第四十八話 薄桃色の糸
◆
葛花の森へ踏み入れてすぐ、音の距離が変わった。
背後から聞こえていた犬の声が、急に遠ざかったように感じられる。
消えたわけではない。
確かに吠えている。
けれど、右の斜面から聞こえたかと思えば、次には左奥の木々から返ってくる。
濃い霧。
幾重にも重なる木の幹。
蔓に覆われた斜面。
音がどこで反響しているのか分からない。
シリルの背で、リリアは顔を上げた。
ヴィクトルも後方を振り返る。
「方向が分からないな」
「ああ」
シリルは短く答えた。
「ここでは耳を信じすぎるな。花の匂いで、犬も迷う」
地面には、落ちた花と古い葉が幾重にも積もっている。
踏むたびに、甘さの中に青臭さを含む香りが立った。
リリアの右腕には、まだ熱が残っていた。
「シリルさん」
「何だ」
「右腕の熱が、まだ消えません」
シリルの足が止まる。
「痛むか」
「いいえ。ただ、熱いだけです」
「ほかには」
「身体が重いです」
「黒百合を使ったあとだからな。痛みが出たり、急に熱が強くなったりしたら、すぐ言え」
「はい」
シリルは再び歩き始めた。
「何のせいか分からないうちは、勝手に意味を決めるな」
「何を信じればいいのでしょう」
「さっき決めたことだ」
返事はすぐだった。
「アンを探すって、自分で決めただろ」
リリアはその背で小さく頷いた。
「はい」
アン様を探す。
誰かに呼ばれたからではない。
黒百合が疼いたからでもない。
自分が行くと決めた。
それを忘れなければいい。
◆
葛花の森は、外から見たよりも、ずいぶんと深かった。
背の高い木々に葛の蔓が絡まり、幹と幹の間へ紫の幕を作っている。
枯れた花房の中には、まだ色を残すものもあった。
霧に濡れた薄紫の花が、ところどころ暗く沈んで見える。
道らしい筋が、現れては消えた。
古い獣道。
炭焼きに使われていたらしい細道。
沢へ下る跡。
どれも蔓と落ち葉に覆われ、少し離れれば見分けがつかない。
だが、シリルは迷いなく進んでいた。
ヴィクトルが尋ねる。
「来たことがあるのか」
「葛花の中まではない」
「そうは見えない」
「守り人に伝えられてきた道の読み方がある」
「それだけか」
シリルは答えなかった。
しかし、少し間を置いて言葉を足した。
「隠すつもりはない。今は歩く方を優先する」
ヴィクトルはシリルの背を見たが、何も言わなかった。
リリアは二人の会話を聞きながら、シリルの肩へ腕を回していた。
シリル・ハザール。
黒百合の守り人。
つい先ほど、彼はそう名乗った。
どうしてローゼンベルク家で庭師見習いをしていたのか。
いつから自分を見ていたのか。
何を知っていて、何を黙っているのか。
聞きたいことは山ほどある。
けれど今は、シリルの背へ身体を預けているだけで精いっぱいだった。
眠れば、少しは楽になるのかもしれない。
だが、目を閉じるのが怖かった。
起きた時、誰かがいなくなっていたら。
そう考えると、腕へ力が入る。
「リリア」
「はい」
「力を抜け」
「落ちそうですか」
「逆だ。掴まりすぎてる」
自分でも気づかないうちに、シリルの肩を強く握っていた。
「……すみません」
少し後ろから、ヴィクトルが言った。
「眠っても大丈夫です」
「でも、ヴィクトルさんも怪我をしています」
「歩けています」
「右肩は」
「痛いです」
迷いのない返事だった。
リリアは少し黙った。
「……かなり?」
「かなり」
前でシリルが鼻を鳴らした。
「少しは学んだらしいな」
「誰かさんのおかげで」
「俺じゃない」
「分かってる」
短いやり取りだった。
リリアは肩へ込めていた力を緩めた。
眠ることはできなくても、少しくらい身体を預けてもいい。
リリアはシリルの背へ頬を寄せ、短く息を吐いた。
◆
さらに森の奥へ入った頃、犬の声がまた聞こえた。
今度は近い。
シリルが立ち止まる。
すぐあとに、よく似た吠え声が別の方向から返った。
ヴィクトルが後ろを振り向く。
「二隊いるのか」
「分からない」
シリルは耳を澄ませた。
「谷の形で音が返ってるだけかもしれない」
「外側を回っている可能性は」
「ある」
シリルは歩調を速めた。
「葛花の中へ入らなくても、外へ出る場所を押さえることはできる」
「ここはローダン領外だろ」
「ああ。部隊を率いて公然とは踏み込めない」
「だが、出口を塞ぐことはできる」
「そういうことだ」
リリアは霧の奥へ目を凝らした。
「では、どこへ向かうのですか」
「古い水路跡を探す」
「水路?」
「守り人が使っていた道が、この辺りにあるはずだ」
「場所が分かるのですか」
「入口までは」
