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第五十話 輪の外へ

◆


「檻とは聞こえが悪い」


 祀院の男が鼻で笑った。


 セイランは、祠の前に描かれた輪から目を離さない。


「では、何と呼ぶ」


「黒百合が自ら選ぶための輪だ」


 男は、その内側にいるアンを示した。


「守るべきものを前に置けば、巫女は必ず手を伸ばす。黒百合とは、そういう花だ」


「守ろうとする意志を利用し、力ごと祠へ縫いつける」


 セイランの声は静かだった。


「それを檻と呼ばず、何と呼ぶ」


 シリルが輪を睨んだ。


「なら、俺が入ってアンを出す」


「駄目だ」


 セイランの返事は早かった。


「なぜだ」


「あの輪が待っているのは、黒百合だけだ。それ以外の者が外から境を越えれば、輪は侵入を拒む」


「拒んだ力は、どこへ行く」


 ヴィクトルが尋ねた。


「内側に置かれた者へ返る」


 リリアの息が止まった。


「お嬢様に……?」


「ああ」


「どの程度だ」


 シリルの声が低くなる。


「分からない。痛みで済むか、意識を失うか。それ以上か」


 セイランは祀院の男へ視線を向けた。


「試す理由はない」


 祀院の男が薄く笑った。


「試してみるか、守り人」


 その視線がアンへ落ちる。


 短剣の柄を握るシリルの指に力が入った。


 ヴィクトルも、一歩踏み出しかけた足を止める。


「では、リリアさんなら入れるのですか」


「入れる」


 セイランの声が低くなった。


「そのための輪だ。黒百合が自ら境を越えた時だけ、輪は拒まない。その代わり――」


 セイランは輪の内側へ視線を落とした。


「黒百合を捕らえる仕組みが完成する」


 リリアの右腕が熱を持った。


 案内役の女が、長衣の下に隠した小刀へ手を伸ばす。


「なら、今のうちに輪を切れば」


「まだ切るな」


 女の手が止まった。


「輪には四つの結びがある。生きているのは一つだけだ。だが、外から見ただけでは分からない」


「どうすれば分かる」


「アン・ローゼンベルクが、自分の意思で外へ出ようとすれば、輪はそれを止めるために力を集中させる。その時、生きた結びが表へ出る」


 リリアはアンを見た。


「そこを切れば……?」


「輪は弱まる。だが、完全には消えない」


 セイランは一度、アンへ目を向けた。


「最後の境は、内側の者自身が越えなければならない。外から無理に引き出せば、残った力が再び閉じる」


「間違った結びを切れば?」


「輪に溜まった力が、この子へ返る」


 リリアの身体が強張った。


 セイランは輪の仕組みを知っていた。


 それでも、アンを危険にさらすことなく壊すには、まだ見極めなければならないものがあるらしい。


 リリアは輪の中へ目を向けた。


 葛の花房。


 紫の細紐。


 黒い石。


 乾燥した葉。


 それらで形作られた円の内側に、アンがいる。


 薄い外套をまとい、乱れた金髪には、片方だけ薄桃色のリボンが残っていた。


 乾いた唇が、かすかに動く。


「リリア……」


 掠れた声が届いた瞬間、右腕が焼けるように熱くなった。


 早く行かなければ。


 そんな焦りが、右腕の熱へ重なる。


 それが自分自身の思いなのか。


 輪に急かされているのか。


 リリアには分からなかった。


「お嬢様……」


 身体が前へ動きかける。


「踏むな」


 シリルがすぐにリリアの前へ出た。


「でも、お嬢様が」


「分かってる。だからこそ入るな」


 シリルは祠の輪を睨んだ。


「俺たちが入ればアンが傷つく。お前が入れば、お前が捕まる」


 その言葉が、はっきりと胸へ落ちる。


「守ることと、自分を差し出すことは違う」


 セイランも言う。


 リリアは彼を見た。


