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 キリが連れて行かれたのは、個人の家にしては余りに広い屋敷だった。

 だが、数日前まで過ごしていた場所のだだっ広さを思えば気後れする程ではなかったので、キースに案内されるままにキリは中に入った。

 勿論彼やロウェンに言いたいことはあれこれあったが、正直、空腹が限界に来ていた。とにかく今は食事が最優先である。

 キリは即行で教えられた台所に向かい、食材を見回した。

 初対面の人の家でやることではないとは思うものの、何はともあれ口に入れれる物を作るほうが先だ。

 どうやらキリ一人に任せるのは申し訳ないと考えたのか、ロウェンも手伝うとは言ったのだが、それはラースが却下した。

 そしてそれはキリも同感だった。


「阿呆か。そのなりで料理なぞ論外だ」



 ラースにずるずると浴室へと引っ張られて行くロウェンに構うことなく、キリはさくさくと調理に取りかかった。


 思った以上に整理整頓された台所で、助かった。

 そんなことを思いつつ、キリは手にした大皿を煉瓦積みのオーブンに放り込んだ。

 次いで猛スピードで野菜を刻み、それを厚手の浅い鍋で炒める。


「卵は……、これだと私が食べられないか。ええと、あれってここにあるかな?」


 一応初めて訪れた他人様のお宅ではあるが、物を置く場所と言うのは大概似通っていることが多い。

 特にこれだけ片付いているのだから尚更だ。

 何となくこのあたりだろうと探ると、キリの予想通りに求めていた調味料があった。


 キリは自分の拳程もある薄緑色の卵を手に取り、力をこめて滑らかな石の台座に打ちつけた。大きさが大きさなので片手で割るのは難しく、両手を使って慎重にする。

 それから小さなボールに落とし入れた卵の中身を菜箸で軽く割りほぐし、塩と胡椒で味をつける。続いてそれを、刻んだ野菜の入った鍋に流し込んだ。

 蓋をした浅鍋から、シュウウウウッ、と火の通る音が上がる。


 次にキリは新たな鍋を置き、準備しておいた薄切り肉を取り出した。

 香味野菜と調味料を混ぜた作ったタレに少し漬けておいたそれを、温めた鍋の上に並べていく。肉の色が変わるのと同時に、甘く香ばしい匂いが立ち上った。


「時間がないからあまり凝った物は作れないし……。あ、そうだ!」


 壁の棚をさっと眺めたキリの目が、一つの野菜に留まった。トーレという名前の黄色と黄緑色の中間のような色合いをした球状の葉物である。持ち上げると、ずしりとした重さが両手にかかった。


「これ、キャベツなのか白菜なのか、どっちに近いんだろ?」


 毎度覚える疑問を口にしながら、キリは素早くその葉を剥がした。

 大量の水で満たされた大きな鍋を火の上に置き、調味料の籠から小ぶりな硝子瓶を取り出す。

 蓋を開けて逆さに振ると、親指の爪ほどのサイズの小さな結晶が一つ手のひらに転がり出て来た。

 深い藍色のそれはどう見ても何かの鉱物にしか思えないのだが、これは南方の内陸部で取れる岩塩だそうだ。

 小石サイズの塩を鍋に落として少し待つと、ぶくぶくと大きな泡が底から沸き始めた。

 火の具合を確かめ、キリは適当な大きさにちぎっておいたトーレの葉を手に取り薄青色の湯にさっとくぐらせる。

 熱を通したそのわずかな瞬間で、黄色のトーレの葉が目にも鮮やかな緑色へと変化した。


「いっつも思うけど……、あんたはワカメかなんかか」


 思わず一人でつっこんだ。

 これを調理する度に抱く感想だが、どうにも自分がやっていることは料理というよりも何かの科学実験のような気がしてならない。


(この世界ってなー、ほんとに不思議だ)


 ひととおりの調理の進行を確認して、キリは最後に作る予定だった料理に取り掛かった。

 鉢の上を覆っていた布巾を外し、種の具合を見る。


「うん、大丈夫そう」


 滑らかなクリーム色の生地をおたまで一掬いし、熱した浅鍋に流し込む。注意深く見守っていると、ふつふつと小さな空気の穴が表面に開きだした。平べったかった生地がやんわりと厚みを増していく。

