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第四十九話 祠の輪

◆


 霧の中に開いた道は、人一人がようやく通れるほど細い。


 先を行く女が、足音をほとんど立てずに葛の蔓を押し分けていく。


 女が通ったあと、蔓は重みで元の位置へ戻り、後ろの道を少しずつ隠していった。


 そのすぐ後ろを、リリアを背負ったシリルが進む。


 さらに後方では、ヴィクトルが左手に剣を持ち、何度も背後の霧を確かめていた。


「名前を言え」


 シリルが低く言った。


 女は振り返らない。


「名乗ることは許されておりません」


「セイランにか」


 女の歩みが一度だけ止まった。


「その御名を、ここで軽々しく口にされない方がよろしいかと」


「答えになってない」


「すべてをお答えする権限はありません」


「なら、一つだけ聞く」


 シリルの声が低くなる。


「祀院は、なぜアンを祠へ移した」


 女は少し黙った。


「黒百合を試すためです」


 リリアの指へ力が入る。


「試す……?」


 後ろからヴィクトルが尋ねた。


「何をするつもりだ」


「祀院には、黒百合は特定の危機を前にした時、強く現れるという伝承があります」


 リリアは自分の右腕へ目を落とした。


 まだ残っている熱。


 水車小屋で現れた黒い霧。


 ヴィクトルへ振り下ろされようとしていた灰熊の爪。


「そのために、十二歳の子どもを危険へさらすのか」


 ヴィクトルの声が硬くなる。


「強硬派は、黒百合が何に応えるのかを確かめようとしています」


 女は前を向いたまま答えた。


「それを正しいと思っているなら、私はここにはおりません」


 それ以上、女は何も言わなかった。


◆


 道はさらに狭くなった。


 左右の葛は壁のように高くなり、紫を含む霧を抱え込んでいる。


 葛花の外側を回っているはずの犬の声は、もう遠いのか近いのかも分からない。


 時折、すぐ背後から聞こえ、次には谷の反対側から返ってくる。


 リリアの右腕には、熱が残っていた。


「シリルさん」


「何だ」


「少し、強くなったような気がします」


 シリルは歩調を落とした。


「痛みは?」


「ありません」


「ほかに変わったことは」


 リリアは自分の身体へ意識を向けた。


 胸の鼓動が速い。


 身体は重い。


 アン様が近くにいると聞いてから、ずっと緊張している。


「……分かりません」


「なら、それでいい」


 シリルは前を向いた。


「まだ意味を決めるな」


「はい」


 しばらく進んだところで、女が足を止めた。


「この先に祠があります」


 シリルも止まる。


「何がある」


「祠の前に、古い儀式をまねた輪が作られています」


「輪?」


「葛の花、紫の紐、黒い石で作られたものです。その内側へアン様を置いています」


 リリアの指が、シリルの肩を掴んだ。


 女は続ける。


「リリア様が、自ら輪へ入るよう仕向けるつもりです」


「入ったらどうなる」


 シリルの声から温度が消えた。


「分かりません」


「分からない?」


「古い記録の断片を、強硬派が独自に組み直したものです。正しい形なのか、何が起きるのか、私には判断できません」


 シリルが女を見る。


「罠なのは確かなんだな」


「はい」


「祠を避ける道は」


「西へ外れればあります」


「その場合、アンは」


 女は答えるまでに、わずかな間を置いた。


「御前が救出を試みます」


 シリルはしばらく女を見た。


「お前の役目は」


 初めて、女がはっきりと言った。


「あなた方を祠の手前まで案内し、輪の存在を伝える。それが私の役目です」


 女の目が、霧の向こうへ向いた。


「……着きます」


 葛の壁の向こうに、古い石段が見え始めていた。


◆


 不意に視界が開けた。


 そこだけ、霧が薄い。


 森の奥に、小さな祠が建っていた。


 ローダンの礼拝堂とはまるで違う。


 低い石段。


 黒ずんだ木の屋根。


 柱には、リリアには読めない文字が刻まれている。


 ローダン語とも、屋敷で見た東国の文字とも違っていた。


 苔に覆われた石灯籠が左右に立ち、その周囲を葛の蔓が幾重にも巻いている。


「ここから先へは出ないでください」


 女が小声で言った。


「御前を待ちます」


 そして、祠の前には、地面へ大きな円が作られていた。


 葛の花房。


 紫の細紐。


 黒い小石。


 乾燥した葉。


 それらが交互に置かれ、一つの輪を形作っている。


 その内側に、少女がいた。


「……お嬢様」


 息だけが漏れた。


 次の瞬間。


「お嬢様!」


 リリアはシリルの背で身を乗り出した。


「動くな!」


 シリルがリリアの身体を強く支える。


 輪の中。


 石段の脇に、アンは座らされていた。


 薄い外套。


