第四十七話 葛花の前で
◆
同じ日の昼前。
王都でクラウスが地下記録室へ降りるより、少し前のことだった。
リリアたちは山番小屋を出て、古い石橋へ差しかかっていた。
橋を越えた先で、霧の色が変わった。
ローダンの秋を覆う、白い霧ではない。
淡い紫を含んでいる。
湿った土の匂いに、甘く、それでいてどこか苦い花の香りが混じっていた。
古い道は、すでに道の形をほとんど失っている。
荷車の轍は途中で消え、両脇から伸びた葛の蔓が、地面も石も木の根も覆っていた。
枯れかけた薄紫の花房が、霧の中へ垂れている。
風はない。
それでも、花はかすかに揺れていた。
シリルは橋を渡りきったところで足を止めた。
霧の奥。
足元。
両側の斜面。
しばらく周囲を確かめてから、背負っていたリリアをゆっくりと下ろす。
苔の少ない平たい石へ座らせ、固定した右足首が地面へ触れないよう、折り畳んだ外套を下へ入れた。
「痛みは」
「動かなければ、強くはありません」
リリアは答えた。
だが、右足首の腫れは引いていない。
固定板の内側で、鈍い痛みが脈に合わせて続いていた。
右腕にも、まだ熱が残っている。
黒百合の力が現れた名残なのか。
追手への恐怖で痣が疼いているだけなのか。
リリアには分からなかった。
数歩後ろで、ヴィクトルも足を止めていた。
右肩から胸元へ新しい布が巻かれている。
泥と血の跡が残る上着の下から、裂けた革胴衣がのぞいていた。
剣は左手に持っている。
顔色はよくない。
それでも、自分の足で立っていた。
ヴィクトルは何度か、傷とは違うものを確かめるように胸元へ視線を落としていた。
そこに、まだかすかな気配が残っていると、山番小屋で彼自身が話していた。
縁。
シリルはそう呼んだ。
黒百合の力が強く誰かを守った時、その相手との間に残ることがある結びつき。
リリアには、その意味も、それが何をもたらすのかも分からない。
ただ、自分の知らない力が、また誰かの人生へ触れた。
その事実が、胸の奥へ重く残っていた。
背後の霧から、犬の声が届いた。
山番小屋を出た頃より少し遠い。
血のついた外套へ引かれ、斜面の下へ回ったのかもしれない。
葛の花の香りが、湿った霧の中で濃くなっている。
シリルは流れてきた空気を確かめた。
「この中なら、花の匂いで犬の鼻も少しは迷う」
リリアは紫を帯びた霧の奥を見つめた。
「アン様は、この先にいるのですか」
シリルはすぐには答えなかった。
「可能性は高い」
「なら、行きます」
答えは考えるより先に出た。
リリアは杖へ手を伸ばした。
しかし、シリルはそれを止めた。
「最後まで聞け」
リリアの手が止まる。
「山番小屋で約束しただろ。俺が知ってることを話してから、お前に選ばせる」
「……はい」
シリルは葛花の森へ顔を向けた。
「葛花は、ローダンにもヤシャラにも属していない」
「どちらにも?」
「ああ。昔、この辺りで争ったあと、休戦協定で兵を常駐させないと決めた」
霧の奥に、崩れた石柱が立っている。
何かが刻まれていたらしいが、文字も紋章も苔に覆われていた。
「表向きは緩衝地帯だ。ローダンの法も、ヤシャラの法も、そのままでは通らない」
「だから、王室騎士団も入れないのですか」
「足を踏み入れることはできる」
シリルは短く答えた。
「だが、ローダンの令状は、葛花の中では効力を持たない。レオナール個人が入ってくることはできても、これまでのように王室騎士団の権限で俺たちを拘束することはできない」
「部隊で追ってくることは」
「公然と部隊を率いて踏み込めば、休戦協定に触れる。ヤシャラ側は、越境に準じる軍事行動と受け取るだろう」
「では、安全なのですか」
「いや」
シリルの声が低くなる。
「どちらの法も届きにくいってことは、どちらも責任を取らないってことだ」
リリアは黙って聞いた。
「葛花には、ローダンから逃げてきた者も、ヤシャラを追われた者もいる。密輸商人も、間者も、祀院の者も、祀院から離れた者もいる」
「祀院……」
「祀院には、黒百合を巫女として崇めている者たちがいる」
リリアは右腕を押さえた。
「私は、巫女ではありません」