 熱が通り過ぎる前に、キリは生地を上下に引っ繰り返した。裏返った面を見たが、丁度いい感じに焼き目がついている。

 よし、とキリが心の中で拳を握ったときだ。


「キリちゃん? どう?」


 台所の入口から、声が届いた。

手を放せないので首だけで振り返ると、扉の横に金茶の髪の男性が立っている。


「ラースさん」


 キリが呼びかけると、ラースはゆっくりとした足取りで近づいて来た。


「すみません、お待たせして。このパンケーキで終わりですから」


 そう言いながら二枚目の生地に取り掛かるキリに、いやいや、とラースは手を振った。


「そうじゃないよ。ロウェンの方は済んだから、何か手伝うことはあるかと思って。……見たところ、できた料理を運べばいいのかな?」


 思いがけない申し出に、キリは目を瞬かせた。

 家事を一切せず、食事の時もただ席に座って料理が出て来るのを待っていた自分の父親とはえらい違いだ。


「あ、じゃあ、あちらのお皿の方をお願いできれば……」

「ん、分かった」


 ラースはキリには両手でなければ無理そうな重い皿をひょいと右手で持ち上げ、更に左手でももう一皿持つと軽い足取りで台所を出て行った。

 次から次へと手早く運び出されていく皿に、急いで残りの生地を焼き上げていく。

 そうして最後の一枚を終えると、キリは料理中の邪魔にならないよう、頭に巻いていた布をほどいた。

 すっかり結び目の緩んでいた髪を一つに束ね直していると、キリの耳にここ最近なじみつつあった声が聞こえた。


「悪い、ちょっと時間がかかった。なんかすることはあるか」

「ううん、もうこれを持っていくので最後――……」


 振り向きながらそう言葉を返したキリは、中途半端な姿勢のまま動きを止めた。


「はい……?」

「キリ?」


 視線の先にいた相手が、怪訝そうにキリを見返す。

 だが、キリはそんなことに構っていられなかった。

 身につけている衣服はこざっぱりしたシャツにズボンだ。だが、バランスの取れた長身のせいかそんな飾り気のない装いであっても目を惹かれる。

 女性にしては平均的な身長のキリよりも、ゆうに頭一つ分は高いだろうか。多分百八十センチは余裕で超えているだろう。

 湯を使ったばかりの黒髪はまだ少し濡れていたが、襟足部分だけを残して後は綺麗に切られていた。キリが鋏でぶった切りたいと思っていた前髪も、同様だ。

 そうして、邪魔な前髪がなくなったことでようやくまともに見ることができた瞳の色は、黒と見紛う程の濃い紫色だった。

 勿論、鬱陶しいほどに伸びていた髭も綺麗に剃刀があたっている。

 露となったその顔立ちは荒削りでありながらも端整なものだった。精悍さと品の良さがごく自然に同居している。

 まじまじと――それこそ不躾と言われても仕方のないくらいにまじまじと――そのひとを見つめ、キリは真剣に言う。

 この声が誰のものなのかは分かる。分かるのだが――……。


「ええと、どちらさまですか?」


 至極真面目な問いかけに、向かい合っていた黒髪の男性はひくりと顔を引きつらせ、更にその背後では身を折って爆笑するラースの姿が見えた。











 しかしいくらロウェンの変貌ぶりに驚こうとも、キリはすぐに我に返った。

 目下の最優先事項は彼のビフォーアフターではなく、限界を迎えつつあるこの空きっ腹をどうにかすることである。

 力なく肩を落とすロウェンと腹を抱えるラースを放置し、キリは皿を手にして歩き出した。

 人間、腹が減っては戦が出来ないのだ。

 何はともあれ、食事である。それ以外、今は些事だ。

 そうして、幸いにもキリの作った食事はどうやらそれなりに二人の口に合ったらしい。

 出来あがった料理はあっという間に三人の腹におさまることとなった。

 軽く五人分は超える量だった筈なのだが、青年二人の食欲はキリの想定以上で、凄まじい勢いで皿は空となっていく。

 その様子にこっそり胸を撫で下ろしたキリの前で、改めてロウェンが口を開いた。


「それにしてもおまえ、ちょっとあんまりじゃないか」


 テーブル越しに向けられた恨みがましげな声と眼差しに、キリはさりげなさを装って目を横へと逸らせた。

 だが、ぐさぐさと横顔に刺さるその視線の鋭さが変わる様子は全くなさそうだ。

 まあ、確かに先刻の自分の対応を思い返せばこの反応も無理はないと思うのだが――。


「……うん。ごめん。さっきのは私が悪かった。でも……」

「でも?」


 キリはそろそろと顔を戻し、改めて向かいに座る青年を見た。

 外見から判断すると年齢は二十歳を幾つか過ぎたくらいのようだが、ふてくされた表情のせいかどこか少年めいた印象がある。


「……………………………」


 キリはしばし無言で、その整った顔をじっくりと眺めた。

 やはり、自分の感想はそう間違ったものではないのではないだろうか。


「でも、ロウェンのこの変わりっぷりは正直詐欺のレベルだと思う」

「更にひどいだろうが!」


 叫ぶロウェンの隣で、ラースがぶはっ、と噴き出した。

 苦しそうに咳きこみながらも尚、腹を抱えて笑い転げている。


「ラース、おまえもいい加減に笑うのやめろ」


 じとりと横を見下ろしながら言うロウェンの濃紫の瞳はひどく冷ややかだった。


「いやー、だっておかしくって。キリちゃん、おまえの顔を見るなり『どちらさまですか?』だったんだもんな。やっぱこれはもうすでに変装の域だって」

「……おまえ、なあ」


 ロウェンの声音は完全に苦り切っている。

 すっかり眉間に皺の寄った顔を盗み見ながら、キリは半ば呆れた心境で手にしたお茶を口に運んだ。

 勿論自分の側にも問題はあるものの、この二人の言動も決して褒められた様なものではないと思うのだが。

 そうして、空腹が治まり多少平静になった頭で再度思う。

 本当に今更だが、何故自分はここにいるのだろうか。


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