 乱れた金色の髪。


 両手首は、身体の前で布にまとめられている。


 頬は青白く、唇は乾いていた。


 それでも、生きている。


 髪には、薄桃色のリボンが片側だけ残っていた。


 途中で裂けている。


 リリアは目を見開いた。


 葛の蔓に残されていた、あの細い糸。


 同じ色。


 同じ織り。


「……お嬢様のリボン」


 今度は言い切れた。


 ただ似ていた糸ではない。


 アン様がここを通った痕跡だった。


「下ろしてください」


「リリア」


「お願いします、シリルさん」


 シリルは輪との距離を確かめた。


 十分に離れた場所で片膝をつき、リリアを平たい石へ下ろす。


 ヴィクトルが杖を渡した。


 リリアは石へ腰を下ろしたまま、アンを見た。


「お嬢様」


 その声に、アンの瞼が動いた。


 ゆっくりと開く。


 焦点の合わない目が彷徨う。


 やがて、リリアを見つけた。


「……リリア?」


 掠れた声だった。


「はい」


「本当に……?」


「はい。私です」


 アンの顔が歪んだ。


「来ちゃ……だめ」


「お嬢様」


「ごめんなさい」


 小さな声。


「手紙……リリアの字だと思って……」


「謝らないでください」


 リリアは首を横へ振った。


「私の名前を使った人が悪いんです。お嬢様ではありません」


「リリア……」


 アンは、泥に汚れた服と、固定された右足を見た。


 何か言おうとして、乾いた唇を閉じる。


「必ず、そこから出します」


 リリアはアンを見た。


「だから、もう少しだけ待っていてください」


◆


「黒百合の娘」


 祠の影から、男の声がした。


 シリルの短剣が抜かれる。


 ヴィクトルも左手の剣を構えた。


 祠の裏から、一人の男が現れる。


 黒に近い紫の法衣。


 五十を越えているだろうか。


 髪には白いものが混じっている。


 その顔立ちも、口から発せられた言葉も、ローダンのものだった。


 さらに後ろから、同じ法衣を着た者が二人現れる。


 一人は東国風の顔立ち。


 もう一人は、最初の男と同じローダン人に見えた。


 三人の視線は、リリアの顔ではなく、右腕へ向けられていた。


「ようやく来たか」


 最初の男が言った。


「ローゼンベルクの娘を置いただけでは足りぬ。黒百合自身が、ここへ来る必要があった」


 シリルの声が低くなる。


「子どもを餌にしたのか」


「ローゼンベルクの娘だ」


 男の言葉に冷たい憎しみが混じる。


「あの家には、黒百合へ償うべきものがある」


「お嬢様は何もしていません」


 リリアは祀院の男から目を逸らさなかった。


「この方は何も知らないんです」


「知らぬまま罪を継ぐ。それが血だ」


 身体の奥が震えた。


 知らない罪。


 覚えていない罪。


 リリア自身へ、何度も向けられてきたものと同じだ。


 その理屈を認めれば、アンだけではない。


 記憶にない罪を背負わされた自分も、永遠に罪人のままだ。


「その人の知らない罪を、その人へ背負わせることはできません」


 リリアは言った。


 大きな声ではない。


 それでも、男から目を逸らさなかった。


「そんなことを認めたら、憎しみはいつまでも終わりません」


 男の眉が動く。


「罪を忘れろと言うのか」


「違います」


「ならば、ローゼンベルクを許すのか」


「まだ、分かりません」


 リリアは答えた。


「でも、分からないことを、あなたに決めてもらうつもりはありません」


「黙れ」


 シリルの短剣がわずかに上がる。


 祀院の男が彼を見る。


「守り人か」


「シリル・ハザールだ」


 男の表情が変わった。


「ハザールの血が、まだ残っていたか」


「その口で黒百合を語るな」


「ならば、何と呼べばよい」


 男はリリアへ向き直る。


「黒百合を宿す器に、ほかに何の名がいる」


 リリアは男を見返した。


「私には名前があります」


 男の目が動く。


「リリアです」


 声は大きくはなかった。


 それでも、はっきりと言えた。


「私は、器ではありません」


 シリルが一瞬だけリリアを見る。


 すぐに、祀院の男へ向き直った。


 男は笑わなかった。


「名など、花が咲けば意味を失う」


 アンが輪の中で身じろぎした。


 その足元で、葛の花房の一部が黒ずんでいる。


「……リリア、だめ」


「お嬢様」


 リリアは杖へ力を込め、石から腰を浮かせた。


 左足が、輪の方へ半歩ずれる。


「動くな」


 シリルが止める。


 輪まで、まだ数歩ある。


 ヴィクトルが案内役の女へ尋ねた。


「あれが、話していた輪か」


「はい」


「本当に黒百合を呼び出すものなのか」


「分かりません」


 女は答えた。


 祀院の男が女を睨む。


「余計なことを」


「アン様へ手を出すなと、御前から警告されたはずです」


