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第四十八話 薄桃色の糸


 葛花の森へ踏み入れてすぐ、音の距離が変わった。


 背後から聞こえていた犬の声が、急に遠ざかったように感じられる。


 消えたわけではない。


 確かに吠えている。


 けれど、右の斜面から聞こえたかと思えば、次には左奥の木々から返ってくる。


 濃い霧。


 幾重にも重なる木の幹。


 蔓に覆われた斜面。


 音がどこで反響しているのか分からない。


 シリルの背で、リリアは顔を上げた。


 ヴィクトルも後方を振り返る。


「方向が分からないな」


「ああ」


 シリルは短く答えた。


「ここでは耳を信じすぎるな。花の匂いで、犬も迷う」


 地面には、落ちた花と古い葉が幾重にも積もっている。


 踏むたびに、甘さの中に青臭さを含む香りが立った。


 リリアの右腕には、まだ熱が残っていた。


「シリルさん」


「何だ」


「右腕の熱が、まだ消えません」


 シリルの足が止まる。


「痛むか」


「いいえ。ただ、熱いだけです」


「ほかには」


「身体が重いです」


「黒百合を使ったあとだからな。痛みが出たり、急に熱が強くなったりしたら、すぐ言え」


「はい」


 シリルは再び歩き始めた。


「何のせいか分からないうちは、勝手に意味を決めるな」


「何を信じればいいのでしょう」


「さっき決めたことだ」


 返事はすぐだった。


「アンを探すって、自分で決めただろ」


 リリアはその背で小さく頷いた。


「はい」


 アン様を探す。


 誰かに呼ばれたからではない。


 黒百合が疼いたからでもない。


 自分が行くと決めた。


 それを忘れなければいい。



 葛花の森は、外から見たよりも、ずいぶんと深かった。


 背の高い木々に葛の蔓が絡まり、幹と幹の間へ紫の幕を作っている。


 枯れた花房の中には、まだ色を残すものもあった。


 霧に濡れた薄紫の花が、ところどころ暗く沈んで見える。


 道らしい筋が、現れては消えた。


 古い獣道。


 炭焼きに使われていたらしい細道。


 沢へ下る跡。


 どれも蔓と落ち葉に覆われ、少し離れれば見分けがつかない。


 だが、シリルは迷いなく進んでいた。


 ヴィクトルが尋ねる。


「来たことがあるのか」


「葛花の中まではない」


「そうは見えない」


「守り人に伝えられてきた道の読み方がある」


「それだけか」


 シリルは答えなかった。


 しかし、少し間を置いて言葉を足した。


「隠すつもりはない。今は歩く方を優先する」


 ヴィクトルはシリルの背を見たが、何も言わなかった。


 リリアは二人の会話を聞きながら、シリルの肩へ腕を回していた。


 シリル・ハザール。


 黒百合の守り人。


 つい先ほど、彼はそう名乗った。


 どうしてローゼンベルク家で庭師見習いをしていたのか。


 いつから自分を見ていたのか。


 何を知っていて、何を黙っているのか。


 聞きたいことは山ほどある。


 けれど今は、シリルの背へ身体を預けているだけで精いっぱいだった。


 眠れば、少しは楽になるのかもしれない。


 だが、目を閉じるのが怖かった。


 起きた時、誰かがいなくなっていたら。


 そう考えると、腕へ力が入る。


「リリア」


「はい」


「力を抜け」


「落ちそうですか」


「逆だ。掴まりすぎてる」


 自分でも気づかないうちに、シリルの肩を強く握っていた。


「……すみません」


 少し後ろから、ヴィクトルが言った。


「眠っても大丈夫です」


「でも、ヴィクトルさんも怪我をしています」


「歩けています」


「右肩は」


「痛いです」


 迷いのない返事だった。


 リリアは少し黙った。


「……かなり?」


「かなり」


 前でシリルが鼻を鳴らした。


「少しは学んだらしいな」


「誰かさんのおかげで」


「俺じゃない」


「分かってる」


 短いやり取りだった。


 リリアは肩へ込めていた力を緩めた。


 眠ることはできなくても、少しくらい身体を預けてもいい。


 リリアはシリルの背へ頬を寄せ、短く息を吐いた。



 さらに森の奥へ入った頃、犬の声がまた聞こえた。


 今度は近い。


 シリルが立ち止まる。


 すぐあとに、よく似た吠え声が別の方向から返った。


 ヴィクトルが後ろを振り向く。


「二隊いるのか」


「分からない」


 シリルは耳を澄ませた。


「谷の形で音が返ってるだけかもしれない」


「外側を回っている可能性は」


「ある」


 シリルは歩調を速めた。


「葛花の中へ入らなくても、外へ出る場所を押さえることはできる」


「ここはローダン領外だろ」


「ああ。部隊を率いて公然とは踏み込めない」


「だが、出口を塞ぐことはできる」


「そういうことだ」


 リリアは霧の奥へ目を凝らした。


「では、どこへ向かうのですか」


「古い水路跡を探す」


「水路?」


「守り人が使っていた道が、この辺りにあるはずだ」


「場所が分かるのですか」


「入口までは」