「ああ。お前がそう名乗ったことは一度もない」
シリルは否定しなかった。
「だが、向こうがお前をどう見るかは別だ」
葛の花房が、霧の中で揺れた。
「ローダンでは、お前は危険なものとして閉じ込められた。葛花へ入れば、今度は黒百合の巫女として囲おうとする奴が出る」
「囲う……」
「力を使えと言う奴もいる。ヤシャラへ帰れと言う奴もいる。祀院へ従えと言う奴もいるだろう」
一度、言葉を切る。
「お前が何を望むかより、黒百合に何をさせるかを先に考える奴もいる」
リリアは杖を握った。
「黒百合の力でも、罪人でもない、ただの私は、どこにいるのでしょう」
誰へ向けたのでもない問いだった。
地下の香草室にいたリリア。
右腕を確認されるリリア。
アンへ近づくことを禁じられたリリア。
覚えていない罪を背負わされたリリア。
それ以外の自分を、知らない。
「ここにいる」
シリルが言った。
リリアは顔を上げた。
「今、俺の前にいる」
ぶっきらぼうな声だった。
それでも、その言葉はリリアの胸へ静かに落ちた。
鼻の奥がツーンとし、慌てて尋ねた。
「黒紫の糸を置いたのは、誰なのですか」
シリルは少し間を置いた。
「誰が置いたのかは、俺にも分からない」
「でも、印の意味は知っていました」
「守り人が使ってきた印と同じだからだ」
「守り人?」
シリルは葛花の森からリリアへ視線を戻した。
「俺がそうだ」
リリアは息を止めた。
「俺はシリル・ハザール。黒百合を守る者の血を引き、今はその役目を継いでいる」
「黒百合を、守る者……?」
「守り人だ」
その言葉を聞いた瞬間、これまでのシリルの行動が一つずつ浮かんだ。
三年前から屋敷にいたこと。
リリアの痣へ使う薬草を知っていたこと。
果実貯蔵室で聞いたシリルの言葉。
誰も使わない排水路も、森の古道も、黒紫の印も知っていたこと。
「今まで、どうして話してくださらなかったのですか」
「黙っている方がお前を守れると思っていた」
「でも、黙っていたら、私は何も知らないままです」
「ああ」
シリルは否定しなかった。
「黙ったまま選ばせるのは違う。だから今、話している」
リリアはシリルを見つめた。
「守り人は、黒百合を祀院へ差し出すための者じゃない。王や皇帝へ仕えさせるための者でもない」
「では、何を守るのですか」
「黒百合を宿した者が、自分で選ぶための時間と道だ」
霧が二人の間を流れていく。
「少なくとも、俺はそう教わった」
「誰から」
「俺を育てた者からだ。今どこにいるのかは分からない」
それ以上は、シリルも知らないのだと分かった。
「黒紫の糸は、守り人が連絡に使ってきた印だ。石切り場の印も、水車小屋の裏へ導いた印も、俺が知っている形と同じだった」
「では、味方ではないのですか」
「同じ印を知っているからといって、味方とは限らない」
シリルは森の奥を見た。
「印を置いた者が、守り人の系統なのか。昔の印だけを知るヤシャラの間者なのか。俺たちを誘導したい祀院の人間なのか。そこまでは分からない」
「アン様を攫った人たちは?」
「祀院の一派が関わっている可能性が高い」
リリアの指に力が入る。
「では、この先で待っているのも、その人たちですか」
「それも断定できない」
シリルはリリアから目を逸らさなかった。
「葛花で動いているのは一つの勢力じゃない。アンを攫った連中と、黒紫の印を置いた連中が同じとは限らない」
「違う人たちが、同じ場所で私たちを待っているかもしれない?」
「そういうことだ」
「アン様がいる可能性が高いと思うのは、なぜですか」
「誘拐犯が屋敷の外へ抜けるなら、王室の監視が弱く、ヤシャラ側とも接触できる葛花を使う可能性が高い」
リリアは頷いた。
「香り袋に加えられた葛花の香り。葛花へ導く黒紫の印」
シリルが続ける。
「確証はない。だが、ほかにアンへ続く手掛かりはない」
リリアは胸元へ手を添えた。
黒布の内側に、アンの香り袋がある。
薄桃色の袋。
白い花と紫色の蔓。
二つの結び目。
その中に入れられた、淡い金色の髪。
霧の向こうで犬が二度吠えた。
先ほどより近い。
「血のついた外套が効いているうちに決めろ」
シリルが言った。