 深い菫色の瞳には、命令する者の冷たさとも、憐れみとも違う感情があった。


「では……私は、どうすればお嬢様を助けられるのですか」


 尋ねてから、リリアは気づく。


 また、誰かに答えを求めようとしている。


「輪へは入るな」


 セイランは告げる。


「その上で、アン・ローゼンベルクへ呼びかけろ」


「呼びかける……?」


「黒百合を呼ぶための餌ではない。自分で動ける、一人の人間として」


 リリアは輪の内側を見た。


 アンのぼんやりとした瞳は、それでも確かにリリアを見つめていた。


「お嬢様」


 呼びかけると、アンの瞼が動いた。


「こちらへ来てください」


 祀院の男が薄く笑う。


「無駄だ。輪はその娘を外へ出さぬ」


「それを決めるのは、お前じゃない」


 シリルが吐き捨てた。


 その背後で、法衣の者が動く。


 一人が腰の刃へ手を伸ばした。


 シリルの短剣が先に閃く。


 抜かれかけた刃を横から弾き、甲高い金属音が祠の前へ響いた。


 もう一人がリリアの側へ回り込もうとする。


 ヴィクトルが左手の剣で進路を塞いだ。


 右肩の傷へ響いたのか、身体が一瞬硬くなる。


 それでも、一歩も退かなかった。


「リリアさんから離れろ」


 静かな声だった。


 祀院の男がヴィクトルを見る。


「ローダンの騎士まで。黒百合は、本当に余計なものを連れてくる」


「その口を慎め」


 シリルの声が低く落ちた。


 男の目が、再びリリアへ向く。


 顔ではない。


 袖の下にある右腕の痣だけを見ている。


「黒百合は黒百合だ。器が何を望もうと――」


「控えろ」


 シリルが男の言葉を断ち切った。


 祀院とリリアの間へ、一本の線を引くように短剣を構える。


「この御方は、リリア様だ」


 リリアは息を呑んだ。


 リリア様。


 今まで、そんなふうに呼ばれた記憶はなかった。


 使用人でも、罪人でも、監視対象でも、黒百合の娘でも、器でもない。


 そこにあるのは、自分の名前だった。


「守り人風情が」


 祀院の男が嘲る。


 シリルは動じなかった。


「守り人として告げる」


 短剣の切っ先は揺れない。


「リリア様には、指一本触れさせない」


 胸の奥に、熱いものが広がった。


 黒百合と呼ばれる前に。


 巫女と呼ばれる前に。


 自分には、リリアという名がある。


「巫女を祀院から奪うつもりか」


「最初から、お前たちのものじゃない」


 シリルは答えた。


「誰のものでもない」


 セイランが静かにシリルを見た。


◆


 輪の中で、アンが咳き込んだ。


「お嬢様」


 リリアはアンへ向き直る。


「こちらへ来てください」


 アンは小さく首を横へ振った。


「でも……動けない」


「立たなくても大丈夫です」


「リリアが来て」


 その一言で、右腕の熱が膨れ上がった。


 今すぐ輪へ入り、抱き上げたい。


 その願いは確かに自分の中にある。


 それでも、リリアは足を動かさなかった。


「私がそちらへ行くことはできません」


 アンの目が揺れる。


「お嬢様が、こちらへ来てください」


「リリア……」


「お嬢様は、私を呼ぶための餌ではありません」


 言葉の終わりが少しだけ揺れた。


「誰かを動かすための道具でもありません」


 アンの目に涙が浮かぶ。


「だから、お嬢様自身で、こちらへ来てください」


「……行っていい?」


「はい」


「リリアのところへ?」


「はい」


 アンの顔がくしゃりと歪んだ。


「行く。リリアのところへ、行く」


 両手首を前でまとめられたまま、アンは身体をずらした。


 石へ膝をつき、少しずつ輪の外へ近づいてくる。


 最初の一歩では、何も起きなかった。


 二歩目。


 葛の花房がかすかに揺れる。


 三歩目。