その時、霧の向こうから、かすかな音がした。
高い声が一瞬だけ。
幼い少女の笑い声のようにも聞こえた。
リリアの指に力が入る。
アン様。
名前が口から出かけた。
だが、同じ音が頭上からもう一度響いた。
葉が大きく揺れ、灰色の小鳥が霧の中へ飛び去っていく。
「鳥……」
「ここでは、鳥の声も人の声に聞こえる」
シリルが言った。
「聞きたいものに似ていても、すぐには返事をするな」
「はい」
三人は再び進んだ。
リリアは唇を閉じたまま、霧の向こうを見ていた。
◆
葛の蔓は、奥へ進むほど太くなった。
古いものは人の腕ほどもある。
地面から木へ。
木から岩へ。
岩から、また地面へ。
森全体を縫うように伸びている。
「待て」
ヴィクトルが低く言った。
シリルが止まる。
「何だ」
「あそこだ」
ヴィクトルは左手の剣を構えたまま、道の脇を示した。
太い葛の蔓に、細い糸が引っかかっている。
霧に紛れそうな色。
薄桃色。
リリアは目を見開いた。
「……下ろしてください」
「リリア」
「お願いします。近くで確かめたいです」
シリルも糸を見た。
少し迷ったあと、近くにあった平たい岩へリリアを下ろし、
彼女の右足を丸めた外套の上へ置いた。
「立つな。ここから見ろ」
そう言って、杖をリリアの手へ戻す。
糸は細い。
結ばれてはいない。
何かの布が裂け、その一本だけが蔓の棘へ引っかかったように見える。
「アン様の……」
言いかけて、止まった。
もう一度、見る。
色。
織り。
細さ。
アンがよく髪へ結んでいた薄桃色のリボンに似ている。
「アン様が使っていたリボンと、同じ色です」
リリアは言い直した。
「同じものだと言えるか」
シリルが尋ねる。
「……いいえ」
首を横へ振る。
「よく似ています。でも、これだけではお嬢様のものだとは言い切れません」
「そうだな」
シリルは糸へは触れず、その周囲を調べた。
蔓。
土。
低い枝。
誰かが糸を結びつけた形跡はない。
「わざと置いたようには見えない」
ヴィクトルが尋ねる。
「衣服か、髪飾りから裂けたか」
「その可能性はある」
「持っていきますか」
リリアは少し迷った。
「いいえ。このままにします」
リリアは薄桃色の糸を見つめた。
「誰かが私たちに見せるために残したのなら、なくなれば、見つけたと知られるかもしれません」
ヴィクトルが頷いた。
「よく考えたな」
シリルが言った。
「怖いだけです」
「怖い時に考えられるなら、それでいい」
胸の奥には、消せない期待があった。
アン様がここを通ったのかもしれない。
本当に近くにいるのかもしれない。
それでも、願いを事実にはしなかった。
その時だった。
霧の奥で、葛の葉が擦れた。
風はない。
シリルがリリアの前へ出る。
右手が腰の短剣へ伸びる。
ヴィクトルも剣を左手で構え、リリアの横へ移動した。
「前へ出るな」
シリルが低く言う。
「その肩では受けきれない」
「分かってる」
リリアの右腕にも熱が走った。
今度は理由を探すまでもなかった。
霧の向こうに、誰かがいる。
怖い。
その恐怖だけは、はっきりしていた。
◆
「武器を下ろしてください」
霧の向こうから女の声がした。
静かなローダン語だった。
だが、発音の端に東国の響きが残っている。
シリルは短剣から手を離さない。
「先に姿を見せろ」
「こちらに敵意はありません」
「姿を隠したまま言う台詞じゃない」
短い沈黙。
やがて、霧の中に人影が浮かんだ。
東国風の暗い長衣。
顔の下半分を薄い布で覆っている。
両手は外套の外へ出していた。
武器は見えない。
ただし、腰回りが長衣に隠れている。
「近づくな」
シリルが言った。
女は数歩先で止まった。
視線がシリルへ向く。
「守り人ですね」
「誰の使いだ」
「今ここで名乗ることは許されておりません」
「なら、通す理由もない」
「ここで立ち止まれば、王室騎士団に出口を塞がれます」
遠くで犬が吠えた。
近くに聞こえるが、実際には葛花の外縁を回っているのだろう。
「王室騎士団は葛花の外へ回っています。中へ深く踏み込むことには慎重でも、外へ出る道を押さえることはできます」
「脅してるのか」
「事実を申し上げています」
シリルは女を見たまま尋ねた。
「黒紫の糸を置いたのは、お前たちか」
「はい」
女は否定しなかった。
「御前の命令です」
「偽の足跡も?」
「王室の追手を右へ向けるために」
「水車小屋の裏へ回したのも」
「はい。正面がすでに捜索地点になっていることを確認していました」
ヴィクトルの表情が硬くなる。
「俺たちの動きを、ずっと見ていたのか」
「必要な範囲で」
「騎士団の配置は?」
