだ」


 シリルがすぐに言った。


「それ以上のことをするなら、俺が止める」


「守り人なら、それでいい」


「見てるからな」


「好きにしろ」


 セイランがリリアを見る。


「ならば、選べばいい」


「ローダンへ戻るのか。ヤシャラへ行くのか。葛花へ留まるのか。それとも別の場所へ行くのか」


 リリアは、その言葉を胸の内で繰り返した。


 選ぶ。


 自分で。


◆


 その時、戸の外に人影が止まった。


「セイラン様」


 昨日、祠からアンを抱いて運び、この場所まで案内した女、ファリダだった。


「何だ」


「葛花の外縁へ、王室騎士団の使者が到着しました」


 ヴィクトルの表情が変わった。


「名を」


「レオナール・グレイヴス」


「隊長本人が?」


「はい。騎士を伴っておりますが、全員、ローダン側の境界標より外で待機しています」


 ヴィクトルが静かに息を吐いた。


 シリルが問う。


「ここが見つかったのか」


「違う」


 セイランが答える。


「外へ出られる道を読んで、境界で待っているだけだ」


「それでも早いな」


「レオナール・グレイヴスは、あの程度の霧で諦める男ではない」


「同意します」


 ヴィクトルが答えた。


 アンの指がリリアの袖をつかむ。


「レオナール様が来たの?」


「ああ」


 セイランはアンを見る。


「君をローダン側へ引き渡すことができる」


「帰るの?」


「君が望み、医女が移動できると判断すれば」


 アンが目を瞬いた。


「私が決めていいの?」


「君のことだからな」


 アンはしばらく黙った。


「お父様と、お母様のところへ帰れる?」


「レオナールへ引き渡したあと、どこへ移すかはローダン側の判断になる。だが、君が侯爵家へ帰りたいと望んでいることは伝えられる」


「リリアも?」


 リリアの胸が痛んだ。


 セイランは答えない。


 代わりに、リリアを見る。


 自分で答えろということなのだろう。


「私は……ここに残ります」


 口にすると、胸の奥が締めつけられた。


「失ったものを、自分で探すために」


 アンの目が潤む。


「一緒に帰らないの?」


「はい」


「また会える?」


 すぐに「はい」と答えたかった。


「……いつになるかは、分かりません」


 アンの顔が歪む。


「ですが」


 リリアは両手で、その手を包んだ。


「私は、またアン様に会いたいです」


「本当?」


「はい」


「絶対?」


「また会うための道を、自分で探します」


 誰かに決められた道ではなく。


 今度は、自分で選んだ道を。


 アンは涙をこぼしながら頷いた。


「私、帰る」


 小さな声だった。


 それでも、はっきりしていた。


「レオナール様のところへ行く」


 セイランが頷いた。


 アンは涙を拭った。


「お父様とお母様に会いたい」


 そして、リリアを見る。


「それに、言わなければいけないことがあるから」


「何をですか」


「リリアが助けに来てくれたって」


 声は震えている。


「レオナール様にも、お父様にも、お母様にも」


「アン様……」


「リリアが、もう怖いことをされないように」


◆


 医女長がアンの額へ触れ、脈を確かめた。


「熱は下がり始めています。ただし、歩かせることはできません」


「境界まで移せるか」


 セイランが尋ねる。


「揺れの少ない担架を使い、途中で一度休ませること。それが条件です。馬には乗せられません」


「分かった」


 セイランはファリダへ向く。


「担架を用意しろ。運ぶ者は二人。武器は見せるな」


「承知しました」


「引き渡しが終わるまで付き添え」


「はい」


 ヴィクトルが一歩前へ出た。


「私も同行します」


 シリルが眉を寄せる。


「境界を越える気か」


「いいえ」


 ヴィクトルは即答した。


「アン様の無事を、レオナール隊長へ直接確認してもらいます。ですが、私は葛花側から出ません」


 アンがヴィクトルを見る。


「ヴィクトルも来てくれるの?」


「境界までですが」


「……うん」


 アンは少し安心したように頷いた。


「レオナール様に、ちゃんと説明してね」


「何をでしょう」


「全部」


 ヴィクトルは一瞬黙った。


「……承知しました」


「私が祠にいたことも。リリアが助けに来てくれたことも」