 その時、霧の向こうから、かすかな音がした。


 高い声が一瞬だけ。


 幼い少女の笑い声のようにも聞こえた。


 リリアの指に力が入る。


 アン様。


 名前が口から出かけた。


 だが、同じ音が頭上からもう一度響いた。


 葉が大きく揺れ、灰色の小鳥が霧の中へ飛び去っていく。


「鳥……」


「ここでは、鳥の声も人の声に聞こえる」


 シリルが言った。


「聞きたいものに似ていても、すぐには返事をするな」


「はい」


 三人は再び進んだ。


 リリアは唇を閉じたまま、霧の向こうを見ていた。



 葛の蔓は、奥へ進むほど太くなった。


 古いものは人の腕ほどもある。


 地面から木へ。


 木から岩へ。


 岩から、また地面へ。


 森全体を縫うように伸びている。


「待て」


 ヴィクトルが低く言った。


 シリルが止まる。


「何だ」


「あそこだ」


 ヴィクトルは左手の剣を構えたまま、道の脇を示した。


 太い葛の蔓に、細い糸が引っかかっている。


 霧に紛れそうな色。


 薄桃色。


 リリアは目を見開いた。


「……下ろしてください」


「リリア」


「お願いします。近くで確かめたいです」


 シリルも糸を見た。


 少し迷ったあと、近くにあった平たい岩へリリアを下ろし、

彼女の右足を丸めた外套の上へ置いた。


「立つな。ここから見ろ」


 そう言って、杖をリリアの手へ戻す。


 糸は細い。


 結ばれてはいない。


 何かの布が裂け、その一本だけが蔓の棘へ引っかかったように見える。


「アン様の……」


 言いかけて、止まった。


 もう一度、見る。


 色。


 織り。


 細さ。


 アンがよく髪へ結んでいた薄桃色のリボンに似ている。


「アン様が使っていたリボンと、同じ色です」


 リリアは言い直した。


「同じものだと言えるか」


 シリルが尋ねる。


「……いいえ」


 首を横へ振る。


「よく似ています。でも、これだけではお嬢様のものだとは言い切れません」


「そうだな」


 シリルは糸へは触れず、その周囲を調べた。


 蔓。


 土。


 低い枝。


 誰かが糸を結びつけた形跡はない。


「わざと置いたようには見えない」


 ヴィクトルが尋ねる。


「衣服か、髪飾りから裂けたか」


「その可能性はある」


「持っていきますか」


 リリアは少し迷った。


「いいえ。このままにします」


 リリアは薄桃色の糸を見つめた。


「誰かが私たちに見せるために残したのなら、なくなれば、見つけたと知られるかもしれません」


 ヴィクトルが頷いた。


「よく考えたな」


 シリルが言った。


「怖いだけです」


「怖い時に考えられるなら、それでいい」


 胸の奥には、消せない期待があった。


 アン様がここを通ったのかもしれない。


 本当に近くにいるのかもしれない。


 それでも、願いを事実にはしなかった。


 その時だった。


 霧の奥で、葛の葉が擦れた。


 風はない。


 シリルがリリアの前へ出る。


 右手が腰の短剣へ伸びる。


 ヴィクトルも剣を左手で構え、リリアの横へ移動した。


「前へ出るな」


 シリルが低く言う。


「その肩では受けきれない」


「分かってる」


 リリアの右腕にも熱が走った。


 今度は理由を探すまでもなかった。


 霧の向こうに、誰かがいる。


 怖い。


 その恐怖だけは、はっきりしていた。



「武器を下ろしてください」


 霧の向こうから女の声がした。


 静かなローダン語だった。


 だが、発音の端に東国の響きが残っている。


 シリルは短剣から手を離さない。


「先に姿を見せろ」


「こちらに敵意はありません」


「姿を隠したまま言う台詞じゃない」


 短い沈黙。


 やがて、霧の中に人影が浮かんだ。


 東国風の暗い長衣。


 顔の下半分を薄い布で覆っている。


 両手は外套の外へ出していた。


 武器は見えない。


 ただし、腰回りが長衣に隠れている。


「近づくな」


 シリルが言った。


 女は数歩先で止まった。


 視線がシリルへ向く。


「守り人ですね」


「誰の使いだ」


「今ここで名乗ることは許されておりません」


「なら、通す理由もない」


「ここで立ち止まれば、王室騎士団に出口を塞がれます」


 遠くで犬が吠えた。


 近くに聞こえるが、実際には葛花の外縁を回っているのだろう。


「王室騎士団は葛花の外へ回っています。中へ深く踏み込むことには慎重でも、外へ出る道を押さえることはできます」


「脅してるのか」


「事実を申し上げています」


 シリルは女を見たまま尋ねた。


「黒紫の糸を置いたのは、お前たちか」


「はい」


 女は否定しなかった。


「御前の命令です」


「偽の足跡も?」


「王室の追手を右へ向けるために」


「水車小屋の裏へ回したのも」


「はい。正面がすでに捜索地点になっていることを確認していました」


 ヴィクトルの表情が硬くなる。


「俺たちの動きを、ずっと見ていたのか」


「必要な範囲で」