 輪を作る花房の一部が、端から黒ずみ始めた。


 黒ずみは東側の石灯籠へ向かって走り、その根元に置かれた黒い石で止まる。


 セイランの目が動いた。


「東だ」


 祀院の男が手を上げた。


「動くな」


 輪の内側から黒い光が浮かび、アンの身体が跳ねた。


「お嬢様!」


 リリアが動きかける。


「踏むな」


 セイランの声が飛んだ。


「今、輪がアンを止めた。生きた結びが出た」


「でも――」


「呼び続けろ」


 セイランは案内役の女へ目を向けた。


「東の結びを切れ」


 女は即座に動き、石灯籠の陰へ回り込む。


「花ではない。紫紐だ」


「承知しました」


 祀院の男の顔色が変わった。


「触れるな!」


 法衣の一人が女へ向かう。


 シリルがその間へ割って入り、相手の刃を短剣で受けた。


「下がれ」


 金属音が重なる。


 女は石灯籠の根元へ手を伸ばした。


 葛の花房の下。


 土へ半ば埋め込まれた紫紐を見つけると、小刀で切り裂く。


 ぱん、と乾いた音が弾けた。


 輪を満たしていた黒い光が大きく揺らぐ。


 消えはしない。


 だが、輪全体を覆っていた黒い光は、目に見えて薄くなった。


 アンが短く息を吸った。


「今だ」


 セイランが言った。


「お嬢様!」


 リリアの声に、アンが顔を上げる。


「こちらです!」


 アンは再び身体を動かした。


 外套が石へ引っかかる。


 髪に残っていた薄桃色のリボンがほどけ、地面へ落ちた。


 リリアの右腕は熱い。


 弱まった黒い光が、それでもアンの足元へまとわりつこうとしている。


 結びを切っても、輪はまだ残っている。


 最後の境は、アン自身が越えなければならない。


「お嬢様」


 今度は叫ばずに呼んだ。


「私は、ここにいます」


 アンが涙の中で頷く。


「うん」


 輪の縁まで、あと少しだった。


◆


 祀院の男が法衣の懐へ手を入れた。


 取り出したのは、輪に並べられたものより一回り大きな、親指ほどの黒い石だった。


 それを見た瞬間、案内役の女の表情が変わる。


「その結び石を使わせないで!」


 これまでで初めて、声に切迫したものが混じった。


「切れた結びをつなぎ直すためのものです!」


 祀院の男が黒い石を振り上げる。


 地面へ叩きつけるつもりだ。


「シリル」


 セイランが呼ぶ。


 だが、呼ばれるより先に、シリルは動いていた。


 短剣が男の手首をかすめる。


 黒い石が宙へ飛んだ。


 そこへヴィクトルが踏み込む。


 左手の剣を返し、刃ではなく平で石を弾いた。


 黒い石は葛の蔓の奥へ落ち、岩へ当たって割れる。


 亀裂から黒い煙のようなものが漏れたが、地面へ届く前に霧へ紛れて消えた。


 輪の光は強さを取り戻さなかった。


「……っ」


 ヴィクトルの膝が沈む。


 今の動きが右肩へ響いたのだろう。


「ヴィクトルさん!」


「大丈夫です」


 反射的に答えたあと、ヴィクトル自身が口を閉じる。


 シリルが一瞬、ヴィクトルを見る。


 アンは、もう輪の縁まで来ている。


 だが、最後の一線で身体が止まった。


 見えない壁に押し返されるように、それ以上進めなくなる。


「リリア……」


 小さな手が伸びる。


 届かない。


 リリアは杖を手放した。


「リリア!」


 シリルの声が飛ぶ。


 リリアは輪の外側へ左膝をついた。


 傷めた右足は横へ逃がしたが、それでも足首へ鋭い痛みが走る。


「……っ」


「無理するな!」


「輪には入ってません!」


 リリアはアンへ右手を伸ばした。


「お嬢様」


 もう少し。


 アンも懸命に腕を伸ばす。


 二人の指先が触れた瞬間、右腕の熱が一気に強まった。


 弱まっていた黒い光が、再び輪の縁へ集まりかける。