「私からお話しすることはできません」
「王宮の中に、そちらへ情報を流している者がいるのか」
「今は、アン様の救出を優先してください」
答えを避けた。
シリルの手が短剣の柄を握り直す。
「アン・ローゼンベルクはどこだ」
リリアは息を詰めた。
女の視線が、初めてリリアへ向いた。
「アン様は生きておられます」
リリアの胸が大きく鳴った。
「アン様は……ご無事なのですね」
返事が少し遅れた。
「命に関わる傷はありません」
「それ以外の傷が?」
女は沈黙した。
リリアの杖を握る手へ力が入る。
「答えてください」
「髪を切られました」
その言葉が、冷たく胸へ落ちた。
「髪……」
「それ以上の傷を負わせることは、御前がお止めしました」
シリルの視線が鋭くなる。
「セイランが、アンのところへ行ったのか」
女の姿勢がわずかに変わった。
「答えろ」
「御前はアン様のいる部屋へ入り、髪も血も取るな、アン様を動かすなと命じました」
リリアは女を見つめた。
「あなたも……そこに?」
「私は、御前より部屋の見張りを任されていました」
「では、アン様は今も、その部屋に……?」
「いいえ」
女の声が低くなる。
「御前が部屋を離れたあと、祀院の強硬派につながる者達が命令に背きました」
「アンを連れ出したのか」
「はい。葛花の奥にある古い祠へ」
「お前は何をしていた」
シリルの声には、責める響きがあった。
女は目を逸らさない。
「止めようとしました」
「止められなかったのか」
「アン様を動かす者が出た場合は、争わずに、行き先を確かめろとの命を受けておりました」
女は続けた。
「外にいた者へ御前への報告を託し、リリア様をお迎えに参りました」
「なぜ祠へ連れていく」
「すでにそちらへ向かっているからです」
女はリリアを見た。
「御前からは、リリア様を欺いて連れ去るなと命じられております。罠があることを伝えた上で、進むかどうかはご本人に選ばせろ、と」
リリアは息を呑んだ。
御前。
セイラン。
自分たちへ印を残し、王室騎士団から遠ざけた男。
「セイランという方は……何者なのでしょう」
「……ヤシャラ皇帝の第一の側近と呼ばれる男だ」
シリルが答えた。
「……味方なのですか」
「少なくとも、今までの印は俺たちを追手から遠ざけた」
女が口を開きかける。
「お前は黙ってろ」
シリルが制した。
「セイラン本人の考えと、お前が信じてることが同じとは限らない」
女は反論しなかった。
「……その通りです」
慎重な声だった。
「ですが、御前がアン様を傷つけるなと命じたことは事実です」
「アン様を攫うよう命じたのは、その方ではないのですね」
「もちろんです」
女の返事は早かった。
「御前は、アン様を屋敷から連れ出せなどとは命じておられません」
「では、誰が」
「祀院の強硬派です。御前の意向を知りながら、それを無視して動きました」
リリアは言葉を失った。
祀院。
セイラン。
アン様を攫った者。
傷つけようとした者。
止めた者。
そして、自分たちへ道を示した者。
その時、犬が吠えた。
一頭ではない。
音は幾重にも歪みながら、葛花の外縁から届いてくる。
女が霧の奥を振り返る。
「騎士団が出口を絞り始めています」
前方の葛の蔓の間に、人一人が通れるほどの細い隙間があった。
その先は急な斜面へ下り、紫の霧に隠れている。
「古い水路跡は、この先です」
「セイランは」
シリルが尋ねる。
「御前は、護衛に祠の外周へ回るよう命じ、ご自身は最短の古道で、祠へ向かっておられます」
「一人でか」
「はい」
シリルがリリアを振り返る。
「どうする」
リリアは薄桃色の糸を見た。
目の前の女が、すべてを話しているとは限らない。
それでも、アン様が生きているという言葉には、確かめに行く価値がある。
「行きます」
「こいつについて行くのか」
「いいえ」
リリアは首を横へ振った。
「自分で確かめに行きます」
シリルは女を見た。
「案内しろ」
「はい」
「ただし、俺たちはお前の言葉を信じたわけじゃない」
「承知しています」
シリルがリリアの前へ背を向け、片膝をついた。
「行くぞ」
「はい」
リリアはその背へ腕を回した。
女が霧の奥へ歩き始めた。
三人が、その後へ続く。
リリアはシリルの背から、もう一度、薄桃色の糸を見た。
持ってはいかない。
ただ、アンへつながるかもしれない小さな痕跡として、その場へ残した。
霧が濃くなる。
背後では、犬の声が幾重にも歪んで聞こえる。
前方には、セイランの使いを名乗る女。
その先には、祀院強硬派が待つ古い祠。
右腕には、まだ黒百合の熱が残っている。




