第五十二話 湯気の向こう
◆
目を覚ました時、リリアは自分がどこにいるのか分からなかった。
石の床ではない。
地下の湿った匂いもしない。
香草室横の小部屋でもない。
頬に触れているのは、柔らかな布。
微かに水の音が聞こえる。
湯と木と薬草の、温かな匂いも混じっていた。
「……アン様」
声を出したつもりだった。
乾いた喉から、掠れた音しか出ない。
すぐ隣で、小さな手が動いた。
「リリア」
アンの声。
リリアは目を開けた。
隣の寝具に、アンが横になっている。
顔色はまだよくないが、目はしっかりと開いていた。
リリアの片手を、アンの両手が包んでいる。
「よかった」
泣きそうな顔で笑った。
「リリア、起きた」
「アン様も……」
その呼び方を口にすると、まだ胸の奥が少しくすぐったくなる。
お嬢様ではない。
アン様。
本人が望んでくれた名前。
リリアは身体を起こそうとした。
右足へ鋭い痛みが走る。
「……っ」
「動かないでください」
すぐ近くから声がした。
眠る前に、二人の手当てをしてくれた医女長だった。
「右足はまだ腫れています。急に身体を起こさないでください」
「すみません」
「謝ることではありません」
医女長はそれ以上言わず、湯呑みを差し出した。
「まず、水分を。蜂蜜を薄く溶かしてあります」
リリアは湯呑みを見た。
手を伸ばしかけて、止める。
「蜂蜜だけですか」
「はい。水と蜂蜜だけです」
医女長は急かさなかった。
リリアは湯呑みを受け取る。
両手に収まった温かさが、冷えた指先へゆっくりと移ってきた。
一口飲む。
乾いた喉が潤い、優しい甘さが残る。
「……おいしいです」
思わず口にすると、医女長の表情がわずかに和らいだ。
「それは、ようございました」
アンも同じものを飲んでいた。
小さな手で湯呑みを支え、一口ずつ口へ運んでいる。
「お母様の紅茶より甘い」
ぽつりと言ったあと、アンの動きが止まった。
イザベラ。
ハインリヒ。
ローゼンベルクの屋敷。
そこへ考えが戻ったのだろう。
湯呑みを持つ手が下がる。
リリアは、その手へそっと指を重ねた。
「今は、飲みましょう」
「……うん」
アンは頷き、もう一口飲んだ。
医女長は二人の顔色を確かめ、手首へ指を当てて脈を取った。
「もう少し休んでから、身体の泥と血を落としましょう」
「……はい」
「初めは座ったまま身体を拭きます。気分が悪くならなければ、短い時間だけ浅い湯へ入りましょう」
そして、リリアの右足へ目を向ける。
「こちらは固定したままにします」
リリアは小さく頷いた。
◆
しばらくして、医女長がもう一度リリアの顔色を確かめた。
「気分は悪くありませんか」
「はい」
「眩暈は」
「ありません」
「では、少しずつ始めましょう」
若い医女が、畳んだ衣を持ってきた。
「替えの衣もございます」
リリアは、自分の服へ目を落とした。
泥。
乾いた血。
破れた裾。
「この服は」
「洗っておきます」
医女長が答えた。
「残すかどうかは、あとでお決めください」
リリアは顔を上げた。
「私が……ですか」
「はい」
それだけだった。
残せとも、捨てろとも言われない。
自分で決めてよい。
まだ、その感覚には慣れなかった。
若い医女が呼ぶ。
「リリア様」
リリアは思わず振り向いた。
「……私、ですか」
「はい」
その呼び方に戸惑っていると、医女長が静かに尋ねた。
「そのようにお呼びしてもよろしいでしょうか」
リリアは少し迷った。
戸惑いはしたが、嫌ではなかった。
「……はい」
「承知いたしました」
リリアは、自分の名を胸の内で繰り返した。
リリア様。
まるで、知らない誰かの名のようだった。
服を脱ぐ。
身体を洗われる。
右腕を見られる。
背中の古い傷も。
そう考えた途端、掛け布を握る指に力が入った。
医女長は、その様子を見て近づくのを止めた。
「あなたを調べるためではありません」
リリアが顔を上げる。
「傷を悪くしないためです」
「……右腕も、見ますか」
「洗う必要があるところだけを」
医女長はそれ以上、何も言わなかった。
返事を待っている。
リリアは一度、息を整えた。
「……お願いします」
「ありがとうございます」
◆
湯殿は、部屋から渡り廊下を進んだ先にあった。
今のリリアには、自分の足で湯殿まで歩くことはできなかった。
医女長と若い医女に身体を支えてもらい、右足へ体重を掛けないよう、ゆっくりと移動した。
アンは隣の湯殿へ連れていかれることになった。
離れると分かった途端、表情が曇る。
「リリアもいる?」
「隣におります」
若い医女が答えた。
「声は届きます。戸も少し開けておきますね」
アンはリリアを見た。
「呼んだら、返事して」
「はい」
「絶対?」
「絶対です」
それでようやく、アンは隣へ入った。