「引き込まれるな」


 セイランの声が届く。


「お前が境を越えるな」


 リリアは唇を噛んだ。


「力で引き寄せるな。アンが自分で越えるのを、受け止めるだけだ」


 リリアはアンの手を握った。


 右腕は焼けるように熱い。


 それでも、輪へは入らない。


 祀院にも、この輪にも、自分の選択を奪わせない。


「来てください」


 アンが身体を前へ倒した。


 肩が輪の外へ出る。


 張りつめていた見えない糸が、ふっと緩むような感覚があった。


 次の瞬間。


 アンの身体が輪の外へ倒れ込む。


「お嬢様!」


 リリアが受け止めた。


 二人の身体が後ろへ傾く。


 ヴィクトルは左手の剣を地面へ突き立て、すぐに柄から手を離した。


 空いた左腕を伸ばし、リリアの背を抱えるように支える。


 身体をひねった衝撃が右肩へ響いたのか、その顔が苦痛に歪む。


 それでも、二人を地面へ倒しはしなかった。


 女がすぐ横へ入り、アンの手首をまとめていた布を小刀で切る。


「お嬢様」


 リリアがアンを抱きしめた。


 驚くほど軽い身体は熱を持ち、確かに息をしている。


 アンの小さな手が、リリアの服を強くつかんだ。


「リリア……本物?」


「はい」


「怒ってない?」


「怒っていません」


「ごめんね」


「謝らないでください」


 そこで初めて、リリアの声が崩れた。


「生きていてくださって……よかった」


 アンがリリアの胸へ顔を押しつける。


「リリア」


「はい」


「痛い?」


 今度は迷わなかった。


「痛いです。足も痛いですし、身体もとても疲れています。右腕も熱いです」


 涙が頬を伝った。


「怖かったです」


 アンの目からも涙が落ちる。


「でも、お嬢様に会えて、嬉しいです」


 リリアが抱き直すと、アンは泣きながら頷いた。


◆


 祠の輪は、少しずつ形を失い始めていた。


 黒ずんだ葛の花房が萎れ、切られた紫紐が、力を失ったように地面へ沈んでいく。


 祀院の男は、もう怒りを隠そうともしなかった。


「セイラン。貴様、黒百合を皇帝へ渡すつもりか」


 ヴィクトルが顔を上げる。


 シリルも短剣から手を離さない。


 リリアはアンを抱いたまま、セイランを見た。


 皇帝。


 遠い言葉だった。


 それでも、自分と無関係でないことは分かる。


「少なくとも、お前たちへ渡すつもりはない」


 セイランが答えた。


「否定しないのだな」


「ここでお前と問答する理由はない」


 声は冷たい。


「子どもを餌にし、古い祠を勝手に使い、本人の意志を無視し、黒百合を縛ろうとした」


 セイランは崩れ始めた輪へ目を向けた。


「祀院の名で行ったのなら、この行いはいずれヤシャラにもローダンにも伝わる。お前達だけの問題では済まなくなる」


「我らはローゼンベルクを許さぬ」


「許す必要はない。だが、その怒りを子どもへ向けるな」


「黒百合を罰した家の血だ」


「だから何だ」


 静かな一言だった。


「黒百合を罰したことを許せぬ者はいる。だが、その怒りを理由に別の子どもを傷つけるなら、お前たちも同じだ」


 祀院の男は答えず、法衣の袖へ手を入れた。


 取り出したのは短い笛だった。


 シリルが身構える。


 しかし、男が吹くより早く、案内役の女がその腕へ飛びついた。


 笛が地面へ落ちる。


 ヴィクトルが突き立てていた剣を左手で抜き、剣先で笛を遠くへ弾いた。


 直後、霧の向こうから、鳥の鳴き声に似た短い合図が二度響いた。


 女が顔を上げる。


「護衛が、祠の外周へ到着しました」


 遠く西側から、犬の声が返った。


 続いて、葛花の外縁から、霧に歪んだ王室騎士団の号令も届く。


「騎士団が西と北の出口を押さえ始めています」


 案内役の女が言った。


 祀院の男は、崩れた輪を見下ろした。