「時間は多くない」
「他の道もあるのですか」
「ああ」
シリルは橋の西側へ目を向けた。
「沢沿いに西へ進めば、古い鉱山道へ出る。山を越えた先に、守り人が昔使っていた隠れ里がある」
「どれくらいかかりますか」
「今の足なら二日以上だ。途中に身を隠して休める場所もある」
「そこへ行けば」
「少なくとも、ローダンの王室にも祀院にも、すぐには見つからない」
「アン様は」
シリルは答えなかった。
その沈黙が答えだった。
「隠れ里へ行けば、アン様に会えなくなる」
「ああ」
シリルは曖昧にしなかった。
「祀院にも、ヤシャラにも、ローダンにも、お前を渡さない」
その声は低かった。
だが、揺れなかった。
「誰がどんな名で呼んでも、お前が選ぶ前に奪わせない」
シリルは西へ続く道と、葛花の森を順に見た。
「だから選べ」
「私が?」
「葛花へ入るか。ここで西へ向かい、王室からも、祀院からも、黒百合を巡る争いからも逃げるか」
リリアは西へ続く斜面を見た。
霧に覆われた、誰も待っていない道。
そこへ行けば。
痣を確認されることも、力を使えと命じられることもない。
過去を理由に責められることもない。
地下の小部屋でもない。
王室の塔でもない。
黒百合の祭壇でもない。
逃げてもいいのだろうか。
自分はもう、十分、怖い思いをしたのではないか。
覚えていない罪を背負わされ、痣を抑える薬を飲まされ、記憶を失い、誰かに決められた場所で生きてきた。
ならば、今ここで、すべてを捨ててもいいのではないか。
シリルは、その迷いを急かさなかった。
「逃げてもいい」
リリアは、言葉の意味をすぐには理解できなかった。
聞き間違えたのかと思った。
杖を握っていた指から、力が抜ける。
息を吸おうとした。
けれど、胸の奥で何かがつかえ、空気が喉を通らなかった。
処罰を受けろと言われたことはある。
黙って従えと言われたことも。
逃げれば罪になると告げられたこともあった。
逃げていいと、言われたことはなかった。
誰かを置いて、自分だけ助かってもいいのだと。
そう言われたのは初めてだった。
「お前はもう、十分奪われた」
過去。
記憶。
居場所。
リリアは返事をしようとした。
だが、声にはならなかった。
喉の奥が狭くなり、胸の内側へ痛いほど息が溜まる。
シリルは何も言わず、待っていた。
ヴィクトルも、言葉を挟まなかった。
紫の霧の中に、短い沈黙だけが残った。
「これ以上、誰かのために自分を差し出す必要はない」
その言葉で、止まっていた息がようやくこぼれた。
震えるほど細い呼吸だった。
リリアは俯き、胸元の香り袋を握った。
処罰も。
監視も。
薬も。
地下の部屋も。
どれも、リリア自身が選んだものではなかった。
「シリルさんは」
ようやく出た声は掠れていた。
「本当は、私に逃げてほしいのですね」
シリルは答えなかった。
けれど、否定もしなかった。
アンを見捨てろとは言わない。
それでも、できることならリリアを、このすべてから遠ざけたいと思っている。
「私は、黒百合の巫女というものを知りません」
「ああ」
「ヤシャラも、葛花も、祀院も……何も分かりません」
「ああ」
「怖いです」
リリアは言った。
「向こうへ行けば、また誰かに決められるかもしれない。力が現れれば、また誰かを巻き込むかもしれない」
ヴィクトルの視線が、胸元へ落ちた。
リリアはその動きを見た。
「ヴィクトル様との間に残った縁が、何をするのかも分かりません」
「リリアさん」
ヴィクトルが静かに呼んだ。
「はい」
「今の私に、様をつけていただく理由はありません」
「でも、ヴィクトル様は……」
「ヴィクトルと呼んでください」
リリアは困ったように彼を見た。
「呼び捨てにはできません」
ヴィクトルは少し考えた。
「では、せめて、様はやめてください」
リリアは迷った末、小さく息を吸った。
「……ヴィクトルさん」
「はい」
ヴィクトルの表情が、ほんの少し和らいだ。
「ヴィクトルさんとの間に残った縁が、何をするのかも分かりません」
「私にも分かりません」
ヴィクトルは安心させるための言葉を選ばなかった。
「ただ、縁だけに自分の判断を預けるつもりはありません」