「我らにヤシャラの許しは要らぬ」


 男のローダン語に、東国の訛りはなかった。


「祀院はヤシャラのものではない。ローダンのものでもない。国境も、王も、皇帝も、我らの信仰を縛れぬ」


「だから、十二歳の子どもを使ってもよいと?」


「ローゼンベルクの血だ」


 女の手が長衣の下へ動いた。


 武器へ触れたのかもしれない。


 祀院の男は、もう女を見ていなかった。


 リリアだけを見ている。


「輪へ入れ」


「……」


「お前が自ら入れば、ローゼンベルクの娘は返す」


「そんな約束を信じると思うか」


 シリルが言う。


「守り人に聞いてはいない」


 男はリリアだけを見ている。


「黒百合が何に応えるのか、示せ」


「リリア」


 シリルが低く呼んだ。


「こいつらの言葉に乗るな」


 アンが咳き込んだ。


 小さな身体が揺れる。


「お嬢様!」


 リリアの右腕に熱が走った。


 息が浅くなる。


 石から身体を浮かせ、左足がさらに前へ出かける。


「リリアさん」


 ヴィクトルの声が届いた。


 動きが止まる。


「今、踏み出そうとしたのは、あなたが決めた一歩ですか」


 その問いが胸へ刺さった。


 右腕は熱い。


 アン様がいる。


 助けたい。


 すぐに駆け寄りたい。


 だが。


 輪へ入れ。


 示せ。


 そう急かしているのは、自分自身なのか。


 恐怖なのか。


 黒百合なのか。


 祀院の仕掛けなのか。


 分からない。


 リリアは石へ腰を戻し、杖を握り直した。


「……分かりません」


 正直に答えた。


「なら、まだ踏むな」


 シリルが言った。


 祀院の男の口元が歪む。


「恐れるのか。黒百合の娘」


「怖いです」


 リリアは答えた。


「だから、何も考えずに入るのはやめます」


 男の表情が消える。


「私が輪へ入れば」


 リリアは尋ねた。


「本当にお嬢様を放すのですか」


「入れば分かる」


「それは答えではありません」


 今度は、男が黙った。


 リリアの胸が激しく打っている。


 右腕も熱い。


 それでも、杖の先も、左足も、輪の外にあった。


◆


「その輪へ入るな」


 低い男の声が、霧の奥から届いた。


 案内役の女が息を呑む。


 次の瞬間、彼女は道の脇へ退き、片膝をついた。


 シリルの身体へ緊張が走る。


 祀院の男たちも、一斉に霧の向こうを見る。


 一人の男が歩いてくる。


 深い色の長衣。


 肩へ落ちる黒髪。


 霧の中でも色を失わない、菫色を含んだ瞳。


 リリアは、その目を見た。


 一瞬、どこかで似た色を見たような気がした。


 けれど、思い出せない。


「セイラン」


 シリルが低く呼んだ。


 その声に安堵はない。


 むしろ、警戒が強くなった。


 リリアは男を見る。


 セイラン。


 男は最初にリリアを見た。


 泥に汚れた衣服。


 固定された右足。


 右腕を押さえる手。


 そのすべてを確かめるように見た。


 菫色を含んだ瞳の奥で、何かが揺れた。


 だが、セイランは何も言わなかった。


 次にアンを見る。


 布でまとめられた両手。


 切られた金色の髪。


 そして、地面の輪。


 最後に、祀院の男たちへ視線を向ける。


「アン・ローゼンベルクには手を出すなと、警告したはずだ」


 静かな声だった。


 祀院の男が鼻で笑う。


「我らはお前の兵ではない」


「祀院がヤシャラのものだと言った覚えはない」


「ならば口を出すな」


「子どもを攫い、傷つけ、ここへ移した」


 セイランの声は変わらない。


「それを信仰と呼ぶなら、祀院の教えも安くなったものだ」


 男の顔が歪む。


「我らは黒百合を取り戻す」


「違う」


 初めて、セイランの声が少し低くなった。


「お前たちが欲しいのは、従う黒百合だ」


 祠の前に沈黙が落ちた。


 セイランは地面の輪を見る。


「古い記録の断片をつなぎ合わせ、意味も知らずに形だけをまねたか」


「お前に何が分かる」


 リリアは輪へ視線を落とした。


 ただ不気味なものにしか見えなかった円。


 葛の花房。


 紫の細紐。


 黒い小石。


 乾燥した葉。


 それらが、逃げ道を塞ぐために並べられたもののように見えた。


「仮に働けば」


 セイランが言う。


「それは黒百合を試す輪ではない」


 菫色を含んだ瞳が、祀院の男を捉える。


「黒百合を縛るための檻だ」


 祀院の男が唇を歪めた。


「遅かったな」


 その声に嘲りが混じる。


「皇帝の影――セイラン・アズラ」


 霧の中へ、その名が落ちた。


 セイラン・アズラ。


 リリアの視線は、もう一度、その菫色を含んだ瞳へ戻った。



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