 輪は壊れた。


 結び石も失われた。


 この場へ留まれば、セイランの護衛に退路を断たれる。


 葛花の外へ抜けようとすれば、王室騎士団が待っている。


 男は法衣の者たちへ目を向けた。


「退くぞ」


「逃がすと思うか」


 シリルが短剣を構える。


 男は、リリアの腕の中にいる少女を見た。


「追えば、その二人を置いていくことになるぞ」


 シリルの足が止まる。


「黒百合は、いずれ祀院へ来る」


「行きません」


 リリアは答えた。


 祀院の男の目がこちらへ向く。


「少なくとも、あなたに呼ばれて行くことはありません」


「お前の意思だけで決められると思うな」


「私の意思を、あなたが決めることもできません」


 男の顔から表情が消えた。


 それ以上は答えず、二人の法衣の者とともに祠の裏手へ退いていく。


 外縁ではなく、葛花のさらに深部へ続く古い道だった。


 紫の霧が三人の姿を隠した。


 シリルが一歩踏み出そうとする。


「追うな」


 セイランが言った。


「深部には抜け道がいくつもある。今追えば、散らされるだけだ」


 シリルは祀院が消えた方向を睨んだ。


「……分かってる」


 短剣を下ろさないまま答える。


「今は、こっちが先だ」


 リリアとアンの前へ戻った。


◆


「長居はできない」


 シリルが言った。


「ああ。祀院も諦めない。外へ出れば王室騎士団に見つかる」


 セイランの答えに、ヴィクトルが険しい視線を向けた。


「あなたについて行け、と?」


「道を知っているのは私だ」


「信用する理由にはならない」


「信用しろとは言っていない」


 セイランは初めてヴィクトルを正面から見た。


 その視線が、胸元で一度止まる。


「黒百合に守られたか」


 ヴィクトルの左手が胸へ動きかけ、途中で止まった。


「それが何か」


「今は何も。生きているなら、それでいい」


 シリルが一歩前へ出る。


「セイラン。どこへ連れていく」


「休ませられる場所だ」


「ヤシャラの檻じゃないだろうな」


「違う」


「皇帝のところでも?」


 セイランは、すぐには答えなかった。


 シリルの声が低くなる。


「違うと言え」


「違う」


 セイランが答えた。


「今は、リリアを皇帝の前へ出す気はない」


 リリアは顔を上げた。


 セイランが自分の名を口にしたのは、それが初めてだった。


「なぜですか」


 菫色の瞳がこちらへ向く。


「なぜ、私を皇帝という方からも遠ざけるのですか」


「今、会わせれば」


 セイランは少し間を置いた。


「祀院とは別の意味で、自由を失う」


 シリルが息を吐いた。


「分かってるならいい」


「分かっているから来た」


 二人の間には、まだ緊張が残っている。


 リリアはアンを抱いたまま、セイランへ尋ねた。


「あなたは、誰なのですか」


 彼はすぐそこにいるのに、どこか遠く感じられた。


「セイラン・アズラ」


「それは聞きました。そうではなくて……」


 リリアは言葉を探す。


「なぜ、私たちを助けるのですか」


 セイランは答えを急がなかった。


 葛花の甘く苦い香りが、霧の中を流れる。


 アンがリリアの服をさらに強くつかんだ。


「助けに来たのは、お前のためだけではない」


 セイランはアンを見る。


「この子を死なせないためでもある」


「お嬢様を?」


「ああ」


「なぜ」


「黒百合を呼ぶために利用された子どもだからだ」


 リリアには、その言葉だけでは、彼の考えを理解することはできなかった。


「お嬢様を休ませてください」


 リリアが言うと、セイランは頷いた。


「そのために道を開く」


「護衛とは合流しないのか」


 ヴィクトルが尋ねた。


「護衛には、祠の周囲を見張らせる」