「騎士団の配置は?」


「私からお話しすることはできません」


「王宮の中に、そちらへ情報を流している者がいるのか」


「今は、アン様の救出を優先してください」


 答えを避けた。


 シリルの手が短剣の柄を握り直す。


「アン・ローゼンベルクはどこだ」


 リリアは息を詰めた。


 女の視線が、初めてリリアへ向いた。


「アン様は生きておられます」


 リリアの胸が大きく鳴った。


「アン様は……ご無事なのですね」


 返事が少し遅れた。


「命に関わる傷はありません」


「それ以外の傷が?」


 女は沈黙した。


 リリアの杖を握る手へ力が入る。


「答えてください」


「髪を切られました」


 その言葉が、冷たく胸へ落ちた。


「髪……」


「それ以上の傷を負わせることは、御前がお止めしました」


 シリルの視線が鋭くなる。


「セイランが、アンのところへ行ったのか」


 女の姿勢がわずかに変わった。


「答えろ」


「御前はアン様のいる部屋へ入り、髪も血も取るな、アン様を動かすなと命じました」


 リリアは女を見つめた。


「あなたも……そこに?」


「私は、御前より部屋の見張りを任されていました」


「では、アン様は今も、その部屋に……?」


「いいえ」


 女の声が低くなる。


「御前が部屋を離れたあと、祀院の強硬派につながる者達が命令に背きました」


「アンを連れ出したのか」


「はい。葛花の奥にある古い祠へ」


「お前は何をしていた」


 シリルの声には、責める響きがあった。


 女は目を逸らさない。


「止めようとしました」


「止められなかったのか」


「アン様を動かす者が出た場合は、争わずに、行き先を確かめろとの命を受けておりました」

 

 女は続けた。


「外にいた者へ御前への報告を託し、リリア様をお迎えに参りました」


「なぜ祠へ連れていく」


「すでにそちらへ向かっているからです」


 女はリリアを見た。


「御前からは、リリア様を欺いて連れ去るなと命じられております。罠があることを伝えた上で、進むかどうかはご本人に選ばせろ、と」


 リリアは息を呑んだ。


 御前。


 セイラン。


 自分たちへ印を残し、王室騎士団から遠ざけた男。


「セイランという方は……何者なのでしょう」


「……ヤシャラ皇帝の第一の側近と呼ばれる男だ」


 シリルが答えた。


「……味方なのですか」


「少なくとも、今までの印は俺たちを追手から遠ざけた」


 女が口を開きかける。


「お前は黙ってろ」


 シリルが制した。


「セイラン本人の考えと、お前が信じてることが同じとは限らない」


 女は反論しなかった。


「……その通りです」


 慎重な声だった。


「ですが、御前がアン様を傷つけるなと命じたことは事実です」


「アン様を攫うよう命じたのは、その方ではないのですね」


「もちろんです」


 女の返事は早かった。


「御前は、アン様を屋敷から連れ出せなどとは命じておられません」


「では、誰が」


「祀院の強硬派です。御前の意向を知りながら、それを無視して動きました」


 リリアは言葉を失った。


 祀院。


 セイラン。


 アン様を攫った者。


 傷つけようとした者。


 止めた者。


 そして、自分たちへ道を示した者。


 その時、犬が吠えた。


 一頭ではない。


 音は幾重にも歪みながら、葛花の外縁から届いてくる。


 女が霧の奥を振り返る。


「騎士団が出口を絞り始めています」


 前方の葛の蔓の間に、人一人が通れるほどの細い隙間があった。


 その先は急な斜面へ下り、紫の霧に隠れている。


「古い水路跡は、この先です」


「セイランは」


 シリルが尋ねる。


「御前は、護衛に祠の外周へ回るよう命じ、ご自身は最短の古道で、祠へ向かっておられます」


「一人でか」


「はい」


 シリルがリリアを振り返る。


「どうする」


 リリアは薄桃色の糸を見た。


 目の前の女が、すべてを話しているとは限らない。


 それでも、アン様が生きているという言葉には、確かめに行く価値がある。


「行きます」


「こいつについて行くのか」


「いいえ」


 リリアは首を横へ振った。


「自分で確かめに行きます」


 シリルは女を見た。


「案内しろ」


「はい」


「ただし、俺たちはお前の言葉を信じたわけじゃない」


「承知しています」


 シリルがリリアの前へ背を向け、片膝をついた。


「行くぞ」


「はい」


 リリアはその背へ腕を回した。


 女が霧の奥へ歩き始めた。


 三人が、その後へ続く。


 リリアはシリルの背から、もう一度、薄桃色の糸を見た。


 持ってはいかない。


 ただ、アンへつながるかもしれない小さな痕跡として、その場へ残した。


 霧が濃くなる。


 背後では、犬の声が幾重にも歪んで聞こえる。


 前方には、セイランの使いを名乗る女。


 その先には、祀院強硬派が待つ古い祠。


 右腕には、まだ黒百合の熱が残っている。




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