湯殿には白い湯気が満ちていた。
石で囲まれた浅い湯舟。
木の桶。
低い椅子。
身体を拭くための湯から、淡い薬草の匂いがする。
リリアの足が止まった。
「この匂いは、何ですか」
「石鹸草の葉です」
医女長が布袋を手に取った。
リリアはその袋を見る。
「葉を見てもいいですか」
「もちろんです」
袋の口が開かれる。
リリアは乾かした葉を一枚受け取り、指先で揉んだ。
青さの奥に、少しだけ土を思わせる匂いがある。
香草室でも扱ったことのある葉だった。
「これだけですか」
「湯には、それだけです」
医女長は答えた。
「何も入っていない湯に替えることもできます」
リリアは、もう一度匂いを確かめた。
「これなら、大丈夫です」
「分かりました」
自分で確かめた。
自分で決めた。
それだけのことが、胸の奥へ小さな安心を残した。
地下の水場とは違う。
罰として冷たい水を浴びせられる場所でもない。
汚れを責められる場所でもない。
頭では分かっている。
それでも、身体はすぐには動かなかった。
「まず、こちらへ座りましょう」
促され、低い木の椅子へ腰を下ろす。
医女長の手が服の紐へ近づく。
リリアの肩が反射的に上がった。
その手が止まる。
「ここをほどいてもよろしいですか」
リリアは医女長を見る。
待っている。
自分の返事を。
「……はい」
布が少しずつ解かれていく。
泥で硬くなった衣服が肌から離れるたび、擦り傷が引きつった。
右腕の袖を外す時、リリアは目を閉じた。
見られる。
黒百合を。
何を言われるのだろう。
けれど、何も起きなかった。
温かな布が、腕へ触れた。
「痛みますか」
「……少し」
「では、擦らずに流しますね」
それだけだった。
リリアは恐る恐る目を開けた。
湯気の向こうで、医女長は右腕に咲く黒百合ではなく、傷ついた腕を洗っていた。
黒い痣を覗き込むこともない。
触れて確かめようともしない。
ただ、泥と乾いた血を落としている。
「アン様」
隣へ呼びかけた。
「リリア?」
すぐに返ってきた。
「います」
「痛い?」
リリアは腕を見る。
「……少し、痛いです」
隣が静かになった。
それから、小さな声が返る。
「……痛いのね」
それだけだった。
けれど、なぜか目の奥が熱くなった。
◆
身体の泥を拭い、傷へしみないことを確かめてから、リリアは浅い湯へ移された。
「長くは入りません」
医女長が言う。
「気分が悪くなったら、すぐに教えてください」
「はい」
右足は湯舟の外へ出し、濡れないようにしておく。
身体だけを、浅く湯へ浸けた。
肩。
背中。
冷えきっていた手。
逃げ続ける間、ずっと縮こまっていた身体へ、ゆっくりと熱が戻ってくる。
リリアは、自分が震えていることに気づいた。
寒くはない。
目の前に危険があるわけでもない。
それなのに、震えが止まらない。
今になって、身体が怖かったのだと訴えているようだった。
一滴、涙が頬を伝った。
「どこか、しみますか」
医女長が尋ねる。
リリアは首を横へ振った。
「……分かりません」
「では、そのままにしておきましょう」
湯が静かに揺れる。
次の言葉は、考えるより先に口から出た。
「泣いても、いいのですか」
自分でも驚いた。
医女長は、何でもないことのように答えた。
「もちろんです」
リリアは俯いた。
声は出なかった。
ただ、涙が一つ、また一つと落ちていく。
地下の小部屋でも。
石室でも。
香草室でも。
泣くことさえ、許しを求めなければならないような気がしていた。
でも、ここには湯気がある。
顔を隠してくれる。
アンにも。
シリルにも。
ヴィクトルにも。
セイランにも見られない。
リリアは声を出さずに泣いた。
医女長は何も尋ねず、温かな湯を静かに肩へかけ続けた。
◆
湯から上がったリリアには、柔らかな東国風の衣が用意されていた。
白に近い薄紫の下衣。
その上へ、淡い灰青色の羽織を重ねる。
帯は細く柔らかく、身体を締めつけない。
ただ、休むための衣だった。
「苦しくありませんか」
医女長が尋ねる。
「はい」
やがてアンも戻ってきた。
薄桃色の柔らかな衣を着て、髪は乾いた布で包まれている。
頬には少しだけ色が戻っていた。
「リリア」
見つけるなり、手を伸ばす。
「アン様」
リリアも手を伸ばし、互いの指を握った。
アンが少しだけ笑った。
「ちゃんとアン様って呼んだ」
リリアの頬が熱くなる。
「……まだ、アンとは呼べません」
「いいよ」
アンは手を離さない。
「いつかで」
リリアは少し迷ってから、頷いた。
「はい、アン様」
「うん」
ほどなく、湯気の立つ膳が運ばれてきた。
白い粥。
鶏の出汁を使った澄んだ汁。
柔らかく煮た根菜。
薄く切った果物。
リリアは、目の前の膳を見る。
「こんなに……」
「まず、粥を少しずつ」
医女長が言った。