「俺たちの後ろも守らせるのか」


「同じ道を使わせれば、休む場所を知られる」


 セイランは霧の奥を見た。


「私たちは六人で動く」


 用心しているのは、祀院だけではない。


 セイランは、祠の外周に残す護衛にさえ、これから向かう場所を知らせるつもりはないらしい。


◆


 シリルがリリアの側へ戻った。


「立てるか」


 リリアはすぐには答えず、自分の身体を確かめた。


 傷めた右足には強い痛みがある。


 黒百合を使ったあとの重さも、まだ抜けていない。


「……無理です」


 リリアは正直に答えた。


「お嬢様を抱いたままでは、立てません」


 シリルが一瞬黙り、それから頷く。


「そうか。なら、それでいい」


 アンが心配そうに顔を上げた。


 シリルがリリアへ背を向け、片膝をついた。


「背負う。アンから手を離せるか」


 リリアは腕の中のアンを見た。


「少しだけ、待ってください」


 もう一度、アンを抱きしめてから、ゆっくりと腕を解いた。


 リリアはシリルの背に腕を回し、その首元に顔をうずめた。


 案内役の女がアンの前へ膝をつく。


「失礼いたします、アン様」


 アンの身体が強張る。


 女はすぐには触れなかった。


「御前より、あなたを守るよう命じられていました。祠へ移されるのを止められず、申し訳ございません」


 アンはしばらく女を見つめた。


 それから、リリアへ顔を向ける。


「リリアも来る?」


「行きます」


「離れない?」


「離れません」


 それでようやく、アンは小さく頷いた。


 女が外套ごとアンを抱き上げる。


 ヴィクトルは最後尾へ回ろうとしたが、一歩目で足がもつれる。


「お前も限界だろ」


 シリルが言う。


「まだ歩ける」


「聞いてない」


 ヴィクトルは口を閉じた。


 自分の呼吸。


 右肩の痛み。


 足へ残っている力。


 それらを確かめてから答える。


「……かなり消耗している。ただ、歩くことはできる」


「倒れる前に言え」


「ああ」


 セイランは何も言わず、案内役の女へ合図した。


 女が片手を上げる。


 葛の奥に、細い道が現れた。


 低い枝の下を抜け、さらに森の奥へ続いている。


 遠い外縁では、犬の声と王室騎士団の号令が、霧の中で重なっていた。


 セイランが先へ進む。


 アンを抱いた女が続く。


 シリルはリリアを背負って、その後を追った。


 ヴィクトルが最後尾につく。


 リリアはシリルの肩越しに、セイランの背を見た。


 自分を皇帝からも遠ざけようとする、知らない男。


 黒百合について、自分よりはるかに多くを知っている男。


「セイラン……」


 気づけば、その名が口から漏れていた。


 前を歩く男の足が、ほんの一瞬止まる。


 振り返りはしなかった。


「何だ」


 なぜ呼んだのか。


 自分でも分からない。


「……分かりません」


 短い沈黙のあと、セイランは再び歩き始めた。


「今、私を何者と決める必要はない」


 リリアは、その背を見た。


 アンが生きている。


 すぐ近くにいる。


 今は、それでよかった。


 葛の花の香りが、急に濃くなった。


 森の外縁から聞こえていた犬の声が乱れる。


 一頭が西へ吠え、別の一頭が反対の斜面へ走ったらしい。


 騎士の号令も、二つに分かれて遠ざかっていく。


「花の匂いが溜まる道を選んでる」


 シリルが、セイランの背を見ながら言った。


「犬を迷わせるためか」


 セイランは振り返らなかった。


「今は、迷ってもらう」


 六つの影が、葛花の奥へと消えていく。


 その背後では、祠の輪が、誰もいなくなった地面の上で静かに崩れていった。



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