「はい」


「それから」


 アンは少し考える。


「あなたが本当は騎士だったことも」


 ヴィクトルの表情がわずかに固まった。


「それは、隊長はご存じです」


 アンは目を瞬く。


「レオナール様は知っていたの?」


「はい」


「……もう」


 アンは掛け布へ顔を半分埋めた。


「知らなかったの、私たちだけだったのね」


 ヴィクトルは返す言葉を失った。


 リリアは、そんなアンの手をそっと握った。


◆


 ファリダたちが、アンを運ぶための担架を用意した。


 柔らかな敷布。


 身体を冷やさないための毛布。


 揺れを抑えるため、両側には太い担ぎ棒が取りつけられている。


 アンは担架へ移る前に、もう一度リリアのそばへ来た。


「リリア」


「はい」


「思い出して」


「はい」


「でも、痛かったらやめて」


 リリアは少しだけ迷った。


「……その時の私に、決めさせてください」


 アンの眉が下がる。


「そこは、はいって言って」


「……無理はしません」


「本当?」


「はい」


 アンは涙の中で、わずかに笑った。


「それならいい」


 リリアも少しだけ笑った。


 やがて医女長に促され、アンは担架へ横たわった。


 毛布を掛けられても、その手は最後までリリアへ伸ばされている。


「アン様」


 リリアは、その小さな手を両手で包んだ。


 やがて、指先が離れる。


 その距離が、ひどく遠く感じられた。


 アンは少し離れたところに立つシリルを見た。


「シリル」


「何だ」


 呼ばれたシリルが近づく。


 アンは少し迷ってから言った。


「リリアのそばに、いてください」


 シリルは一瞬、黙った。


「……言われなくても、そのつもりだ」


「本当に?」


「ああ」


「お願いします」


 アンは丁寧に頭を下げようとして、医女長に止められた。


「起き上がらないでください」


「……はい」


 シリルはそんなアンを見て、短く言った。


「任せろ」


 アンは次にヴィクトルを見る。


「ヴィクトル」


「はい、アン様」


「レオナール様のところまで、お願いします」


「承知しました」


 ファリダが担架の横へ立つ。


「境界まで、私がご案内いたします」


 ヴィクトルも戸口へ向かった。


 シリルがその背へ声を掛ける。


「境界を越えるなよ」


「ああ」


「向こうへ出れば、レオナールがお前を拘束する」


「分かっている」


「アン様を引き渡したら戻れ」


 ヴィクトルは一度、リリアを見た。


「そのつもりです」


「ヴィクトルさん」


 リリアが呼ぶ。


「はい」


「戻ってきてくださいますか」


 ヴィクトルはすぐに答えた。


「戻ります」


 リリアは彼を見つめた。


 黒百合の縁があるからなのか。


 それとも、ヴィクトル自身がそう望んでいるのか。


 今はまだ分からない。


「行ってきます」


 ヴィクトルが言った。


 その言葉に、リリアは目を見開いた。


「……行ってらっしゃいませ、ヴィクトルさん」


 アンを乗せた担架が、ゆっくりと動き始める。


 戸口を越える直前、アンが顔をこちらへ向けた。


「リリア」


「はい」


「またね」


 リリアは涙をこらえた。


「……はい」


 そして、今度は自分から言う。


「また、お会いしましょう。アン様」


 アンは泣きながら頷いた。


 担架が廊下の向こうへ運ばれていく。


 ヴィクトルとファリダも、その後へ続いた。


 足音が遠ざかる。


 やがて、聞こえなくなった。


 隣には、アンが使っていた空の寝具が残った。


 リリアは、その空白を見つめた。


 アンは、帰ることを選んだ。


 自分は、残ることを選んだ。


 逃げるためではない。


 誰かに決められた場所へ留まるためでもない。


 三年前、何があったのか。


 なぜ黒百合が咲いたのか。


 自分は、誰を守ろうとしたのか。


 思い出せるかどうかは、まだ分からない。


 それでも。


「思い出したい」


 小さく口にした。


 胸の奥が、少しだけ痛んだ。


 けれど、それは怖さだけではなかった。


 過去へ向き合うための痛みだった。



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