「急いで食べる必要はありません」
リリアは匙を取った。
アンが先に一口食べる。
「おいしい」
驚いたような声だった。
それを聞いて、リリアも粥を口へ運ぶ。
温かく柔らかなものが、空っぽだった身体の中へ落ちていく。
「……おいしいです」
「よかった」
医女長が静かに答える。
アンがリリアを見る。
「リリア。一緒に食べるの、久しぶり?」
匙が止まった。
久しぶり。
その言葉の向こうには、リリアの知らない時間がある。
アンも気づいたらしい。
「……ごめんなさい」
「謝らないでください」
リリアは首を横へ振った。
「私は覚えていません。でも」
アンを見る。
「アン様が覚えていてくださるなら、嬉しいです」
アンの目に涙が浮かんだ。
「昔ね」
「はい」
「リリア、私のお茶を、ふうふうしてくれた」
「そうなのですね」
「うん。私が熱いまま飲もうとするから」
リリアはアンの椀を見る。
「では、今も急いではいけませんね」
「うん」
アンは素直に匙を置き、少し待った。
リリアは、その横顔を見つめた。
失った時間は戻らない。
無理に思い出すこともできない。
けれど、アンの中には、自分の知らない自分が残っている。
それを聞くことは、怖いことばかりではないのかもしれない。
◆
食事を終える頃には、アンの瞼が何度も落ちかけていた。
「眠いですか」
医女長が尋ねる。
「少し……」
「では、今日はもう休みましょう」
アンはすぐにリリアを見る。
「リリアも?」
「私も休みます」
「一緒?」
「はい」
その答えで安心したのか、アンは寝具へ横になると、すぐにリリアの手を探した。
指を握る。
今度は、確かめる力も弱かった。
リリアも横になる。
湯上がりの身体には、まだかすかな温もりが残っている。
髪からは、石鹸草の淡い匂いがした。
「リリア」
「はい」
「今日もいてね」
「います」
「明日も?」
リリアは一瞬だけ迷った。
明日、自分たちがどこにいるのか。
王室騎士団が来るのか。
祀院が追ってくるのか。
何も分からない。
それでも。
「朝、目を覚ました時は、そばにいます」
アンは少しだけ笑った。
「うん」
やがて、規則正しい寝息が聞こえ始めた。
リリアは、その横顔を見つめる。
自分も目を閉じた。
湯の中で泣いたせいか、身体が重い。
けれど、不思議と苦しくはなかった。
今日、自分で決めたことがいくつかあった。
蜂蜜水を飲むこと。
石鹸草の入った湯を使うこと。
傷を見てもらうこと。
痛いと言うこと。
泣くこと。
どれも、小さなことだった。
それでも、自分で選んだ。
そのことを考えているうちに、意識がゆっくりと遠のいていった。
◆
夕刻近く、閉じた戸の外で、医女長がセイランへ報告していた。
「アン様には、少し熱がございます。ですが、今のところ危険な状態ではありません。疲労と恐怖が強く残っています」
「リリアは」
「右足の腫れと、強い消耗がございます。細かな擦り傷は洗いました。今夜は眠れるだけ眠らせた方がよろしいでしょう」
「分かった」
セイランは戸を見た。
中から物音はしない。
二人とも眠っているのだろう。
少し離れたところには、右肩を固定されたヴィクトルが立っていた。
シリルの腕にも、擦り傷を覆う布が巻かれている。
「リリアさんとアン様は」
ヴィクトルが尋ねる。
「お休みになっています」
医女長が答えた。
「騎士様も、もう横になってください」
「分かりました」
シリルが鼻で笑う。
「今日は素直だな」
「学習した」
「遅い」
「否定はしない」
医女長が今度はシリルを見る。
「守り人様もです」
「俺は――」
「横になってください」
「……分かった」
セイランが二人を見る。
「言い争うなら明日にしろ」
シリルの表情から、わずかに軽さが消えた。
「明日になったら、聞く」
「何を」
「全部だ」
セイランは答えなかった。
「祀院のことも。黒百合のことも。あんたが何を知ってて、何を隠してるのかも」
「好きにしろ」
「逃げるなよ」
「逃げるつもりなら、ここにはいない」
それ以上、シリルは何も言わなかった。
廊下の向こうから、若い医女が食事を運んでくる。
湯気の立つ汁と、柔らかく炊いた米。
ヴィクトルがそちらを見る。
シリルも一度だけ鼻を鳴らした。
「二人とも食べて休め」
セイランが言った。
「話はそのあとだ」
「明日だろ」
「ああ」
セイランは閉じた戸へ視線を戻した。
王室騎士団も、祀院も近くにいる。
この場所がいつまで隠し通せるのかも分からない。
黒百合を巡って動く者たちも、いずれここへ手を伸ばす。
聞かなければならないこともある。
話さなければならないこともある。
それでも、今は、戸の向こうから二人の寝息が聞こえている。
セイランは静かに言った。
「今夜くらいは、ただ眠らせてやれ」