怖さを口にしても、否定しなかった。
大丈夫だとも、何も起きないとも言わなかった。
「でも」
リリアは葛花の森へ目を戻した。
「アン様が怖い思いをしているかもしれないことは分かります」
シリルは黙って聞いていた。
「アン様は、私のことを覚えていてくれました」
昔は、リリアも一緒だったのに。
あの声が蘇る。
「私が忘れてしまった昔のことを、アン様は持っていてくれました」
苦いお茶のこと。
秘密の場所のこと。
一緒に過ごした時間。
「私には、昔がありません」
声が揺れた。
「でも、アン様の中には、昔の私がいたんです」
リリアは顔を上げた。
「そのアン様が、私の名前を使った手紙で連れ出されたのなら」
もう、言葉は迷わなかった。
「私は、アン様を追います」
「ローダンへ戻れなくなるかもしれない」
「はい」
「ヤシャラ側の者に、巫女として扱われるかもしれない」
「はい」
「アンを助けたあと、お前自身が逃げなきゃならなくなるかもしれない」
怖さが胸を締めつける。
それでも、リリアは目を逸らさなかった。
「私はずっと、何も知らないまま、誰かに決められてきました」
杖を握り直す。
「だから、今度は自分で決めます」
シリルは長く黙っていた。
霧の向こうで、犬が一度だけ吠えた。
さらに近づいている。
やがて、シリルがリリアの前へ片膝をついた。
「シリルさん?」
「お前の答えは聞いた」
シリルは右腕の痣ではなく、リリアの目を見上げた。
「なら、守り人として、その道を守る。倒れそうなら支える。黒百合に呑まれそうなら引き戻す」
一度、言葉を切る。
「ただし、守ると言っても、お前の代わりに決めるって意味じゃない」
リリアはゆっくりと頷いた。
「はい」
「お前が選んだ道を、俺が守る」
その言葉が、胸の奥へ落ちた。
選んだ道を守る。
リリアには、初めて聞く言葉のように思えた。
冷気が濡れた服へ染み込み、リリアの身体が小さく震えた。
ヴィクトルが一歩近づく。
「無理に立たないでください」
「はい」
リリアは素直に答えた。
シリルが立ち上がり、ヴィクトルを見る。
「お前はどうする」
「葛花へ入る」
「騎士としてか」
「違う」
ヴィクトルは左手の剣へ目を落とした。
「王室の命令ではなく、俺自身がアン様を救うと決めた」
それから、リリアを見る。
「そして、あなたが選んだ道に、最後まで同行します」
「縁があるからではなく?」
「縁ができる前に、もう選んでいました」
ヴィクトルは答えた。
「これから先も、縁だけに判断を預けるつもりはありません」
シリルはしばらくヴィクトルを見ていた。
「なら、自分の言葉を忘れるな」
「ああ」
リリアは二人を見た。
守り人。
騎士。
立っている場所も、背負っているものも違う。
けれど、どちらもリリアの代わりに答えを決めようとはしなかった。
リリアは葛花の森へ向き直った。
紫を帯びた霧の奥に、何があるのか、まだ分からない。
アンがいるかもしれない。
罠かもしれない。
黒百合の巫女として扱われる道が、その先から始まるのかもしれない。
それでも。
「行きます」
リリアは言った。
シリルが頷く。
遠くで犬が吠えた。
今度は近い。
「時間切れだ」
シリルが霧の向こうを確認する。
「入るぞ」
「はい」
リリアは杖を左手で石へついた。
シリルが右側から腕と腰を支える。
左足へ力を込め、ゆっくりと身体を起こす。
杖を前へ出す。
左足を一歩。
葛の蔓が靴先へ触れた。
リリアは、その一歩を自分の意思で踏み出した。
さらに、もう一歩進もうとするリリアを、シリルが止めた。
「そこまででいい」
「でも」
「足を忘れるな」
シリルはリリアの前へ背を向け、片膝をついた。
「自分で入ると決めた。それで十分だ。乗れ」
リリアは一瞬迷った。
それから、小さく頷いた。
「お願いします、シリルさん」
「ああ」
シリルの背へ腕を回す。
身体が持ち上がった。
ヴィクトルが二人の後ろについた。
三人は、葛花の森を進む。
紫を含む霧が、背後の石橋を隠していく。
ローダンの白い秋が、遠ざかっていく。
リリアは一度も振り返らなかった。




